王城主催の夜会は全貴族が招待され、会場は人だかりができていた。
ランゲ伯爵夫妻も揃いの衣装に身を包み、互いの瞳の色の宝石を身に着け参加した。
宵闇に煌めく濃紺のドレスには星空のように小さな宝石を散りばめている。
お腹周りがふっくらしてきたカトリーナに配慮したゆったりとしたものだった。
身重の妻を気遣い、片時も離れずエスコートするディートリヒも濃紺の衣装である。
ゆっくりとした歩調で、常に妻の腰に手を回し妻に見惚れる男たちを牽制していた。
愛され幸せオーラ満開の伯爵夫人は、隣でエスコートする夫に微笑みかけている。
その姿は周囲を圧倒させるほど美しく、また艶めかしい。かと思えば少し大きくなったお腹に愛おしげに手をあてる姿は母性と女神性を感じさせた。
「これはこれは……」
「騎士団長」
顎に手を当てて興味深そうに見ているのは、騎士団長ディアドーレ侯爵。その隣には最愛の夫人が夫の腕に手を添えている。
「初めまして、ランゲ伯爵夫人。私は騎士団長をしているディアドーレだ。こちらは妻のアリーセ」
「初めましてディアドーレ侯爵夫妻様。ランゲ伯爵夫人カトリーナと申します」
騎士団長夫妻に挨拶をすると、早速アリーセがカトリーナに興味を持ったようで。
「まあ可愛らしい奥様ですわね。ランゲ伯爵も罪な男だわ」
ふふふ、と口元を扇子で隠して朗らかに笑った。
「ええ、とても可愛らしい妻を迎えられて私も光栄に感じております」
人目も気にせず妻と見つめ合うと、周りからざわめきが起きた。
カトリーナの醜聞は過去となったが、久々の社交界復帰に貴族たちは興味津々であった。
『王太子殿下から婚約破棄をされ、醜悪伯爵に嫁がされ、泣き暮らしているだろう』
カトリーナがいない間囁かれた噂は、ともすればいい気味だ、とほくそ笑まれていたが、実際は以前にも増して幸せそうに微笑む姿を見せつけられ、驚いた者が多数だった。
その中には、王太子デーヴィドと、婚約者となったシャーロットの姿もあった。
王族用の高くなった場所にある席に座った二人は、苦虫を噛み潰したような表情で見ていた。
それから程なくして、国王ユリウスが立ち上がり手を挙げると、貴族たちは一斉に頭を垂れた。
「皆のもの、よく集まってくれた。まずは楽にしてくれ。
今宵の夜会で発表する事がある。……デーヴィド、前へ」
国王に促され、デーヴィドはシャーロットを伴い前に出た。
「この度婚約する事になったデーヴィドと、その婚約者シャーロットだ。
二人とも、挨拶を」
「皆の者、我が愛するシャーロット共々、よろしく頼む」
デーヴィドが挨拶をし、シャーロットが薄く笑みを浮かべ腰を落とした。
周りの者たちから拍手が沸き起こる。
カトリーナは先程の挨拶を正確に理解し、複雑な表情を浮かべた。
それからは歓談の時となった。
デーヴィドはシャーロットと共に挨拶に回っていた。
彼らから離れた場所で、カトリーナは今度はリーベルト侯爵夫妻と談笑していた。
「カトリーナ様、今度ウチの宣伝に協力して下さいませんか?」
「宣伝ですか?」
「ええ、ハンドクリームの宣伝を、夫婦で」
マダムリグレットのハンドクリームは、ランゲ伯爵家使用人の間で大好評で、それは使用人仲間を通じて他家にも徐々に浸透しつつあった。
さすがに使用人たち全員に買う家は少ないものの、侍女から貴族夫人におすすめされ、更に夫人たちの間で拡がり、マダムリグレットはその地位を確立しているのだ。
更に販路を拡げたいフィーネは、カトリーナに宣伝を手伝ってほしいと言ったのである。
「私は構いませんが……」
「ああ、カトリーナが良いのなら」
「では決まりですわね」
この夜会はデーヴィドとシャーロットの婚約発表を兼ねているが、実際の注目はランゲ伯爵夫妻だった。
誰よりも輝き、慈しみ合う夫婦の様は皆の目を惹き付けていた。
「カトリーナ様」
フィーネと和やかに歓談するカトリーナに不躾な声を掛けたのは、彼女が注目を浴びるのが面白く無い女性だった。
隣にいる男が一瞬強張ったような顔をしたが、女性は構わずカトリーナに近付いて行く。
「お久しぶりですわ、カトリーナ様。私の事を覚えていて?」
その女性──シャーロットは、エスコートをするデーヴィドの制止も聞かずカトリーナに話し掛けた。
「……さぁ?どちら様でしたかしら」
カトリーナは頬に手を当て、心底分からないという表情でシャーロットに目を向けた。
「まだ記憶が戻ってないの?まあいいわ。
私、デーヴィドと婚約したの。未来の王妃は私よ」
胸を張って答えるが、カトリーナは表情を変えない。
今の彼女は、あの頃のようにデーヴィドに縋らなければならない程の者ではない。だから。
「この度はおめでとうございます。お二人の幸せを心よりお祈り申し上げますわ」
ゆったり笑み、ドレスを摘み腰を落として礼をした。
「く、悔しくないの!?デーヴィドはあなたではなく私を選んだのよ!?
未来の王妃は私のものよ!!」
悔し紛れか、シャーロットは声を荒げて叫んだ。
カトリーナは目を細めその醜態を見つめている。それは自身の過去の行いをまざまざと見せ付けられているようだったのだ。
(ああ……。気付かないうちの私はこんなにも醜く愚かだったのね)
「私は、王太子妃には相応しく無かったのですわ。かつての己は責務を投げ打ち、無様を晒しておりました」
胸に手を当て、自身の過去を省みるように目を伏せた。そして隣に立つ夫を見上げる。
「ですが、夫との出逢いが私に気付かせてくれました。己の使命を理解し遂行する彼こそ、正しい在り方なのだと」
「カトリーナ……」
微笑んだまま、カトリーナはシャーロットに目を向けた。
「夫の隣にいる事は、私にとって王太子妃になるよりも価値のあるもの。だから私はもう、デーヴィド様の隣ではなく、夫であるディートリヒ様と共に国を支えていく所存ですわ」
「……っ…」
胸を張り、高らかに宣言するカトリーナは誰よりも美しく、誇り高く。
──その姿にデーヴィドは見惚れ、そして。
己の手から大切な何かが零れ落ちたのを感じていた。
「シャーロット、行こう……」
「待ってよ、私はまだ……!」
まだ叫ぶシャーロットを引き摺りながらデーヴィドは奥へと歩を進めて行く。
その様を、カトリーナは姿が見えなくなるまでじっと見据えていた。
(さようなら、デーヴィド様。……幼い頃側にいて下さった事だけは感謝致します)
「カトリーナ」
隣に立つ夫を見つめ、カトリーナは微笑んだ。
「君は綺麗だよ」
夫からの唐突な賛辞に、カトリーナはたじろいだ。
「とても、美しいよ」
「な、ちょ、だ、まっ」
なおも止まらぬ賛辞に、カトリーナは慌てふためいた。普段、ディートリヒから愛を囁かれる事はあるが今は人目がある場所。
それもはばからずただ妻を見つめる夫の意図が分からず、どうして良いか分からなかった。
「君の美しさは内面からなんだろうな。己を反省し改め、王太子殿下の幸福を祈れる君は美しい」
カトリーナは夫の言葉に瞳が揺れた。
「わ、私は、ただ、だんなさまに相応しい淑女でありたいだけですわ。……きっと、あなたなら許してしまうと思って」
「君を害するならば許さないがな。それに君は魅力的だから俺の方が飽きられないように努力しないと」
「ま、また、もう、すぐそうやって……」
顔が火照るのが止まらず、カトリーナは扇子で仰いだ。
頬の赤みが落ち着く間に一呼吸して、夫に寄り添う。
「私が愛するのはただ一人、ディートリヒ・ランゲ伯爵ですわ。貴方以外、いらないのです。だ、だから。……わ、私を離さないで下さいませ」
言ったそばから再び赤くなる。そんな妻を見て、ディートリヒは微笑んだ。
「ああ。ずっと一緒にいてくれ。
愛している、カトリーナ」
手を取り口付けをし、愛を乞う夫にカトリーナは花が綻ぶような笑みを返した。
「私も、愛していますわ。ディートリヒ様」
途端に周りからどっと拍手が沸き起こった。
二人の世界に浸りかけていたがハッと我に返り、照れ笑いながら祝福を受けていた。
この夜会の数日後。
王太子デーヴィドの臣籍降下が発表された。
突然の発表に世間は震撼し、様々な憶測を呼んだが、信憑性が高いのは婚約者となったシャーロットの素行不良であった。
カトリーナとの婚約を破棄した以前より複数の異性と親しくしていたという噂、そしてその後王太子妃を望んだにも関わらず妃教育に向き合わず遊び呆けていた事、更には第二王子に擦り寄って行った事が公となり、追放されたと見られている。
ただ、デーヴィドが見離さなかった為真実の愛たるや、と世間で話題になった。
新たに王太子の座に就くのは、かねてより優秀だと噂されていた第二王子ヴィルヘルム。
オールディス公爵とランゲ伯爵の推薦もあったと言うからこちらも王太子の件含めて色々推察がなされた。が、どれも推論に過ぎず次第に人々の話題は別のものへと変化した。
ランゲ伯爵夫妻はその後王国の発展に注力した。
最たるは『王国の盾』らしく和平を結んだ事である。
隣国である帝国の将軍とも交流があり、調和を率先して行う事で母国の守りにも尽力した。
アーレンス王国が長く平和であるのは夫妻の尽力の賜物だと言われている。
