記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜

 
「クッソ……クッソ、クッソクッソクッソ、くそぅ!!」

 王宮侍医から手当を受けたデーヴィドは、あまりの憤怒に机をガン!と拳で打ち付けた。

 ディートリヒにやられた傷は鼻が折れ、前歯も数本折れていた。

「やぁっだぁ、デーヴィド、ただの醜悪伯爵に負けたのぉ?」

 いつもなら愛しいシャーロットの声さえ今のデーヴィドには鼻について仕方がない。
 とめどなくあふれる怒りの持って行き場が無く、結局デーヴィドは机をガンガン叩くしかなかった。


 あの日の騒ぎを聞きつけた国王は、デーヴィドを謁見の間に呼び付けた。
 その場には王妃フローラは勿論、第二王子であるヴィルヘルムもいた。

 ディートリヒは救護室を出た後そのまま副団長権限を使用し、国王への謁見を願い出た。
 理由は王太子への暴力だ。
 あの場では妻を守る為怒りに我を忘れかけていたが冷静さを取り戻した彼は重く受け止め騎士団を辞そうと考えた。

 だが事情を聞いた国王は、息子の行いを詫びた。
 婚約破棄をした相手に執務をさせる為だけに呼び付け、暴行を加えようとするなど、いくら王族と言えど看過できなかったのだ。
 ディートリヒへは今まで通り王国を守る様伝え、実質咎め無しとなった。

「お前はカトリーナを何だと思っているんだ。彼女はもうお前の婚約者ではない。ランゲ伯爵夫人だ。一介の貴族夫人を私用で呼びつけ、王族の執務を代行させようとしただけで無くあまつさえ暴行するなど……」

 玉座の肘掛けに置いた拳を、強く握り締めた国王は我が息子の不甲斐なさに怒りを隠せないでいた。

「あなたがそんな事をするなんて……亡くなったマリアンヌに申し訳がたたないわ」

 王妃であるフローラも、我が子のあまりの情けなさに深くため息を吐いた。

「そんな身勝手な奴を王太子に据えておくわけにはいかん。お前など……」

 この時国王は迷った。
 様々な事をしでかしたとはいえ、愛する妻との間にできた我が子はやはり可愛かった。
 ここで怒りに任せて決定してしまっても良いのかと、迷いが生じたのだ。

 その隙をデーヴィドは見逃さなかった。

「カトリーナ、カトリーナ、カトリーナ」

「!?」

「カトリーナ、カトリーナ……、ずっと、父上も母上もカトリーナの事ばかり。
 親友の子だから……。
 実の息子以上にカトリーナを気に掛ける」

 顔を下げていたデーヴィドは、ゆっくりと自身の両親を見据えた。

「元々私の婚約は私の意思ではありませんでした。父上も母上も、私の意見よりカトリーナの意見を重視なさる。
 そんなにあの女が大事なら、養女にでもなされば良ろしかったのです!
 王家の血筋を引いた由緒正しき公爵家の娘ではありませんか」

 それはデーヴィドが幼い頃から少しずつ溜まった不満が爆発した瞬間だった。

「何一つ、私の思い通りにならない。何一つ、私の意見を聞かない。唯一欲したシャーロットを婚約者に据えることすら反対なさる。
 ……あなた方は、いつもカトリーナを優先させる」

 その言葉に、国王と王妃は息を呑んだ。
 実母が亡くなったから、実父が多忙で孤独だから。その理由ばかり見て、実の息子を放っておいたという認識が無かった。

 デーヴィドは幼い頃から聞き分けが良く、面倒見良い王子だった。
 だから。
 このように反抗するなど、二人の間で初めての事であったのだ。


「……すまない、デーヴィド。だが、カトリーナにこれ以降は関わるな。お前の命に関わる」

 力無く、国王ユリウスは答えた。

「二度と関わりませんよ、あんな女。……但し、シャーロットとの婚約は認めて頂けますよね」

「それは……」

「私は今まで散々我慢してきました。一つくらいお認め下さっても良いのでは?」

 ユリウスとて父親である。できれば息子の願いを叶えてやりたい気持ちはあった。
 だが、シャーロットは男爵家の養女となって日が浅いせいか、貴族としてのマナーがなっていない。
 それはデーヴィドの不貞発覚後から調査をし報告を得ていた。
 シャーロットとの婚約を認めるとなればゆくゆくは王太子妃、果ては王妃となる。
 だから国の行く末を考えれば簡単には頷けない事だった。

 考えあぐねていた国王に、それまで状況を黙って見ていたヴィルヘルムが手を挙げた。

「父上、認めて差し上げてはいかがですか」

「ヴィルヘルム!?」

 驚きのあまり声を響かせた国王とは裏腹に、弟の意外な発言に、デーヴィドは胡乱げに見やった。

「仮として婚約してから王太子妃教育を男爵令嬢に施し、会得できれば婚姻を認めるという事にしてはいかがでしょう」

「だが、しかし……」

「何事もやらないままでは兄上も納得しないでしょう。うまくいけば、もしかしたら今までに無い王妃になるやもしれません」

 淡々と無表情に語る弟をどこか不気味に思いながらもデーヴィドはその意見に頷いた。

「そうです父上。シャーロットは他の貴族とは違う目線を持っています。王国に新しい風を吹かせることができるでしょう」

 重い沈黙が流れ、やがて国王は重く長い溜息を吐いた。

「これが最後だ。失敗は許さぬ。令嬢の教育はお前に任せる。見事成し遂げてみせよ」

 その言葉にデーヴィドは頭を垂れた。



「シャーロット、王太子妃になれるぞ」

「えっ、本当?」

 先程決まったばかりの事柄をデーヴィドはシャーロットに伝えた。

「……わかったわ。私、頑張るわね」

 はにかむように、うっとりとシャーロットは答えた。
 その様子にデーヴィドら愛しさを感じ彼女を抱き寄せ口付けた。

「んっ……、デーヴィド、私これから勉強に集中したいから、教育が終わるまで行為は無しにしましょう」

 唇が離れ、シャーロットはデーヴィドがその先に進もうとしたのを止めた。

「なぜだ?俺は今すぐにでも君が欲しいのに」

「ご褒美にするの。教育が終われば沢山愛し合いましょう」

 そう言って、頬に口付けた。
 〝ご褒美〟
 散々シャーロットを貪ってきたデーヴィドだが、それを敢えてご褒美にして頑張るというシャーロットにいじらしさを感じた。

「分かったよ。応援してるよ」

 デーヴィドは額に口付け、再び抱き寄せた。


 この時のデーヴィドは、巻き返せると思っていた。
 初めて己が選んだ女性を妻にして幸せになれると信じていた。

 だが、愛しい人を抱き締め胸に埋めた彼は知らない。
 彼女の冷めた瞳に。

 その本性に。


 そして、両親や弟が水面下で動き出している事に気付いてはいなかった。
 
 王太子の一件があり、カトリーナは伯爵邸で一日を過ごしていた。
 ディートリヒからしばらく屋敷から出ないようにと諌められたのだ。なので家令のフーゴと共に領地関連の仕事をしたり、本を読んだり、刺繍を刺したり。
 時折エリンやソニアたちとサロンでお茶を飲んだりする事が彼女にとって癒やしとなっていた。

『ただの嫉妬だ』

 カトリーナは、あの日の言葉を思い出していた。
 自分が王太子に迫られているのを見て嫉妬してくれたと喜ぶ反面、自身の気持ちに気付かされ、ディートリヒとは顔を合わせづらくなっている。

 ディートリヒも最近は忙しいのか、朝晩の食事を一緒に取ることも難しくなっていた。
 顔を合わせても慌ただしく出掛けたり執務室にこもったりする為、会話もだんだん少なくなっていった。

 その事にカトリーナは寂しさと、不満を募らせる。

(ひ、暇だからね!会いたいわけでは、無いのですわよ)

 誰に言うわけでもなく、1人悶々としていた。
 そのうち無意識に

「旦那様は何時頃お帰りかしら」
「たまにはゆっくりお過ごしになれば良いのに」

 そんな呟きが毎日続くので、聞かないふりをしていた使用人たちはカトリーナの変化に戸惑っていた。

(これじゃまるで私があの人に会いたいみたいじゃない?)

