「アオイ……?」
ソファーでまだ眠い目を擦るクロエさんは、やっぱり幼く見えた。
クロエさんに水を差し出すと、まだ半分くらい寝ぼけていたせいか、少し水をこぼしてしまった。
その姿を見て、クロエさんが見せてくれた契約書の動画を思い出す。
契約書も、証拠動画も、クロエさんが残しておいてくれて良かった。
こんな契約は、きっとどこにもない。
水を飲み終えたクロエさんは、目が覚めてきたようだった。
小さく伸びをすると「レモンクリームソース、どこまで作ったんだっけ…」と呟く。
クロエさんの作るレモンクリームパスタは好きだった。
来年も、再来年も、出来る事なら一緒に食べたかった……。
「クロエさん、イギリスに行ってください」
抱き合って、まだ余韻が残っている中でこんな事は言いたくなかった。
だけど、決心が揺らぐ前に言わないと、きっと言えなくなってしまう。
その方が、きっと何倍も何倍も辛い。
「………どうして」
クロエさんの哀しい眼は、もう見たくなかった。
なのに、自分が哀しくさせてしまった。
「そんな顔しないでください。
こっちも…頑張って言ってるんですから」
「もしかして、責任みたいに感じてる?
これはオレが自分で決めた事で、アオイが責任を感じる様な事じゃない」
「行ってください。
憧れてた人との仕事で…せっかくの機会なんですよね?
その機会を断るなんて、絶対に…良くない……」
クロエさんが泣き出しそうな顔をして、両手を強く握った。
まるで、離れないでと叫ぶみたいに。
きっと自分も、クロエさんと同じような顔をしてる。
クロエさんの前では、もう笑顔の作り方なんて忘れてしまった。
「行ったら、いつ帰ってくるか、わからないよ…。
一年か、二年か……。
余計なお世話かもしれないけど…アオイが心配だし……。
オレ自身が…一緒にいたい」
クロエさんが、こんなに気持ちを話してくれるなんて思わなかった。
嬉しさと、気持ちを揺らがせないで欲しいという思いで、いっぱいになる。
「ちゃんと、一人でも頑張りたいんです。
クロエさんから、たくさん貰ってばかりじゃ嫌なんです」
「貰ってばかりなんてことない。
アオイのお陰で、ちゃんと眠れるようになったし、すごく……気持ちが楽になった」
「だったら尚更、行ってください」
「けど……」
「何かを諦めて一緒にいるみたいな関係には……なりたくないんです」
本当は、イギリスになんて行って欲しくない。
もっとクロエさんを知りたいし、自分を知って欲しい。
すれ違っていた気持ちだって、やっと分かり合えたばかりだ。
だけど、ちゃんと送り出さなくちゃ。
きっとそれが、いま自分に出来る唯一の事だから。
「宇宙に行くわけじゃないんですから。
イギリスと日本なら飛行機だと……」
「半日」
「遠いけど、会えない距離じゃないです。
それに……俺もクロエさんも、そばにいる人に片思いをずっとしてきたじゃないですか。
両想いの一年や二年、どうってことないですよ」
「そうだけど……」
「お願いします。行ってきてください」
――ずっと、この居心地の良いシェルターにいたかった。
クロエさんと、ちぃちゃんと。
だけど、そういう訳にはいかない。
どんなに好きでも、俺とクロエさんは、それぞれ一人の人間だから。
寄りかかっているのは楽だけれど、楽になるために、クロエさんに幸せにしてもらうために、好きになったのではないから。
「クロエさん……また、契約しませんか?」
「契約……?」
「そうですね……。
一、一日に一回は、一言でも良いから連絡をする。
……どうですか?」
零れてしまいそうな涙を誤魔化そうと、瞼を擦った。
ちゃんと送り出す事が、自分なりの精一杯のクロエさんへのお返しのつもりだった。
だけど、やっぱりそれは簡単なことじゃない。
「……わかった。連絡する」
クロエさんはそう答えて、ゆっくりと瞼に口づけをした。
もう一回してくださいと、自分から言った日を思い出した。
赤いリボンをちぃちゃんから取り上げて、クロエさんに見つからないように、ゴミ箱の奥深くに入れた事も。
「二、長期の休みには……会いたいです」
堪えられずに零れてしまった涙を、唇ですくいながらクロエさんは「うん、会おう」と言った。
初めてクロエさんの前で泣いた日も、こうしてくれた。
いったい自分は、どれほどこの唇に救われてきたんだろう。
「三……。
クロエさんは、何か……ありますか?」
「……頑張らないで」
「頑張って、じゃなくて?」
「頑張ってる人に、頑張ってなんて言わないよ」
「わかりました…」
新しい契約を交わし、何度も何度も、口づけを交わした。
一年でも、二年でも……きっと大丈夫。
不安がないわけじゃないけれど、辛くなったらクロエさんの唇を、手を、一緒に過ごした夜を思い出すから。
「イギリスに行くまでに、ミントチョコのアイスクリーム、またつくってくれますか?」
「……そのつもりでミント買ってきた」
その夜、夕飯というのにはあまりに遅い時間にレモンクリームパスタを食べ、食後にミントチョコのアイスクリームを食べた。
クロエさんは「本当はミントチョコ、食べられないんだ」と言ったので、「知ってましたよ」と笑って返した。
―― 了 ――
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「一夜~」ははじめて書いた小説です。
なので、いろいろ至らない点があるかと……。
修正したいと思いつつ、進まない……。
どんな気持ちで最後まで読んでくれたのかなぁ、と不思議に思っているので、感想をいただけるとうれしいです。
(もちろん強制ではなく)
辛口なご意見は、オブラートを三重くらいに包んでいただけるとありがたいです。
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