記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜

 
 翌朝、妻より先に目覚めたディートリヒは頭を抱えていた。
 隣で眠るカトリーナは薄衣一枚の姿で寝息を立てている。
 昨夜、一度果てると体力の限界だったのか、カトリーナは気絶するように眠った。
 情事の後始末をして、ディートリヒも隣に横たわり、カトリーナを抱き寄せて幸せな気持ちのまま眠った。

 そして朝目覚め、己のやってしまった事を改めて自覚して自己嫌悪に陥ったのである。

(あんなに手を出さないと誓ったのに)

 記憶が無いカトリーナに手を出すまいと決心したが、当のカトリーナから誘惑され、あっさり陥落した自分が情けなかった。
 しかも相手は怪我人。そんな相手に手を出してしまった自分を恥じた。

 知っている。
 カトリーナが自分との婚姻を命じられた時、逃げ出した事。
 分かっている。
 記憶が戻れば今のままではいられないだろう。

 だからこそ、彼女を丁重に扱い、いつ記憶が戻っても良いように白い結婚を通そうと思ったのだ。
 例え嫌われていても、束の間一緒にいた思い出があればこの先十分だと思った。

 とは言え手を出してしまったものは仕方無い。
 まさかカトリーナから誘惑されるなど夢にも思わなかったのだ。
 未だ夢の中にいる妻の顔を見ながら、束の間の幸せを堪能しようと思い直す事にした。


「……ん……」

 衣擦れの音がして、ディートリヒはハッとした。

「起きたか。気分はどうだ?」

「あ……えと、大丈夫……です」

 少しずつ覚醒したカトリーナは、昨夜の事を思い出したのかもぞもぞと掛け布で顔を隠した。
 その仕草が可愛くて愛おしくて、ディートリヒは再び臨戦態勢になるところだったが流石に自重した。

「身体は痛くないか?」

「少し、痛いくらいですが、平気です」

 掛布に入り込んだその声はくぐもっているが、口調ははっきりしていた。

「今日は君の事を話そうか。とはいえ私は午前中は騎士団に行かねばならないから昼過ぎからになるが」

「騎士団……?ですか?騎士様でしたの?」

「ああ、これでも副団長をやっているよ」

「どうりで、この傷……」

 布団の中からカトリーナが手を伸ばす。
 触れた先にあるのはディートリヒの顔の傷だ。
 触れられた瞬間、ディートリヒの肩が跳ねた。

「……っ、すみません……」

「いや……大丈夫だ」

 ディートリヒがカトリーナに記憶が無いと実感した瞬間だった。
 もし記憶があれば、この傷に触れる真似などしないだろう。
 社交界において顔の美醜は分かりやすい判断材料だ。
 見目麗しい異性に惹かれるし、逆は嘲笑の的になる。

 カトリーナはこの傷を嫌っていた。
 美貌を武器としている彼女からしたら顔に大きな傷があるなど許せないのだろう。
 話題を逸らしていたのも、見たくないからだったのかもしれない。

「記憶が……無いんだな……」

 ぽつりと漏れた言葉はカトリーナの耳に届き、その言葉に申し訳なさげに微笑んだ。

「とりあえず、朝食にしよう。歩けるかい?」

「あ、はい、………っぁ」

 立ち上がろうとして、カトリーナはある事に気付き顔を赤らめた。

「あの……すみません……………どなたか、女性の方を呼んで……」

 消え入りそうな声で訴える。

「どこか悪いのか?やはり医者を呼ぶか!?」

「いえ、いえ、そうでは無くて!あの……着替えを…」


 昨夜、無事に初夜を済ませたカトリーナは未だ寝衣のままだった。ディートリヒに至っては上半身は何も纏っていない。
 その事に気付いたディートリヒは、顔を真っ赤にした。その様は湯気が出そうな程だった。

「す、すまない!侍女を呼ぼう。食事もここに運ばせる。君は待っててくれ」

 慌ててベッドから降り、脱ぎ捨てた夜着を羽織る。
 ちらりとその様子を見たカトリーナは、大きな背中と引き締まった筋肉を見て再び掛布を被った。


 その後朝食を終え、騎士団に向かうディートリヒを見送るとカトリーナは侍女の手を借りながら自室に引き上げた。
 念の為もう一度医師に見てもらおうと手配され、診察を受ける。

「ふむ。あまり気負わずに。心穏やかにお過ごし下さい」

 医師は丁寧に診察し、異常なしと伝え帰って行った。

「奥様大丈夫ですよ。旦那様はじめ、私達が着いてますからね!」

「これから宜しくお願いしますね」

 昨夜湯浴みを手伝った二人の侍女はエリンとソニアと名乗りにっこり笑う。少しでも奥方に安心してもらおうと思っていた。
 カトリーナも一人でいるより誰かがいてくれた方が心強いと思い、侍女に頼る事にした。


 昼過ぎにディートリヒは帰宅した。

「ただいま戻った。カトリーナ、大事ないか?」

「おかえりなさいませ。大丈夫です」

「早速だけど、話をしようか」

「お願いします」

 ソニアにティーセットを準備してもらい下がらせてからディートリヒは説明した。

「君の名前はカトリーナ・オールディス。オールディス公爵の娘だ。オールディス公爵はここアーレンス王国の宰相で、現在国王陛下と諸外国に視察に行かれている」

「カトリーナ……オールディス……」

「そして君は、アーレンス王国王太子の婚約者だった。……破棄されてしまったがね」

 改めて自分の身の上を聞かされたが、カトリーナに実感は無い。
 王太子の顔を見て、隣にいる女性の腰を抱いているのを見てざわついた気はしたがすぐに忘れた。
 今ではその程度のものだったのだろうと思っている。

 それからどの程度記憶が失われているかの擦り合わせをした。
 どうやら失ったのは人間関係の部分で、文字は書けるし日常生活にも問題無い事が分かった。

「それで……君と私は王太子の命で結婚させられた。反対はしたが、力及ばず、すまない。
 婚姻届は既に貴族院に提出されたあとだった」

「そのあたりは大丈夫です。あの王太子よりあなたの方が良い人だと思います」

 にこりと微笑んだカトリーナを見て、ディートリヒは複雑な気持ちだった。

(記憶が無いからそう言ってくれるが……)

 記憶が戻れば、どういう反応をするだろうかと考えるだけでつきりと胸が痛む。

 いっそのこと、記憶が戻らなければ。

 それが頭を過ぎって頭を振った。

(だめだ。それは……)

「……旦那様のお名前はディートリヒ様でよろしいですか?」

 カトリーナに問われ、柔らかく微笑む。

「そうだ。ディートリヒ・ランゲ。伯爵の位を賜っている。王国騎士団の副団長でもある」

「それでしたら、一つ、間違っておりますわ」

「えっ?」

 間違いに心当たりが思い浮かばず、ディートリヒはきょとんとした。

「私、カトリーナ・ランゲになりましたのよね?」

「……っ…」

 何気ない言葉はディートリヒの心臓を跳ねさせた。
 確かに二人は望まぬ形とはいえ結婚したのだ。
 二人の場合、カトリーナがランゲ家に嫁いだ形になる。なので『カトリーナ・オールディス』ではなく、正しくは『カトリーナ・ランゲ』になった。
 カトリーナの主張は正しい。

「そっ、そうだな、うん。君は、カトリーナ・ランゲだ」

 ディートリヒはその名を噛み締めた。
 初夜を済ませたのに。
 今更ながら結婚したのだと実感が湧いてくる。


 もし、もしもカトリーナの記憶が戻ったら。
 嫌がるだろうか。再びオールディスに戻りたいと言うだろうか。
 ……自分はその時、手放せるだろうか。

 何度考えても、答えは出ている。


 例え戻っても、戻らなくても。

 ディートリヒの気持ちは一つなのだ。
 
 初夜が明け、気を取り直して騎士団へ向かうディートリヒ。
 馬車の中でも彼の葛藤は続いていた。

 カトリーナにとっては嫌う相手との婚姻。
 だが彼にとっては密かに想う相手との婚姻。
 記憶が無いカトリーナに騙し討ちのように初夜を済ませてしまった事に自己嫌悪していたのだ。