 それは違う、断じて違うと思うたび、思考はただ一人で占められていく。
 本当は気付いている。
 だが、恥ずかしくて否定したい気持ちと、受け入れてくれるか不安な気持ちが混ざってつい言葉に棘ができてしまうのだ。

「あとどれくらいで帰って来るかしら」

 いつもの呟きに

「今日は17時頃にお帰りですよ」

 と、うっかり執事のハリーがカトリーナに漏らすと、彼女の顔はみるみる朱に染まる。

「だ、誰も気にしてませんわよ!?待ってもいませんからね!?」

 カトリーナからすればそれは心の中での呟きだったのだ。誰かに聞かれるなんて思っても無かった。
 だが小さい声ながら、口から発せられたその声は周りの耳に届く。
 その場にいた使用人は、あたふたするカトリーナににこにこしている。

 16時少し前、カトリーナは部屋の中でうろうろしていた。今日のやるべき事を終え、昼過ぎからチラチラと時計とにらめっこしていた。
 そのうち意を決して侍女を呼ぶと、髪型をセットするように言った。

「べ、別に気分転換、そう、気分転換なのよ!」

 そう言いながら顔は真っ赤である。

 侍女のソニアは「きれいに致しましょうね」とにこやかにセットしてくれた。


 17時少し過ぎた頃、そわそわときれいに着飾ったカトリーナは玄関先にさも用事があると言わんばかりにうろうろしていた。

 何度も侍女に「おかしくない?」「変なとこない?」と聞き、その時を浮き立って待っている。

 そのうちカラカラと馬車の音がし、玄関先で止まると、ビクリと跳ねる。
 そのせいか心臓がドキドキ高鳴って誰かに聞かれるのではないかとひやひやした。

 やがて玄関の向こうから声がし、扉が開かれると、ディートリヒの姿が見えた。

 使用人一同が「お帰りなさいませ」と頭を下げると、「ごくろう」と声をかける。
 その中に何故かいつもよりきれいに着飾った妻の姿を見つけて、ディートリヒはドキリとした。

 久しぶりにまともに顔を見た妻は、顔を朱に染め、指先をもちもちさせて俯いている。美しさと可愛らしさが混ざり、何とも言い難い気持ちになった。心なしか何かいい匂いがする。

「おっ、お帰り、なさぃ…ませ…」

 俯き、声を裏返し、恥ずかしさからか消え入るような語尾になった妻にきょとんとしたディートリヒは、やがて破顔し

「ただいま戻ったよ」

 と、妻の額にキスをした。

「っ!すまない、つい、嬉しくてつい……」

「い、いえ、大丈夫です……」

 カトリーナはびっくりして夫を見上げたが、なぜか物足りなさを感じた。

(私、あんなに嫌っていたのに)

 これだけでは足りない。もっと触れ合いたいと思ってまった。だが、それを伝えるのは、はしたないと思われてしまうわ、と浮かんだ気持ちを閉じ込めた。
 だが、それでも気持ちは溢れだす。

 カトリーナは自分でも止められない気持ちを伝えようと、意を決した。

「あ、あの、旦那様、今夜、お話ししたいと思うのですが、お部屋にお伺いしてもよろしいかしら…?」

 最近会話をしていなかったせいか、緊張が先に出て言葉を上手く紡げない。
 それでも可愛い妻から真っ赤な顔で上目遣いに言われ、断る男はいないだろう。

「もちろんだよ。待っているよ」

 戸惑いはしたが、妻から寄って来てくれるのだ。嬉しくないわけがない。

「ほんとですか?お疲れではありませんか?」
「君と話すのは好きだし、疲れも飛ぶから大丈夫だよ。……君こそ、俺と一緒にいて、その…」

 嫌われてはいないだろうが、好かれているなどと都合の良い考えはしていない。そんな妻がいきなり夫と話したいと言って来た。
 ……もしかしたらいい内容ではないかもしれないが、それでも会話ができると思うと喜びが勝る。だがそれは自分だけで、妻は仕方なく話すのではと戸惑いもあるのだ。

「暇なの!そう、暇だから!ちょっとくらいならいいかしら、と思って!大した話ではないのだけれど、旦那様とおしゃべりしながら寝たいなぁと思ったの!では私は下がりますね!晩餐までごきげんよう」

 早口でまくし立て、カトリーナはそそくさと立ち去った。
 時々足元がおぼつかないのかつんのめりながら部屋に戻って行く妻をあ然として見つめながら

「……ちょっと俺を殴ってくれないか」

 そうつぶやいた主に失礼とは思いながらもペちんと叩くのは執事のハリー。

「…………痛くないけど痛い気がする」

 呆然と、ふらふらと部屋に戻る主を生温かく見守りつつ、ハリーはにこにこしながら今日の晩餐の指示を出しに行くのであった。


 その日の晩餐は、なんとなくギクシャクした二人が、なんとなく続かない会話をしながら、なんとなくつつがなく終わった。

「で、では、だんなさま。後程、お伺いしますね」

 カトリーナが退室する際、ディートリヒに声を掛けた。
 頬を染め、瞳を潤ませて。
 照れたような、恥ずかしがったような表情で、きゅっと服を摘んで食堂をあとにする。


 カトリーナが退室してしばらくぼーっとしていたディートリヒは、自身の頬を思いっきりつねった。

「……いたい……」

 知らず知らずのうちに鼓動が早鐘を打つ。
 ごくりと息を呑み、ふらふらと自室へ戻る主の後ろ姿を見ながら、使用人一同は敬礼をした。
 
 念の為ディートリヒはカトリーナが来る前に湯浴みをして埃を落とし、緊張を解すため酒を嗜んで待った。
 カトリーナが記憶を取り戻して以来の夜だ。
 気のせいで無ければ「旦那様とおしゃべりしながら寝たいなぁ」と言っていた。
 健全な意味でも、不健全な意味でも、妻とベッドを共にするのは記憶を取り戻す前夜以来だ。
 あれから半年以上はゆうに経っている。

 帰宅した時のカトリーナの可愛さに思わず額にキスをしてしまったが、嫌がられなかったな、とふと思い出す。
 それどころか、少し残念なような、ねだられるような表情を思い出し、ディートリヒの鼓動は高鳴っていった。

 いや、気が変わって少し話しただけで帰るかもしれない。もしかしたら来ないかも。過度な期待は虚しいだけだ。
 自分は醜悪伯爵。最近いい感じに距離が近付いて来たとはいえ、元々カトリーナからは嫌われていた。
 確かに今は嫌われてはいないだろう。だがそれは男として、夫としてというよりも、保護者としての意味合いが強いのではないか。
 そもそも罰として自分に嫁がされて来たのだ。記憶が無いときに短かったとはいえ蜜月も過ごした。それだけで充分ではないか。
 そう思って酒をぐっと煽る。
 するとコンコン、とか弱いノックが響いた。

「どうぞ」

 カチャリと音がした扉の方を向くと、カトリーナが、夜着姿で立っていた。
 侍女に磨かれたのか全身ツヤツヤして、離れていてもいい匂いがする気がする。

 ごくりとディートリヒの喉が鳴る。
 ばくばくと部屋中に響き渡るかのように鼓動が高鳴る。

 カトリーナは部屋の中に進み、ディートリヒの座るソファにちょこんと座った。

「わ、わたくしは別に、その、ただお話しできたらって思ってたんだけど!最近全然お話できなかったし!けど、そのっ、ソニアたちがっ勝手になんか勘違いしちゃって!香油とか塗られてるから匂いがするかもですけど、ただお話ししたいだけですのでっ!」