二人は五人の子どもに恵まれ、そのうち一人は話し合いの結果オールディス公爵家へ養子に出された。
夫妻の子ら、そして孫らも王国に仕え主君を支える礎となったそうだ。
そして、伯爵夫妻は生涯互いを思いやり、仲良しであったことが語られている。
その日、緊急の御前会議が開かれている頃、デーヴィド・アーレンスは、自室で待機していた。
先日の夜会はデーヴィドに与えられた最後の機会だった。
だが婚約者を御せず、大多数の貴族の前で醜態を晒してしまった。それ故国王に呆れられた彼は再び謹慎処分が下されたのだ。
自室に備え付けられたソファに力無く座り、これまでの事を回想する。
仲睦まじい国王夫妻の長男として誕生したデーヴィドは、幼い頃から聞き分けの良い子どもだった。
乳母の、侍女の、教育者の手を煩わせる事が無い、大人から見れば扱いやすい子であった。
それは、ひとえに両親に認めて貰いたいがゆえ。
彼は幼心に努力を重ねていた。
しかし両親の関心は2つ下の少女にあった。
親友の宰相夫妻の一人娘であるカトリーナにみな夢中だった。
娘がいない国王夫妻にとって、女の子は特別なように見えたのだ。
その後宰相の妻が亡くなると、両親の関心は益々カトリーナに向いていた。
そうして持ち上がったのが婚約話。
デーヴィドでもヴィルヘルムでもどちらでも良かったが、カトリーナが選んだから決まったようなもの。
『カトリーナを頼むぞ』
父親に言われ、デーヴィドはしっかり胸に刻み婚約者として努めた。
父から託された、期待された。それが少年の心に残り、自分が面倒を見るのだと使命感もあった。
だが相変わらず両親はカトリーナばかりを気にかけた。
次第にカトリーナに対して憎らしい気持ちと愛らしい気持ちがごちゃまぜになり、いつしかそのバランスは崩れて、とうとうデーヴィドはカトリーナを無視するようになった。
そしてその寵愛は、シャーロットへ向けられる事になる。
(どこで、間違えたのか)
シャーロットといる時は楽だった。
何も考えずただ享楽に身を任せているだけで良かった。
王太子としての責務はカトリーナに押し付け、自身は好きなように行動する。
両親に可愛がられていた少女の顔が悲痛に歪む時だけが、デーヴィドの苦しみを和らげていた。
……気がした。
だが、今一人で過去の事を思い出せば浮かぶのは幼い頃から後ろを着いてきていたカトリーナの事。
振り返れば拙い歩きで自分の後ろにいる事が嬉しかった。
後ろに彼女がいて、自分は前を向いて進む。
それが当たり前で、将来国王となっても変わらずそこにいるのだと、デーヴィドは身勝手な考えでいた。
先日の夜会で、夫の隣で堂々とした姿を見せた彼女に眩しさを感じた。
それは自身が望んでいた未来の姿。
だが彼女の隣にいるのはデーヴィドではなく、彼女を守り愛する別の男。
『彼の隣は私にとって王太子妃になるよりも価値のあるもの。だから私はもう、デーヴィド様の隣ではなく、夫であるディートリヒ様と共に国を支えていく所存ですわ』
真っ直ぐに見据え、堂々たる姿を見せたカトリーナは、もうデーヴィドを越え、遥か遠くまで行ってしまったような気がしていた。
「兄上、入りますよ」
扉を叩く音がして、返事も待たずに第二王子──ヴィルヘルムが入って来た。
「終わったのか」
「ええ、つい先程」
ヴィルヘルムは御前会議に出席していた。
王太子ではなく一王子である彼が出席するとなった時点で、デーヴィドは己の行く末を察知していた。
「で、いつからだ」
「?何がです?」
「いつまでに……出て行けば良いんだ」
半ば諦念を浮かべながらデーヴィドはヴィルヘルムに尋ねる。自身のこれからを憂いているのか、早く宣告してほしいのか。
自棄になった兄にヴィルヘルムは訝しげな顔をしながらも、ソファに座ってから口を開いた。
「兄上は王太子の身分剥奪、臣籍降下処分が下されました。
領地を持たない伯爵位と同時に貴族街の隅に婚約者殿と住むにはちょうど良い邸宅が与えられます。使用人は一名のみです。
但し期間限定ですので生活に必要な知識は習って覚えて下さい。
仕事は宮廷文官。一番下っ端からになります」
ヴィルヘルムが告げたのはデーヴィドの今後の事だった。
その内容にデーヴィドは眉を顰めた。
「……随分と甘い措置だな。てっきり廃嫡、平民落ちだと思っていたぞ」
「平民落ちさせて無力なあなたを傀儡として貴族に担がせない為ですよ。ああ、ちなみに継承権は常に最下位です。僕に子ができる度下がります。
僕はまだ未婚ですからね」
なるほど、と思った。
ある程度の身分が無いとやられるし、与えても自分が奢るから。
そしてヴィルヘルムが未婚の今は、予備としていなければならない。生かしはしないが殺しもしない。
自分の行動の結果に乾いた笑みが漏れた。
「とまあ、色々理由は付けましたが。ひとえにランゲ伯爵からの温情ですよ」
ヴィルヘルムの無機質な声音に、デーヴィドはぴくりと反応した。
「『自分が妻と婚姻できたのは彼のおかげ』だそうです。ただ、ランゲ伯爵夫人への接近禁止を願われました。
それだけで王国の盾である伯爵がこれからも我が国に貢献してくれるなら願いを叶えないわけにはいきませんからね」
確かに妻を傷付けた相手ではあるが、希いながらも嫌悪されていた相手と婚姻させた恩人でもある。
廃嫡し平民になり落ちぶれる様は寝覚めが悪いのだろう、とデーヴィドは自嘲した。
「……どこまでもお綺麗な奴だ……」
自分の汚さを、器の違いを見せつけられたようでデーヴィドは苛立った。同時に、カトリーナが選んだ男がそんな男で良かった、とも思ったのだ。
「それから……僕の王太子教育終了と共に父上は玉座を退かれるそうですよ」
その言葉はデーヴィドにとって意外なものだった。
彼から見た父親の治世は決して悪くは無い。
宰相や大臣たちの意見を幅広く取り入れ、奢らず己を律し民の為に尽くす姿を幼い頃から見てきたのだ。
それにまだ40を過ぎたばかり。体力的にも衰えていない。引退するには早いのではないかと思った。
「まだ、国王としてやれるだろう……。なぜ……」
「……息子一人、まともに教育できない自分が、民を導く事はできないそうです」
「──……ぇ」
「息子を甘やかし、強く諌められなかったと父上は悔いてらっしゃいます。
だから、僕が立太子した暁には同時に国王ですよ」
苦笑した弟の言葉に、デーヴィドは信じられないと頭を振った。
「いつまで拗ねてるおつもりですか。
これでも父上や母上は、カトリーナ様を優先しあなたを蔑ろにしていると思われますか?」
ヴィルヘルムの声音は冷たく硬い。
デーヴィドは緩く頭を振り項垂れた。
「兄上、あなたは間違えた。
カトリーナ様との婚姻が嫌なら言えば良かったんです。そしたら僕に変わったのに。
それに……兄上の婚約者殿は僕にも色目を使ってきましたよ。……カトリーナ様を捨てそちらに行く価値ありましたか?」
ヴィルヘルムの言葉はデーヴィドに突き刺さる。
「……彼女は……。癒やしだったんだ……」
カトリーナの事を考えないで済むから楽だった。
若い肉体が持て余す欲を発散できたのも良かった。
ただ、都合が良かったのを──愛だと思い込んだ。
「まあ、終わった事ですし、これ以上は色々言いません。ですが、一つだけ。
道は引き返せませんが、曲がったり広げたりできるんですよ」
ヴィルヘルムはにっこりと笑って兄の部屋をあとにした。
その後程なくしてデーヴィドは与えられた屋敷に移り住んだ。
いくつかの部屋と、食堂、炊事場、風呂場、手洗いがあるが、貴族の屋敷にしては規模の小さいものだった。
仕事も始めた。
人を使う立場から、人に使われる立場に変わった。
始めは傅かれる事が当たり前だった彼からすれば全てを自分でこなさなければならない事に屈辱を覚えたが、辞めるられるはずもなかった。
シャーロットとは形だけの夫婦となった。
ヴィルヘルムとの会話の後、デーヴィドの処分を伝えたが。
『顔と身分だけが良かったのに、顔は曲がっちゃったし歯も折れてダサくなっちゃったわ。
その上王子様でもなくなるとかありえないわ』
そう言って嘲笑った。
(カトリーナは……顔に傷がある男を選んだのに……)
ここでも彼女との違いを感じ、デーヴィドは溜息を吐いた。
その後、シャーロットは与えられた家に帰宅せず、どこかを渡り歩いていた。元々平民から養女になった彼女はそのときのツテがあるようだった。
それからデーヴィドは、書類上の夫としてシャーロットが買い漁った物の支払いをする日々が始まる。
一度は自分が選んだ女性だから、と面倒見の良さをここで発揮してしまった。
(自分が彼女の人生を捻じ曲げたから……)
だが婚姻から二年後、シャーロットは出掛けた先で亡くなった。
この事がデーヴィドに憂いとして残り、彼はこの後長きに渡り後悔にまみれながら、今までとはガラリと変わった生活を送る事になるのだった。
ランゲ伯爵邸の使用人たちは、主の幸せを願っている。
「ソニア、奥様の好きなお菓子できたから今日のティータイムに出してくれ」
厨房を預かる料理長は焼き立てのお菓子をきれいに盛り合わせた。