 元来のディートリヒは騎士団の中でも真面目な方で、娼館の利用も数える程。
 良い年の男ではあるが身を崩す程溺れはしない、理性的な男である。
 よほどの時に付き合いで行く事はあっても、酒だけを嗜み行為はしない。
 騎士団に入団したての頃、先輩に誘われて一度だけ途中までの行為をした事もあったが、虚しさを感じた彼は一晩買っただけの金を置いて帰った。
 それ故彼は娼館では楽に稼げる太客として娼婦の間で心待ちにされていたのだが滅多に行く事は無かった。


 それだけ彼は身持ちが堅かったし、気持ちの伴わない行為が好きではなかった。
 カトリーナと出会ってからは付き合いの為の娼館に行く事も無かった。

 そんな彼の理性を一瞬にして弾き飛ばしたのがカトリーナだった。

(すごく、柔らかくて、ふわふわで……)

 昨夜の事を思い出すと途端に身体が熱くなる。まるで初めてを覚えた若者のようだと苦笑した。
 だがこれきりにしようと。
 いくら誘惑されたとはいえ、記憶が戻った時の事を考えればこれ以上手を出さない方がいいだろうと、ディートリヒは頭を振った。


「よぉ、昨夜は大変だったな」

 団長執務室に入ると出迎えたのは騎士団長であるディアドーレ侯爵だった。
 剣を振るうより執務のほうが性に合ってると、訓練はディートリヒに任せている変わり者だ。

「団長……、その…」

「おめでとう、になるのかな?」

 ディアドーレ侯爵はにやりと笑う。彼もまた、ディートリヒの想いを知る人物であった。

「自分は……奇跡のようですが、彼女にとっては…」

 目を伏せ顔を歪ませるディートリヒを見て、侯爵は「ま、そうだろうな」と小さく溜息を吐いた。

「だが婚姻届は受理されてるんだろう?」

「……王太子殿下が提出されたようです」

 騎士団へ寄る前に貴族院にて確かめた。
 もしも受理される前ならば撤回を求められるかもしれない、と。
 だが王太子命令により朝一番で受理され、ディートリヒとカトリーナは正式に夫婦として届けられていたのだ。

「ならば腹を括れ。お前の傷は嫌われる一因かもしれないが、誠実な態度で接していればそれなりの関係は築けるだろう」

 ディアドーレ侯爵の言葉にディートリヒは俯いた。
『それだけでは嫌だ』と思ってしまうのだ。

 こんな事になるまでは遠くから見ているだけで良い、守れるだけで良いと思っていた。
 だが自分だけに見せた表情を、これからも見せてほしいと願ってしまった。
 そしてできれば、愛し合える関係に──

 そこまで思考してディートリヒは自嘲した。

 いつの間に欲深くなってしまったのか。
 記憶が無いから拒否されなかったが、記憶が戻ったらどうなるのだ、と。
 あの冷たい眼差しを思い返す。
 ──やはり誠心誠意謝ろう。
 そして今夜からは別々の寝室で寝よう。
 たった一度きり、幸せな温もりを貰えた。それを思い出にしようと、決意をしたのだ。

「今日は書類を提出しに来ただけですので、少し身体を動かしたら帰ります」

「失礼しました」と言ってディートリヒは団長室を後にした。

「もっと欲深くなれよ、ランゲ伯爵」

 残されたディアドーレ侯爵はぽつりと呟いた。




 帰宅した後にディートリヒとカトリーナは話し合い、その後入用の物を買い出しに出掛けた。
 昨夜使用した分は客用(主にディートリヒの姉が来た時にと買っておいたもの)だったので、買う物はカトリーナ自身の服や小物などが主な物だ。
 ドレスなどはディートリヒが見立てたり店員の意見を参考に既製服を購入した。

「好きなように仕立てても構わないよ」

 そう言ったが、カトリーナはふるふると横に振った。

「好みが分からないので……仕立てるのは記憶が戻ってからにします」

「……そうか」

「だんなさまはどんなものがお好みですか?」

「私?私は……君が着るなら何でも…」

「そっ、そう、ですか……」

「あ、ああ……」

 お互い照れながら、顔を赤らめながらの会話は周りからすれば甘くなる。
 店先で二人だけの甘い空気を出す夫婦に、店員は空気になるように徹していた。

(幸せだな……。しっかり記憶しておこう)

 日常の、何でもない事を胸に留める。記憶が戻ればこういう事もなくなるかもしれないと思ったからだ。

 晩餐後、ディートリヒはカトリーナに告げた。
『君の記憶が戻るまで閨ごとはやめておこう』と。
 カトリーナは一瞬目を見開き、小さく頷いた。


 だがその夜、湯浴みを終え寝室にやって来たディートリヒは驚愕した。何故ならベッドに腰掛けていたのは先程閨事はやめておこうと言って承諾したはずの妻だったからだ。

「カッ、カトリー、ナ……?な、んでいるのカな?」

「ふ、夫婦、ですから、やっぱり同じ部屋で寝たいな、って」

 薄い夜着に身を包み、指をもちもちさせながらチラチラと見る様はディートリヒの理性をかすめ取って行く。

「カトリーナ……その。君に無体な事はしたくないんだ。だから、君の……部屋で…その」

 意図的に見ないようにして言葉を絞り出す。見たら最後だと己に言い聞かせて。

「独りは……寂しいのです…」

 ぽつりと呟いたその言葉は、小さくディートリヒを跳ねさせた。

「朝、あなたが隣にいて、温かくて。記憶も何も無いのに、嬉しくて」

 ごくりと唾を飲み込む。

「そ、それに……貴族の結婚は、後継をもうけるのも、ありますし……」

「私はその為に君を抱きたいわけでは無いよ…」

 ディートリヒは少し悲しげな目をしてカトリーナを見た。

「義務で、したわけじゃないんだ。君を……君の事が好きだったから、だから嬉しかったんだ」

「だんなさま……」

「今だって君と一緒に眠りたい。だが、君の身体の事もあるし、それに……」

 そこまで言うと、カトリーナはディートリヒの手にそっと自分の手を重ねた。

「私も、あなたと一緒にいたいのです……」

 そう言って、えいっと口付けられる。
 ディートリヒはいきなりの事に驚いた。

「だ、だから、誘惑しますっ」

 顔を赤くして、カトリーナは宣言する。
 拙い口付けによる攻撃は、ディートリヒには会心の一撃であった。
 どんな敵よりも手強いと、その時彼は悟った。


 ブツリと何かが切れた音がする。


「カトリーナ、俺は反対したぞ。煽ったのは君だからな」

「えっ」

「俺は君には勝てないよ」

 そうして口付けは深くなる。
 結局彼の誓いはアッサリとカトリーナに突破され、新婚夫婦の夜は甘く続く。

 続く度溺れ、手放せなくなる。
 卑怯でも、ずっと一緒にいたい。

(記憶が戻っても、君を愛したい)

 疲れ果て眠ってしまった妻を抱き寄せ眠りにつく。

 そして翌日再び悩み、夜の誘惑に勝てず、数日繰り返すうちにとうとう彼は陥落した。
 開き直ったと言ったほうが早いのか。


 ともあれ、そんな攻防が、これからのディートリヒに与えられた試練となるのだが。

 それすら今の彼には幸せの一助となるのであった。
 
 それからの二人は、誰から見ても仲良し夫婦だった。日中はぎこちなく触れ合い、慈しみ合う夫婦。
 夜は情熱的に愛し合う夫婦。

 貴族としては珍しいかもしれないが、理想的な夫婦。

 カトリーナからすれば、記憶が無いが為に頼れる者が夫しかいないから、というのはあるが、すっかりと自身を守ってくれる存在に心を許している。

 けれどもディートリヒにとっては砂上の楼閣のように儚さも感じるものでもあった。
 いつかは記憶が戻り、その瞳が再び嫌悪に染まる日が来るかもしれない。
 だが今はただ、妻の瞳には己に対し安心しきり、寄り添い、優しさだけが含まれている。
 紛れもない、愛情だけがそこにあった。
 それは彼にとって幸せであり、奇跡とも呼べるものだった。

