しゃべり過ぎてしまったと思いながらクロエさんを見ると、目が合った。
クロエさんは少し考えるような顔をしてからソファーに深く座り、膝《ひざ》を軽く叩いた。
「こっち来て」
「こっち……って」
「来ないなら、こっちから行くけど」
「いえ、行きます…!行きます…!」
来ようとするのを止めたくて、つい、行くと答えてしまった。
それも2回も。
ソファーから立ち上がり、クロエさんの処まで行って座る。
たったそれだけの事なのに、身体が動かし方を忘れてしまったかのように上手く動かない。
歩いた心地もしない。
動揺を悟られたくないのに、嫌になるくらい耳まで熱いのがわかる。
クロエさんの様子はまったく変わらなくて、ただずっと自分を見ている。
自分が見上げられているのに、見下ろされている様な気がするのは、どうしてだろう。
それだけ自分に余裕がないんだろうか。
変わらない表情を背にして膝の間に座ると、白い腕を身体へ回された。
これは契約、意識する必要はない。
それはわかっているけれど。
腰を抱き寄せ、冷たい指で耳朶から顎、顎から首筋へとなぞられると、この前みたいに自分の中が侵食されていった。
肩にもたれるクロエさんの髪や唇の先が、首筋や鎖骨に触れる。
髪は、服の中にまで侵入してくる。
「さっきので充分。
足りなくなんてない。
それに言葉とか説明って、そんなに重要?」
口を開く度にクロエさんの唇が触れる。
心臓は騒々しく、身体は固くなる。
「……そう、じゃないですか?」
「必要な場面もあるかもね。
でも、オレは重視してない」
首筋に息が絡んで肩は強張り、指に力が入る。
それに気づいたのか、安心させる様に肩を撫でられた。
「個性も、後からついてくるものだし」
肩を撫でていた指が徐々に下りていき、触れるか触れないかくらいのタッチで腕を撫でられる。
胸の奥なのか、底なのか。
どこだかわからない、身体のずっと奥の方が脈打つ。
「いろいろ難しく考えないで。
全部、オレの所為にしていいって言ったでしょ」
「そうですけど……」
「いいの」
耳元でそう囁かれると、だんだん考えられなくなってきた。
シトラスと煙草の香りのせいかもしれない。
普段より甘い声のせいかもしれない。
自分がばかになったみたいな、おかしな感覚で何もかもが支配される。
「して欲しいこと、ある?」
「……え?」
「唇の形、似てるんでしょ?」
一瞬、何の事なのかわからなかった。
茉莉香に似た唇で、自分に何をして欲しいのか―――
そう聞かれている。
指と指の間を、クロエさんの指がゆっくりと往復して撫で上げていく。
知らなかった。
指ってこんなに敏感なんだ。
「ねえ、言って」
胸に何かが込み上げて、息が漏れそうになる。
何も言わない事を罰するように爪を軽く立てられると、背中は仰け反った。
「言って」
唇が耳に触れると、我慢出来ずに息が漏れた。
「無理…です……」
「言えない?」
漏れる息をごまかそうと大袈裟に頷くと、クロエさんは身体を離してポケットから何かを出した。
爪を立てていた手に、それを握らせる。
パドロックのモチーフが付いたキーホルダーには、鍵がついていた。
「次は、ちゃんと言って」
クロエさんは空いたグラスを持ってキッチンへ向かった。
テーブルに残された水滴を見ながら身体の力は抜け、掌では鍵が光っていた。
あずささんの母、
瑤子さんは約束の5分後に10cmヒールを鳴らしてやってきた。
「まったく。この猛暑の中、自分の忘れ物を母親に取りに行けって、よく言えるわ。