彼はいつも主二人の健康や好みにあわせて腕を振るう。
「いつも美味しい料理をありがとう」
奥方が笑顔で言うと、それだけで厨房の者たちは張り切るのだ。
「そろそろ庭の花が見頃だから、お二人で花見でも、って伝えてくれ」
庭師も自慢の花をしっかり整えた。
「みんなが好きなお花を植えましょう」
主がそう言って使用人たちが各々好きな花を植え、誰もが楽しめる庭にした。
その内の、とある白い花だけは元々伯爵家の庭に咲いていたものだ。
それはディートリヒの希望で残したものだった。
伯爵家の使用人たちは、自分たちの主人が大好きだ。
自分たちを常に気遣い、労う主人に仕える事が嬉しい。
だからいつも喜んで貰えるよう、仕事に励むのだ。
館の主であるディートリヒ・ランゲは13歳の時に騎士団の寄宿学校に入った。
伯爵家嫡男という事で当時は家族に難色を示されたが、ディートリヒの説得によりしぶしぶではあったが了承された。卒業後は20の時に騎士団に入団した。
アーレンス王国が隣国から侵略された時に活躍したのが彼だった。
当時23になったディートリヒは当時の婚約者との結婚間近だったが折り悪く自身の両親が事故で他界。
その事で結婚が延期され、その間に侵略戦争に駆り出され、彼の顔に大きな傷ができてしまったのもこの時だった。
左の頬から鼻筋を通り右の眉間に延びる傷は敵国将軍の執念の為か深く、塞がったあとも生々しく残った。
それを見た婚約者は慄き、結婚自体白紙となった。
この時の彼の絶望は計り知れないだろう。
姉は既に他国へ嫁いでいて、弟は騎士団の寄宿学校に入っていた。
社交界では一部の者から「醜悪伯爵」として侮蔑され、嘲笑の的となった彼の孤独は増していた。
使用人たちは彼に立ち直って欲しいと真心を尽して接し、彼の孤独と傷を癒やしていた。
そんな彼がいつしかぼーっとするようになった。
かと思えば休日も鍛錬に打ち込む。
気付けば溜息を吐く。
長年彼を見て来た執事のハリーは、主の変化に戸惑っていたが鋭い侍女やメイドは
「恋煩いじゃないかしら」
と指摘する。
よくよく見てみると、仕事に行く時、王家主催の夜会の時。
決まって王城に出向く時身なりをしっかり整えてキリッとして行くのに、帰って来てからは溜息を吐く事があるのに気付いた。
「きっと王城に気になる方がいるんだわ」
「でも恋人がいるのよ、その方に」
「きゃ~~秘めた恋!」
好き勝手に妄想する女性陣を、複雑な顔で見ていたのはディートリヒに付き従って登城する侍従のトーマスだった。
付き従える範囲が限られている為想像に留まるが、恋する相手がいるのはトーマスからも見て取れた。
その相手も何となく想像がつくし、もし正解なら主の行動にも納得がいく。
だが、本来ならばその相手に懸想するなどあってはならない事なのだ。
なぜなら、その相手は。
王太子殿下の婚約者。未来の王妃。未来の国母。
カトリーナ・オールディス。
そうでなくとも相手は公爵家令嬢。
伯爵と身分差もあった。ディートリヒより8つも年下で年齢差もあった。
さらにディートリヒは彼女から嫌われていると自覚していた。
全ては顔に残る傷跡のせい。
だが、この傷跡が無ければ彼は今頃既婚者となっていた。
今、心だけは自由に想えるのは傷跡があるから。
──傷跡があるから彼女に囚われた。
どちらが良いかは分からない。
どうにもできない想いは募り、王城で見かける度、夜会で美しく着飾っているのを見る度。
彼の心はどうしようもなく高鳴り、行き場の無い想いを燻らせていたのだ。
だがある日、明らかに使用人の誰から見ても、主が意気消沈した時があった。
王城主催の、とある夜会から帰宅した時。
出迎えた執事のハリーはいつになく顔色の悪い主が気になり薬湯を、と持って行ったところ、静かに涙していた姿を見てしまった。
『この傷が無ければ……』
結局肩を震わせている主に声を掛けられず、その場を後にしたのだ。
その後彼はいつも通りに振る舞う主に合わせ、いつも通りに振る舞った。
だがこっそりと、使用人たちは落ち込んだ主の為にさり気ない優しさをもって接した。
食事に好きなものを増やしたり、こまめに気分転換を提案したり。
それもあってか、ディートリヒは次第悲しみが癒やされていき自分のすべき方向を変えたのだ。
〝嫌われているなら、遠くから。自分にできる事をしよう。国を守る事が彼女の為になるならば、剣を振るい続けよう〟
そう決意した主が、まさか想い人と婚姻し、その日のうちに連れ帰って来た時使用人の誰もが驚いた。
『彼女……カトリーナ嬢は記憶が無い。とても心細いと思うから、みな良くしてやってくれ』
そう言って使用人に頭を下げた。
記憶が戻り、カトリーナが荒れた時。
『今は記憶が戻ってから混乱しているのもあると思う。だが彼女の目を見れば本音が分かるから、どうか察してやってほしい』
どんな状況でも己の愛する女性を思いやり、頭を下げる姿勢に、使用人たちは否やは言わなかった。
誰もが主であるディートリヒの恋を応援し、女主人であるカトリーナを敬愛した。
だから、二人が愛し合う夫婦となり、仲良くしている事が使用人たちは嬉しかったのだ。
「いやあ、あの時はホント、ディートリヒ様正気?って思いましたよ~」
休憩室のおやつを摘みながら、侍従のトーマスが言う。
「『今日から妻になった』っていきなり連れて来たからびっくりしますよねぇ」
カトリーナ付きの侍女ソニアがクッキーを口にする。
「それからの主の顔がもう、にやにやしっぱなしで!」
ぷぷっ、と笑うのはカトリーナが王太子に謁見した時に着いてきた護衛のベルトルト。
「奥様が来られてから領地経営も捗って助かります。何より私の休みが増えました」
感極まったように話すのは家令のフーゴ。
「……でも、幸せそうで良かったですよ」
マグカップを持ちながら優しい目をするのは侍女長のマルタ。
「そうですね。大旦那様達が亡くなられて、旦那様の結婚も白紙になって。一時期はどうなるかと思いましたが……
きっかけはあれですが、奥様が来て下さって良かったです」
執事のハリーも目を閉じて回想する。
「奥様といえば、王太子殿下に謁見した時に『ディートリヒ・ランゲの妻です』って宣言した時思わず『よっしゃ!』ってなったわ。それまで自信無さげだったからまだ嫌なのかな~ってちょっと思ってたのよね」
カトリーナ付きの侍女エリンは当時を思い出す。
「奥様、無自覚に旦那様好き好き~ってなってたわよね。それをガツン!!て宣言したのカッコ良かったのよ」
「最初はまあ、八つ当たりもされたけど、その後すっごく気にしてるのがすっごく伝わって来てね。叱られた子猫みたいで可愛かったわ」
「あ~、わかる!口では辛辣でも目がね!態度がね!許しちゃう」
「そんな奥様だから旦那様も構いたいんだろうなぁ」
「旦那様も奥様への好きが溢れてるよな。戦場の死神?ナニソレ誰の事ってくらい空気が緩い」
「想い合う夫婦ってステキ。はー、もう眼福ごちそうさまです!って感じ」
わいわいと主を褒め称え、使用人の休憩室のおやつが切れかけたところで、お開きの合図となった。
今は夜も更ける頃。
使用人のミーティングと称した座談会は終了である。
ランゲ伯爵邸の使用人たちは主夫妻が大好きなのであった。
その日のディートリヒは、いつもより様子がおかしかった。
いつもなら妻を片時も離したくないと言わんばかりなのに、この日は軽く頬に口付けただけで仕事に行ってしまった。
尋常ならざる雰囲気に、カトリーナは一瞬「まさか……浮気……!?」と脳裏に過ぎったが、すぐにその考えはたち消えた。
ディートリヒは嘘が付けない。隠し事ができないのだ。
自分に不利であろうが、彼はカトリーナだけは裏切らない。
──そんな人が浮気をするわけがないし、もしそうだとしてもやむにやまれぬ事情があるのだろうとカトリーナは思った。
勿論浮気などされないように、自身を磨かなければと気合を入れた。
その日の午後になってすぐに、ディートリヒは帰宅した。……騎士団長と部下に支えられて。
「朝から様子がおかしいな、と思っていたんだが……、やっぱりおかしかった」
騎士団長が口を開く。カトリーナはごくりと息を飲んだ。
団長の隣で顔色悪くしていた部下の騎士が促されて言葉を繋いだ。
「副団長が、僕の剣を避けれなかったんです」
話を聞いていた執事のハリーが目を丸くした。
「それで副団長の頭にまともに当たってしまって」
カトリーナがディートリヒをみやると、戸惑ったような彼と目が合った。みるみるうちにディートリヒの顔が赤くなる。
その様子にいやな予感がした。
「副団長は記憶喪失になってしまったようで……」
「……っ」
言葉を失ったカトリーナに、ディートリヒは申し訳無さそうにした。
「記憶が戻るまでは騎士団休養で構わないから。たまにはゆっくり療養させてやってくれ」
騎士団長の言葉に、カトリーナは小さく頷くしかできなかった。
「すみません、伯爵夫人様……」
涙目で頭を下げる部下に、カトリーナは目をやり、一度伏せてからしっかりと見据えた。
(私がしっかりしなきゃ)
「騎士団長様、と……部下の方かしら?