 顔を真っ赤にして声をひっくり返しながら一気にまくし立て、ぷいっとそっぽを向いたのに、体はつついっとなぜか夫との距離が近くなる。

「あ、あ、ああ…、うん、その。お話し、しよう……か…?」

 口を手で覆いながら、妻の可愛い行動に心臓ばくばくのディートリヒはどうすれば良いのかわからず、とりあえず妻に同意して頷いた。

「でっ、では、あちらに!あちらに行きましょう旦那様!」

 すくっと立ち上がり、カトリーナは夫の手を取りグイグイ引っ張る。
 〝あちら〟の方角にあるのは大きなベッドだ。そう言えばおしゃべりしながら寝たいと言ってた気がするな、と、ディートリヒはぐるぐるする頭の中で考え、躊躇した。

 ただでさえ可愛くて仕方ない妻がベッドに誘ってくる。記憶が戻る前はそのベッドで何度も睦み合った。だが記憶が戻ってから半年以上、ずっと独り寝だった。もちろん娼館通いもしていない。夫婦の寝室もその間使われていない。
 今もし妻とベッドを共にすれば、我慢できなくなるのは目に見えている。
 傷付けたくないし嫌われたくないからうかつに手を出す事はしたくない。とはいえ何もしない自信は全く無い。
 本音を言えば以前のように触れ合いたいのだ。
 この誘いを断るなど勿体無くてできない。
 だが自分の欲望を、想いを、ぶつけていいのか。
 そもそもカトリーナはただ話をしたいだけで、そんな気は無いだろう。でも──

 ディートリヒは思考の渦に嵌ってしまっていた。

「……旦那様?」

 ぐいぐい引っ張るが一向に動かない夫を、カトリーナはこてんと首をかしげて見てみた。

「ああ……うん、その。ソファで、座って、おしゃべりでは、いけないだろうか?」

 正直同じ部屋で、可愛い妻のいい匂いが鼻をくすぐるだけでも何とも言えない心地になる。
 自身のおとなしくしていてほしい部分もそわそわしている。
 心の中で必至に「ハウス!出番は無い!」と訴えかけてはいるがどうにも出しゃばってきそうで落ち着かない。
 健全な意味でベッドを使うなど、ただ横になって他愛もない話をするなど、今夜のディートリヒには無理な話だった。

 そんな夫の葛藤も知らず、カトリーナは

「一緒に寝たいのです…」

 と、もじもじ答え、チラチラと見てくる。
 これにはディートリヒの理性もあっさりと瓦解しそうになった。

 自身の理性はある方だと思っていたディートリヒは、心の中で嘆息した。

(君の行動一つで惑わされる……。自分がこんな堪え性の無い男だとは)

「……一緒に寝ると言うことは、薄衣一枚纏わぬ姿になるという事だぞ?」

 妻の腕をがしっと掴み、低い声で唸る様に呟いた。

「……はい…」

 かすかに聞こえたカトリーナのか細い声は、是を示す。
 それを聞いて弾かれたようにディートリヒは頭を上げた。

 カトリーナは頬を染め、夫を見つめた。そして掴まれていない方の手で夫の手のひらを取り、自分の頬にあてる。汗ばんだ大きな手が、彼女の赤らんだ頬に添えられた。
 その瞳は心無しか潤んでいる。

「悪女で、高慢ちきで、家族にも友人にも見捨てられた私を、旦那様はそばにいてほしいと言ってくれました。記憶が無い時も、記憶が戻ってからも、変わらず、優しかった」

 少し震える掠れた声。
 これから起こる事はカトリーナにも分かっている。
 だが王太子に組み敷かれた時、自分に触れるのは目の前のこの人でないと嫌だと自覚した。
 その優しさでカトリーナを包み、ずっと心の鎧が剥がれるのを待っていてくれた人。
 常に温かい気持ちで、冷えきった心を溶かしてくれた人。
 誰かを愛し、誰かに愛される事を教えてくれた人。
 自分の気持ちに気付けば、溢れ出す想いは止まらなかった。

 だから。

「これからも、おそばにいさせてください」

 目を潤ませ、懇願するように縋りついてくる妻を邪険に振り払う事はできなかった。
 ディートリヒは元よりカトリーナを手放す気は無い。愛人を作ってもいいとは言ったが、本当にできてしまったらと考えると胸が焼き切れそうだった。

「もう、手放してやれないぞ?愛人を作る事も許さない。それでもいいのか?」

 必死に、理性を総動員させ、腕を掴んでいた方の手は妻の指に絡め、頬に添えた手も、背でなぞる。

 カトリーナは唸るようなその声が、ただただ愛おしいと感じた。自分を欲している目の前の男が欲しい。
 夫に求愛するように、ディートリヒの指に唇を寄せた。

「愛人なんていりません。あなたがいれば、それだけで」

 瞬間、ディートリヒは妻を抱き寄せ口付けた。
 軽く触れるようなそれが何度も繰り返される。
 もう、離れたくないと言わんばかりに次第に深いものに変わっていく。
 貪るように堪能し、腰を引き寄せる。
 しばらくして唇を放すと潤んだ瞳とかちあう。

「もう我慢しない。愛している」
「わたくしもです。だんなさま…」

 そうして気持ちを確かめあった夫婦は、離れていた時間を埋め合うように情熱的な夜を過ごしたのだった。
 
「だんなさま、行ってらっしゃいませ」

「ああ、行ってくるよ」

 毎朝のランゲ伯爵邸の日常は、伯爵夫妻のいちゃいちゃから始まる。

 あれから毎晩二人は一緒に寝るようになった。
 カトリーナがディートリヒへの好意を自覚すると、途端に溢れ出す気持ちは態度に出るようになった。

 ディートリヒは抑えてはいたが漏れ出ていた好意を隠さなくなった。
 まず、したくてもできなかったプレゼント攻撃が始まった。
 花束、お菓子から始まり、宝石など毎日のように何かを買って来てはカトリーナに贈るのだ。

 最初は喜んでいたカトリーナだったが、毎日続くとさすがにやりすぎだと怒った。

「物を頂くのは嬉しいです。でも何を買うか迷って時間が経って、その分だんなさまと過ごす時間が減ってしまうのが寂しいです」

「そうか……」

 彼とて妻に気持ちを示す物を贈りたい。カトリーナもそれはよく分かっていた。

「だ、だからっ。買いに行く時間があるなら、物はいらないので、だんなさまと一緒に、いたいのです……」

「分かった。寄り道せずにすぐに帰ることにするよ」

「一緒にいれる時間が増えますね!」

 妻の笑顔には勝てないディートリヒだった。


 カトリーナも甘えられるようになった。
 普段はしっかり者で働き者の彼女だが。

 休憩時など手が空いた時、ディートリヒに近寄り、さり気なく服をつんつんして気を引く。
 上目遣いも忘れない。
 ディートリヒの気が引けたらふわりと嬉しそうに笑うのだ。
 そんな妻がかわいくて仕方ないディートリヒは、毎日顔が緩みっぱなしである。

 こんな初々しい姿かと思えば、夜は貪欲に夫を求める。

 たった一つ、不満があるとすれば、カトリーナは「だんなさま」としか呼ばない。
 あの日。
 カトリーナが名前を呼んだのは、王太子から助けられたあの時だけだったのだ。
 紹介するときに呼ばれた事はあったが、ディートリヒは常に名前で呼んで欲しいのだ。
 夜に夢中になりすぎて呼ばせる事はある。
 だが、自発的に日中も呼んで欲しい。
 ただ、「だんなさま」と呼ばれるのもいやではないので、どちらかで悩ましくはあるのだ。
 結局は愛しの妻から呼ばれるなら、どちらでも、何でも嬉しいのがディートリヒという男であった。

「ま、それはおいおい、という事で」

「?どうかなさいましたか?」

「いや。……そう言えば、今度の休みの日、出掛けないか?」

「デートですか?おしゃれしなきゃですね!」

「デートというか、以前言ってた……」

 ぱあああっと効果音が鳴るのではと思うくらい、カトリーナは顔を綻ばせる。
 るんるんと何を着て行こうか侍女と話し始め舞い上がっているカトリーナを、ディートリヒはある場所へ連れて行きたかった。そこである人物に会わせたいのだ。


