茉莉香が子犬みたいに眉を下げて、俺を見上げる。
理由をつけてしばらく会っていなかった茉莉香は、今年も夏バテしたのか少し瘦せていた。
高校の時からやってみたい、と言っていた緩いパーマが、毛先にかかっていた。
ピンクブラウンの髪は陽に当たるとストロベリーチョコを思わせ、茉莉香の甘い雰囲気によく合っていた。
出来ることなら、自分が一番に見たかった。
いつも、一番に見てきたのに……。
「引き留めてごめんね、アオイ。
今日から一か月、行っちゃうんだよね。
そんなに離れた事なんて今までなかったから、寂しくなる」
本当に、寂しくなってくれる?
……その言葉を、糧にしよう。
俺の寂しさとは、まったく違うものだってわかっているけれど。
腹を括って、口を開いた。
「早めに家を出たから、ランチぐらいなら大丈夫。
茉莉香の彼氏に会えて、俺も良かった」
吐きそうだった。
思ってもいない事を口に出すのにも、作り笑顔にも慣れていたけれど。
自分なりのせめてもの牽制として、「うちの茉莉香がお世話になってます」と付け加えて言った。
疑う事を知らない様なこの男には、きっと何も届かなかっただろうけれど。
バックがキャリーケースで良かった。
石畳の道で良かった。
タイヤの転がる音が、思考の遮断を手助けしてくれる。
茉莉香のサンダルのヒールが石畳の隙間に引っ掛かって歩きづらそうで、肩を貸したかった。
今までだったら簡単に、つかまりなよ、と言えたのに。
歯がゆさと、何も気付かないで歩いている男への苛立ちで、キャリーケースを握る手はどんどん強くなっていった。
どこかのイタリアンレストランに入ると、当然の様に男は茉莉香の隣に座り、俺は茉莉香の向かいに座った。
白いワンピース、夏っぽくて良いね。
サーモンピンクのグロスも似合ってるね。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
だって全部、この男とのデートの為に選んだもの。
白いワンピースは、この男の好み?
そのツヤツヤの唇でキスするの?
腐った俗っぽい考えが止まらないどころか、加速をつけて悪化していく。
やっぱり自分は、茉莉香を穢しているんだ。
赤と白の大きなブロックチェックのテーブルクロスの上に置かれた、Amore Pastaと店名がプリントされている紙ナフキンすら憎らしく見えてきた。
なにが愛だ。
メニューの中から目についた「シェフの気まぐれパスタ」だとか、そんな名前のパスタを適当に選ぶと、店員はランチセットを勧めてきた。
「セットに付いている、なめらかビシソワーズが当店の人気メニューとなっております」
親切そうな顔をして、ポップで弾むような書体で「おすすめ♪特製ビシソワーズ」と書かれたメニューを指差す。
どうせ味もしないし、何も感じない。
なめらかだろうと粗々しかろうと、なんだって、どうだって良い。
注文が出てくるまでの間は、幼馴染みの彼氏に会った時の質問として模範的な質問をした。
二人は、何がきっかけで知り合ったんですか。
お互いの第一印象はどうでした。
デートはどこに行ったんですか。
茉莉香の家族には会った事がありますか。
茉莉香から聞いていた事も質問してしまったかもしれないけれど、聞いたかどうか思い出せるほどの余裕はなかった。
ヘラヘラと照れながら嬉しそうに答える男は、心底気持ち悪かった。
俺はどうしてこんな事を聞いて、どうしてこんな事を聞かされているんだろう?