ディートリヒ様を運んで来て下さり感謝を申し上げます。お言葉に甘えて療養させて頂きますわ」
騎士団長としきりに頭を下げる部下の騎士を丁重にお見送りし、カトリーナは談話室でディートリヒと向き合っていた。
「記憶が無くなったそうですね……」
「ああ、……すまない」
「いえ。えっと、どこまで覚えてらっしゃいますか?」
「自分の名前はなんとか……。あとは日常の事なんかは覚えてはいるが……」
言い淀むディートリヒの姿がいつもより小さく見えた。だが、その瞳はカトリーナをいつものように捉えて離さない。
「すまないが、君は……」
「申し遅れました。私はカトリーナと申します。あなたの妻ですわ」
その言葉にディートリヒは目を見開き、破顔した。
「そ、そうか。こんな綺麗な奥さんがいるのか。……それを私は忘れているのか。なんと勿体無い」
喜びも束の間、捨てられた子犬のように頼りなげな夫の姿は、カトリーナにとって新鮮であった。
まじまじと見ていると、ディートリヒはカトリーナのお腹をじっと見てきた。
「失礼だが……そのお腹は……」
「はい……。あなたとの子ですわ」
記憶を失った夫からすれば急に子どもまでいると言えばショックを受けるかな、とは思ったが真実を伝えない訳にも行かず、ありのままを伝えた。
すると、ディートリヒは口元に手をやり顔が緩み出した。
「そ、そうか……。私はもうすぐ父親になるのだな。……そうか」
必死に押さえてはいるが、口元は緩んでしまうようで、ディートリヒは顔を引き攣らせていた。
その様子を見て、カトリーナは思わず吹き出してしまった。
「そんなにおかしいかな?」
「ふふっ、いえ、あなたの記憶が無くなってもいつもと変わりないものだから、つい。……ふふふっ」
本当に記憶喪失なのだろうかと疑問に思うくらい、ディートリヒは変わらない。
元々がそうなのか、いつでも朗らかで前向きで。
そんな彼も釣られて笑みを浮かべた。
「記憶を失う前の私は幸せ者なのだな。こうして笑顔でいてくれる妻がいて、もうすぐ子どもも産まれる。
……何としても思い出したいな」
ディートリヒは頭を抱えてうーむ、と唸り出した。
「あまり無理なさらずに。私が着いていますからね」
不安にならないように、カトリーナは夫の手を握った。『大丈夫、何も心配いらない』と願いを込めて。
「ありがとう。……よし、早速もう一度頭を打ってみよう」
「えっ」
「以前調べたことがあるんだ。同じ刺激を与えればいけるかもしれない」
そうと決まれば早速、とディートリヒは身近にあったテーブルを真剣に見た。
「ちょっとお待ち下さい!」
「な、なんだ?」
その先を予想ができたカトリーナは、慌ててディートリヒを止めた。狼狽えながら己の妻を見ると、目を座らせている。
「同じ刺激を与えるって、また頭を打ち付けるおつもりですか?」
「あ、ああ。記憶が戻るかもしれないだろう?」
「怪我するじゃないですか!あなたは考え無しの無鉄砲ですか!」
「す、すまない……」
ディートリヒはたじろぎながら、妻という女性の瞳を見ていた。
少しばかり潤んでいる瞳には、心配しているとか悲しみがある気がして自身のやろうとしていた事を反省した。
「私も記憶喪失になった事はあります。だから不安になるのは分かるつもりです。
焦らずにいきましょう。もし戻らなくてもまた最初から覚えれば良いのです」
その言葉は、ディートリヒの胸を打った。
確かに迷惑をかけた、とか妻子の事を忘れているのか、とか己の不甲斐なさに打ちのめされそうになっていたのだ。
だがそんな自分に妻という女性が光を差してくれた気がした。
「君は……美しいだけではなく、強く頼もしくあるのだな。君という素晴らしい女性を妻に迎えておきながら忘れてしまうなど情けない。
……だが、また最初から教えてくれるだろうか?」
ディートリヒは顔を赤らめて、妻の手を取った。
「ほ、褒めても何も出ませんわよ?
……仕方ありませんわ。私が最初から教えて差し上げます」
にっこりと笑うと、ディートリヒは眩しそうに目を細める。
「ありがとう。君は女神のようだな。優しくてたおやかで、淑やかだ。
その仕草も清廉されて綺麗で。ずっと見ていたいな……」
「あ、あの、だ、だんなさま?だ、大丈夫ですか?頭打ちました?」
顔を赤くし、次々と愛のこもった言葉が紡がれ、カトリーナはその口撃に思わず逃げたくなった。
心なしか自身も、夫も身体が熱い気がする。
次第にディートリヒの息遣いも荒くなってきた。
だんだんと夫の身体が近付き、唇に触れようとしてきたが……。
ディートリヒはそのままカトリーナの肩に顔を埋めた。
「……だ、だんなさま?なんだか身体が熱いですわ──っ!?
ちょ、ちょっと、ハリー!大変!侍医の方をお呼びして!」
「は、はい、ただいま!」
「だ、誰か、だんなさまをベッドにお運びして!すごく高い熱が出てますわ!」
それから使用人に手伝ってもらい、ディートリヒを寝室に運んだ。
「風邪ですかね。お薬出しておきますので。お大事になさいませ」
カトリーナは寝ている夫の顔を見て嘆息した。
朝、口付けが頬だけだったのは。
部下の剣を避けられなかったのは。
高熱があるのを隠していたからなのか、と納得いったのだ。
「あなたは騎士団に行きたいお子様ですか」
夫の顔の傷を撫でながらカトリーナは呟いた。
体調が悪いなら悪いと素直に言えば良いのに、と。
無理を押して訓練に出掛け、記憶喪失で帰って来るなど言語道断である。
「ディートリヒ様の愚か者……」
ピン、と弱く額を弾いて、カトリーナは久々に自室の寝室で寝る事にした。
翌朝。
ディートリヒの様子を見に来たカトリーナは、額に手をやり体温を確認した。
穏やかに寝息をたてる夫の熱は下がっているようで、その回復力に驚いた。
朝食の準備をしてもらおうと立ち上がると、不意に手を掴まれた。
「カトリーナ……?俺……は……」
「……えっ?」
昨日は確かに『私』と言っていたはずだ。カトリーナは鼓動が早くなるのを感じていた。
「……俺……は、訓練してて……、部下から」
ゆっくりと身体を起こしながら記憶を辿る。
ハッ、としてカトリーナを見やると、呆然としながらディートリヒを見ていて、全てを思い出した。
「俺は……記憶が抜けてしまっていたんだな」
「戻らない……かも、って」
次第にその瞳が潤んでくる。ディートリヒはお腹を気遣いながら、妻を抱き寄せた。
「忘れてしまってすまない。君との事を忘れるなんて、なんと勿体無い事をしたんだ……」
背中に回した腕に力が込められるのを感じ、カトリーナは安堵から涙をぽたりと溢した。
「もう、ホント……、ふふっ、変わらないのね、あなたは……ふっ……」
「そうだな……。何だか一日夢を見ていたような感じだな」
ディートリヒは、記憶喪失の間の事は全て覚えていた。
「私は……全く覚えていません。いつか、思い出せる時が来るのでしょうか」
記憶喪失中の事はカトリーナの中から消えてしまっている。
大切な初めての事も、ディートリヒの優しさの事も。それが彼女にとって唯一の引っ掛かる事でもある。
「君との……その、初めての夜の事は……すまない」
「覚えて無いのは悲しいですが、……これから沢山思い出を作れば良いのです。
その……今は、あれですが。また、夜も、ですね」
その先の事は流石に口にはできず、カトリーナは指を組み換え遊ばせた。だがディートリヒはしっかりと汲み取りカトリーナの額に口付けた。
「ありがとう。……君には敵わないな」
「光栄だわ。英雄に勝てるのは私だけですわね」
「違いないな」
そうして二人は微笑みあった。
かくして、ディートリヒはたった一日で記憶を取り戻した。
カトリーナが初めての夜を思い出せるのは……。
まだ先の話…………?