 ディートリヒの休日、伯爵邸から出発した馬車は、目的の場所に着いた。

「ここは……」

 カトリーナにとって見慣れた風景。
 産まれた時から嫁ぐまでいた場所。

 そこは、オールディス公爵邸だった。

 なぜディートリヒがここに連れてきたのか見当も付かないカトリーナは、まさかそんな、と不安になってエスコートする夫を見上げた。
 だがディートリヒは微笑むだけでゆっくり進む。

(これだけ夢中にさせといて、まさか、そんな)

 不安な気持ちを紛らすようにドレスをきゅっと握りしめた。


 公爵邸の玄関をくぐると、カトリーナには見慣れた執事が出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ、ランゲ伯爵、ならびにご夫人様」

 うやうやしく礼をする見慣れた執事に戸惑いながら挨拶をすると、目を細めて懐かしむような眼差しを向けられた。

 それから見慣れた廊下を案内され、向かった先は応接間。
 ディートリヒに促され、ソファに腰掛けるがカトリーナは落ち着かなかった。

「だんなさま、あの、どうしてここへ?」

「うん?勿論お義父上に会いにだよ」

 やはり、とカトリーナは胸がざわついた。
 それならば今までお世話になったと笑顔で言わなければならない。
 だが口ははくはくするだけで声が出ない。
 そのうち瞳からぽろりと雫がこぼれた。

 それを見たディートリヒは慌てた。

「な、ど、ちょ、」

 慌てすぎてあたふたするが、何とかハンカチを取り出しカトリーナの涙を拭う。

「だん…だん、なさま、今、まで……っ、お世話に……なり……っく、ましっ……ぅう……」

「待った!待って、誤解してるだろう!?君をここに帰すために連れて来たんじゃないから!」

 嗚咽を堪えながら発したカトリーナの言葉で、涙の原因を察したディートリヒはすぐさま否定した。
 以前実家に帰りたいと言ったカトリーナに反対した彼が、今、こうしてカトリーナの実家に連れて来たのだ。
 そういう事だろうと思ってしまったカトリーナが泣いてしまうのは仕方ない。

「……ふ、では、っ、なぜ、ここに……っ」

 未だ涙が止まらないカトリーナを安心させようと、ディートリヒは抱き寄せた。

「前に言った事を覚えているか?お義父(ちち)上の予定を聞いてみると。君とお義父上を会わせる為だよ。結婚して一度も会えてなかっただろう?」

 カトリーナは、はた、と思いだした。
 確かにマダムリグレットから帰宅したあと手紙を見せられ、一度会いに行こうと言っていた。

「でもっ、それは、お父様が私を捨てたからっ……」

 記憶が戻った当初、カトリーナは父親宛に手紙を出した。だが返事は『引き取らない』だった。
 あの時の絶望は忘れられない。

「いつか手紙を見せただろう?婚姻してすぐからお義父上とは手紙のやり取りをしていたんだ」

「……へっ」

 その言葉が意外過ぎて、カトリーナの涙は引っ込んだ。
 机仕事が苦手なディートリヒが、妻の父に手紙を書いていたというのに驚いた。
 しかもやり取りという事は一度では無いと言うこと。
 当主決済でさえ集中力がすぐに欠けてしまうのに、と。

「君の様子をずっと、お義父上に手紙で報告していたんだよ」

 カトリーナは更に混乱した。
 自分は見捨てられたはずだと思い込んでいた。
 だが自分の知らないところでずっと夫と父は繋がっていたと言う。

「お義父上は、ずっと君を心配していたんだよ」

「う、そ……嘘ですわ。や、やっぱり、だんな……っさまはっ、私を……」

「嘘じゃない。それに俺は君を離さないと言っただろう?」

「で、ですがっ」

「信用できないなら信用してもらえるように今以上に愛を注がねばならないな」

 ディートリヒが上目遣いで妻の手に口付けをすると、カトリーナは顔を赤らめ気まずそうに目をそらした。

 そして再び見つめ合い、互いの顔が触れるくらい近付くと

「……あのー、僕の存在忘れてる?」

 二人が肩を跳ねさせて見た先にいたのは、オールディス公爵その人だった。
 
「いやぁね?ディートリヒ君から娘の様子は聞いてたけどね?まさかね?実家でいちゃついてるなんて思わないよね?」

 にこにこ語るオールディス公爵を前に、ランゲ伯爵夫妻は真っ赤にして俯いている。

「申し訳ございません」

 いたたまれなさから謝罪の言葉しか出ない。
 カトリーナに至ってはディートリヒの手を握ったままずっと顔を上げる事ができなかった。

「良いんだよ。むしろ君が娘を溺愛してるのが見れたし。救国の英雄も形無しだね。分かるよ。可愛いでしょ、うちの娘は」

「勿論です。他のどの女性より可愛いです。それに美人で優しく、思いやりあふれる女性です。更に言うなら優秀で頼りがいのある妻です」

「大絶賛だね。でも、そうだろう、分かるよ。僕とマリアンヌの娘だからね。
 何よりマリアンヌが生命かけて産んだ子だ。誰より可愛い」

 オールディス公爵アドルフは、妻の事を思い返していた。
 二人は珍しく恋愛関係で結ばれた結婚だった。妻のマリアンヌは元々身体の弱い人だったが、残念ながらカトリーナが三歳の時、風邪をこじらせて儚くなっている。

 この時カトリーナは、母方の祖父母と疎遠となってしまっていた。
 父方の祖父母は領地に引き揚げているし、とある理由からアドルフが出さなかったので会えなかった。

 それ以降、寂しさと悲しみを埋めるように公爵は仕事に打ち込み、カトリーナを孤独にしてしまった一因となった。
 その事に気付いたときにはカトリーナは王太子の婚約者となっていたし、益々時間が取れず父娘の会話も乏しかった為、実家から「引き取らない」という返事が来た時も絶望はしたが心のどこかでカトリーナは分かっていたのだ。

 だから、今、父と夫が自分の事を言い合っているのが不思議だった。

「王太子から婚約破棄されたと聞いた時は、一瞬よっし、て拳握ったんだけどね。結局僕じゃ仕事にかまけ過ぎて娘を守れないからね。
 指名されたのが君で良かったよ」

「あの時は彼女を傷付けた王太子殿下に憤りましたが、今となっては感謝ですね」

「感謝するの?う〜ん、私としては複雑なんだがね。まあ、確かにああでもしない限りは、接点も無かったしなぁ」

「……あの、なぜだんなさまで良かったと……?」

 カトリーナは躊躇いつつ、疑問を口にした。『指名されたのが君で良かった』というのが何故だか分からなかったのだ。

「ランゲ伯爵の通り名は知っているよね?」

「ええ」

「そう、『救国の英雄』もしくは『王国の盾』。ランゲ伯爵のもとはね、王国内で一番安全と言える。例え王族でも立ち入れない」

「えっ」

 カトリーナは驚いた。先の戦での活躍は知っているが、そこまで絶賛されているとは知らなかったからだ。

「まぁ、単騎駆けで一個隊殲滅して将軍倒せばね。それが決め手となって戦に勝利したし。
 味方からしたら頼もしい事この上ないけど敵に回したくないよねぇ」

 苦笑するオールディス公爵に、「買いかぶりすぎです」と恐縮する夫を見て、二の句が告げなかった。そんな頼もしい人が自分を愛して守ってくれていると思うと、何だかむずがゆくなって俯いた。

『世界中の誰を敵に回しても君を守る』

 いつかの言葉を本当に実現できそうな夫に益々好きだという気持ちがあふれてきた。

「カトリーナは王太子には勿体無いよね。婚約が決まった頃の僕は自暴自棄だったし、親友の頼みだから仕方なくだったんだよ。
 二人の子を公爵家に貰う条件で」

 カトリーナの母が亡くなって、公爵は後添いも愛妾もいなかった。
 ゆえ、カトリーナは一人娘である。
 カトリーナが王家に嫁げば跡取りがいなくなる為、二人の子を一人公爵家へ養子を出す事で渋々了承した婚約だったのだ。

