一夜の過ちは一生の過ちだった 【完】

自分を見つめるクロエさんの視線と、執拗に動く舌で頭の中がふわふわしてくる。
クロエさんの舌のピアスボールが時折、自分の舌や歯に当たると、ますます舌を入れられている事を実感した。
もっとこのまま、クロエさんと交じり合ってしまいたい。

背中を撫でる手がシャツの中へと入ると、くすぐる様に指先を這わされた。
思わず目を瞑ると「駄目」と言われ、線を引く様に背筋に爪を立てられる。

目を閉じないように必死でいればいる程、クロエさんは指も舌も動かす。

気が付くと、必死でクロエさんの背中を掴んでいた。
爪を立てていると誤解されないように、シャツだけを掴んだ。

背中が反ってしまうと、クロエさんは首を抑える手に力を加えた。

息がうまく出来ない。


お互いの息遣いが、玄関でただ響いていく。


ちぃちゃんの鳴き声が聞こえてくると、クロエさんは唇を離した。



「……オレの部屋に…ベッドに行っても、良い?」



いつもより熱っぽい声で言われたその言葉の意味は、ちゃんとわかっていた。

瞬きを何度かしてから小さく頷くと、クロエさんは手を取った。
初めて入るクロエさんの部屋は、床も天井も壁も、ベッドもシーツも。
すべてが真っ白で、余計なものは一つもなかった。
防音なのか、外の音もまったく入ってこない。


真っ白い空間は、すぐに二人の熱と息遣いで染め上げられていった。


クロエさんの香りがするシーツの中で抱き合い、キスの続きをしながら、お互いのシャツのボタンを外し合う。

指先が少し震えて、上手くボタンが外せなかった。
クロエさんが手伝ってくれて、どうにかすべてのボタンを外せた。

肌と肌が触れ合って、体温が交じっていく。

クロエさんの指先はいつも通りに身体の上で器用に動いて、どこを触れば反応するかは、もうわかっている様だった。

だけど時折、その指先は躊躇(ためら)いがちになった。


本当に、良いの?

まるで、そう聞くみたいに。


その質問に答えるように、自分からもクロエさんに指を這わせてみたけれど、やっぱりぎこちなくて、上手くは出来なかった。
それでも、クロエさんは息を漏らした。
クロエさんの身体を触っていくと、今まで知らなかった首の付け根のピアスを見つけた。
いつもは髪で隠れていたんだろう。


身体を触ることは、地図のない宝探しみたい。


オーバーサイズの服を着ることが多い、クロエさんの身体の線を知る。

右の脇腹に指先を沿わせれば、小さくピクリと反応を返され、耳にキスをすれば熱い吐息が返される。


クロエさんはもう、透明なんかじゃない。




(くび)れを撫でていたクロエさんの指先が、下着の中に侵入していっても、前ほどは怖くはなかった。

唇と指先から部屋中に広がっていく音に耳を塞ぎたかったけれど、ちゃんとこの夜の事を覚えておきたいとも思った。



だけど親指を下着にかけられると、全身が一気に強張って、無意識にシーツを掴んでいた。


「シーツじゃなくて、オレに爪を立てていいんだよ。
ちゃんと、やめるから」


そう言われたけれど、クロエさんに爪を立てようなんて思わなかった。
やめて欲しくない。


「一緒に、おかしくなろうって言ったじゃないですか」



そう言うと、クロエさんは微笑んだ。

満面の笑みだとか、そういったわかりやすい笑顔ではなかった。
だけどそれは、今まで見てきた中で一番の笑顔だった。




この夜、クロエさんと契約よりもっと深く身体を重ね合わせた。

この夜が続けば良いと思ったけれど契約の最終日まで、あまり日は残っていなかった。
真っ白な部屋で目を覚ますと、クロエさんはもう仕事に出ていた。

冷蔵庫にはいつもの蛍光のイエローの付箋《ふせん》が貼られ、「食事は別で。遅くなる」と書かれていた。
冷蔵庫を開くと、いくつものガラスの保存容器がいつも通り、乱れる事なく並んでいる。