でも私、あなたに会いたかったから好都合ね」
瑤子さんは笑顔でそう言って、ピンクベージュの上品なネイルで彩られた右手を差し出した。
握手を交わすとイランイランがふんわりと香り、瑤子さんもふんわりと微笑んだ。
瑤子さんがあずちゃんの忘れていった口紅を取りに来る。
急で申し訳ないけれど、もし良かったら少しだけ瑤子さんに付き合ってもらえないか。
アオイと話したい話したい、と言っている―――
昨日、クロエさんから申し訳なさそうに頼まれた。
初めて何かを頼まれた事がうれしい。
それに、インテリアコーディネーターで、この家のコーディネートを手掛けたという瑤子さん自身にも興味があった。
あずささんの母親だから、きっと綺麗な人なんだろうとは思っていたけれど、想像以上だった。
黒のタイトなワンピースから伸びる脚はスラリと長く、二の腕も引き締まり、ほどよく筋肉がついている。
若作りをしているわけでもないのに漂う空気がエネルギッシュだからか、あずささんの様な年齢の子供がいるようには見えない。
それにしても、この10cmヒールに赤い靴底って……ブランドに疎い自分でもわかる、
あのブランド。
こんな間近で見る日が来るとは思わなかった。
クロエさんは瑤子さんをもてなす準備をすべて整えてから撮影へ向かった。
切ってお皿にのせるだけだろうし、自分がやると言ったけれど断られた。
クロエさんは家事や手伝いを、絶対に断る。
人に任せたくない完璧主義なのか、自分が信用されていないのか。
瑤子さんをリビングに通すと、ちぃちゃんがすぐにやって来た。
「あら、ちぃちゃーん!」
ちぃちゃんは瑤子さんへと一直線に向かった。
「私、ちぃちゃんに好かれるために高級猫缶を貢ぎまくったの。
アオイちゃんは、すぐにちぃちゃんに懐かれたんでしょ?」
「そういえば、クロエさんに珍しいって言われました」
どうして瑤子さんがそれを知っているんだろう。
クロエさんが瑤子さんに話したとしか考えられない。
瑤子さんが自分と話したいと言ったのは、あずささんが瑤子さんに俺の事を話したからだと思っていた。
でも、クロエさんも瑤子さんに話していたのか。
なんだか意外だった。
和菓子が好きな瑤子さんの為に、クロエさんが用意した夜空みたいな色をした羊羹とお茶を出すと、瑤子さんは声を上げた。
「更に上達したわね~。
良い色だわ」
「え……これってクロエさんが作ったんですか?」
「そうよ。
本当、あの子って器用というか、なんというか」
食事だけじゃなく、和菓子まで作れるとは。
自分は人生で一回も、羊羹を作ろうと考えた事はなかった。
羊羹は作るものではなく、買うもの、というカテゴリーだった。
昨日は朝から夜まで撮影に出ていたのに、いつ作ったんだろう。
瑤子さんは、自分とクロエさんがどういう親戚関係なのかを説明してくれた。
瑤子さんはクロエさんの母親と遠い親戚で、性格は真逆だけど馬が合い、家が近かった事もあって、お互いが家庭を持ってからもずっと交流が続いたらしい。
クロエさんの母親が亡くなってからは、会う頻度は減ったけれど…と瑶子さんは言った。
クロエさんが母親を亡くしているなんて知らなかった。
自分からクロエさんの家族について聞いた事はなかった。
クロエさんからも、俺の家族について聞く事はなかった。
無意識に、聞かないようにしていたのかもしれない。
「アオイちゃんはクロエと暮らして、二週間くらい?
暮らしてみて、どう?
アオイちゃん疲れてない?