「だから、君達の子を養子に貰おうと思ってる。……今更ランゲからオールディスにはならないだろう?」

 その言葉にカトリーナは顔を上げた。

「私は、ランゲ伯爵夫人です。オールディス家には戻りません」

 繋いだ手にぎゅ、と力を込めた。
 その様子に公爵は目を細める。

「うん、戻って来てはだめだよ。……でも、たまに帰って来るくらいは良いからね」

「お父様……」

「カトリーナ、寂しい思いをさせてすまなかった。……君が今、ランゲ伯爵に大切に想われていてホッとしているよ」

 オールディス公爵は娘に頭を下げた。
 それを見て、十数年、自分は見捨てられたわけではなかったと、カトリーナは胸が熱くなった。
 父も不器用ながら守ってくれていたのだと実感する。

「養子の話はまだ先なので保留にしておいて下さい。授かりものですし、何より子どもの意向を尊重したいです」

「うん、それでいいよ。もしどうにもできそうにないなら他から養子を迎えればいいだけさ」

 オールディス公爵はウインクしておどけたように見せた。

「ところで」

 神妙な顔つきで、公爵が口を開く。

「今日はカトリーナの好きだったお菓子を用意させたんだけど……気に入らなかったかな?」

 しゅん、と音が鳴るように落ち込む公爵にカトリーナは慌てて否定した。

「ち、違います!好きです!好きだけど、最近はちょっと嗜好が変わったというか、前に好きだったのが受け付けなくて」

 あまり接点が無い父ではあったが、使用人を通じてカトリーナの嗜好は把握していた。
 なので今日接待すると決まった時、好きなお菓子でおもてなししようと出したのだが、カトリーナはあまり手を付けていなかったのだ。

「まぁ、大人になれば味覚も変わると言うしね。あとは……ああ、マリアンヌが身ごもった時にも変わったなぁ」

 はぁ、と溜息を吐く父を見て。
 いや、父の言葉を聞いて、カトリーナは、はた、と思考が止まった。

 最近お菓子だけでなく食に関して嗜好が変わった。
 大人になれば味覚も変わると思ってはいた。
 伯爵邸の食事が美味しいのもあるが、幼い頃は苦手だった物が好きになったりはあった。
 だが、好んで食べていた物を敬遠するのはあっただろうかと疑問に思っていた。
 先程の父親の何気ない一言が、不思議とすとんと落ちた。

 無意識に自身のお腹に手を当てる。

「え、まさか」

 公爵もそんなカトリーナの行動を敏感に察知した。

「い、医者ーー!!誰かっ!医者を!!」

 公爵の叫びが屋敷に木霊する。
 すぐさま侍医が呼び寄せられ、診察が行われた。

「おめでたですね。三ヶ月に入ったところでしょうか」

 侍医が難なく告げる。

「お……おお!」

 公爵が喜びから声を漏らす。
 カトリーナも不思議そうにお腹に手を当てているが、ディートリヒは先程から呆然としていた。

 カトリーナは遠くを見ているディートリヒに近寄り、隣に座った。

「だんなさま」

 呼び掛けるが返事が無い。
 カトリーナはこほんと咳払いをして。
 すーはー、と深呼吸をする。

「ディ……ディートリヒ……さま」

「……ハッ!?」

 カトリーナの小さな名前を呼ぶ声でディートリヒは意識を取り戻した。

「だん……ディートリヒ……様との、赤ちゃん、授かりました」

 照れ笑いながら、カトリーナは告げる。
 ディートリヒはゆっくりとカトリーナに向き直ると、次第に顔をくしゃりと歪めた。
 そしてゆっくりと、抱き寄せる。

「ありがとう、カトリーナ」

 お腹を刺激しないように、そっと。
 締め付けないように優しく。
 壊れものを扱うように抱き締めるとカトリーナも背中に腕を回した。

「あー、だからね、君たち。僕の存在……。……まぁ、いっか」

 この時ばかりは夫婦の喜びを邪魔するまいと、オールディス公爵は静かに部屋をあとにした。
 
「という夢だったんじゃないかと思ったんだが、夢じゃないんだな」

 少しずつ出てきたお腹に頬を寄せ、ディートリヒは胎動を待っていた。
 時折ぽこり、と動くお腹につい顔が緩んでしまう。


 公爵邸から帰って来て、じわじわと実感が湧いたディートリヒはすぐさま使用人達に通達し、その日は屋敷上げての宴会となった。
 ある者は泣いて喜び、ある者は歌い、カトリーナの懐妊を祝った。

 翌日仕事帰りのディートリヒは、寄り道して買ったという赤ちゃん用の服やおもちゃを馬車いっぱいになるくらい持ち帰り、使用人に驚かれ、カトリーナに呆れられた。

「まだどちらか分からないのに、こんなに沢山買ってどうするんですか!」

 カトリーナに怒られてしゅん、となったディートリヒだった。

 それから実感すると身体が反応するのか、悪阻が始まりディートリヒはおろおろするしかなかった。
 朝、目覚めと共に襲って来る吐き気に耐える妻の背を擦り、食べやすく切った果物を口に運ぶ。
 少しでも辛そうにしている姿を見ると心配そうにするので、ディートリヒの乳母を務めていた侍女長も、頼りない主に代わりカトリーナを支えた。
 悪阻も4ヶ月を過ぎた頃には収まり、今度は「好きなものを食べろ」と沢山食べさせようとするディートリヒだったので、使用人一同に怒られる様もあった。

 親戚には安定期に入ってから報告した。
 とはいえオールディス公爵家は既に知っていたし、ディートリヒも一番に知らせたい両親は既に鬼籍の為、安定してから墓前に報告した。


「そう言えばディートリヒ様のご家族の事聞いてませんでした……」

 記憶喪失の時、一度は話した事はあるが今のカトリーナは覚えていない。
 その事に気付きディートリヒは少しばかり寂しくなった。

「姉と弟がいるよ。姉は他国に嫁いで行ったし、弟は騎士団の寄宿舎に入ってるから年に何回会うかな、くらいだ」

「寂しくはありませんか?」

 上目遣いで見てくるカトリーナは、何気なく聞いてくるが、ディートリヒは息を飲んだ。

(記憶が戻っても、君は変わらないな……)

「ああ……。使用人たちもいるし、今は。
 ……君と、お腹の子もいるからね。寂しくはないよ」

「そっ、そうですわね。私がいるからには寂しいなんて言ってる暇はありませんからね」

 言いながらカトリーナは嬉しそうにはにかむ。
 きっとこれから家族が増えて賑やかになりそうだ、と未来に希望も見えてくるのが嬉しかった。

「でも、いつかはお義姉様と義弟さんにお会いしたいですね」

「……そうだな。二人ともちょっと個性的ではあるが、悪い人では無いと思うから君も仲良くしてくれたら嬉しい」

「お任せください!社交は貴族夫人の務めですもの。……まあ、今は、社交はお休みなんですが」

「そう言えば、王城主催の夜会の招待状が来ていたよ。そこから社交も再開すれば良いよ」

 王城主催の夜会は、全貴族出席しなければならないものだ。
 カトリーナは結婚して以来、社交界からは遠くなっていた。

「うまく、できるでしょうか」

 不安で表情が固くなるカトリーナだったが、社交は貴族夫人の大事な仕事。逃げるわけにはいかないのだ、と自分に言い聞かせる。

「そうだな……。騎士団長に相談してみよう。
 団長も夫人と参加するだろうから」

「騎士団長……ディアドーレ侯爵様ですね。夫の上司ですからしっかり挨拶しないといけませんね」

 まずやる事ができた、とカトリーナは気合を入れる。
 今までの交流は途絶えても、ゼロから始めれば良い。そのきっかけを夫に貰えたなら、あとは自分が頑張るだけだ、と切り替えた。
 そんな妻をディートリヒは眩しそうに見つめた。