ちぃちゃんがどこからかやってきて、足元にすり寄る。


何もかもが、いつも通りの日常。



茉莉香が彼氏と旅行に行く事にはやきもきしたくせに、自分は何をやってしまったんだろう。
恋人でもないクロエさんと一夜を過ごしてしまった。

それも、クロエさんの中にはカイトさんがいるとわかっているのに。


帰ってきたら、クロエさんはどう接してくるんだろう。

ドラマみたいに、なかった事にしよう、と言われたりするんだろうか。
それとも、冷たく接されるんだろうか。

なかった事にしようとは……さすがに、言わないと思う。
クロエさんについて知らない事やわからない事は多いけれど、そういう言葉を口にはしないと思うし、そう思いたい。



だけど、やっぱり間違った事をしてしまったのかもしれない。

そもそも、正しい事ってなんだろう。

どうする事が正しかったんだろう。

自分が後悔をしているのか、していないのか……。
それすらも、もうよくわからない。
その夜、うとうと眠くなった頃にクロエさんは帰ってきた。
七星さんらしき声も少し聞こえたけれど、しばらくするとその声は消えた。


下に()りて、クロエさんに会うべきなんだろうか。
それとも、寝たふりでもした方が良いんだろうか。

ベッドの中で寝転んで考えてみたけれど、いつかは絶対に顔を合わせる事になる。
ずっと顔を合わせないですむなんて事はない。

それなら、今日のうちに顔を合わせてしまった方が良い。
のばした方が、きっと顔を合わせづらい。



恐る恐る下りていくと、キッチンからオレンジの光が小さく漏れていた。
ドアノブに伸ばす手が、やけにゆっくになってしまう。

ドアを開くとオレンジの照明の中で、クロエさんはいつも通り「ただいま」と言った。

「おかえりなさい……」

そう言いながらロエさんの眼を覗き込んでみたけれど、いつもと変わりなく見える。
眼を逸らす訳でもないし、気まずそうにもしない。

クロエさんに自分はちゃんと見えているんだろうか。


「……どうしたの?」

「いえ…遅くまで、お疲れ様でした」

クロエさんは水を一杯飲み、大きく息を吐いた。

今までだって、クロエさんはこうしていたはずだ。
疲れて帰ってきたら水を飲んで、大きく息を吐く。
そういう姿は何度か見た。

なのに、気持ちが崩れそうになる。
自分と顔を合わせたくなかったんじゃないか、と。

いつもは気に留めていなかった事が気になってしまう。
どんどん胸のあたりに黒い靄がかかる。

「……もう、今夜は遅いので。おやすみなさい」

「おやすみ」



クロエさんは、ちっとも変わりなかった。

自分にとってはとても大きな事だったのに、クロエさんにとっては何でもなかったんだろうか。

カイトさんの代わりで良いと思った。
もう自分の存在は、クロエさんにとってなんだって良いと思った。
そばにさえ、いられれば。


そうやって思っていたのに、どうして今、こんなに胸が痛いんだろう。



「いらっしゃい」

姫野さんは、いつも通りの柔らかな笑顔で迎えてくれた。

ライムとレモンからは、また熱烈な歓迎を受けた。
ちぃちゃんは、家に帰ったらまた妬いてしまうかもしれない。



「姫野さん、これ良かったら」

「ありがとう。手ぶらで良かったのに。
でも、ここのチョコケーキ大好きだから嬉しい。
今日は深煎りの豆にするね。苦味とコクがあって、きっとケーキと合うから」

「ありがとうございます。楽しみです」



本当は、ミントチョコのスイーツを買おうと思っていた。
姫野さんもミントチョコが好きだと言っていたから。
ショーケースに並ぶミントチョコのケーキやタルトを見て、姫野さんの笑顔が浮かんだ。