ランゲ伯爵邸はもうすぐ夫人の出産を控え、主を始め使用人一同今か今かとその時を待ち侘びていた。
侍医の見立てではいつ産まれてもおかしくないという。
その為出産準備の最終的な確認に余念がない。
そんなあるとき、ディートリヒの弟が予告無く帰宅した。
ディートリヒを少し若くしたような見た目の青年は、カトリーナを見るなり
「俺はお前が兄上の嫁なんて認めないからな!」
そう言い放った。
いきなり現れて認めない宣言をした夫の弟に、カトリーナは
「いきなりなんですか!まずご挨拶、それから自己紹介でしょう!?」
キッと睨む。
それにたじろいだ弟はぐっと呻き、姿勢を整え騎士の礼をした。
「失礼致しました。ディートリヒ兄上の弟のオスヴァルトと申します。
いきなりの訪問失礼致します」
やればできるじゃないか、とカトリーナはにっこり微笑んだ。
「ディートリヒ様の妻となりましたカトリーナと申します。ようこそお帰り下さいました」
身重の為腰を少し落として礼をする。
その微笑みを見たオスヴァルトは気まずそうに目をそらしたが、その耳が少し赤くなっているのは誰も気付かなかった。
オスヴァルトの突然の帰宅を、ディートリヒは執事からの速達で知り早めに仕事を切り上げて帰って来た。
「オスヴァルト、帰宅するなら先触れくらい出せ」
出迎え時にいなかったので、ディートリヒはオスヴァルトの滞在する部屋に直接来た。
「あー、ごめん。……てゆーかお腹おっきい人ほんとに兄上の奥さんなの?」
「ああ。それがどうかしたか」
真顔で答える兄に、オスヴァルトの顔は渋くなった。
「あの人あれだろ?社交界に出てない俺でも知ってるよ。何であの人なの?」
カトリーナはある意味色んな所で有名人だった。その噂が真実であれ無実であれ、あまりいい様には伝わっていない。
直に接すれば人となりは分かるが、滅多に会わないオスヴァルトは噂を鵜呑みにしていた。
「俺が彼女に惚れたんだ。ただ噂を鵜呑みにしているだけでは真実は見えてこないぞ。
それと、妻を侮辱するのは許さない。ああ、あと妻は出産を控えている。迷惑になるような事はするなよ」
ディートリヒのひと睨みは、オスヴァルトをたじろがせた。
色々言いたい事は山程あるが一旦引く事にした。
「兄上はきっと騙されてるんだ。俺があの悪女のシッポを掴んでやる!」
それからオスヴァルトは屋敷に滞在し、隙あらばカトリーナを観察した。
「ソニア、エリン、お茶にしましょう」
「はい、奥様」
天気も良いので庭にテーブルセットを出して貰い、三人はお茶会を始めた。
「んー、気持ちいい!いいお天気ですねぇ」
「洗濯物が良く乾きそうね」
「いいお昼寝日和だわ~」
「出産も、もうすぐですね」
「ええ、いつ来るか分からないから今から緊張するわ」
よく見れば周りにメイドや庭師もシートに座ってお茶を飲んでいる。
和やかな風景はオスヴァルトの毒気を抜いた。だが、ぶんぶんと頭を振る。
「くそ……何なんだあの義姉上は……。使用人たちと仲良くして、悪いとこが無いじゃないか……っ!」
草かげでぎりぎり歯噛みするオスヴァルトに、執事のハリーが気付き声をかけると「ぎゃっ」と飛び上がらん勢いで逃げて行った。
「……相変わらずお兄ちゃん大好きなんですねぇ」
幼少時よりディートリヒの後をつけ回していた弟を思い出し、ハリーは笑みをもらした。
その後もオスヴァルトはカトリーナをコソコソ見ていたが、使用人たちには優しいし執務は完璧だし兄の事が大好きだと態度に出ていて、彼を唸らせた。
それらはむしろ、美人で優しい笑顔に惹かれる要因となり、良からぬ想いを抱きそうになったので近寄るのを止めた。
もっともディートリヒと仲良くしている姿を見ればその気持ちはすぐにぽいっと投げ捨てられた。
「今日は少し遅くなるよ」
「分かりました。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
朝、そんな会話をした日に限って、カトリーナは違和感を覚えた。
(さっきからお腹が痛むわ……)
チクチクしたかと思うとすぐに止み、最初は気のせいかと思っていたが段々痛みが強くなって来た。
そのうち痛みが来ると立っていられなくなるくらいになり、ソファに座りやり過ごしていると、扉をノックする音がする。
侍女を呼ぼうにもベルは手元に無い。
「あー、義姉上、よろしいでしょうか」
だがカトリーナは返事ができない。今は痛みと戦いの最中である。
返事が無いのが気になったオスヴァルトは、小さく扉を開けた。
「義姉上、入りますよ……
っ、あ、あ義姉上!?どうされましたか!?」
ソファに頭をもたれ、うずくまるカトリーナの様子が尋常では無いのに気付き、オスヴァルトは駆け寄った。
「ごめ……なさい、たぶん、産まれる……」
「産まれる!?待って、侍医呼ぶから!まだ産まないでよ!!」
「ゔぅ~~……」
オスヴァルトは慌てて使用人を呼び、自身はカトリーナの側に着いた。
「義姉上、どこか痛みますか?」
「ゔぅ……ディー……ト……ディートリヒ様……」
カトリーナは痛みに耐えながらオスヴァルトの服を力強く握りしめ、夫の名を呼んだ。
使用人が来たのを見届け、オスヴァルトは馬を駆り騎士団の詰所に向かう。
門兵を振り切り、副団長執務室へ駆け込むと、ディートリヒは目を丸くしてオスヴァルトを見た。
「オスヴァルト?何しに来たんだ」
全速力で駆け抜けてきたオスヴァルトは息も絶え絶えになんとか口を開く。
「義姉……ぅぇ…産まれる……痛いって、
兄上の名を呼んで……」
その言葉にディートリヒは目を見開き部屋を出て行った。
「あ、兄上、執務は!?」
「あー、いいよ、産まれるんでしょ。あとはやっとくから」
騎士団長の呑気な声を聞きながら、オスヴァルトは力を振り絞り再び来た道を引き返した。
オスヴァルトが伯爵邸に着いた頃には、カトリーナはあらかじめ準備していた産室に入り、先に帰着していたディートリヒの励ましを受けながら叫び声を上げた。
やがて夜中になる時間帯に、伯爵邸に赤子の泣き声が響いた。
「産まれた!」
別室で待機していたオスヴァルトの耳にも届く産声に、自然と拳を握り締めた。
急いで産室まで駆けて行く。
自分の子では無いのにと不思議な感覚になりながら、気分は高揚していた。
少しの間を置き、ディートリヒが赤子を抱いて廊下に出て来るとオスヴァルトはそろりと近寄った。
「元気な男の子だ」
「あっ義姉上は!?義姉上はお元気ですか!?」
「ああ、カトリーナも今休憩している。……よく、頑張って……くれて……」
若干の疲労はあるが、ディートリヒが眦に涙を浮かべているのを見て、オスヴァルトは目を見張った。
ディートリヒの結婚が白紙になり、一時期荒れていた頃を思い出す。
両親の死、侵略戦争での負傷が原因で結婚が白紙となった時は相手の令嬢に文句を言いたかった。
ディートリヒなりに妻となる人を幸せにしようとしていたのだ。
当時は憤ったが、今の兄の姿に「よかったなぁ」と涙した。
そして、最愛の妻が出産した我が子を愛おしげに抱く兄を見て、オスヴァルトはカトリーナへの態度を改める事にした。
「べろべろべろばぁ~~」
産まれたての赤子をあやしてもきゃっきゃと笑う事はないが、その可愛さを見れば誰だって構いたくなるものだ。
オスヴァルトは滞在期間許す限り甥っ子の面倒を引き受けた。
カトリーナとディートリヒの息子は『ジークハルト』と名付けられた。
黒髪と翠眼はランゲ伯爵家特有の色で、顔もディートリヒそっくり。
「将来こいつも騎士になるかな」
「もう、殿方は騎士がお好きです事」
「兄上に似てきっと剣の腕が良いだろう。騎士にしないのは勿体無い」
「将来の道はこの子に選ばせますわ」
「剣の師匠に俺がなりたいな」
「それはディートリヒ様がいいですわ」
一ヶ月も経てば義姉と義弟の会話は気安いものになっていた。
だがその内容はディートリヒかジークハルトのことばかり。
どちらが二人を好きか言い合うのだ。
「二人とも旦那様が大好きなんですねぇ~」
「ジークハルト様の事もですね」
侍女長と執事は今日も二人の言い合いをにこやかに見守っていた。
その日、ランゲ伯爵邸執事のハリーは主に持って行く手紙を仕分けしていてふと手を止めた。
差出人の名前に目を細め、昔を懐かしむ。
それは、他国へ嫁いだディートリヒの姉ヴァーレリーが帰国するという知らせだった。