 いつ、記憶が戻るかもしれない。戻らないかもしれない。それゆえ日々を大切にしようと改めて思うのだった。


「旦那様の事を教えて頂けますか?」

 休日にサロンでお茶を嗜んでいると、カトリーナがディートリヒに問うた。

 窓から入り込む陽の光に照らされ、ディートリヒの目に妻の笑顔が眩しく映る。
 自分に興味を持って貰えるとは、と戸惑い、ディートリヒは姿勢を正した。

「私の事……と言うと、何から話そうか」

 ディートリヒの女性経験は少ない。
 なのでこういう時に気の利いた事が言えない。

 以前婚約者はいるにはいたが、貴族として必要最低限の交流だった。積極的に交流しよう、というものは無かったのだ。
 騎士団に入団し日々を鍛錬に費やしていたせいでもあるが、さほど興味が無かった。
 だから愛情を育むには至らず、顔に大きな傷ができた時、互いに容易く手放してしまえたといえるだろう。

 だがカトリーナに対しては違った。
 何から話せばいいか、頭の中が真っ白になるくらいには緊張するし、余裕も無くなる。
 年上なのだし、リードしなければと思う程格好がつかなくなる。

 今でさえ全てを知ってほしい気持ちと、それを聞いて嫌われたくない思いが混ざり彼の中では混沌としていた。

 ぐるぐると思考を回すディートリヒの様子は、カトリーナからは微動だにせずに固まっているように見えた。そんな夫の様子に、くすりと笑う。

「旦那様の職業は……先日聞きましたわね。
 ……では、ご家族の方を教えて下さい」

「家族……。そうだな。……両親は数年前に馬車の事故で他界したよ」

「……っ、すみません、私……」

 カトリーナの顔色がみるみるうちに悪くなる。

「いや、構わない。もう、ふっきれているから、大丈夫だ」

「そうですか……。あの……お悔やみ申し上げますわ」

 カトリーナは頭を下げる。ディートリヒが慌てて頭を上げるように言うと、カトリーナの瞳は少し潤んでいた。両親の死を悼んでくれた事がじんわりと胸に広がり、ディートリヒは温かな気持ちになった。

「あと、姉と弟がいる。姉は他国に嫁に行ってるし、弟は騎士団の寄宿学校に入ってるから二人とも滅多に会わないな」

「そうなんですか。……寂しくはありませんか?」

 その言葉にディートリヒは瞬いた。思案すると、寂しいと思った事は無かったように感じた。

「いや、……そうだな。……使用人たちが何かと気にかけてくれていたから、寂しいとかは無かったな」

 ランゲ伯爵家の使用人たちはみな主思いだった。
 先代の頃からいる執事のハリー、元乳母で現在侍女長のマルタを始めとした使用人たちは主に寄り添い過ごしてきたのだ。

 ディートリヒが婚約を解消された時も、その後人知れず失恋した時も。
 変わらない態度で、だがさり気なく慰めた。
 だから彼は家族がいなくなっても寂しいと感じる事は無かった。

「それは良かったです。……私は……いつも独りで……」

 言いかけてカトリーナは止まる。
『いつも独り』
 その言葉がするりと出てきたことに驚いたからだ。
 ディートリヒも息を飲む。

「記憶が……?」

「いえ、戻ってはいません。……いつも、独り、だったのかな、私……」

 自分の事が分からぬという事が不安になり、カトリーナは俯いた。だが。

「君を独りにはしない」

 力強い言葉に顔を上げると、ディートリヒはカトリーナを真っ直ぐに見ていた。

「これからは私がいる。何があっても、君を手放す事はしないと約束する」

「だんなさま……」

「ずっと、好きだったんだ。諦め悪くてすまない」

 熱のこもった瞳に見つめられ、カトリーナの心臓が跳ねた。反らせぬ視線に釘付けになる。だが恥ずかしさが限界に来て、カトリーナは必死の思いで顔を下に向けた。

「いつ頃から私を好きになって下さっていたのですか?」

 相変わらず鼓動は早い。ディートリヒが自身を好きでいてくれて、そして守ってくれる。それがカトリーナにとってくすぐったかった。

「いつから……、そうだな。自分の気持ちに気付いたのは君のデビュタントの夜会だった。私は警護担当で、……君は王太子殿下のエスコートで入場してきた。
 その時婚約が発表されたから、気付いたと同時に失恋したんだ」

 あの時を思い出すと胸に刺すような痛みが走る。
 自覚しても、手を伸ばせない事に絶望したあの時の事が、ディートリヒの中に苦い思い出として残っていた。

「その前から、君の姿に勝手ながら励まされていたんだ。この顔の傷で周りから蔑まれていたからね」

 苦笑しながら自身の傷を撫でた。
 その様を見ていたカトリーナは、眉根を寄せ俯いた。

「どうして……。あなたは騎士様なのに……」

「戦争で得た名誉の負傷も平和な場所ではただのキズモノになるんだろう」

 今はこうして痛ましく見てくれている貴女も、きっとそうした思いがあったのだろうというものをディートリヒは飲み込んだ。
 今の彼女に言っても分からないからだ。
 全てを忘れ、頼れる者が己だけだから、こうして怖がらずに真正面から対峙してくれているだけだ、と言い聞かせる。

「……私は……同じ事をしていたのかしら」

 ぽつりとこぼれたカトリーナの言葉に、ディートリヒは拳を握った。
 〝同じ事〟とは、〝彼を蔑む態度があったか〟と言うことであるが。

「……いや、君は……話題を反らしてくれていたよ」

「本当ですか?」

「ああ、……だから、諦めがつかなかったんだ」

 ずっと不快な表情のままでいられたら嫌われていると踏ん切りもついた。だが、ある時を境に表情がやわらぎ何か言いたげに見られる事もあった。
 そこに恋情などは無くても、申し訳無い気持ちは伝わって来た為、彼女を、彼女が治める国を守ろうと決意したのだ。

 ディートリヒにできる事は剣の道を行く事。
 側にいる事ははばかられた為近衛の話は辞退した。
 隣国に攻め入られた時の様に、国を守る事がひいては彼女を守る事に繋がると思い、日々鍛錬を欠かさなかった。
 戦力は多い方がいいと、後進を育てるのにも注力した。

 唯一人を想うだけで強くなれた。

 ただ、ディートリヒとて伯爵、貴族としての義務がある。
 いずれは誰かと結婚し、子をなさねばならぬ時が来る。
 今はそんな気になれずとも、いつかは。そう、思いつつずるずると引き摺り今に至るまで浮いた話も無かった。
 独り身でいたのは顔の傷だけのせいではなかったのだ。

「私を……想って下さりありがとうございます。あの時……、目覚めて、独りでは無い事がとても心強かったのです。
 王太子殿下とあの女性は……、何だか嫌な感じがして胸がざわざわしていたので」

 カトリーナは胸を押さえ、ディートリヒに微笑んだ。
 金の髪がさらりと揺れる。
 その眩しさに、ディートリヒは目をそらした。

「私はそんなに良い人間では無いよ……」

「え?」

 記憶が無いから、こうして向き合える事につけ込んでいる。誰にも頼れない事をいい事に囲い込んでいる自覚があった。

 記憶が戻ったら。

 この幸せはおそらく崩れてしまう。

 だから思案せずにはいられない。

 こうして向き合い、話す事ができている今は現実なのだろうか。


 自分に向けて欲しいと願って止まなかった笑みを見て、ディートリヒは願った。


『夢なら醒めないでくれ……』
 
「奥様の御髪、きれいですわ」

「本当にお肌がつるつるでお化粧のしがいがあります」

 カトリーナの支度をするのは、奥方付きになった二人の侍女だった。

 大人びた女性はソニア。カトリーナの髪を梳いている。
 鼻歌でも歌い出しそうにご機嫌に今日の衣装を見繕っているのはエリン。

 カトリーナがランゲ伯爵邸に来たときに湯浴みを手伝った二人はそのまま奥方付きの侍女となった。

『記憶が無くてご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします』

 心細く笑うカトリーナに、二人は戸惑いつつも了承した。

 二人とてカトリーナの噂は知っていた。
 目下の者に辛くあたる性悪な女性。
 それが他家の侍女仲間に拡がっていたカトリーナの評判だった。
 だが雇い主が心に秘めた想いを抱いた女性という一面もあった為、実際に見てから判断したかった。