 辛い事があっても、道が塞がっているように見えても、カトリーナは己を鼓舞し常に上を向いていた。
 そんな彼女に惹かれたのだと、改めて感じたのだ。
 記憶が無い時も、戻っても、彼女の本質は変わらないのだと、ディートリヒは嬉しくなった。

「…………カトリーナ」

「どうしました?」

 ディートリヒは跪き、カトリーナを見上げた。

「カトリーナ・オールディス公爵令嬢。私は一生、貴女を守り、愛する事を貴女に誓います。
 どうか私と結婚してください」

 そうして懐から取り出したのは指輪だった。
 きっかけは王太子の命令で仕方無く結ばれた婚姻だったが、ディートリヒからすれば僥倖だった。
 今は結婚して子どももお腹に宿ってくれた。
 だが、カトリーナにはきちんとプロポーズをしたかったのだ。

 跪いたディートリヒをきょとんと眺めていたカトリーナは、やがて眦に涙を溜めた。

「も、もう、だんなさま、私たち、結婚してる、……のに……」

「王太子殿下の命令で結婚した、では無く、君を望んで結婚したんだ。という事にしたいんだ。
 ……カトリーナ、返事を」

「もちろん、喜んで!末永く、よろしくお願いしますわ」

 カトリーナは瞳から溢れる涙を指で拭った。
 ディートリヒは笑顔で応えるカトリーナの左の薬指に、キラリと光る指輪を着ける。その指輪に口付けた。

「子どもが産まれて落ち着いたら結婚式も挙げよう」

「……はい」

 今、自分は間違い無く幸せだと胸を張って言える。

 隣に立つのがこの人で良かったと、カトリーナは笑顔で夫を見上げた。



 気付けば、望まぬ婚姻をした日から一年以上が経過していた。
 
 王城主催の夜会は全貴族が招待され、会場は人だかりができていた。
 ランゲ伯爵夫妻も揃いの衣装に身を包み、互いの瞳の色の宝石を身に着け参加した。
 宵闇に煌めく濃紺のドレスには星空のように小さな宝石を散りばめている。
 お腹周りがふっくらしてきたカトリーナに配慮したゆったりとしたものだった。

 身重の妻を気遣い、片時も離れずエスコートするディートリヒも濃紺の衣装である。
 ゆっくりとした歩調で、常に妻の腰に手を回し妻に見惚れる男たちを牽制していた。
 愛され幸せオーラ満開の伯爵夫人は、隣でエスコートする夫に微笑みかけている。
 その姿は周囲を圧倒させるほど美しく、また艶めかしい。かと思えば少し大きくなったお腹に愛おしげに手をあてる姿は母性と女神性を感じさせた。

「これはこれは……」

「騎士団長」

 顎に手を当てて興味深そうに見ているのは、騎士団長ディアドーレ侯爵。その隣には最愛の夫人が夫の腕に手を添えている。

「初めまして、ランゲ伯爵夫人。私は騎士団長をしているディアドーレだ。こちらは妻のアリーセ」

「初めましてディアドーレ侯爵夫妻様。ランゲ伯爵夫人カトリーナと申します」

 騎士団長夫妻に挨拶をすると、早速アリーセがカトリーナに興味を持ったようで。

「まあ可愛らしい奥様ですわね。ランゲ伯爵も罪な男だわ」

 ふふふ、と口元を扇子で隠して朗らかに笑った。

「ええ、とても可愛らしい妻を迎えられて私も光栄に感じております」

 人目も気にせず妻と見つめ合うと、周りからざわめきが起きた。
 カトリーナの醜聞は過去となったが、久々の社交界復帰に貴族たちは興味津々であった。

『王太子殿下から婚約破棄をされ、醜悪伯爵に嫁がされ、泣き暮らしているだろう』

 カトリーナがいない間囁かれた噂は、ともすればいい気味だ、とほくそ笑まれていたが、実際は以前にも増して幸せそうに微笑む姿を見せつけられ、驚いた者が多数だった。

 その中には、王太子デーヴィドと、婚約者となったシャーロットの姿もあった。
 王族用の高くなった場所にある席に座った二人は、苦虫を噛み潰したような表情で見ていた。

 それから程なくして、国王ユリウスが立ち上がり手を挙げると、貴族たちは一斉に頭を垂れた。

「皆のもの、よく集まってくれた。まずは楽にしてくれ。
 今宵の夜会で発表する事がある。……デーヴィド、前へ」

 国王に促され、デーヴィドはシャーロットを伴い前に出た。

「この度婚約する事になったデーヴィドと、その婚約者シャーロットだ。
 二人とも、挨拶を」

「皆の者、我が愛するシャーロット共々、よろしく頼む」

 デーヴィドが挨拶をし、シャーロットが薄く笑みを浮かべ腰を落とした。
 周りの者たちから拍手が沸き起こる。

 カトリーナは先程の挨拶を正確に理解し、複雑な表情を浮かべた。



 それからは歓談の時となった。
 デーヴィドはシャーロットと共に挨拶に回っていた。
 彼らから離れた場所で、カトリーナは今度はリーベルト侯爵夫妻と談笑していた。

「カトリーナ様、今度ウチの宣伝に協力して下さいませんか?」

「宣伝ですか?」

「ええ、ハンドクリームの宣伝を、夫婦で」

 マダムリグレットのハンドクリームは、ランゲ伯爵家使用人の間で大好評で、それは使用人仲間を通じて他家にも徐々に浸透しつつあった。
 さすがに使用人たち全員に買う家は少ないものの、侍女から貴族夫人におすすめされ、更に夫人たちの間で拡がり、マダムリグレットはその地位を確立しているのだ。
 更に販路を拡げたいフィーネは、カトリーナに宣伝を手伝ってほしいと言ったのである。

「私は構いませんが……」

「ああ、カトリーナが良いのなら」

「では決まりですわね」

 この夜会はデーヴィドとシャーロットの婚約発表を兼ねているが、実際の注目はランゲ伯爵夫妻だった。
 誰よりも輝き、慈しみ合う夫婦の様は皆の目を惹き付けていた。

「カトリーナ様」

 フィーネと和やかに歓談するカトリーナに不躾な声を掛けたのは、彼女が注目を浴びるのが面白く無い女性だった。
 隣にいる男が一瞬強張ったような顔をしたが、女性は構わずカトリーナに近付いて行く。

「お久しぶりですわ、カトリーナ様。私の事を覚えていて?」

 その女性──シャーロットは、エスコートをするデーヴィドの制止も聞かずカトリーナに話し掛けた。

「……さぁ?どちら様でしたかしら」

 カトリーナは頬に手を当て、心底分からないという表情でシャーロットに目を向けた。

「まだ記憶が戻ってないの?まあいいわ。
 私、デーヴィドと婚約したの。未来の王妃は私よ」

 胸を張って答えるが、カトリーナは表情を変えない。
 今の彼女は、あの頃のようにデーヴィドに縋らなければならない程の者ではない。だから。

「この度はおめでとうございます。お二人の幸せを心よりお祈り申し上げますわ」

 ゆったり笑み、ドレスを摘み腰を落として礼をした。

「く、悔しくないの!?デーヴィドはあなたではなく私を選んだのよ!?
 未来の王妃は私のものよ!!」

 悔し紛れか、シャーロットは声を荒げて叫んだ。
 カトリーナは目を細めその醜態を見つめている。それは自身の過去の行いをまざまざと見せ付けられているようだったのだ。

(ああ……。気付かないうちの私はこんなにも醜く愚かだったのね)

「私は、王太子妃には相応しく無かったのですわ。かつての己は責務を投げ打ち、無様を晒しておりました」

 胸に手を当て、自身の過去を省みるように目を伏せた。そして隣に立つ夫を見上げる。

「ですが、夫との出逢いが私に気付かせてくれました。己の使命を理解し遂行する彼こそ、正しい在り方なのだと」

「カトリーナ……」

 微笑んだまま、カトリーナはシャーロットに目を向けた。

「夫の隣にいる事は、私にとって王太子妃になるよりも価値のあるもの。だから私はもう、デーヴィド様の隣ではなく、夫であるディートリヒ様と共に国を支えていく所存ですわ」