カトリーナとヴァーレリーは勿論面識は無い。
産後半年は経過していて、カトリーナの体調も問題無いが初対面の為気を使うだろうと心配だった。
だが、ディートリヒの姉が来る事を伝えると
「ディートリヒ様のお姉さまならお会いしたいわ。色々お話も聞きたいし」
とカトリーナが言うので、他でもない妻の頼みなら、と渋々了承した。
ただし、屋敷への滞在は遠慮して貰い、宿を取る事で迎える事にしたのだ。
『あと一週間で到着する』
姉の手紙の内容はそれだけ。
カトリーナは緊張しつつ、わくわくしながらおもてなしの準備をしていた。
一週間はあっという間に過ぎて、いよいよヴァーレリーが来る日。
ディートリヒは休日を貰って出迎える事にした。
「姉上が嫁いでから数える程しか会ってないな……。俺も騎士団の遠征とかあるし弟は寄宿舎だし、両親がいないと余計に帰国する気にもなれないんだろう。けど、ある時突然帰って来る。今回もそれが理由だろう」
弟二人が騎士の為帰国してもすれ違う可能性が高い。それゆえ滅多な事では帰国しない彼女が来る時は理由があるとディートリヒは言う。
カトリーナは疑問に思いながらも特に聞きはしなかった。
昼過ぎ、一台の馬車がカラカラと音を立てて玄関に到着すると、中から女性が出て来た。
「久しぶりね」
目を細め、たおやかな笑みをたたえるその女性に、カトリーナは見惚れていた。
「姉上、お久しぶりです。お変わり無いようで何よりです」
まずは姉弟が軽く挨拶を交わすと、ディートリヒはカトリーナを見た。
「姉上、紹介します。私の妻のカトリーナです」
ぽやんと見惚れたままだったカトリーナは、夫の言葉で我に返った。
「あっ……は、初めまして、カトリーナと申します。ようこそお出で下さいました」
ドレスを摘み優雅にお辞儀をすると、ヴァーレリーも腰を落とした。
「よろしくね。姉のヴァーレリーよ。……ディートリヒやるじゃない。すっごく可愛いお嫁さんね」
弟ににっこり微笑みかけると、ディートリヒは頬を掻いた。
「皆様、立ち話もなんですから中へどうぞ」
執事に促され、三人は屋敷の中へ入っていった。
応接間に案内された姉は今回の訪問の目的である甥っ子に初対面した。
乳母から受け取り、腕に抱くと自然と顔が綻んだ。
「ふふ、ディートリヒそっくり……」
両手をしっかり握りしめ、すやすや眠る赤子は黒髪翠眼とディートリヒの特徴を受け継いでいる。それはランゲ伯爵家に伝わる代々の色合い。
「ディートリヒ様のように騎士になりそうですね」
ふふ、と笑う義妹に、ヴァーレリーも目を細める。
「男どもの憧れなのかしらね。あなたには心配かけるわね……」
「いつか、ディートリヒ様の訓練風景を拝見しましたが、いきいきとしてらっしゃいました。すごく、カッコよくて……。
だからディートリヒ様が騎士を続けるなら支えたいと思っています」
瞳をきらきらさせ、頬を染めて語る義妹にヴァーレリーはつい表情を綻ばせた。それからジークハルトを乳母に預け、紅茶を一口含む。
「あの子が騎士を目指した理由をご存知?」
「机仕事が苦手だから、でしょうか?」
その言葉にヴァーレリーは目を丸くし、口元に手を当ててふふふ、と笑った。
「元々は絵本がきっかけらしいわ。
その絵本ではね、お姫様を庇って騎士が倒れてしまうの。その時お姫様はとても悲しむんだけど。
『自分ならお姫様を悲しませないのに』って言ったのが始まりね」
その絵本の内容にカトリーナは心当たりがあった。公爵邸にあり、侍女から読んでもらった記憶もある。
結局騎士は亡くなり、お姫様は慰めてくれた王子様と結ばれるのだ。
なんだか悲しくなった思い出の本だった。
「物語の騎士は残念な結果だけど、……きっとあの子は死なないでしょうね。あなたと、可愛い息子の為に」
ヴァーレリーはふふふ、と笑い、すやすやと眠るジークハルトに目を向けた。
「……両親が亡くなって、顔の傷が元で婚約まで無くなってしまって。あの子はあまりいい状態じゃ無かったから心配してたの。私が国に帰らずここにいると言っても『大丈夫だから』と笑って送り出してくれたわ。だから、誰か支えてくれる人ができたら、と願っていたの」
ヴァーレリーはあの日を思い返すように目を閉じる。
弟の顔の傷は癒えるが、心の傷が癒える事はあるだろうか。
いつか、その傷を全て受け止めてくれるパートナーに巡り合えたらいいと、そう思っていた。
ヴァーレリーの訪問の目的は甥っ子ではあったが、第一は弟の伴侶を見極めたかったから、も理由の一つだった。
だがそれは姉のお節介だとすぐに気付いた。
「……二人で何の話をしていたんですか」
応接間に入る前、侍従に呼び止められ席を外していたディートリヒが戻って来た。
「何でもないわよ。貴方が結婚して、子どもも産まれて、伯爵家は安泰ね、って話してただけ」
「カトリーナにいらない事を吹き込まないで下さいよ」
「あらやだ、いらない事って何かしら?
勉強に躓いて旅に出た事?それとも」
「姉上、それ以上は口を慎んで下さい」
姉弟の気兼ね無いやり取りは、カトリーナの中で新鮮だった。
独りっ子のカトリーナには兄弟姉妹はいない。
こういう砕けた会話は憧れがあった。
目の前で繰り広げられる会話を、微笑ましく見ていたが、そんなカトリーナの様子に気付いた二人は気まずそうに口を閉じた。
「仲よろしいんですね」
「2つ上だからな。それこそ競い合うような関係だったよ」
「私、ずっと独りだったからうらやましいです」
カトリーナがあまりにもにこにこして言うので、ディートリヒは思わず抱き締めた。
「これからは独りにしないから」
「……はい、だんなさま……」
「ちょっとー、お二人ー?私がいるんですからねー?」
危うく二人の世界に浸りかけたと、ばっと身体を離すが既に時遅しだった。
人目もはばからずいちゃいちゃする二人に、ヴァーレリーは呆れた顔を寄越す。
「はぁ、全くこっちは家出して来たって言うのに」
「あ、そう言えば義兄上がもうすぐこちらに来るそうですよ」
「はぁ!?」
ヴァーレリーの訪問の目的はもう一つあった。こちらが本命といったほうが正しいか。
「姉上が来ると分かった時点で速達を出しました。案の定すぐ来ると返事がありましたよ」
しれっとティーカップを傾ける弟に、ヴァーレリーはワナワナと口を震わせた。
そこへ執事の声と共に扉をノックする音が響く。
「失礼致します。旦那様、ヴァーレリー様にお客様でございます」
「お通ししてくれ」
「ちょっ!?」
慌てるヴァーレリーと落ち着いているディートリヒの対比を、カトリーナはわくわくしながら見ていた。
「ヴァリー!!会いたかったよ!あの事は誤解なんだ!君がいないと僕の夜は明けない!帰って来ておくれ!!」
ばたんと扉を勢い良く開けて入って来たのは、ヴァーレリーの夫だった。
「あなた……よくもぬけぬけと妻の実家に来ましたわね!?あら?今日はその腕に絡ませてませんの?あの娘を」
「あれは勝手にまとわりついてきただけなんだ!決して浮気などでは!!」
「へえええ、よく言いますわ。鼻の下デレッデレにのばしてたのはどちら様でしたかしら?」
「僕の鼻の下はそんなに長くないよ!ああ、ヴァリー、君以外に目を向ける暇なんて僕には無いんだ。さぁ帰ろう。子ども達も待ってるよ」
カトリーナは目の前で繰り広げられる劇のような展開にぽかんと見入っていた。
が、ディートリヒにとんとんと叩かれ、二人は息子を抱いてそっと応接間から出た。
「……お義姉様の旦那様って、情熱的な方なんですね」
目をキラキラさせながら先程の様子を思い返す。まるで演劇のようだとわくわくしながら見てしまった。情熱的な二人はさながら物語の主人公のようだった、とうっとりしてしまう。
「姉上が帰って来る理由はほぼ義兄上絡みだよ。まぁ、ジークを見たかったのもあるかもしれないけど」
やれやれと言ったようにディートリヒはカトリーナとジークハルトと共に自室へ下がる事にした。
ヴァーレリー達は喧嘩したあと結局いちゃいちゃするからだ。
それなら帰って来ずに喧嘩すればいいのに、と言い出せないのは弟の本能か。
その後ヴァーレリーと夫は、連れ立って伯爵邸をあとにした。彼女がとってある宿に泊まるらしい。
「もっとお義姉様とお話したかったですわ」
ぷくりとむくれる妻を愛おしいと思う反面、ディートリヒの胸中は複雑だった。