 以前はどうあれ、今は記憶が無い。その為か態度はしおらしく、いつも不安そうにしている。
 そのためどうにも毒気を抜かれ、噂通りとは思えないのだ。

 今だって少し褒めたくらいで顔を赤らめ照れている。誰よりも美しいと評判の女性がそんな仕草をすれば、どんな男も惚れてしまうんじゃないかと二人は思いながら支度を進めた。

 時折「そんな事、ないわ……」と遠くを見るような表情をする事が気にはなるが、カトリーナはすぐにハッとして取り繕うのだ。
 そんな危うい存在の奥方を、侍女二人は放っておけなかった。

「奥様が心穏やかにお過ごし頂けるように努めて参りますね」

「……ありがとう、二人とも」

 照れたように柔らかく笑むと、エリンとソニアは目を合わせて微笑んだ。


 カトリーナのケガは良くなってはいるが、行動範囲はもっぱら屋敷の中。
 暇はたっぷりあるので少しでも記憶の欠片を取り戻そうと王国の歴史書や市井の話題が載った書物を読んでみるがイマイチぴんと来ない。

「五感に訴えてみてはいかがでしょうか」

 触れる、嗅ぐ、味わう、聞く、見る。
 全てを手探りで感じるがやはりぱっとしない。

「……君は記憶を取り戻したいのか……?」

 捨てられた子犬のような顔をしたディートリヒを見る度胸の奥がざわつく。
 快とも不快とも言えないそれは、カトリーナを不安にさせた。

「あなたが好きだと仰ってくれた私の方が良いかと思って……」

「記憶が無くても……好きだよ」

「でも……」

 なおも言い募ろうとした妻を、ディートリヒは優しく抱き締めた。

「君がこうしていてくれるだけで幸せなんだ。
 ずっと、願っていたから。
 どんな君でも、変わらない」

「だんなさま……」

 躊躇いがちに、だが優しく。
 ディートリヒはカトリーナの頬に触れた。

「愛しているんだ」

 懇願するような瞳に、カトリーナの胸はざわついた。

『ワタシヲアイスルヒトナンテイナイ』

 一瞬浮かんで消えた言葉を、カトリーナは拾わず見過ごした。なぜそう思うのか分からなかったからだ。

『ダレモワタシヲアイサナイ』

 再び浮かぶ言葉を振り払うように、夫を抱き締めた。

(どうして……こんなにも不安になるの)

 夫からの愛を素直に受け取れないもどかしさで、カトリーナは何も言えなかった。
 そんな妻を、ディートリヒは優しく抱き締める。
 ここにいるのを確かめるように。
 確かにある温もりを、忘れないように。

(記憶を取り戻したい)
(どうかこのままで……)

 二人の相反する想いは、互いに伝えられないまま。

 ただ、今だけは温もりを、幸せを享受していたかった。


 ディートリヒは妻の実家であるオールディス公爵邸へ手紙を送っていた。
 公爵不在の中、婚姻してしまった事、記憶が無いまま初夜を迎えてしまった事を詫び、伯爵邸での様子などを綴った。

 元来机仕事が苦手な為、実力はあれど副騎士団長の地位に甘んじているディートリヒであるが、こればかりは思考をフル回転させてしたためた。
 オールディス公爵に誠実な婿と思ってほしかったからだ。

 国王陛下と共に視察に行き、未だ戻ったという知らせは無い。おそらく婚約破棄騒動は王宮の者が使いを出しているだろうが、帰ってくるまでにはまだ時間を要するだろう。

 それまでにカトリーナの記憶は戻るだろうか。
 ──もしも、戻ったとしたら。

 幸せなはずなのに、心の底から喜べない。
 今更手放すなど考えられない。

 だが騙し討ちのような歪な関係に、段々と心苦しさを感じてしまう事もあったのだ。

 元来誠実で優しさの塊のような男。
 戦場では敵から悪魔のように恐れられても、恋した相手から嫌われる事を恐れる臆病さもある。

 夢のような日々を、愛しさであふれる想いを受け取って貰える日々がどうしようもなく幸せで、どうかこのまま──と願ってしまう。


 一方のカトリーナは、何としても記憶を取り戻したいと思っていた。
 今の関係は幸せだが、どこかよそよそしいものでもあった。

 夜、閨ごとはするがディートリヒが満足しているとは思えなかった。
 優しく労るようなものはカトリーナの身体を気遣って、ではあるけれど、どこか遠慮しているように感じてもいたのだ。

 その腕の中で眠る幸せは自分を満たすが、身体を繋げても心は繋がっていないような気がしていた。

(早く思い出さなくては)

 そう思う度頭の中にモヤがかかる。
『このままでいいのでは』という気持ちと『早く思い出したい』という相反する気持ちが、カトリーナを苛んだ。

 思い出せば何かが変わる。

 自分の事すら忘れているのだ。
 性格だって変わっているかもしれない。
 好みも、何も、分からない。

 だが本当の意味で夫と向き合う為にも、カトリーナは記憶を取り戻したかった。


 それが、二人の仲を変えるものだとしても。
 
 その後も、ディートリヒとカトリーナは二人仲良く過ごした。
 あまりにも二人が仲良い為、使用人達は温かく見守った。

 ディートリヒは、カトリーナにこれでもか、と愛情を注いだ。
 仕事が終われば真っ先に帰宅し、出迎えた妻に口付ける。

 以前のディートリヒは仕事に打ち込んでいた為夜遅くの帰宅がほとんどだった。
 結婚前と後との変わりように、使用人の誰もが戸惑ったが次第に慣れて今では皆が夫婦を祝福し支えていた。

「ほんっと、お二人仲良くて羨ましいわぁ」

「旦那様もずーっと奥様に張り付いてらっしゃるものねぇ」

「あー、いいなぁ。私もお二人みたいに愛し愛される結婚がしたいわぁ」

 メイド達はきゃいきゃい言いながら洗濯をする。
 そんな彼女達を呆れ顔で嘆息しながらも、まとめ役である侍女長は仲良く手を繋いで庭を散歩する夫婦に優しい眼差しを送った。


 家を取り仕切る執事も、結婚当夜の事を思い出す。

『王太子の命令で婚姻させられた』

 主の言葉に王宮に付き添っていた侍従を始め集まった使用人達が息を飲んだ。

『彼女……カトリーナ嬢は記憶が無い。とても心細いと思うから、みな良くしてやってくれ』

 そう言うなりがばりと頭を下げられ、使用人達は一斉に慌てた。
 仕事一筋の主が、女性を、しかも絶世の美女を横抱きにして連れ帰った事が信じられなかったのに、その女性を慮って頭を下げる主を見て、誰も嫌と言わず、気を引き締めた。

 何より主の、その女性を見る時の目が優しく穏やかである事から執事はある予感がしていた。
 だから精いっぱい奥方に尽くそうと決心したのである。


 ちなみに、初夜にカトリーナが知識を持っていたのは侍女からの入れ知恵だった。
 使用人を集めて『カトリーナには記憶が無い』と説明はしたが、湯浴み担当の侍女はその場にいなかった。
 その時に侍女からそういう事になるだろうと説明されたらしい。その事を知ってディートリヒは脱力はしたが怒る気にはなれなかった。
 最終的に理性を飛ばしたのは自身の弱さだと思ったからだ。
 それに、こんなハプニングでも無ければ結ばれなかっただろう、と複雑な心境だった。


 ディートリヒは休日もカトリーナに寄り添っていた。
 記憶を取り戻す方法を探りながらも、時折寂しそうにする。
 そんな時、カトリーナは決まってディートリヒを抱き締めるのだ。

「こうして包まれれば少しは安心しませんか?」

 はにかみながらぎゅっと。
 ディートリヒからすれば弱い力ではあるが、理性を飛ばすには充分な力だった。


 ある日、二人は庭で散歩をしていた。
 カトリーナの足も随分良くなり、運動兼ねて散歩する事が増えた。
 ディートリヒとしては横抱きできる理由が無くなるのは残念だったが、代わりに手を繋ぐ事ができた為これもまた良しとした。

 ふと、きれいに咲いた花の前でカトリーナは立ち止まる。

「以前の私は、どんな花が好きだったのでしょう……」

 ディートリヒは答えられなかった。
 今まで接点が無かったから仕方無い。
 カトリーナが何が好きで、何が嫌いか、どんな事に興味があり、どんな物に心を動かすのか。
 知りたくても知れなかった。

