俺はふと、頬を伝う体温に気づいた。慌てて拭う。
「水月はもう褒められてるよ。葉月ってばべた褒めなんだよ」
「俺は……」
「なあに?」
「葉月……」
「葉月がどうした?」と、震えるほど優しい、あたたかい声がした。ひどく懐かしい感じがして、また別の体温があふれていく。
「葉月のこと」といった声はもうぐずぐずだ。
「好きなのに……」
「うん」
止まらない感情をなんとか止めようとしながら、俺は首を振る。
「葉月じゃない……俺が好きなのは、……葉月じゃない……」
「どうしてそう思うの?」
「俺……」
「ん?」
優しい手が肩に触れた。「大丈夫」と諭すような声がそっと肩のあたりを撫でてくれる。
「大丈夫だよ。ね? 水月はどうして、葉月を好きじゃないと思うの?」
唇を強く噛み、喉や腹の奥で震える感情が凪ぐのを待つ。背をさする優しい手はまどろむような心地よさを誘う。
胸の奥のさざなみを感じながら、俺は「認められたいんだ」といった。あれだけの醜態を晒せばもはや、はなの反応だの俺に対するなにかなんて気にしてやるほどのものじゃない。
「葉月は俺をすごいっていってくれる。俺はそんな葉月を好きなのにほかならない」
「そうなの?」
「認めたくはないよ」
「でも葉月はそんな水月が好きなわけでしょ? 実際のところ、水月が自分をどう思ってるかは知らないのかもしれないけどさ」
「かわいそうな子だよ」
「そうかなあ……。もう高一だよ? わたしたちと同じだよ。人の心が一色じゃないことくらいわかってるでしょ。葉月自身もまた、何色かの心に悩んだりすることだってあるだろうしさ」
「俺は葉月の兄なんだ。兄が弟を慰み者にするなんて……」
「兄と弟っていっても、双子でしょ? 身近にいなかったからわからないけど、せいぜい数時間くらいの差でしょ? 歳の差なんてまるでないじゃん。先に生まれた子と後に生まれた子のどっちが上の子かっていうのも曖昧みたいだし。なんだって水月は、そんなお兄ちゃんであることにこだわるの?」
どうして、といわれると、はっきりとこれだといえる理由は見つからない。ただ、俺は葉月の兄で、葉月は俺の弟で、俺は兄として、弟の葉月を大切に思い、大切にしたいと願っている。それにほかならない。
「わたしがごちゃごちゃ口だしできるようなことじゃないけど、……でも、水月は葉月を幼く見すぎだよ。水月から聞く葉月って……うん、……まるで小さい子供みたい。でも実際にはそうじゃない。葉月はわたしたちと同じ高校一年生で、同じように過ごしてきた。そんなに大事大事してあげなくたって大丈夫だよ。確かにちょっと小心なところはあるけどさ」
俺はそっと深呼吸した。感情的になってしまいそうだった。
「葉月は立派な高校生、確かにそうかもしれない。でもそれが、俺が葉月を慰み者にしていい理由になるかい?」
「慰み者って考え方がちょっと変だよ、それ」
でも結局はそういうことだ、と語調が強くなってしまうより先に、幸い、はなが「それってさ」と言葉を続けてくれた。
「慰み者なんてそんなんじゃなくてさ、水月は、葉月がすごいっていってくれる、認めて褒めてくれることに、自信をもらってるってことなんじゃないの? 水月は葉月にすすめられて、絵をコンテストにだしたわけでしょう?
でもうまくいかなくて、悲しかった。水月、自分でいってたじゃん。悲しかったのは、あんなに絶望したのは自信があったからだって。運試しなんて気楽にやってみるつもりだったけど、結局はどこかに自信があったから、あんなに絶望したんだって」
「……俺がいいたいのは——」
無意識に言葉が切れた。ただあたたかくて、ほのかに甘いにおいがする。はなの腕に引き寄せられたのだと気づくのには、ちょっと時間がかかった。
「水月。水月は悪い人じゃないよ。誰かに認められたい、褒められたいって思うのは当然のことで、全然おかしいことでも悪いことでもないの。わかる? 葉月は純粋に水月の絵が好きで、褒めてる。水月はそれに元気とか自信をもらってる。葉月がすごいっていってくれることにつけこんでどうにかしてやろうとか、そういうこと考えてるの?」
どうしたものか、また視界が滲む。はなの細い体に腕を回すと、優しい手のひらが背を撫でてくれた。
「考えてないよね。水月は、葉月がすごいっていってくれることにどう思ってるの?」
「……応えたい……。葉月を幻滅させたくない……」
「葉月はどんな水月にも幻滅しないよ。わたしが保証する。葉月は幻滅しない、それが前提なら、どう思う?」
どう、思っているのだろう……。
「嫌な気分にはならないでしょう?」
体に回した手ではなの服をそっと掴むと、彼女は「ね」と優しい声を発した。
「それは勇気だったり、自信だったり、いろんなものである場合があるだろうけど、それで葉月が傷つくかな? 『うわ、水月の奴、俺がちょっと褒めたらばかみたいに喜んでんだけど』とか思うような奴じゃないでしょ、葉月って。それはわたしより水月の方がよくわかってるよね。
水月の気持ちは葉月を傷つけないし、葉月は水月に幻滅しない。二人は双子でさ、特別な絆で結ばれてると思うの。関係も互いの感情も、そうそう壊れたりしない。オーケイ?」
そういわれてしまえば、オーケイとうなずくよりほかはない。俺はちょっと笑って、はなから離れた。
はなは優しく微笑んで力強くうなずいた。「大丈夫、水月は悪い人じゃないよ。葉月もしっかりしてる」
