庭のすずらんが咲いた。町ではつつじの花が、道路脇をかわいらしく彩っている。
「もうつつじの季節かあ」なんていうと、たまに「あれはつつじじゃなくてさつきだよ」なんていわれることがあるけれど、なにが違うのかよくわからない。難しいを通り越して理不尽な間違い探しみたいだと思う。
一か月前、入学式のときにはまださくらが咲いていた。今年は雨や風が少なかったから、春真っ盛りという言葉がまさにふさわしいような風景で、その中で真新しい制服を着て入学式だなんて、映画やアニメの世界に飛び込んだみたいだった。
そのさくらが散って、青い葉も落として、庭のすずらんは目醒めのときを知った。ゆっくりと起きあがって伸びをした。
町のつつじ——いやもしかしたらさつきかも——も、あくびをして眠たい目をこすっている。
ゆるやかだけれども、とてつもなく長い上り坂。そんな地味な嫌がらせを、わたしの通う学校は校門の前に備えている。その坂をえっちらおっちらのぼったあと、体を左へ九十度回して、やっと校門を入れる。
学園ドラマなんかで見るような学校とは違い、校門から昇降口までが近いのは幸い。斜めに進むこと数十歩で着く。しかも昇降口前にはそれほど高くない段がひとつあるだけ。
古そうな木製の階段をのぼり、『一年三組』の真新しいプレートを掲げる教室へ入る。わたしたちの入学早々に小野寺という男子を勧誘にきたバスケットボール部の二年生曰く、このプレートが新しくなったのはつい最近のことらしい。
教室のほとんど中心にある自席に鞄を置くと、隣から「うわ」と声がした。わたしはため息をついて「なに、虫のおもちゃでも置かれてた?」と返して相手を見る。
顔はわたしより十五センチ定規の一本分くらい高いところにある。とはいっても、わたしが百五十センチ台の半ばだから、相手も特別に長身というわけではない。わかってはいるけれど、見あげるというのがどうにも悔しい。
「ああ、でもあなた、虫のおもちゃにはびびらないか、ハナムグリ?」
「俺はお前が気に入らない」という相手に「お互いさまどすね」といい返す。……噛んだ。
「芸者さんに謝ってこい」と、相手はわたしのこの些細なミスを放っておかない。
「何度でも訂正するが、俺ははなぐるまだ馬鹿」
「あなたの滑舌が悪いのよ」
「どうだか。お前の耳がおかしいんじゃないか」
「なっ……わたしは相対音感を持ってるのよ?」
「頭もおかしいみたいだな。音程がわかってどうする、しかも絶対じゃないし」
わたしは大げさに鼻で笑ってみせる。「よく喋る虫さんだこと。新種のハナムグリを見つけたと、学者さんに知らせにいこうかしら? 名前はわたしからとってつけてあげてもよろしくてよ」
「この小娘、本気で人の名を認識できないものとみえる。いや、人の姿も認識できないか? なんにせよ、ひとつ医者にかかるのがいい」
わたしはむくむくと湧いてくる感情に手を叩くように激しく振り、それからぎゅっと強く握りしめる。
「ああ腹立つ。そのおじいさんみたいな喋り方どうにかならないの? 不愉快」
「あいにく、俺はおまえを愉快にするために生きているわけじゃあなくてね」
わたしは必死に屁理屈を探し回る。ようやく見つけて、余裕で綽々といったふうで笑ってみせる。
「じゃあそれと同じように、わたしを不愉快にするために生きているわけでもないはずでしょう」
ハナムグリ——いや、花車葉月——は、わかりやすく苛立ちを隠すように笑った。
「お前がそのどや顔をどうにかするってんなら、俺も少し考えてやる」
「はっ、偉そうに……。わたしはあなたのマリオネットじゃなくてよ」
「確かに違うな。お前は俺の糸操り人形だ」
「わたしは人の名前を憶えるのが苦手みたいだけど、あなたは英語が極端に苦手のようね」
「いいや、俺は英語は得意な方だと自負している。フランス語は苦手だがな」
花車の強調した言葉に、わたしは強く唇を噛み、やり場のない苛立たしさに暴れ回りたくなった。マリオネットは英語ではなくてフランス語だといいたいのだろう。
