「うちももう一人子供が生まれる予定でね。転職を考えてみて、って妻から言われてたんだ。でも、買収されるってなって、待遇も変わる可能性があるから、って説明してたんだけど……」

「結局、買収はなくなって、父の経営が続くことになったから……?」

 何も答えなかった。ただ辛そうに床を見つめているだけだ。それは強い肯定を表していて、私は再び衝撃を受けた。

 いや、違う。こうなるのが当然なのだ。普通、こんな場所見限るのが当然の結果。

 それでも、ここまで一緒にやってきたんだから……なんていう甘い自分の考えがおかしいのだ。

 徳島さんは、覚悟を決めたように私の方を向く。

「言おうと思ってたけど、なかなか言えなかった。でも、もう伝えるね。
 僕だけじゃなくて、同じことを考えている人は他にも大勢いる。一度傾きかけた経営者がもう一度やるなんて、やっぱりもうついて行けない」

「……」

「君には本当に申し訳なく思ってる、これは本心だ。みんな気持ちは同じ。五十嵐さんがいつも必死に働いてるのを知ってたし、社長に掛け合ってたのもみんな知ってる。でも、僕たちも生活がある」

 彼らを責めることなんて、できるわけがない。

 あるのは感謝の気持ちだけだ。こんなぼろぼろになるまで一緒に来てくれてありがとう、信じてきてくれてありがとう。

 それでも、自分はやっぱり狡い。徳島さんが、ここまで一緒にやってきてくれた仲間がいなくなることが、あまりに辛い。

 徳島さんは母が亡くなった後も必死に働いてくれた人だ。ここまで会社が持ったのも、彼の努力のおかげと言っても過言ではない。そんな彼がいなくなればどうなるかなんて、目に見えている。

 それにプラスして、他の人たちも……

「五十嵐さん?」

 ずっと黙っている私の顔を覗き込んだ。悔しさで頭がおかしくなりそうだ。

 あのまま買収されてたら、少なくとも母たちが守ってきた社員たちはそのまま一緒に働けた。八神のあんな話にさえ乗らなければ。

 唇を強く噛む。

 五十嵐さんが申し訳なさそうに視線を落とした。

「本当にごめん、結局こんな」

「少しだけ、待ってくれませんか?」

 自分の震えた声が発された。徳島さんが小さく聞き返す。

 私は前を向いた。そして彼に懇願し、頭を下げる。

「それ、出すのちょっとだけ待ってもらえませんか? ほんの数日でいいんです。みんながここを去るのは当然のことで、私に止める権利なんてないって分かってます! でも、どうしても最後まであがいてみたいというか」

「え……」

「お願いします! ちょっとだけ時間をください!」

 必死に頭を下げ、髪が不格好に垂れた。自分でも何を言っているんだろう、と思う。この会社に未来はないんだって、さっき鬼頭さんから聞いた話で分かったはずじゃないか。

 でも、少しだけ希望も持ってみたい。元の買収話に戻れるように、なんとかしてみたい。

 戸惑ったように徳島さんが黙り込む。事情をまるで知らない彼からすれば、私がこうして願うことすら予想外だろう。

「何か……策があるの?」

 聞かれて顔を上げた。私は頷くことも首を振ることもできず、ただ強く瞼を閉じた。