「水月はもう褒められてるよ。葉月ってばべた褒めなんだよ」
「俺は……」
「なあに?」
「葉月……」
「葉月がどうした?」と、震えるほど優しい、あたたかい声がした。ひどく懐かしい感じがして、また別の体温があふれていく。
「葉月のこと」といった声はもうぐずぐずだ。
「好きなのに……」
「うん」
止まらない感情をなんとか止めようとしながら、俺は首を振る。
「葉月じゃない……俺が好きなのは、……葉月じゃない……」
「どうしてそう思うの?」
「俺……」
「ん?」
優しい手が肩に触れた。「大丈夫」と諭すような声がそっと肩のあたりを撫でてくれる。
「大丈夫だよ。ね? 水月はどうして、葉月を好きじゃないと思うの?」
唇を強く噛み、喉や腹の奥で震える感情が凪ぐのを待つ。背をさする優しい手はまどろむような心地よさを誘う。
胸の奥のさざなみを感じながら、俺は「認められたいんだ」といった。あれだけの醜態を晒せばもはや、はなの反応だの俺に対するなにかなんて気にしてやるほどのものじゃない。
「葉月は俺をすごいっていってくれる。俺はそんな葉月を好きなのにほかならない」
「そうなの?」
「認めたくはないよ」
「でも葉月はそんな水月が好きなわけでしょ? 実際のところ、水月が自分をどう思ってるかは知らないのかもしれないけどさ」
「かわいそうな子だよ」
「そうかなあ……。もう高一だよ? わたしたちと同じだよ。人の心が一色じゃないことくらいわかってるでしょ。葉月自身もまた、何色かの心に悩んだりすることだってあるだろうしさ」
「俺は葉月の兄なんだ。兄が弟を慰み者にするなんて……」
「兄と弟っていっても、双子でしょ? 身近にいなかったからわからないけど、せいぜい数時間くらいの差でしょ? 歳の差なんてまるでないじゃん。先に生まれた子と後に生まれた子のどっちが上の子かっていうのも曖昧みたいだし。なんだって水月は、そんなお兄ちゃんであることにこだわるの?」
どうして、といわれると、はっきりとこれだといえる理由は見つからない。ただ、俺は葉月の兄で、葉月は俺の弟で、俺は兄として、弟の葉月を大切に思い、大切にしたいと願っている。それにほかならない。
「わたしがごちゃごちゃ口だしできるようなことじゃないけど、……でも、水月は葉月を幼く見すぎだよ。水月から聞く葉月って……うん、……まるで小さい子供みたい。でも実際にはそうじゃない。葉月はわたしたちと同じ高校一年生で、同じように過ごしてきた。そんなに大事大事してあげなくたって大丈夫だよ。確かにちょっと小心なところはあるけどさ」
俺はそっと深呼吸した。感情的になってしまいそうだった。
「葉月は立派な高校生、確かにそうかもしれない。でもそれが、俺が葉月を慰み者にしていい理由になるかい?」
「慰み者って考え方がちょっと変だよ、それ」
でも結局はそういうことだ、と語調が強くなってしまうより先に、幸い、はなが「それってさ」と言葉を続けてくれた。
「慰み者なんてそんなんじゃなくてさ、水月は、葉月がすごいっていってくれる、認めて褒めてくれることに、自信をもらってるってことなんじゃないの? 水月は葉月にすすめられて、絵をコンテストにだしたわけでしょう?
でもうまくいかなくて、悲しかった。水月、自分でいってたじゃん。悲しかったのは、あんなに絶望したのは自信があったからだって。運試しなんて気楽にやってみるつもりだったけど、結局はどこかに自信があったから、あんなに絶望したんだって」
「……俺がいいたいのは——」
無意識に言葉が切れた。ただあたたかくて、ほのかに甘いにおいがする。はなの腕に引き寄せられたのだと気づくのには、ちょっと時間がかかった。
「水月。水月は悪い人じゃないよ。誰かに認められたい、褒められたいって思うのは当然のことで、全然おかしいことでも悪いことでもないの。わかる? 葉月は純粋に水月の絵が好きで、褒めてる。水月はそれに元気とか自信をもらってる。葉月がすごいっていってくれることにつけこんでどうにかしてやろうとか、そういうこと考えてるの?」
どうしたものか、また視界が滲む。はなの細い体に腕を回すと、優しい手のひらが背を撫でてくれた。
「考えてないよね。水月は、葉月がすごいっていってくれることにどう思ってるの?」
「……応えたい……。葉月を幻滅させたくない……」
「葉月はどんな水月にも幻滅しないよ。わたしが保証する。葉月は幻滅しない、それが前提なら、どう思う?」
どう、思っているのだろう……。
「嫌な気分にはならないでしょう?」
体に回した手ではなの服をそっと掴むと、彼女は「ね」と優しい声を発した。
「それは勇気だったり、自信だったり、いろんなものである場合があるだろうけど、それで葉月が傷つくかな? 『うわ、水月の奴、俺がちょっと褒めたらばかみたいに喜んでんだけど』とか思うような奴じゃないでしょ、葉月って。それはわたしより水月の方がよくわかってるよね。
水月の気持ちは葉月を傷つけないし、葉月は水月に幻滅しない。二人は双子でさ、特別な絆で結ばれてると思うの。関係も互いの感情も、そうそう壊れたりしない。オーケイ?」
そういわれてしまえば、オーケイとうなずくよりほかはない。俺はちょっと笑って、はなから離れた。
はなは優しく微笑んで力強くうなずいた。「大丈夫、水月は悪い人じゃないよ。葉月もしっかりしてる」