「もうつつじの季節かあ」なんていうと、たまに「あれはつつじじゃなくてさつきだよ」なんていわれることがあるけれど、なにが違うのかよくわからない。難しいを通り越して理不尽な間違い探しみたいだと思う。
一か月前、入学式のときにはまださくらが咲いていた。今年は雨や風が少なかったから、春真っ盛りという言葉がまさにふさわしいような風景で、その中で真新しい制服を着て入学式だなんて、映画やアニメの世界に飛び込んだみたいだった。
そのさくらが散って、青い葉も落として、庭のすずらんは目醒めのときを知った。ゆっくりと起きあがって伸びをした。
町のつつじ——いやもしかしたらさつきかも——も、あくびをして眠たい目をこすっている。
ゆるやかだけれども、とてつもなく長い上り坂。そんな地味な嫌がらせを、わたしの通う学校は校門の前に備えている。その坂をえっちらおっちらのぼったあと、体を左へ九十度回して、やっと校門を入れる。
学園ドラマなんかで見るような学校とは違い、校門から昇降口までが近いのは幸い。斜めに進むこと数十歩で着く。しかも昇降口前にはそれほど高くない段がひとつあるだけ。
古そうな木製の階段をのぼり、『一年三組』の真新しいプレートを掲げる教室へ入る。わたしたちの入学早々に小野寺という男子を勧誘にきたバスケットボール部の二年生曰く、このプレートが新しくなったのはつい最近のことらしい。
教室のほとんど中心にある自席に鞄を置くと、隣から「うわ」と声がした。わたしはため息をついて「なに、虫のおもちゃでも置かれてた?」と返して相手を見る。
顔はわたしより十五センチ定規の一本分くらい高いところにある。とはいっても、わたしが百五十センチ台の半ばだから、相手も特別に長身というわけではない。わかってはいるけれど、見あげるというのがどうにも悔しい。
「ああ、でもあなた、虫のおもちゃにはびびらないか、ハナムグリ?」
「俺はお前が気に入らない」という相手に「お互いさまどすね」といい返す。……噛んだ。
「芸者さんに謝ってこい」と、相手はわたしのこの些細なミスを放っておかない。
「何度でも訂正するが、俺ははなぐるまだ馬鹿」
「あなたの滑舌が悪いのよ」
「どうだか。お前の耳がおかしいんじゃないか」
「なっ……わたしは相対音感を持ってるのよ?」
「頭もおかしいみたいだな。音程がわかってどうする、しかも絶対じゃないし」
わたしは大げさに鼻で笑ってみせる。「よく喋る虫さんだこと。新種のハナムグリを見つけたと、学者さんに知らせにいこうかしら? 名前はわたしからとってつけてあげてもよろしくてよ」
「この小娘、本気で人の名を認識できないものとみえる。いや、人の姿も認識できないか? なんにせよ、ひとつ医者にかかるのがいい」
わたしはむくむくと湧いてくる感情に手を叩くように激しく振り、それからぎゅっと強く握りしめる。
「ああ腹立つ。そのおじいさんみたいな喋り方どうにかならないの? 不愉快」
「あいにく、俺はおまえを愉快にするために生きているわけじゃあなくてね」
わたしは必死に屁理屈を探し回る。ようやく見つけて、余裕で綽々といったふうで笑ってみせる。
「じゃあそれと同じように、わたしを不愉快にするために生きているわけでもないはずでしょう」
ハナムグリ——いや、花車葉月——は、わかりやすく苛立ちを隠すように笑った。
「お前がそのどや顔をどうにかするってんなら、俺も少し考えてやる」
「はっ、偉そうに……。わたしはあなたのマリオネットじゃなくてよ」
「確かに違うな。お前は俺の糸操り人形だ」
「わたしは人の名前を憶えるのが苦手みたいだけど、あなたは英語が極端に苦手のようね」
「いいや、俺は英語は得意な方だと自負している。フランス語は苦手だがな」
花車の強調した言葉に、わたしは強く唇を噛み、やり場のない苛立たしさに暴れ回りたくなった。マリオネットは英語ではなくてフランス語だといいたいのだろう。