お願いだから、この男の隣で一緒になって嬉しそうな顔をしないで。
何度も何度も、心の中で茉莉香に懇願した。
だけど当然そんな願いは届かなくて、茉莉香はずっと少しはにかむように笑っていた。
そんな顔、するんだね。
やっと出てきたパスタは、やっぱり何の味もしなかった。
気紛れ、なんて付いたパスタを選んだせいかもしれない。
二人は、この後は映画と夜景を見に行くと言った。
……雨でも降ってしまえば良い。
その後、バイトのドタキャンの連絡を受けた。
いよいよ、自分の行き場はどこにもなくなった。
頬を零れ落ちていく涙を、自分が
拭うよりも先にすくったのは、クロエさんだった。
葉の上に落ちた大きな雨粒に触れるように、指先で。
小さな子供を慰めるように、唇で。
一粒一粒、
慈しむように涙をすくっていく。
突然泣き出した自分に、呆れた顔をしているかと思ったけれど、その瞳にはただ自分が映っているだけだった。
毒みたいだと思った唇は、頬に触れると柔らかく、ふわりとしていて、その温かさで涙は更に零れていった。
―――人前では、何があっても泣かない。
幼い頃に自分で立てた誓いが、ゆるりゆるりと
解けていく。
もういいんだよ。
どこか遠くで、そう聞こえた気がした。
とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまったのかと思ったけれど、そんな事はもう構わなかった。
涙は、ますます零れ落ちる。
「追いつかない」
そう言って抱き寄せてくるクロエさんの腕を、振り払おうとは思わなかった。
成すがままに身体を預けて、目を閉じた。
左胸から聞こえてくる心拍音に、自分の心拍音を重ねた。
この人も自分も生きているんだな……なんて、自分でもよくわからない事を、ぼんやりと思った。
口の中に侵入してきた涙は、よくわからない横文字のアルコールよりも、ちゃんと味がした。
どれくらいの間そうしていたのか、わからない。
頭を撫で、身体を撫で、時々、髪に口付けをされているうちに、だんだん眠たくなっていった。
人の心拍音が、こんなに安心を与えてくれるものだとは知らなかった。
涙はもう、すっかり渇いていた。
いつ部屋に戻ってきたのか、抱き合っている主人を邪魔するように、ちぃちゃんが膝に飛び乗ってきた。
最初は放っていた主人も、ちぃちゃんが嫉妬に狂ったように鳴き、今にも猫パンチを繰り出してきそうになると根負けし、身体を離した。
主人に手を差し伸べられると、ちぃちゃんはその腕の中に飛び込み、勝ち誇った顔をした。
さっきまで自分を撫でていた指が、ちぃちゃんの首を撫でる。
「赤と白、どっち?」
突然の質問の意味がわからず、返事に迷っていると、クロエさんはちぃちゃんを抱きかかえたまま立ち上がった。
「アレルギーは?食べられない物は?」
「……特に、ないです。
あ……ニンジンは、あまり得意じゃないです。
小さくカットされていて、何かに混ぜられているような状態なら、まったく問題ないんですけど……。
大きいと、なんかこう、独特の香りと、存在感というか……」
だんだん冷静になり、初対面の人の前でボロボロと泣いてしまった事が恥ずかしくて、要らない説明までしてしまう。
クロエさんはさっきまでの事はなかったかの様な、あっさりとした顔をして「ニンジンね」と言うと、部屋を後にし、すぐに俺のキャリーケースを持って戻ってきた。
バスルームの場所を伝え、タオルは適当に棚を開ければ入ってる、薄いブルーのバスローブは未使用だから使って、と言ってキャリーケースを手渡した。
昨日はあんなに重く感じたキャリーケースは、もう重くは感じなかった。
リビングからバスルームへ向かう途中、窓から外を覗くと、趣ある純和風の小さな離れが見えた。
小さな、と言っても、この家と比べると小さいというだけで充分に立派だった。
青々した松の木に、少しモダンテイストな竹垣、大きな水連鉢。
明日、明るい時にちゃんと見てみたい。
―――明日。
どうしてなのか、明日もここに居るつもりでそう考えていた。
月明かりの下で瑠璃色に輝く水連鉢は、とても幻想的だった。
バスルームはリビングとは打って変わって、すべて白で統一されていた。
大きな鏡の前には洗面台が二つ並び、奥にはガラス張りの開放的な浴室。
大理石の床は水滴の一つもなく、照明に照らされ煌めいている。
丸くて大きな白いバスタブは、おそらくジェットバス。
ガラス製のボトルに入ったシャンプーなどのアメニティは、きちんと一直線に整列していた。
初対面の人の家に泊まり、シャワーを借りる自分も信じられないし、目の前の贅沢なバスルームも信じられなかった。
だけど不思議と、不安とか怖いとか、そういう気持ちはなかった。
さっきの心拍音と、優しく撫でる手は、信じても良いんじゃないかと思えた。