「まぁ、年に何回かはああしてやって来るから……そのときにでも」
ディートリヒは苦笑しながら愛しい妻を抱き締めた。
ディートリヒの姉は、愛しの旦那様といちゃいちゃしながら帰国して行った。
カトリーナの中で、義姉は「嵐のような人」となった。
ジークハルトが産まれて一年が経過した。
穏やかな季節が訪れ、庭でお茶をする事も増えた。
「そろそろ結婚式を挙げようか」
ディートリヒの言葉に、カトリーナは目を見張る。
頬を染めて微かに頷くと、ディートリヒは目を細めた。
とても平和な日々が続いていた。
最近は情勢も安定し、騎士団も鍛錬は怠らないが実践する場も無い。
たまに実働しても街の小競り合いを諌める程度。数年前に戦争していたなど、忘れるくらいの平和な日常だった。
ランゲ伯爵家に誕生した嫡男ジークハルトは無事初誕生を迎え、伯爵邸に来る者を魅了し空気を和ませる存在となっている。
暫くは母の手でなければ泣きやまなかった坊やは、最近では乳母や使用人にも人見知りする事なく愛想を振りまくアイドル的存在となっていた。
たまに帰って来るオスヴァルトは殊更ジークハルトを可愛がった。
オスヴァルトも寄宿学校を卒業し、無事王国騎士団に入団した。
今はディートリヒの後輩であるフランツ・ドーレスの下に付き訓練を重ねている。
そんな日常の穏やかな日が続いていた。
挙式するなら今だろう、と数日前からディートリヒは考えてた為カトリーナに打診したのだ。
「衣装とか作るから早くて半年くらい先にはなるけど、今が良いタイミングだろう。
……その先は、ジークの……その、弟か妹ができたらまたできなくなるしな」
「そ、そう、ですね」
ゴニョゴニョと照れながら言われれば、カトリーナも顔を赤くするしかない。
ジークハルトの時は割とすんなり授かったが、二人目は産後一年経過しても宿る気配は無い。
もし再び宿ればまたタイミング的に難しくなる為、挙式までは避妊して備えることにした。
結婚式を挙げると決めたら行動は早かった。
まずカトリーナの父であるオールディス公爵に報告すると、公爵が休暇申請を出した時に国王とヴィルヘルムに情報が漏れた。
何としても式に参列したい国王と、仕事が滞るから無理だと公爵が言い争ううちに王宮内に広まり、結局親しい者のみで挙げようとしていた式は、王家御用達の大聖堂を貸切った盛大なものになった。
「娘同然のカトリーナと英雄の式だからな。
それに……王家が英雄を軽んじた償いでもある。そなたの噂を止められず申し訳無い」
国王に頭を下げられ、ディートリヒはぎょっとした。
「お気になさらず。頭をお上げ下さい。
私とて噂を止めずにそのままにしておりました。正直、分かってほしい人に分かってもらえればそれで構わないのです」
そう言えるようになったのは、隣で微笑む妻がいてくれるから。
二人が見つめ合うその姿を見て、国王は安堵した。
「幸せになりなさい」
国王に言われ、二人は笑顔で一礼した。
母親のいないカトリーナには、王妃が付き添って準備した。
「カトリーナ、貴女にいつか謝らなくてはいけないと思っていたの。デーヴィドの事、ごめんなさいね……。
それからランゲ伯爵の件も、社交界での噂を止められなくて……」
王妃から謝罪され、カトリーナは慌てて止めた。
「王妃様、謝らないで下さいませ。デーヴィド様の件は、もう気にしていません。
ディートリヒ様の事は私も同罪です。
そ、それに……私も旦那様も今は幸せにしておりますから」
照れながら言うと、王妃は目を細めた。
カトリーナの姿が在りし日の親友を思わせたからだ。
(マリアンヌ……、貴女の娘は素敵に成長したわ……)
きっと、一番見たかったのは彼女に違いない、と王妃は思った。だから、彼女の代わりに、しっかりと準備をしようと決意したのだ。
「式が成功するよう、助力するわね」
「ありがとうございます」
「娘がいないから楽しみだわ」
ふふ、と微笑まれると、カトリーナは照れくさくなった。
「わ、私も、楽しい……ですわ」
顔を赤くし俯くと王妃は目を丸くして「可愛いわ!」と抱き締めた。
その眦には、薄く涙が浮かんでいた。
そんな中、カトリーナは父である公爵から呼び出され実家に出向いた。
「マリアンヌが着た物なんだ。傷みは無いからどうかな、って」
それはカトリーナがまだ幼い頃に亡くなった母親が、自分の結婚式に着たドレスだった。
両親の成婚から20年以上は優に経っているはずのそれは、型こそ古くなっているが新品と遜色ないもので、一目で大切に保管されていたと分かった。
「……良いのですか?」
「ああ、娘の式に使われるならマリアンヌもきっと喜ぶ」
オールディス公爵は当時を懐かしむように目を細めた。
彼の脳裏には今でも愛する妻の姿がある。
きっと彼女も娘の結婚式を楽しみにしていただろうと思うと、少し目が潤んだ。
「ありがとうございます。このドレスをアレンジして着ます」
「……うん。楽しみにしているよ」
そう言って公爵は少し鼻をすすった。
「当日のメイクは私たちに任せて」
そう進言したのは、マダムリグレットの宣伝担当のフィーネだった。
「フィーネ様、ありがとうございます」
「マリアンヌ様の時も任せてもらったのよ。
……その娘もだなんて、……やだわ、ごめんなさいね」
フィーネは眦からぽろぽろと雫を溢した。
「マリアンヌ様もきっと見てくれていると思うわ」
カトリーナは、改めて母の存在を感じていた。
三歳の時に亡くなってしまった母だが、当時の記憶は自分には無くても、こうして母を知る人達が忘れずにいてくれる事が嬉しかった。
その娘の結婚式に、母を知る人達が協力してくれる事は、カトリーナが母の愛を感じる瞬間だったのだ。
(お母様……。……産んで下さりありがとうございます)
『おめでとう、カトリーナ。幸せになるのよ』
空を見上げれば、優しく懐かしい声が聞こえた気がした。
結婚式の準備は着々と進んで行く。
だが、あと一ヶ月と迫った頃。
国境で不穏な動きがあるとの情報が入った。
数年前戦争した隣国が、再び侵略して来ようとしているらしい。
出入りの商人からその噂を聞き、ディートリヒに尋ねてみた。
「ああ、その情報は知っている。密偵からリーデルシュタイン辺境領方面から向かって来ていると聞いた」
リーデルシュタイン辺境領主は、国王ユリウスの従兄弟である。オールディス公爵も含め、旧知の仲でカトリーナも知らない仲では無い。
「行軍の中には、かつて俺が対峙した将軍の息子がいるらしい」
ディートリヒからの言葉に、カトリーナは息を飲み、一気に不安になった。
「将軍の……息子さん……。だ、大丈夫でしょうか……」
「心配しなくても良い。今の所は開戦回避で動いているから」
妻の胸中を思い、抱き締める。
カトリーナは、当時ディートリヒが死力を尽して戦い将軍を葬る事ができたその将軍にも、家族がいたと思うと何とも言い難い気持ちになった。
(できるならば、戦などしないでほしい……)
そんな願いが届く事も無く。
結婚式を一週間後に控えた日。
夜遅くに帰宅したディートリヒをカトリーナは迎えた。
その表情は硬く、何かを言いたいのに口にできない。そんな雰囲気を察知してどきりと胸が鳴る。
自室に下がった二人は、ベッドの上で向きあって座っていた。
「カトリーナ。よく聞いてほしい。耳にしてると思うが、隣国との戦が避けられないまでになった。俺達騎士団も出征する事になる」
その言葉にカトリーナはひゅっと息を飲んだ。
「出征は一ヶ月後だ」
カトリーナと結婚して、ディートリヒは出征した事が無かった。本来の職務を忘れるくらい平和だった。
遠征すら騎士団長からの配慮で近場以外無かった。尤も、副団長が出向く程の大きな事件も無く平和だったのもあるが。
だがこうして言われると、心臓が嫌な音を立てて。
いつの間にかカトリーナの瞳からは雫が溢れた。
それを見たディートリヒは、カトリーナを力強く抱き寄せる。
「すまない、カトリーナ。だが、分かってほしい」
何か言わなければ。
そう思いながら口を開けるが言葉にならず閉じるばかり。
笑って「行ってらっしゃい」と言わなければと思うのに、口から漏れるのは嗚咽のみ。
ともすれば「行かないで」と言いそうになるのを必死に堪える。
救国の英雄とて無敵ではない。
先の戦いでは顔に負傷したが、もしこれが致命傷になる場所だったら?