「……っ…」

 胸を張り、高らかに宣言するカトリーナは誰よりも美しく、誇り高く。
 ──その姿にデーヴィドは見惚れ、そして。
 己の手から大切な何かが零れ落ちたのを感じていた。

「シャーロット、行こう……」

「待ってよ、私はまだ……!」

 まだ叫ぶシャーロットを引き摺りながらデーヴィドは奥へと歩を進めて行く。

 その様を、カトリーナは姿が見えなくなるまでじっと見据えていた。

(さようなら、デーヴィド様。……幼い頃側にいて下さった事だけは感謝致します)


「カトリーナ」

 隣に立つ夫を見つめ、カトリーナは微笑んだ。

「君は綺麗だよ」

 夫からの唐突な賛辞に、カトリーナはたじろいだ。

「とても、美しいよ」
「な、ちょ、だ、まっ」

 なおも止まらぬ賛辞に、カトリーナは慌てふためいた。普段、ディートリヒから愛を囁かれる事はあるが今は人目がある場所。
 それもはばからずただ妻を見つめる夫の意図が分からず、どうして良いか分からなかった。

「君の美しさは内面からなんだろうな。己を反省し改め、王太子殿下の幸福を祈れる君は美しい」

 カトリーナは夫の言葉に瞳が揺れた。

「わ、私は、ただ、だんなさまに相応しい淑女でありたいだけですわ。……きっと、あなたなら許してしまうと思って」

「君を害するならば許さないがな。それに君は魅力的だから俺の方が飽きられないように努力しないと」

「ま、また、もう、すぐそうやって……」

 顔が火照るのが止まらず、カトリーナは扇子で仰いだ。
 頬の赤みが落ち着く間に一呼吸して、夫に寄り添う。

「私が愛するのはただ一人、ディートリヒ・ランゲ伯爵ですわ。貴方以外、いらないのです。だ、だから。……わ、私を離さないで下さいませ」

 言ったそばから再び赤くなる。そんな妻を見て、ディートリヒは微笑んだ。

「ああ。ずっと一緒にいてくれ。
 愛している、カトリーナ」

 手を取り口付けをし、愛を乞う夫にカトリーナは花が綻ぶような笑みを返した。

「私も、愛していますわ。ディートリヒ様」


 途端に周りからどっと拍手が沸き起こった。
 二人の世界に浸りかけていたがハッと我に返り、照れ笑いながら祝福を受けていた。




 この夜会の数日後。
 王太子デーヴィドの臣籍降下が発表された。
 突然の発表に世間は震撼し、様々な憶測を呼んだが、信憑性が高いのは婚約者となったシャーロットの素行不良であった。
 カトリーナとの婚約を破棄した以前より複数の異性と親しくしていたという噂、そしてその後王太子妃を望んだにも関わらず妃教育に向き合わず遊び呆けていた事、更には第二王子に擦り寄って行った事が公となり、追放されたと見られている。
 ただ、デーヴィドが見離さなかった為真実の愛たるや、と世間で話題になった。

 新たに王太子の座に就くのは、かねてより優秀だと噂されていた第二王子ヴィルヘルム。
 オールディス公爵とランゲ伯爵の推薦もあったと言うからこちらも王太子の件含めて色々推察がなされた。が、どれも推論に過ぎず次第に人々の話題は別のものへと変化した。



 ランゲ伯爵夫妻はその後王国の発展に注力した。
 最たるは『王国の盾』らしく和平を結んだ事である。
 隣国である帝国の将軍とも交流があり、調和を率先して行う事で母国の守りにも尽力した。
 アーレンス王国が長く平和であるのは夫妻の尽力の賜物だと言われている。

 二人は五人の子どもに恵まれ、そのうち一人は話し合いの結果オールディス公爵家へ養子に出された。
 夫妻の子ら、そして孫らも王国に仕え主君を支える礎となったそうだ。

 そして、伯爵夫妻は生涯互いを思いやり、仲良しであったことが語られている。
 
 その日、緊急の御前会議が開かれている頃、デーヴィド・アーレンスは、自室で待機していた。

 先日の夜会はデーヴィドに与えられた最後の機会だった。
 だが婚約者を御せず、大多数の貴族の前で醜態を晒してしまった。それ故国王に呆れられた彼は再び謹慎処分が下されたのだ。

 自室に備え付けられたソファに力無く座り、これまでの事を回想する。


 仲睦まじい国王夫妻の長男として誕生したデーヴィドは、幼い頃から聞き分けの良い子どもだった。
 乳母の、侍女の、教育者の手を煩わせる事が無い、大人から見れば扱いやすい子であった。

 それは、ひとえに両親に認めて貰いたいがゆえ。
 彼は幼心に努力を重ねていた。

 しかし両親の関心は2つ下の少女にあった。
 親友の宰相夫妻の一人娘であるカトリーナにみな夢中だった。
 娘がいない国王夫妻にとって、女の子は特別なように見えたのだ。

 その後宰相の妻が亡くなると、両親の関心は益々カトリーナに向いていた。
 そうして持ち上がったのが婚約話。
 デーヴィドでもヴィルヘルムでもどちらでも良かったが、カトリーナが選んだから決まったようなもの。

『カトリーナを頼むぞ』

 父親に言われ、デーヴィドはしっかり胸に刻み婚約者として努めた。
 父から託された、期待された。それが少年の心に残り、自分が面倒を見るのだと使命感もあった。

 だが相変わらず両親はカトリーナばかりを気にかけた。
 次第にカトリーナに対して憎らしい気持ちと愛らしい気持ちがごちゃまぜになり、いつしかそのバランスは崩れて、とうとうデーヴィドはカトリーナを無視するようになった。
 そしてその寵愛は、シャーロットへ向けられる事になる。

(どこで、間違えたのか)

 シャーロットといる時は楽だった。
 何も考えずただ享楽に身を任せているだけで良かった。
 王太子としての責務はカトリーナに押し付け、自身は好きなように行動する。

 両親に可愛がられていた少女の顔が悲痛に歪む時だけが、デーヴィドの苦しみを和らげていた。

 ……気がした。

 だが、今一人で過去の事を思い出せば浮かぶのは幼い頃から後ろを着いてきていたカトリーナの事。
 振り返れば拙い歩きで自分の後ろにいる事が嬉しかった。
 後ろに彼女がいて、自分は前を向いて進む。
 それが当たり前で、将来国王となっても変わらずそこにいるのだと、デーヴィドは身勝手な考えでいた。

 先日の夜会で、夫の隣で堂々とした姿を見せた彼女に眩しさを感じた。
 それは自身が望んでいた未来の姿。

 だが彼女の隣にいるのはデーヴィドではなく、彼女を守り愛する別の男。


『彼の隣は私にとって王太子妃になるよりも価値のあるもの。だから私はもう、デーヴィド様の隣ではなく、夫であるディートリヒ様と共に国を支えていく所存ですわ』

 真っ直ぐに見据え、堂々たる姿を見せたカトリーナは、もうデーヴィドを越え、遥か遠くまで行ってしまったような気がしていた。



「兄上、入りますよ」

 扉を叩く音がして、返事も待たずに第二王子──ヴィルヘルムが入って来た。

「終わったのか」

「ええ、つい先程」

 ヴィルヘルムは御前会議に出席していた。
 王太子ではなく一王子である彼が出席するとなった時点で、デーヴィドは己の行く末を察知していた。

「で、いつからだ」

「?何がです?」

「いつまでに……出て行けば良いんだ」

 半ば諦念を浮かべながらデーヴィドはヴィルヘルムに尋ねる。自身のこれからを憂いているのか、早く宣告してほしいのか。

 自棄になった兄にヴィルヘルムは訝しげな顔をしながらも、ソファに座ってから口を開いた。


「兄上は王太子の身分剥奪、臣籍降下処分が下されました。
 領地を持たない伯爵位と同時に貴族街の隅に婚約者殿と住むにはちょうど良い邸宅が与えられます。使用人は一名のみです。
 但し期間限定ですので生活に必要な知識は習って覚えて下さい。
 仕事は宮廷文官。一番下っ端からになります」