さっき窓から外を覗いだ時、外は暗かったけれど今は何時なんだろう。
キャリーケースを受け取った時、一緒にスマホも渡されたけど、時間も通知も何も確認せずに仕舞った。
こんなにスマホを触らない日は、今までにあっただろうか。
これまで何度も、これ以上、自分が傷つく前に茉莉香と距離を置こうと思ったし、そうするのに適したタイミングもあった。
違うクラスになった時、部活が忙しかった時、進学した時。
さりげなく、茉莉香に気付かれずに距離を置く事は出来た。
だけど、ずっと出来なかった。
周りからはいつも「茉莉香はアオイにべったりだね」と、言われてきた。
でも実際はそうじゃない。
俺の想いの方が遥かに重く、深く、べったりとこびり付いて、茉莉香から離れようとしなかった。
茉莉香は俺以外の友達がいないわけじゃない。
小動物みたいにちょこまか動いて、どちらかというと控えめで、押しに弱い。
でも俺が名前や見た目でからかわれている所を見ると、止めに入ってきた。
好きな人にバレンタインチョコを渡す勇気はなくても、そういう勇気は持っているような子。
俺がそばにいるから他の子は遠慮しているだけで、自分が少しでも離れたら、誰かにポジションを奪われるんじゃないのか。
あっという間に自分たちの繋がりはゼロになるんじゃないのか。
そう考えると、怖かった。
そうやってズルズルしてきて、結局、茉莉香に彼氏が出来てから理由をつけては会う回数を減らした。
そんな時でも、なんだかんだスマホは手放せなかった。
今日は茉莉香から連絡がくるか、こないか。
そう考えない日はなかった。
やっぱりどこかで繋がっていたかったのかもしれない。
どうせ会おうと誘われたって、断るくせに……。
スマホがない時代に生まれていたら、俺の茉莉香への執着の形も違っていたんだろうか。
浴室に入り、シャワーを浴びようとすると、ハンドルが幾つも並んでいた。
どれがシャワーのハンドルかわからず、一通り試してみて、打たせ湯にオーバーヘッドシャワーまである事がわかった。
真上からシャワーを浴びると、自分の中にある汚れまで、すべてが流れていくような気がした。
一面真っ白で、無駄な物がない空間がそう錯覚させてくれたのかもしれない。
ガラス製のボトルはシンプルでスタイリッシュ過ぎて、どれがシャンプーで、どれがボディソープなのか、よくわからなかった。
どれもユニセックスで嫌みのない、シトラスの良い香りがする。
全身をよく洗い流すと、身体はすっきりと軽くなった。
使ったアメニティがちゃんと一直線に並んでいるか確認し、浴室を後にする。
大きな鏡で顔を確認すると、眼は少し腫れていた。
クロエさんに言われた薄いブルーのバスローブに身を包み、髪をタオルで乾かしていると、遠慮がちなノックが聞こえた。
慌てて返事をして扉を開けると、クロエさんがバスルームとは反対側に顔を向け、更にその顔を片手で覆っていた。
もう片方の手でバスローブと同じ薄いブルーのタオル地のスリッパを差し出す。
「ありがとうございます……。
もうバスローブを着ているし、支度も終わったので、こっちを見ても大丈夫です……」
そう言うと、クロエさんは顔を覆っていた手を外してこっちを向いた。
見ても大丈夫なんて言ったけれど、いざお風呂上がりの顔を見られると妙に恥ずかしい。
眼だって腫れている。
クロエさんはジっと見てきたと思うと、無言で鏡の前へ誘導した。
クロエさんは香水瓶のような容器を取ると、手のひらにワンプッシュし、オイルのようなものを手のひら、指の間に伸ばしていった。
浴室で嗅いだシトラスよりも、ほんの少し甘い香りが広がる。
その手を、まだ半乾きの髪の襟足へと滑り込ませると、丁寧に指を揉みこんで、オイルをなじませていった。
時折、指先が耳に触れて思わず仰け反ると、クロエさんは小さく笑った。
なじませ終わると、今度はドライヤーで乾かし始めていく。
細かく何度も髪を上げて根本を乾かし、根本が渇くと、指先を小刻みに動かしながら毛先に沿って乾かしていく。
自分で出来ますと言って止めようと思ったけれど、髪に触れる手が穏やかで、気持ち良くて。
止めようという選択肢は、頭の中からは、ゆらゆらと消えていった。
クロエさんはドライヤーを止めると、ブラッシングを始めた。
ちぃちゃんも、こんな風にブラッシングしてもらっているのかな。
長毛だから、お手入れは欠かせないんだろうな。
そんな事を溶け出しそうな頭でふわふわと考えていると、鏡に映るクロエさんと目が合った。
ハッと我に返って、お礼を言おうとすると、「降りてきて。急がないで良いから」と先に言われてしまい、クロエさんはバスルームを後にした。
これじゃあ、どちらが雇用主なのかわからない。
髪からは、クロエさんと同じシトラスの香りがした。