教室に入ると、彼女は俺の隣の席で文庫本を開いていた。ちらと覗き見れば、どこかで見たことのある西洋画が白黒で印刷され、その下にずらりと縦書きの文章が並んでいた。ずいぶんと気取った趣味をお持ちだ。
「絵が好きなのか」
たまらず尋ねると、彼女はこちらを向いた。形の悪くない鼻、涼しげな目元。嫌な顔だ。
「好きだよ。綺麗なものとかわいいものが好き」
「絵、ねえ……」
「花車も好き?」
「……別に」
「あ、もしかして描いてたの?」
「なぜ」
「そんな感じがした。なにかに熱中してたけど諦めちゃった、漫画の主人公みたいな顔してる」
「褒めてんの、貶してんの」
彼女は俺の質問には答えず、シャツの袖を捲って腕を見ると、「うわ、蚊に刺されてる」と呟いた。「聞けよ」と俺は吐き捨てる。聞けよ、人の話。
「ハナムグリってわたしのこと嫌いでしょ? 嫌われてるの人のことはそうそう好きになれないよ。あんまりいうもんじゃないとは思うけど、わたし、好きじゃない人の話って聞いていられないの」
「ああそうかよ」いうもんじゃないと思ってるならいうんじゃねえよ。
「つうか、急に呼び方変えんな」
「で、そのハナムグリは、わたしが絵を好きなことにもいちゃもんつけたいわけ?」
「憐れに思っているだけだ」
「なんでよ」
「俺は本物を知っている」
「本物? あ、見分けられるの?」
「違う」
「じゃあなに」
「本物を知ってるんだ」
「やばい、わかんない」と彼女は苦笑する。「なにいってんの?」
「そのままの意味だ」
俺は本物の美しさを知っている。世界中で評価されているどんな絵よりも美しい絵を、俺は知っている。
「自分で描いてたんでしょ?」
「違う」
彼女は「うーん」と唸ってこめかみを細い指先で掻いた。「そんなにわたしのこと認めたくないかなあ。ハナムグリっていったの、そんなに怒ってるの?」
「それだけじゃない。俺はお前のすべてが気に入らない」
一度話を始めてしまえばなかなか終わらないところも、こうして積み重ねられた会話がすべて、家に帰ってから鮮明に蘇るのも、全部、腹立たしい。
思い出したくて思い出すんじゃない。勝手に頭の中に、耳の奥に聞こえてくる。そうすれば、こいつの表情や行動——たとえばさっき、指先でこめかみを掻いたことなんか——が鮮明に思い出される。望んでもいないのに。
それに気を取られて勉強にも集中できないし、どうしようもなくなって寝てしまおうと思って布団に入っても、目を閉じるとその姿が、表情が、仕草が、蘇ってきて眠れない。
いらいらして体温があがって余計に寝つけず、うんざりしながらようやく眠れても、まだほとんど陽が昇っていない頃に目が醒める。嫌な夢を見るからだ。
悪夢は醒めてからも体中に絡みつき、俺に不快になることを強制する。その悪夢の中心には、決まってこの女がいる。
「わたし、花車になにかした?」
「なんで過去形なんだ。現在進行形だろうよ」
「わたしがなにをしてるって?」
「おまえのせいで何事にも集中できない」
彼女は噴きだすように、ばかにしたように、笑った。
「それはわたしのせいじゃないでしょ。ハナムグリの持って生まれた集中力のせいだよ」
今度は俺が笑った。なるほど、俺の集中力というのは、こんな女の存在に削がれるほど、脆く弱く、儚いものなのか。いよいよ始まろうとしている受験勉強が心配になる。
対策もなにも練られないだろう。俺が集中できないのが、この女のせいではなく、持って生まれたものだというのなら。
「絵が好きなのか」
たまらず尋ねると、彼女はこちらを向いた。形の悪くない鼻、涼しげな目元。嫌な顔だ。
「好きだよ。綺麗なものとかわいいものが好き」
「絵、ねえ……」
「花車も好き?」
「……別に」
「あ、もしかして描いてたの?」
「なぜ」
「そんな感じがした。なにかに熱中してたけど諦めちゃった、漫画の主人公みたいな顔してる」
「褒めてんの、貶してんの」
彼女は俺の質問には答えず、シャツの袖を捲って腕を見ると、「うわ、蚊に刺されてる」と呟いた。「聞けよ」と俺は吐き捨てる。聞けよ、人の話。
「ハナムグリってわたしのこと嫌いでしょ? 嫌われてるの人のことはそうそう好きになれないよ。あんまりいうもんじゃないとは思うけど、わたし、好きじゃない人の話って聞いていられないの」
「ああそうかよ」いうもんじゃないと思ってるならいうんじゃねえよ。
「つうか、急に呼び方変えんな」
「で、そのハナムグリは、わたしが絵を好きなことにもいちゃもんつけたいわけ?」
「憐れに思っているだけだ」
「なんでよ」
「俺は本物を知っている」
「本物? あ、見分けられるの?」
「違う」
「じゃあなに」
「本物を知ってるんだ」
「やばい、わかんない」と彼女は苦笑する。「なにいってんの?」
「そのままの意味だ」
俺は本物の美しさを知っている。世界中で評価されているどんな絵よりも美しい絵を、俺は知っている。
「自分で描いてたんでしょ?」
「違う」
彼女は「うーん」と唸ってこめかみを細い指先で掻いた。「そんなにわたしのこと認めたくないかなあ。ハナムグリっていったの、そんなに怒ってるの?」
「それだけじゃない。俺はお前のすべてが気に入らない」
一度話を始めてしまえばなかなか終わらないところも、こうして積み重ねられた会話がすべて、家に帰ってから鮮明に蘇るのも、全部、腹立たしい。
思い出したくて思い出すんじゃない。勝手に頭の中に、耳の奥に聞こえてくる。そうすれば、こいつの表情や行動——たとえばさっき、指先でこめかみを掻いたことなんか——が鮮明に思い出される。望んでもいないのに。
それに気を取られて勉強にも集中できないし、どうしようもなくなって寝てしまおうと思って布団に入っても、目を閉じるとその姿が、表情が、仕草が、蘇ってきて眠れない。
いらいらして体温があがって余計に寝つけず、うんざりしながらようやく眠れても、まだほとんど陽が昇っていない頃に目が醒める。嫌な夢を見るからだ。
悪夢は醒めてからも体中に絡みつき、俺に不快になることを強制する。その悪夢の中心には、決まってこの女がいる。
「わたし、花車になにかした?」
「なんで過去形なんだ。現在進行形だろうよ」
「わたしがなにをしてるって?」
「おまえのせいで何事にも集中できない」
彼女は噴きだすように、ばかにしたように、笑った。
「それはわたしのせいじゃないでしょ。ハナムグリの持って生まれた集中力のせいだよ」
今度は俺が笑った。なるほど、俺の集中力というのは、こんな女の存在に削がれるほど、脆く弱く、儚いものなのか。いよいよ始まろうとしている受験勉強が心配になる。
対策もなにも練られないだろう。俺が集中できないのが、この女のせいではなく、持って生まれたものだというのなら。