 唯一、嫌いなものは醜い傷がある自分だ、などとは言えない。

「……これから、好きな花を見つけるのも良いだろう」

「……そうね。この花なんかどうかしら」

 花壇に植えられた白い花。
 カトリーナに指されたその花を手折り、ディートリヒが妻の髪に差すと、柔らかく笑った。

「よく似合っている」

「ありがとうございます……」

 それは、紛れもない幸せの時間だった。


 夜は毎晩妻を腕に抱いた。

 何度も何度も、丁寧に愛した。
 何度も愛を囁き、睦み合った。
 夜毎応えてくれる妻に、ディートリヒは自分でも呆れるくらい欲情した。

 こんな自分に惚れてくれているわけないと言い聞かせながらも受け入れてくれる妻を手放せなくなるくらいには溺れていた。


 このまま記憶が戻らなければ。
 何度もそう思った。

 オールディス公爵家からは取り急ぎカトリーナの父親であるオールディス公爵からの婚姻の了承が届けられた。陛下と視察から戻るのはまだ先になると言う。

 戻って来たら連れ戻されるだろうか。
 公爵からは殴られる事も覚悟しておかなければ、と思った。

 薄氷を踏むような、いつ壊れてしまうかもしれない頼りない毎日が幸せだった。

「だんなさま」

 カトリーナが綻ぶ笑顔で呼ぶ。

『まぁ……なんて醜いの』

 記憶の中のカトリーナが侮蔑の眼差しを送る。
 以前の彼女が重なり、頭を振る。

(このまま、記憶が戻らなければ)

 願ってはいけないのは分かっている。
 分かっているが、ままならないものだった。

「……?だんなさま、どうなさいました?」

 今にも泣き出しそうなディートリヒに膝枕をしながら、カトリーナは心配そうに尋ねた。

「いや……幸せだな、と思っただけだよ」

 妻の頬を撫でる。
 カトリーナは戸惑いながら、夫の手の温もりを享受する。

 穏やかに、優しく。
 二人の仲は誰が見ても愛し合う夫婦にしか見えなかった。


 ──そんな幸せな毎日は、一ヶ月ももたなかった。
 薄氷は割れ、砂上の楼閣が崩れ去る。


 その夜、夫婦の寝室のベッドに二人で横たわっていた。
 いつものように妻を愛していると、時折妻が眉根をしかめ、顔を強張らせ、信じられないというような表情をしている。

「今日はやめておくか?」
「ええ……すみません……」
「流石に毎晩だったし、たまには良いさ」

 妻の額に口付け、その日は腕に抱いて眠るだけにした。それだけでも満たされた。


 カトリーナは自分の中にある変化に気付いていた。

 思い出してはいけないもの。
 思い出せば今が崩れてしまう予感。

 漠然とした不安で眠りは浅い。

 この腕の温もりになぜか違和感を覚える。
 幸せなはずなのに、何かが拒絶する。

『ドウシテアナタガ』

 言いようの無い怒りが、絶望が襲って来ている気がした。
 そんな感情を持つなど今のカトリーナには考えられない。

 思わず隣で眠る夫の胸に縋り付くと、眠っているはずの夫の腕が背中に回る。

 安心感と、……拒絶。

(こわい……、どうして……)


 結局、眠りについたのは明け方近くになってからだった。
 
 翌朝。

 女の悲鳴でディートリヒは目が覚めた。
 騎士としての危険を察知する能力でがばりと起き上がる。

 悲鳴の主はすぐ隣にいたカトリーナのものだった。
 ベッドの端に寄り、ディートリヒをおぞましいものでも見るようにがたがたと震えている。

「な、なぜ私、なぜ……」

 昨夜までの態度とまるで変わった様子に、何が起きたのか瞬時に察してしまった。

「…私と結婚したのだ」

 ついにこの時が来たと、ディートリヒは顔を強張らせた。

 カトリーナは、記憶を取り戻したのだ。
 瞳は安心しきったものから、怯え、絶望を含むものになっている。

「出て行って!!私が貴方と結婚……?あり得ないわ!!
 今すぐ無効を申し立てます!!」

 昨日までの妻と180度違う態度。

 柔らかく笑っていた顔は怒りに満ち、愛を囁いた口からは嫌悪が紡がれる。

 いつか来ると覚悟はあったが、それでもあからさまに拒絶されるとさすがのディートリヒも堪えた。

「無効にはできない。君とは初夜を済ませているし、もう何度も……。
 すまないとは思っているが、離縁はしない」

「なっ……」

「王太子の命令だった。その場で婚姻届にサインした」

「そん……な……」

 青褪め、唇を震わせる彼女を見ていると、自分の幸福を優先させてしまっていたと自嘲する。
 記憶が戻らなければ、とどこかで思ってしまっていた事に罪悪感が芽生えた。

 元々理不尽とはいえ王太子命令での結婚だ。
 それは言い訳で、ただ、自分が離したくなかったのだ。

「嫌われていても良い。そばにいてほしい。
 君を愛しているんだ」

 ディートリヒは妻に告げた。
 カトリーナはその言葉にぴくりとしたが、嫌悪は消えない。
 妻に手を伸ばそうとして、その表情を見て。

 力無く俯き、やがてベッドから降りてディートリヒは寝室をあとにした。
 カトリーナは顔をしかめたまま、その日から部屋にこもりきりになった。

 うっすらと耳が赤くなっているのには気付かないままだった。


 カトリーナの要望で、実家の公爵家に連絡を取ったが、公爵家からの回答は「引き取らない」だった。
 父親であるオールディス公爵はこの頃には視察を終えて帰って来ていた。
 王太子の命で婚姻を結んだからというのは言い訳で、カトリーナの性格を持て余し気味だったのもあり、公爵は婚姻をそのまま継続させる事を望んだ。
 オールディス公爵に妻はない。まだカトリーナが小さい頃に風邪を拗らせ儚くなっている。
 その後後妻を娶る事無く仕事に邁進していた。

 カトリーナは一人娘ではあるが、いずれはデーヴィドとの間の第二子を養子に貰う話になっていたのだ。

 実家に断られたならば友人に、と何人か親しくしていた令嬢に連絡を取ってみた。
 だが、『これからは付き合えない』という返事だけだった。
 衆目集まる中王太子から婚約破棄を言い渡されたのだ。
 へたにカトリーナに関われば王室から睨まれるせいではあるが、それでも友人の一人、頼れる人もいなくなったカトリーナは絶望した。

「…どうしてよ……っ」

 思い通りにならない事に、ソファに備え付けられたクッションを投げ捨て、歯噛みした。

 誰からも顧みられず、見捨てられた事に悔しさが滲んでくる。
 己の人生、先はまだ長いのに、こんな醜悪伯爵と共に過ごさねばならぬのかと思うと、悔しさと悲しみと絶望が混ざり合い、奥歯がかちかち音を立てる。
 自分には美貌以外何もない。教養はあれど後ろ盾が無ければ何もできない。
 美貌も若いときだけだ。年々老いていくのは止められない。

 かといって王太子の元に戻る事は考えなかった。
 自分の居場所はもう無いと察していた。


 思い通りにいかないと、使用人に八つ当たりする事もあった。

「出て行って!!」

 ガシャンと音を立て、テーブルに置かれたティーカップを、カトリーナは払い除けた。
 癇癪を起こしたカトリーナは、侍女エリンが淹れた紅茶を投げたのだ。

「……っ…」

 まだ熱かった飛沫がエリンの腕にかかり、ヒリヒリと痛む。
 投げられた瞬間、エリンは流石に怒ろうと口を開いたが、カトリーナの顔は強張って今にも泣きそうだった。

 だがそれは一瞬で、すぐに側にいたソニアに片付けるように言い、更に別のメイドに水の張った桶を持って来るように指示した。

 ソニアもエリンも、記憶が無いときの優しく頼りなげな奥様のイメージが壊れ、戸惑った。
 そして、『あの噂は本当だったのか』と落胆した。
 やがて片付け終えて退室する時、「メイドが持って来た桶はもういらないからあなたが下げておいて。どう使ってもあなたの勝手だから」と言い、エリンに押し付けた。