だけど、買えなかった。

クロエさんが作ってくれた、ミントチョコのアイスクリームを思い出してしまったから。


今までは何かの拍子に茉莉香がチラついた。
だけど、これからはこうやってクロエさんがチラつくんだろうか。

自分には、綺麗に割り切る事も、忘れる事も出来ない。



姫野さんはホットコーヒーを淹れてくれた。
芳ばしい香りが漂う。
ケーキともぴったり合っていた。


まだ8月ではあるものの、今日は少し肌寒い。

ケーキを買うために立ち寄ったデパートのショーウィンドウは、もう秋色に変わっていた。
長袖を着た人も、何人か見た。

こうやって夏が終わっていくんだろう。

終わってしまえば、あっという間だ。
「アオイちゃん、クロエくんって最近さ……何かあった?」

ケーキを食べ終えると、姫野さんはそう言った。
クロエさんの名前を出されただけなのに、心臓は止まりそうになった。

「何かって?」

「さっき、ナナくんから連絡があって。
クロエくんがイギリスに行くのをやめるみたい、って」

「……イギリス?」

「クロエくんとナナくんが尊敬してるカメラマンの人がイギリスで活動していて、クロエくんが一緒に仕事をするって話があったみたい。
秋から一年とか二年とか、それぐらいの期間」

「そんな話があったんですか……」

聞いたことない、そんな話。

「ナナくん、ずっと前からこの事は口止めされてたんだって。
送迎会とか絶対にされたくないから、周りには言うなって。
なのに急に、やめようと思うって言われたみたい」

「理由は……七星さんには何て言っていたんですか?」

「理由を聞いても、詳しく教えてくれなかったみたい。
ナナくん心配してた。
何かあったんじゃないか、って」

せっかく一緒に仕事が出来るのに……。
仕事の事はよくわからないけど、どこにでもあるような話じゃない。
前に七星さんも、そのカメラマンの人の話をしていた。
いつか一緒に仕事が出来たら最高だ、と。


カイトさんがいる日本から、離れたくないから?


自分が知らないだけで他に理由があるかもしれない。
だけど、どうしてもカイトさんが頭をチラついてしまう。
気持ちを察したかの様に、ライムとレモンはすり寄ってきた。
柔らかな体を撫でると、二匹は愛くるしい瞳を向ける。

だけど、自分の心はどこか別の場所にある様な……ぽっかりとくり抜かれたみたいだった。


「そっか、アオイちゃんもわからないか。
まぁ…クロエくんって、そういう感じはするよね。
人に相談をする様なタイプじゃない、というか」

「そうですね、そんな感じがします」

「……もしかしてクロエくんと何かあった?」

どうして、わかってしまうんだろう。
クロエさんも、姫野さんも。

本当は抱えているものをすべて吐き出して、楽になりたい。
だけど決して、姫野さんに話すような事じゃない。

「いえ、何もないです」

「大丈夫、無理に聞き出そうとは思ってないよ。
聞いちゃってごめんね。
さ、映画見ようか」

姫野さんにも見透かされてしまった。

この夏の間に、笑顔を作るのは下手になってしまった様だ。
律さんおすすめだというホラー映画は、最初はあまり頭に入ってこなかった。
クロエさんの事ばかり考えてしまって。

だけど、後で姫野さんに感想を聞かれた時に何も言えないのもまずい。
そう思って、どうにか映画に意識を集中させた。


その映画は、怖さを売りにしているものではなく、恋愛も絡んでいる悲しいストーリーだった。
なんてタイミングが悪いんだろう。
ただ怖いだけのストーリーだったら良かったのに……。



「アオイちゃん、付き合ってくれてありがとう。
そんなに怖くはなかったね。
もっとグロテスクな映画かと思ってた」

「そうですね。
それにしても……どうして、恋愛って…こうなんでしょうね」

「こう、って?」

姫野さんがライムを抱きながら聞いた。
その姿を見たレモンは、他の部屋へと行ってしまう。

「誰かが誰かを好きになれば、その時点で別の誰かは失恋したようなもので、哀しい思いをするってことなんですよね…。
両想いなら、本人達は幸せになれるけど……。
その二人のどちらかを好きだった人達は全員、失恋するわけで…」

二人の人間は笑顔になって、他の人は全員、ただ哀しむ。
それは仕方がない事だけれど……。

自分はずっと、哀しむ側でいるのかもしれない。

「確かにそうだね。
でも、片思いしてた側も…ある意味では幸せじゃないかな」

「ある意味では?」

「好きになれる人がいるって、僕はすごいことだと思うよ。
苦しかったり、哀しかったりもするだろうけど、僕は誰かを好きになれる事が嬉しい。
例えば……アオイちゃんが、クロエくんを好きでもね」

「え?」

姫野さんはにっこりと微笑んだ。