カトリーナは不安で仕方なかった。
泣き続けるカトリーナの背中をゆっくり擦りながら、ディートリヒは続ける。
「俺は騎士団の副団長だ。国を守る責務がある。……分かるね?」
ディートリヒの腕の中で微かに身動ぐ。
「カトリーナ。俺は必ず帰って来る。君とジークを置いて逝く事はしない」
愛する妻の頭を撫でながら、ディートリヒはゆっくりと言葉を紡いだ。
「可愛いお嫁さんと息子を守る為に俺は出征する。だから待っていてほしい」
カトリーナの頬を持ち、顔中に口付けると少しずつ涙が止まって行く。
「ごめ……なさい……。貴方の、仕事……。なのに。……取り乱して、しまぃ……ました」
「大丈夫だよ。君のそんな姿も愛している」
そう言って瞳に口付けを落とすと、カトリーナの涙は完全に止まった。
「あっ、あなたはっ、いつも、そんな事っ……」
顔を赤くして夫の胸を叩くがまるで手応えが無くて悔しい。
だがそれは彼が今回のような有事に備え日々鍛えている証拠でもあるのだ。
カトリーナは夫の胸に耳を当て、トクトクと鳴る心臓の音を聞きながらその温もりを享受していた。
「……本当ならば、俺も、避けられるならば避けたかった」
ディートリヒがぽつりと、呟いた。
「前回は何も失うものは無いと思っていた。
自分の代わりはいるから、と。
婚約者はいたが、早く帰らなければと思いながらも、特に自分を守ろうとは思わなかった」
カトリーナは顔を上げ、ディートリヒの顔を見た。その瞳は揺れ、葛藤が垣間見える。
「英雄と祀り上げられても、実態は生命を奪う者でもある。以前はそれを躊躇しなかったが……。
自分が愛する妻を、家族を持つと、敵の……背景を考えてしまう」
それは、おそらく英雄として生きてきたディートリヒの葛藤だった。
戦争の立役者と言えばそういう事だ。
強く優しい彼だからこそ、苦悩するのだろう、と。
最愛を得た今なら尚更。
敵にも同じく愛する者がいて、家族がいて。
だが、同情しては自分の命が脅かされるのだ。
戦場では綺麗事など通用しない。
やがてディートリヒは一度目を伏せ、開いた。
そして、カトリーナと視線を交わらせる。
その眼差しは、決意をした者が持つ強さがあった。
「だが、俺は君を守りたい。君と、この先も未来を歩みたい。
子どもも沢山欲しい。その為に、俺は……向かって来る敵には容赦しない」
ディートリヒの真剣な表情に、カトリーナはぞくりとした。
この人になら、狩られても良いと望んでしまった。
ディートリヒの頬を持ち、愛おしく感じるその顔の傷に口付ける。
「……必ず、帰って来て下さい」
「必ず、帰って来る」
「腕の一本になっても、必ず、帰って来て……」
「仲間に伝えておこう。……だが、俺は強いぞ?」
「どれくらいですか?……あ……」
カトリーナは以前見た訓練の風景を思い出していた。
執事に言われ、『忘れ物』と言う名のサンドイッチを届けた時。
数名に囲まれても汗一筋も無かった。
背後から襲われても振り返る事無くいなしていた。
言われてみれば王太子に襲われそうになった時も、振り返る事無く裏拳をお見舞いしていたな、と思い返せば「俺は強いぞ」というディートリヒの言葉がとても頼もしく聞こえた。
但し、熱を出さないように気を付けてほしいとも思った。
「だんなさまを、信じます」
「ああ。信じて待っていてくれ」
言いながら啄むような口付けを繰り返す。
「カトリーナ、〝だんなさま〟ではなく」
少し拗ねたように言う愛しい存在の重みを受けながら、カトリーナは耳元で名を呼んだ。
迎えた結婚式の日。
オールディス公爵に手を引かれ、カトリーナは夫の元へ向かう。
母譲りのドレスに身を包み、一歩一歩、踏みしめながら。
結局招待客は大聖堂を埋め尽くす程の人が集まり、新郎新婦を祝福した。
国王夫妻を始め、オールディス公爵、リーベルト侯爵夫妻、ディアドーレ侯爵夫妻など、高位貴族は勿論、騎士団の面々は平民騎士までもが参列し副団長夫妻を祝福した。
ジークハルトは叔父であるオスヴァルトの膝に座っていた。オスヴァルトも騎士となり、今度初出征する事が決まっている。
彼の隣にはヴァーレリーがいた。勿論夫と子ども達もその隣にいる。
ランゲ伯爵家の使用人たちも涙を流して喜び合った。
ヴィルヘルムだけは、国王夫妻の代理として執務を担っている為涙を飲んで欠席した。
彼はこの後の披露パーティーにて、国王と入れ替わりで出席する予定だ。
誓いの口付けを交わし、改めて愛を誓う二人は微笑み合った。
数週間後には暫しの間離れ離れになる二人だが、不思議と不安は消えていた。
参列者からの祝福は止まず二人に降り注ぐ。
笑顔の者、涙する者、野次を飛ばす者、様々だったが、後に皆語るのはオールディス公爵の泣き顔だった。
妻の絵姿を胸の前に掲げ、溢れる涙を拭いもせずに娘の晴れ姿を見つめていた。
どちらかと言えば冷徹宰相で知られる彼の一面は、皆の涙も誘発した。……特に響いたのは親友でもある国王で、その夜は二人で飲み明かしたらしい。
余談ではあるが、国王は翌日、二日酔いの頭痛と共にもう一人、式に出席しなかった息子を訪ねた。
長のわだかまりを話し合い、息子に謝罪した。
「身体が動くうちは職務を全うして下さい。
貴方の背中を見るのは好きでした」
帰り際の息子の言葉に、国王が涙したそうだ。
披露宴は招待客が大規模になりすぎて会場が無かった為王宮で行う事となった。
その為伯爵家の使用人だけでは足りず、公爵家、はては王宮の使用人達も手伝いとして駆り出された。
間もなく出征する英雄の結婚式だ。騎士団員ほぼ全員が列席していた為、さながら出征を労う会にもなっていた。
それから。
今回、カトリーナにとって思いがけない人物との出会いがあった。
「カトリーナ、君のお祖父様とお祖母様だよ」
父に紹介されたのは、母方の祖父母だった。
母が亡くなって以来疎遠になってしまっていたが、今回ドレスが母の物なので公爵が招待したのだ。
「大きくなったわね……。よく顔を見せてちょうだい。……あぁ、マリアンヌそっくりだわ。ドレスも、マリアンヌの……よく似合って……」
祖母はぼろぼろ涙を溢しながらカトリーナを抱き締めた。
これにはさすがのカトリーナも涙を堪えられず、化粧を気にしながらもぽろぽろとこぼしていた。
皆が楽しく歌い、踊り、酔い。
結婚式はつつがなく終了した。
「お疲れ様」
「ディートリヒ様もお疲れ様でした」
夜、夫婦の寝室に入った二人は今日の結婚式を振り返っていた。
「思った以上に盛大でしたね」
「オールディス公爵の交際範囲が広すぎたな」
一人娘と英雄の結婚式だ。一番張り切ったのはオールディス公爵だった。それに国王も便乗した為王族並の結婚式となってしまったのだ。
それでも、自分たちの為にしてくれた事が嬉しく、挨拶回りに忙しい披露宴ではあったが心地良い疲労感に包まれていた。
「……あと少しですね」
「……ああ」
隣国との情勢は、一進一退であった。騎士団の出征を聞きつけた隣国が警戒しているせいもあり、積極的に攻める事はまだ無いらしい。
「なるべく早く片付けてくる」
「し、心配はしませんけど!……あまり無理しないで下さいね」
「カトリーナも、ちゃんと食べるんだぞ」
「もう!子どもではありませんのよ?」
ぷくっと膨れた妻の頬を突くと、その指に頬擦りされディートリヒはどきりとした。
「ずっと、お待ちしています。伯爵家の事は私にお任せ下さい」
せめて笑顔で送り出そう。
騎士団副団長の妻として。夫が心置きなく行けるように。
「留守を頼む」
妻の言葉に夫も笑顔で応えた。
隣国との戦は騎士団の活躍もあり早期決着がなされた。元々弱体化していた国の悪あがきであった。
旗印にされた将軍の息子は迷惑だと言ってディートリヒと鍔迫り合ったあとすぐに和平を申し入れた。
「本当、戦争って下らないですよね。侵略して何になるんだか」
「……君は私を恨んでいるのではないか?」
「どうでしょう。人を恨み続けるのは、心が消耗するので好きではありませんね。
……父は根っからの武人でした。きっと戦場で死ねて本望でしょう」
「将軍に付けられた傷は今も残っている。当時は絶望したが、これのおかげで得られたものもある」
「あなたのその表情を見てれば分かりますよ。大切なものを手にしたんでしょう?生に対する執着を得た貴方はあの時より強くなっているのでしょう。守る者がいる男は強い。その者を強く思えば思う程。
アホ陛下に進言します。貴方がいる限り戦いなど無意味だと」
晴れやかな顔をした将軍の息子は剣を鞘に収めた。
かくして戦はディートリヒの宣言通り早期に決着する事となり、被害も最小限に止まった。
アーレンス王国側に戦死者が一人も出なかったのは奇跡である。
隣国は賠償として、王の退任と賠償金を支払う事で合意した。
このとき王が悪あがきをして揉めた為、騎士達の帰還が遅くなってしまった。
最終的に将軍の息子が王の代理となり、和平が成立した。これから先隣国が攻めてくる事は二度と無いだろう。
戦後処理をしたディートリヒは早馬で帰宅した。
半年ぶりの帰還だった。
「カトリーナ、ジーク、ただいま戻ったよ」
庭で息子と戯れていたカトリーナは、ディートリヒの姿を見るなり涙を流して帰還を喜び、息子と出迎えた。
駆け寄ろうとするのを侍女二人が慌てて止め、ゆっくり近付き思い切り夫を抱き締めた。
「とたま、かえーり」
ジークハルトが拙い言葉で父を出迎えると、ディートリヒは息子を抱き上げた。
「ディートリヒ様、おかえりなさい」
「ただいま、カトリーナ……そのお腹は……」
少し膨らんだお腹は、カトリーナが二人目を宿した事を示していた。
「あなたが帰って来たら、色々話したい事があったの」
「ああ、俺もだ。カトリーナ、会いたかった」
もう一度抱き締め、口付ける。再び生きて会えた事を喜び、涙する。
久しぶりに会った妻の涙を拭いながら、三人は屋敷に入って行ったのだった。