 そのときに、か細い声で「ごめ……なさ……」と言われたエリンは戸惑った。

『目下の者を見下す公爵令嬢』と噂されていた人物が謝罪の言葉を口にしたのだ。
 退室し、使用人の控室に戻ったエリンは、桶の水にタオルを浸し、やけどした箇所に当てた。

『どう使ってもあなたの勝手だから』

 エリンはカトリーナに押し付けられた桶の水をぼんやりと眺めていた。

(どちらが本当の奥様なんだろう)

 貴族が使用人に高圧的になるのはよくある事だ。カトリーナは公爵令嬢だった。気位が高いのも普通の事だろう。

 けれど、そんな彼女は誰からも見放されていて、今孤独なのでは、と思うと八つ当たりされても憎めなかった。

 やがてカトリーナは、自分の置かれた状況を嘆き、その現実を受け入れなければならない事に絶望し、次第に食欲も落ちていった。


「……そうか」

 帰宅して、執務室にいたディートリヒは執事のハリーから聞いた話に一つ溜息を吐いた。

 記憶が戻ってからカトリーナとは顔を合わせていない。彼女が拒否しているからだ。
 食事は部屋に運ばせている。
 ディートリヒは両手で顔を覆い、記憶が無い時に己がしていた事を悔いた。

(やはり手を出さなければ……)

 求められたから、誘惑されたから。
 抱いて欲しいと言ったのはカトリーナからだったから、などと言い訳しても、最終的に手を出したのはディートリヒの我慢が効かなかったせいだ。
 求めたら求めただけ返って来る事が嬉しくて、手羽なすなど考えられなくなった。

 記憶が戻った今でも本音は手放したくない。
 だが、カトリーナの事を思えばどうするのが正解か導き出せないでいる。

 それでも、食欲すら湧かないのであればと、一度カトリーナと話す事にした。


「カトリーナ、いるかな。入ってもいいかな」

 扉をノックし、中からの返事を待って、遠慮がちに扉を開けた。

 カトリーナはソファに座り、俯いていた。
 部屋を見渡せば割れ物は全て下げられていた。

「……何よ、説教でもしに来たの」

 部屋を見渡していたディートリヒに、カトリーナは呟くように言葉を発する。

「君があまり食べていないと聞いて心配して来たんだ」

 最後に見た時より少し痩せたような妻の様子に、ディートリヒは胸が痛んだ。

「……は……、いい気味だと思ってるでしょう。私みたいに八つ当たりしかしない女なんて、誰からも見放されて、当然よね」

 目を細め、泣く事すらできないカトリーナは、唇を強く噛んだ。もう全てがどうでも良かった。

 ディートリヒは、カトリーナの前に跪く。
 下から見上げれば、その瞳は揺れ、まるで捨てられた猫のようだと思った。
 無造作に投げ出されていた妻の手を取り、拒否されない事に安堵した。──最も、今のカトリーナにはそれさえも億劫だったのだが。

「私のところにいればいい。何でも好きなものを買いなさい。幸い、戦の報奨金も余ってる。それで事業を興してもいいし、好きなように使って構わない。
 君の望まないことはしない。閨も、まぁ、いざとなったら養子を貰えばいい。爵位は弟に譲ってもいい。外聞をきちんとすれば愛人を作ってもいい。だから、離れて行かないでほしい」

 今にも消え入りそうな愛しい人を目の前にして、何とか繋ぎ止めたかった。
 好きなようにしても良い、それは紛れもない本心ではあるが、愛人を作っても良い、だけは望まない事。だがそうしてまでも、手放したくない思いが勝ったのだった。

 そして、その声は絶望したカトリーナに光を宿した。

 どこにも行く宛もない。好きなことをしていい、愛人を作ってもいいなら好都合。

「……他に行くところができるまで……ここにいるわ」

 悩みながらもカトリーナはこのまま伯爵邸に残ることにした。
 今の所愛人はおろか、友人さえ作れる要素は無いのだけれど。

「分かった。……気にせず、いつまでもいて良いから。
 それと。これからは食事を共にする事にした」

「なっ……」

「君がちゃんと食事をしているか心配になるからだ。だいぶ痩せてしまっている。このままだと倒れてしまうだろう」

「これからはちゃんと食べます」

「私は目で見て確認しないと気が済まない質なんだ。この家に住むなら従ってくれ」

「〜〜っ、分かりました」

 カトリーナはしぶしぶではあったが了承した。
 そっぽを向いて何か文句を言っているが、握られた手を引っ込める事は無かった。


 それから二人は、食事を共にするようになった。
 朝起きて、挨拶をし、食事をする。
 日中はディートリヒは騎士団に出向いている為一人だったが、休みの日には一緒に取った。
 夜は出迎え、挨拶をし、食事をする。
 その後は部屋を分かれて眠る。

 今までとすれば会話も触れ合いも減った。
 だが、ディートリヒの優しさは変わらなかった。

「足りないものは無いか」
「今日は天気が良いな」
「庭の花が見頃だろう。たまには庭で茶を飲むといい」

 一方的な言葉を、カトリーナは最初無視していたが、ディートリヒは根気強く、カトリーナから着かず離れず。
 不快そうにすれば接触をやめ、少しでも反応があれば続きを話す。

 そんなディートリヒに、カトリーナは徐々に態度を軟化させていった。
 
 国王との視察を終えて帰宅したオールディス公爵に、執事は手紙を渡した。

 それは普段であれば関わらない人物からのものであった。
 一通ではなく、複数あるそれに順に目を通す。

 全てを読み終えたあと、公爵はふー、と息を吐いた。

(まさかに無能王太子が……。随分と勝手な事をしてくれる)

 さてどうしてくれようか、と机を指でとんとん叩く。
 公爵の瞳には怒りが宿っていた。


 手紙の差出人はディートリヒ・ランゲ。
 社交界では「醜悪伯爵」として名を知られているのは公爵も把握していたが、「王国の守護者」としての名も知っていた。

 いわく。
 国王と公爵が不在の隙に、王太子が勝手に政略的に結ばれた婚約者であるカトリーナに、真実、愛する者ができたとして、大衆集まる中婚約破棄を言い渡した。
 公爵からすれば─あるいは周囲の者からも─下らない罪を非難し、罰と称してディートリヒ・ランゲと無理矢理婚姻を結ばせたらしい。
 その時カトリーナは記憶喪失で、有無を言わせぬ状況であった事を詫びる文があった。

 次に開けた手紙には、ディートリヒの謝罪がつらつら並べられていた。

 いわく。
 白い結婚を貫けばカトリーナとの婚姻は無かった事になったろうが、自分が未熟で我慢ができなかったこと。
 騙し討ちのように彼女を手に入れてしまった事は終生責任を負う覚悟がある事など。

 妻の父にあてる手紙では無いだろうと思ったが、最後には

『お嬢様は必ず私がお守りします』

 と結ばれていた為、ひとまずおさめた。
 そして、次の手紙。

 カトリーナの日常が日記のように書かれていた。
 読み進めるだけでカトリーナがどのように過ごし、どのような状態であるかが分かる。
 ディートリヒの気持ちも。

 公爵は記憶が無いとはいえランゲ伯爵家から大事にされている事、カトリーナがディートリヒから愛され、大事にされている事を悟った。
 元々『王国の盾』と呼ばれる男の人となりは把握していた。
 望まない形とはいえ、娘が英雄のもとへ嫁いだ事は親として願ったりであったのだ。

 王国で一番安全な場所に匿われたのは好都合であった。


 最後の手紙を開け、公爵は眉根を寄せた。

『カトリーナの記憶が戻りました』

 一文の後に続くのは、先程までの手紙とうってかわった内容だった。
 ディートリヒは離縁の意思は無く、できれば添い遂げたいと綴られている。
 だがカトリーナの意思を優先させたいと。
 王太子に睨まれている為旧友を頼れないだろうが、実家は手助けしてやって欲しいとの言葉もあった。