異性と一つ屋根の下って、いろいろ神経使うでしょう。
まぁ、この家は広いからパーソナルスペースは充分あるけど」
「疲れはしないですが……」
「ですが?」
「疲れはしないですが、もう少し家事とか手伝いたいです。
クロエさんが全部やってくれて、申し訳なくて」
「あの子、昔からそうなのよね。
人に頼りたくないって意識が強すぎるみたいで……もう少し人に任せたり、頼ったら良いのに。
あずさと足して割ったら、丁度良い感じになるわね」
瑤子さんはあずささんが忘れていった口紅をつまみ上げ、頬を膨らませた。
瑤子さんはクール系の美人だけれど、仕草がチャーミングで親しみやすい。
「単刀直入に聞いちゃうけど、アオイちゃんはクロエの恋人じゃないの?」
瑤子さんの突然の質問に、飲んでいたお茶をむせる。
「あ~…単刀直入過ぎたわね」
ごめんごめん、と言って瑤子さんは背中をさすってくれた。
瑤子さんの髪のカールが揺れる。
「大丈夫かしら?」
「大丈夫です、落ち着きました。
さっきの質問ですけど、恋人じゃありません。
本当に、ただの雇用関係です」
そう、自分とクロエさんは雇用関係。
一か月でおしまいの関係。
「そうなのね。
クロエが人と暮らすって聞いて、驚いたのよ。
あの子が長期間、人と一緒にいるって滅多にないから。
だから本当は恋人なんじゃないか、と思ったの。
友達と旅行とかも行かないし」
「そうなんですか?」
「そうね、私が知る限りでは。
この家にあるゲストルームも…あ、この家の事ってクロエから聞いたかしら?」
「いえ、あまり…」
「元々はクロエの母親が育った家なのよ。
つまりクロエの祖父母の家。
クロエはここで育って、祖父母も亡くなって、今は一人で住んでるの。
だからゲストルームもその時の名残りであるだけ。
ここでパーティーした時に、酔いつぶれた友達が泊まる事はあるみたいだけど」
うちのワガママ娘もね、と言って瑤子さんは羊羹をほおばった。
「人と長時間、一緒にいられないってタイプだと思う。
クロエ本人がそう言ったわけじゃないけど」
「瑤子さんは、クロエさんをよく知っているんですね」
「クロエの母親とすごく親しかったから…亡くなってからも、クロエが気になって顔は見に来ていたの。
あずさの面倒も押し付けたりね」
瑤子さんはチャーミングに笑った。
瑤子さんの帰り際、一度も話に出てこなかったクロエさんの父親の事を聞いた。
「いないも同然よ」
それだけ言うと瑤子さんは帰っていった。
真っすぐな背筋とレッドソールが目に焼き付いた。
「瑤子さん、なんか変な事とか言ってなかった?」
「いえ、何も。
素敵な人ですね、瑤子さんって」
帰宅したクロエさんの質問に笑顔でそう答えたけれど、クロエさんは疑いの眼差しを向ける。
恋人かと聞かれたことは言わなかった。
自分とクロエさんでは、釣り合いが取れていないにも程がある。
「羊羹を絶賛してました。
綺麗で食べるのがもったいなかったです。
クロエさんってお料理なんでも出来て、すごいですね」
「そんな事ない。
レシピ見て、そのまま作ってるだけだし」
そう言いながら目の前でスパイスからカレーを作っているクロエさんは、やっぱりすごいと思う。
ターメリック、コリアンダー、クミン、ガラムマサラ、クローブ……あとの名前は覚えられなかった。
初めて会った日から、もうすぐ二週間。
クロエさんとの会話のペースが少しだけ掴めてきて、沈黙はあまり気にならなくなった。
クロエさんが言った、いろいろ難しく考えないで、という言葉の影響もあったのかもしれない。
「餃子とカレー、どっち?」
主語のない質問にも慣れて、カレーと答えた。
明日はここで餃子カレーパーティーが開かれる。
クロエさんの友達は、夏といったら餃子派と、夏といったらカレー派に分かれていて、毎年持ち寄ってパーティーをしているという。
胃もたれしそうなパーティーですねと言ったら、クロエさんは少しだけ笑ってくれた。
「そういえば羊羹、いつ作ったんですか?」
「三時か四時」
「……今朝、お仕事早かったですよね?」
「あまり寝ないから、オレ」
「あまりって……三時間も寝てないんじゃないですか?」
「いつもそれぐらい。
料理はだいたい、夜中や朝方にしてる。
どうせ眠れないし」
最初は寝ないと言ったけれど、正しくは眠れない、なのか……。
ここで暮らし始めてから、俺は茉莉香の事を考える時間は減って、前より眠れるようになった。
日中は展示会の作品制作に集中して、疲れたら、ちぃちゃんとじゃれ合う。
夜は仕事から帰ったクロエさんと夕食をとって、写真を撮られる。
自由にしてて、と言って部屋で撮られる事もあるし、スタジオで撮る事もあった。
これで良いのかなってくらい、自由に暮らしてると思う。
まだ夜中に目を覚ます事もあるし、人畜無害男のヘラついた顔を思い出して苛立つ事もある。
茉莉香から連絡はないか、意味もなくスマホの確認もする。
それでも、だいぶ良くなった。
クロエさんが眠れない原因は、好きな人を失ってしまった事なんだろうか。
それとも家族の事なんだろうか。
自分と似た身体の人は、いったいどんな人だったんだろう――。
契約が成立したあの日以来、この話はまったくしていない。