 だが、オールディス公爵はカトリーナを手助けしなかった。
 もっともらしい理由は付けたが、全ては王太子から守るためだった。

 実家にいるより婚姻している方が良い。
 実家からは疎まれていると周りから思わせた方がいいと考えた。

 なぜなら、視察から帰って来たとき。
 王太子の無能さが明るみになっていたからだ。

 今まで執務などはカトリーナが負っていたのだろう。
 それにあぐらをかいて遊び呆けていた王太子は陛下不在の代理を務められて無かったのだ。

 カトリーナから窘められても態度を改めなかった男は、カトリーナというお目付け役がいなくなった途端、勝手に婚約者として据えた女と情欲に溺れまともに執務をしていなかった。
 その為、帰って来た陛下から即刻謹慎を言い渡された。今は部屋に監視付きで篭り、溜まった分の仕事をしている。

 無能ではあるが悪知恵だけは立派に働く王太子が、謹慎が明けても無いのにカトリーナに接触を図ろうとしている事は公爵の部下から聞いている。
 今まで通り執務を代行させたいのが目に見えていた。

 これ以上、カトリーナを都合のいいように扱われたくなかった。

 父親としては大変複雑ではあるが、婚姻し、初夜を済ませたカトリーナは例え側妃としても王室に入る資格を失っている為、それならば今のまま婚姻状態を保った方が良いと判断された。
 貴族夫人においそれと手を出すような莫迦では無いと、この時のオールディス公爵は思っていた。
 そしてディートリヒ・ランゲはオールディス公爵から見て信用に足る人物だった。
 社交界の噂より、普段の行いを重視している公爵からすれば王太子より数百倍良い相手なのだ。

 カトリーナに知らせなかったのは。
 〝ディートリヒ以外の場所にいればいずれは王太子の餌食になるから〟だ。
 騎士団の副団長、王国の盾、救国の英雄。
 彼が本気で拒否すれば、王室など取るに足らない存在である事は国王陛下や周りの側近たちには分かっていた。
 一人で敵国の将軍を打ち負かした男。
 単騎で一師団を殲滅し、将軍さえも倒したというのは決して誇張ではない。
 それが決定打となり、戦は完全勝利を挙げたのだから。

 王太子であるデーヴィドも、普通に国を思い、国を考えるならば気付くはずなのだ。
 王国の子どもたちが英雄に憧れた。
 だが彼は全く気付いていなかった。
 自身が赴く社交界での評判のみしか知らなかった。
 それがオールディス公爵にとっては好都合ではあるのだが。


 公爵はペンを取り、手紙の返事を書いた。

 もちろんディートリヒに宛てて。

『カトリーナを引き取る事はできないが、君に任せる』

 本音を言えば今すぐにでも迎えに行きたい。
 だが公爵はその気持ちをぐっと堪えた。

 正直王太子の謹慎などでは公爵の気は収まらない。
 明日にでも陛下に諫言せねばと独りごちる。


クソバカ無能(デーヴィド)王太子よ、婚姻はともかくカトリーナを侮辱した事は高くつくぞ」


 オールディス公爵は不敵に笑った。
 
 ガスッ!

 視察から帰国するなり、王太子の執務室に乗り込んだアーレンス国王ユリウスは、机で書類に目を通していた自身の息子を殴り付けた。

 国王の息子──つまり王太子であるデーヴィドの手にあった書類がはらりと絨毯に吸い寄せられる。

「陛下、落ち着いて下さい」

侍従に窘められるが国王は肩で息をしたまま憤怒の形相を崩さない。

「落ち着いてられるか!聞いただろう!?こいつのしでかしたことを!!」

 顔を真っ赤にして怒り狂う父親を、尻もちをついたままでデーヴィドは睨み付けた。
 口の中に鉄の味が広がる。

「お帰りなさいませ父上。視察ご苦労さまでした」

 悪びれる事無く、デーヴィドは立ち上がりトラウザーズをはたいた。

「貴様……、自分が何をしたのか分かっているのか!?」

「何を……、ああ、婚約破棄の件ですか?」

 殴られた頬をさすりながら、デーヴィドは無表情に父親を見やった。
 その異質な様子に国王は一瞬たじろいだが、すぐに居住まいを正す。

「アドルフの娘を一方的に婚約破棄し、どこぞの男爵令嬢を婚約者としたそうだな。
 何故そんな勝手な真似をする?」

「政略的に結ばれた相手より、愛する女性と結婚するのはおかしな事では無いでしょう?
 父上のように」

「俺とフローラは政略結婚だった。婚約者となってから愛を育んで来たんだ。勿論浮気などしていない」

「え……」

 デーヴィドは意外だ、と言わんばかりに口をつぐんだ。
 両親の仲は息子から見ても仲睦まじい。国王ユリウスは王妃である妻フローラに寄り添い、妻も夫をたてる女性である。

 傍目からも愛し合っている国王夫妻、だが己の結婚相手は父親から勝手に決められたと思い込んでいたデーヴィドは、シャーロットの屈託なさに惹かれ徐々に婚約者のカトリーナでは無くシャーロットと過ごす時間を増やしていった。
 カトリーナよりシャーロットと一緒にいる方が気が楽だったし、耳元で愛を囁きあったり身体に触れても咎められなかった。
 カトリーナは「はしたない」と、手を繋ぐくらいしかできなかったし、デーヴィドもそれ以上を望みながら強くは言えなかったのだ。

 堂々と愛し合いたいシャーロットは都合が良かった。例えそれが貴族令嬢として眉を顰められるものでも。
『自分が選んだ女性』というのも、デーヴィドからすれば親への反抗心として満足していた。

「お前とカトリーナを婚約させた事が間違いだったよ。アドルフに申し訳が立たん。
 追って沙汰を言うまでこの部屋で謹慎せよ。
 ……ああ、奥にいる女は追い出せよ」

「……っ」

 デーヴィドの顔は強張った。
 執務室の奥には横になって休憩できるようにベッドが備え付けてある。
 今そこにいるのは──。国王はそこまで把握していた。


「デーヴィド……?」

 執務室の奥から、愛しの女性が下着姿で顔を出した。

「デーヴィド……!顔が腫れてるわ…」

「シャーロット……」

 心配そうに自分を見て来るシャーロットを見て、デーヴィドは胸を高鳴らせた。薄い下着越しに触れる温もりに安堵して抱き寄せ口付ける。

「やだ……、顔が腫れたあなたとはしたくないわ」

「……え…」

 シャーロットの下着の中に手を滑らせようとしたが、やんわりと拒否された。

「戻ったらまた沢山愛し合いましょ。
 そろそろ帰るわね。顔が治ったらお手紙ちょうだい」

 ふふ、と笑ってシャーロットは再び奥に消えた。

 父親に叱られ、デーヴィドは少しばかり心細くなっていた。だから縋るようにシャーロットを抱き寄せたのに。
 離れてしまった温もりを追いかける事もできず、執務机の椅子に力無く腰を下ろした。


『だいじょうぶ?』

 ふと、幼い頃の遠い記憶がよみがえる。

『お顔怪我してるわ。待ってて、侍女を呼んでくるから』

 いつの日だったか、弟と追いかけっこで走っていて、顔から転んで擦りむいてしまった事があった。
 そこに小さな女の子が通りがかり、デーヴィドに声をかけたのだ。
 女の子は持っていたハンカチを渡すと、金色の髪を翻して侍女を呼びに行った。

 戻って来た彼女は息を切らせて空色の瞳をいっぱいに開いてデーヴィドに駆け寄って来たのだ。

『大変、血が出てるわ!』

『これくらい、何ともない』

 本当は痛かったけれど精いっぱい強がった。自分より小さな女の子の前で無様な姿を晒したくなかったのだ。
 その後侍女に手当をして貰い、彼女のハンカチは洗って返すと言ったが名前も聞き忘れてしまっていて会えなかった。


『オールディス公爵家のカトリーナ嬢だ。
 宰相の娘さんだよ。仲良くしてやってくれ』

 思いがけない再会は間を置かずしてやって来た。
 国王の親友であるオールディス公爵の娘を遊び相手として連れて来たのだ。
 その少女は金の髪に空色の瞳、いつかのあの女の子だった。

 デーヴィドはカトリーナと一緒によく遊んだ。
 何かと面倒を見る彼にカトリーナが懐いたのだ。
 デーヴィドの弟ヴィルヘルムはまだ母親恋しい年齢だった為カトリーナとはあまり遊ぶ事は無かった。

『デーヴィドとヴィルヘルム、どちらかをカトリーナ嬢と結婚させようと思う。カトリーナ嬢はどちらが良いかな』

 半年程経過した時、国王ユリウスが言った。
 デーヴィドは自分が選ばれたかった。
 案の定、カトリーナはよく一緒にいたデーヴィドを選んだ。


 確かにそのときは嬉しかったし、まだ小さな女の子を守るんだ、と小さく決意した事もあったのだ。


「なんで……今……」

 デーヴィドはくしゃりと髪をかきあげた。

 いつからだろうか。カトリーナの事を可愛いと思えなくなっていた。
 それでも政略的に結ばれた婚姻だと言い聞かせ、婚約者として常識的に接していた。

 だがシャーロットと仲良くなるにつれ、カトリーナは攻撃的になっていった。
 最初は己に対する嫉妬からかと喜びもあったが、激化する度辟易していった。
 窘めるのも嫌になり、次第に無理するようになっていた。

 それでも追い縋るカトリーナを鬱陶しく思い、──嫌がらせの一環として醜悪伯爵にカトリーナを押し付けたのだ。

 それをしたのは自分であるのに、記憶を失っただけで嫌っていた醜悪伯爵との婚姻を拒まなかったカトリーナに何故か苛ついた。


「クソッ」

 貴族院に婚姻届を無理矢理提出したのは自分だ。
 だが無効の申し立てもされておらず、それもまた自分勝手に苛立った。

 加えて父親に謹慎を言い渡され、シャーロットに拒絶された。


 デーヴィドは己の中に燻る苛立ちが何なのか、どこか胸が痛むのは何なのか。


 窓の外に映る空を見上げれば、思い出すのは己が手放した少女の瞳だった。
 
 カトリーナ・オールディス公爵令嬢は、孤独な女性だった。

 父アドルフはアーレンス王国の宰相として常に多忙である。彼と国王ユリウスは学園時代からの親友で、王妃フローラと共に常に行動を共にしていた。
 学園時代に後の妻となるマリアンヌと出逢い恋に落ち、恋愛結婚をした。
 マリアンヌはフローラの親友でもあった。

 だがマリアンヌは身体が弱く、子どもを設ける事はやめておこうと相談し、結婚当初は二人仲睦まじく暮らしていたのだ。

 その生活に変化が訪れたのは、フローラの懐妊からだった。
 本心は愛する人との間に子が欲しかったマリアンヌはアドルフに懇願した。
 アドルフは妻を気遣い反対していたが、やがて根負けして授かったのがカトリーナであった。

 産後マリアンヌの体調は思わしくなく、アドルフは後悔しそうになったがあまりにも妻が嬉しそうな顔で娘を可愛がっていたので次第に受入れていったのだった。

『カトリーナは幸せになるのよ。愛しているわ、私の可愛い娘』

 マリアンヌは何度も娘に伝える。
 まるで己の生命を託すように。

 その後カトリーナの成長を見守りたい一心でマリアンヌの体調は回復していき、親子三人仲睦まじく暮らしていた。


 そんなオールディス公爵家に、魔の手は忍び寄る。

 カトリーナが三歳の年、アーレンス王国を病が襲う。
 平民の間から徐々に出だしたそれは、出入りの業者などから貴族にも流行り、とうとう国王も病に倒れた。
 医者不足、薬不足で国は荒れた。
 当時王太子だったユリウス夫妻をはじめ、宰相のアドルフも王城に泊まりきりになった。
 時折着替えを取りに帰るが、屋敷内には入らない。病をマリアンヌに感染さない為というのもあった。

 だから、家に帰っていない間、マリアンヌがどんな状況か、アドルフは把握できていなかった。


 その後国王が崩御し、ユリウスがその座を引き継ぎ、アドルフも宰相の筆頭となった。

 しばらくして病は沈静化し、細々した後処理をしてから長の休暇を取ろうと披露した頭で考え始めた頃、公爵家よりマリアンヌ危篤の知らせが届いた。


 転がるように帰宅したアドルフが見たのは今にも生命の灯火が消えそうな妻の姿だった。
 流行り病にはかからなかったが、ちょっとした風邪を引き、医者不足から受診を遠慮したマリアンヌは拗らせてしまったのだ。

 その後看病の甲斐無くマリアンヌは眠るように息を引き取った。

 彼女を深く愛していたアドルフは、公爵邸に妻が居ない事に絶望し、次第に帰宅する事が無くなってしまった。

 その間娘のカトリーナは使用人たちはいたけれど、母に死なれ父に放置され幼な心に孤独を募らせた。

 娘を屋敷に残したまま王城に寝泊まりする親友を見かねた国王ユリウスは、カトリーナを王城に呼び寄せた。少しでも父と一緒にいられるようにと。
 だが国王が一臣下の子どもを呼び付けすぎるのは良くないと、口実を作る事にした。
 それがデーヴィドとの婚約だった。

 婚約が結ばれるまでの約二年間、アドルフは妻がいない現実を受けとめきれず仕事に打ち込んでいたが、ふと我に返った時カトリーナの寂しげな表情が目に映り罪悪感にかられた。
 娘に謝り、これからは愛情をかけようとしたが
 カトリーナは、王子妃教育の名目で王城に通うようになり二人はすれ違う生活。

 結局あまり顔を合わせる事もできず、たまに顔を合わせても父親からの小言ばかり。
 次第に寂しさと孤独を晴らすようにカトリーナは我儘になっていった。
 公爵家令嬢ゆえ窘める者がいない。
 それでも婚約者であるデーヴィドの前でだけは本来の素直な性格が出てはいたが、デーヴィドがシャーロットと出逢い彼女に傾倒していくにつれ攻撃的になっていった。


 母は亡くなった。
 父は多忙で会わない。
 婚約者は他の女性に懸想する。


『私は誰からも愛されない』


 それがカトリーナの心を凍らせていく。

 令嬢を集めてのお茶会は、王太子の婚約者としての妬みを集める。
 嫌味、妬み、嫉みを受けても微笑みを絶やしてはいけない。

 ──未来の王妃たる者、何事にも動じてはいけません。

 カトリーナを孤独から救おうと結ばれた婚約は、皮肉にもカトリーナを孤独へと導いていく。

 表面上は優しく見える友人たち。
 実際には嫌味を隠さないものだった。

 唯一の拠り所であるデーヴィドは、シャーロットに夢中になっていく。
 それでもカトリーナは我慢していた。
 例え王太子の執務を代行している間に、デーヴィドがシャーロットと執務室奥にあるベッドでナニカをしていても。

 この座を失ったら、もう、カトリーナに行く場所が無かったから。
 愛しているわけではなかった。
 愛されていないと思っているカトリーナには、愛が何か分からなかった。
 それでも仲睦まじくしている国王夫妻を見て、羨ましい気持ちはあった為、デーヴィドが裏切っているという事は理解し、傷付きはしていたのだ。


 王城の片隅で、誰にも見られないように弱音を吐く。泣くまいと上を向く。
 本当ならば、みっともなくても叫びたかった。

『ダレカ、タスケテ、──ワタシヲアイシテ』

 これ以上、居場所を失いたくなかった。

『ワタシノイバショヲトラナイデ』



 心を凍らせ、次第に攻撃的になっていく。

 誰かを見下し、それで心の安寧を取る。
 それが悪循環に陥る罠だとしても、カトリーナは止められなかった。

 公爵家令嬢、父親は国王の親友で王国の宰相。そして王太子の婚約者で未来の王妃。

 誰も、カトリーナに逆らえない。
 誰もが、腫物扱いをする。

 それがまた、カトリーナを孤独にする。


 そして、唯一の拠り所であった婚約者から言い渡された婚約破棄。

 酷く頭を打ち付けたわけではないカトリーナの記憶が失われたのは、彼女の心が限界を迎えていたのかもしれない。


 そんな彼女の心に、ディートリヒの優しさはしみ渡る。
 自分を嫌っている相手に対し、真摯に向き合い、寄り添う彼にカトリーナの中の何かが疼いた。


 思い出すのは慈しむような翠色の眼差し。


『愛しているんだ』


 記憶が戻った時に聞いた、切なく優しい声音を思い出し、カトリーナは一人枕に顔を埋めた。