 ヴィルヘルムが告げたのはデーヴィドの今後の事だった。
 その内容にデーヴィドは眉を顰めた。

「……随分と甘い措置だな。てっきり廃嫡、平民落ちだと思っていたぞ」

「平民落ちさせて無力なあなたを傀儡として貴族に担がせない為ですよ。ああ、ちなみに継承権は常に最下位です。僕に子ができる度下がります。
 僕はまだ未婚ですからね」

 なるほど、と思った。
 ある程度の身分が無いとやられるし、与えても自分が奢るから。
 そしてヴィルヘルムが未婚の今は、予備としていなければならない。生かしはしないが殺しもしない。
 自分の行動の結果に乾いた笑みが漏れた。

「とまあ、色々理由は付けましたが。ひとえにランゲ伯爵からの温情ですよ」

 ヴィルヘルムの無機質な声音に、デーヴィドはぴくりと反応した。

「『自分が妻と婚姻できたのは彼のおかげ』だそうです。ただ、ランゲ伯爵夫人への接近禁止を願われました。
 それだけで王国の盾である伯爵がこれからも我が国に貢献してくれるなら願いを叶えないわけにはいきませんからね」

 確かに妻を傷付けた相手ではあるが、(こいねが)いながらも嫌悪されていた相手と婚姻させた恩人でもある。
 廃嫡し平民になり落ちぶれる様は寝覚めが悪いのだろう、とデーヴィドは自嘲した。

「……どこまでもお綺麗な奴だ……」

 自分の汚さを、器の違いを見せつけられたようでデーヴィドは苛立った。同時に、カトリーナが選んだ男がそんな男で良かった、とも思ったのだ。

「それから……僕の王太子教育終了と共に父上は玉座を退かれるそうですよ」

 その言葉はデーヴィドにとって意外なものだった。
 彼から見た父親の治世は決して悪くは無い。
 宰相や大臣たちの意見を幅広く取り入れ、奢らず己を律し民の為に尽くす姿を幼い頃から見てきたのだ。
 それにまだ40を過ぎたばかり。体力的にも衰えていない。引退するには早いのではないかと思った。

「まだ、国王としてやれるだろう……。なぜ……」

「……息子一人、まともに教育できない自分が、民を導く事はできないそうです」

「──……ぇ」

「息子を甘やかし、強く諌められなかったと父上は悔いてらっしゃいます。
 だから、僕が立太子した暁には同時に国王ですよ」

 苦笑した弟の言葉に、デーヴィドは信じられないと頭を振った。

「いつまで拗ねてるおつもりですか。
 これでも父上や母上は、カトリーナ様を優先しあなたを蔑ろにしていると思われますか?」

 ヴィルヘルムの声音は冷たく硬い。
 デーヴィドは緩く頭を振り項垂れた。


「兄上、あなたは間違えた。
 カトリーナ様との婚姻が嫌なら言えば良かったんです。そしたら僕に変わったのに。
 それに……兄上の婚約者殿は僕にも色目を使ってきましたよ。……カトリーナ様を捨てそちらに行く価値ありましたか?」

 ヴィルヘルムの言葉はデーヴィドに突き刺さる。

「……彼女は……。癒やしだったんだ……」

 カトリーナの事を考えないで済むから楽だった。
 若い肉体が持て余す欲を発散できたのも良かった。

 ただ、都合が良かったのを──愛だと思い込んだ。


「まあ、終わった事ですし、これ以上は色々言いません。ですが、一つだけ。
 道は引き返せませんが、曲がったり広げたりできるんですよ」

 ヴィルヘルムはにっこりと笑って兄の部屋をあとにした。



 その後程なくしてデーヴィドは与えられた屋敷に移り住んだ。
 いくつかの部屋と、食堂、炊事場、風呂場、手洗いがあるが、貴族の屋敷にしては規模の小さいものだった。
 仕事も始めた。
 人を使う立場から、人に使われる立場に変わった。

 始めは傅かれる事が当たり前だった彼からすれば全てを自分でこなさなければならない事に屈辱を覚えたが、辞めるられるはずもなかった。


 シャーロットとは形だけの夫婦となった。
 ヴィルヘルムとの会話の後、デーヴィドの処分を伝えたが。

『顔と身分だけが良かったのに、顔は曲がっちゃったし歯も折れてダサくなっちゃったわ。
 その上王子様でもなくなるとかありえないわ』

 そう言って嘲笑った。


(カトリーナは……顔に傷がある男を選んだのに……)

 ここでも彼女との違いを感じ、デーヴィドは溜息を吐いた。

 その後、シャーロットは与えられた家に帰宅せず、どこかを渡り歩いていた。元々平民から養女になった彼女はそのときのツテがあるようだった。
 それからデーヴィドは、書類上の夫としてシャーロットが買い漁った物の支払いをする日々が始まる。
 一度は自分が選んだ女性だから、と面倒見の良さをここで発揮してしまった。

(自分が彼女の人生を捻じ曲げたから……)

 だが婚姻から二年後、シャーロットは出掛けた先で亡くなった。

 この事がデーヴィドに憂いとして残り、彼はこの後長きに渡り後悔にまみれながら、今までとはガラリと変わった生活を送る事になるのだった。
 
 ランゲ伯爵邸の使用人たちは、主の幸せを願っている。

「ソニア、奥様の好きなお菓子できたから今日のティータイムに出してくれ」

 厨房を預かる料理長は焼き立てのお菓子をきれいに盛り合わせた。
 彼はいつも主二人の健康や好みにあわせて腕を振るう。

「いつも美味しい料理をありがとう」

 奥方が笑顔で言うと、それだけで厨房の者たちは張り切るのだ。


「そろそろ庭の花が見頃だから、お二人で花見でも、って伝えてくれ」

 庭師も自慢の花をしっかり整えた。

「みんなが好きなお花を植えましょう」

 主がそう言って使用人たちが各々好きな花を植え、誰もが楽しめる庭にした。

 その内の、とある白い花だけは元々伯爵家の庭に咲いていたものだ。
 それはディートリヒの希望で残したものだった。


 伯爵家の使用人たちは、自分たちの主人が大好きだ。
 自分たちを常に気遣い、労う主人に仕える事が嬉しい。
 だからいつも喜んで貰えるよう、仕事に励むのだ。


 館の主であるディートリヒ・ランゲは13歳の時に騎士団の寄宿学校に入った。
 伯爵家嫡男という事で当時は家族に難色を示されたが、ディートリヒの説得によりしぶしぶではあったが了承された。卒業後は20の時に騎士団に入団した。

 アーレンス王国が隣国から侵略された時に活躍したのが彼だった。
 当時23になったディートリヒは当時の婚約者との結婚間近だったが折り悪く自身の両親が事故で他界。
 その事で結婚が延期され、その間に侵略戦争に駆り出され、彼の顔に大きな傷ができてしまったのもこの時だった。

 左の頬から鼻筋を通り右の眉間に延びる傷は敵国将軍の執念の為か深く、塞がったあとも生々しく残った。
 それを見た婚約者は慄き、結婚自体白紙となった。

 この時の彼の絶望は計り知れないだろう。

 姉は既に他国へ嫁いでいて、弟は騎士団の寄宿学校に入っていた。
 社交界では一部の者から「醜悪伯爵」として侮蔑され、嘲笑の的となった彼の孤独は増していた。

 使用人たちは彼に立ち直って欲しいと真心を尽して接し、彼の孤独と傷を癒やしていた。

 そんな彼がいつしかぼーっとするようになった。
 かと思えば休日も鍛錬に打ち込む。
 気付けば溜息を吐く。

 長年彼を見て来た執事のハリーは、主の変化に戸惑っていたが鋭い侍女やメイドは

「恋煩いじゃないかしら」
 と指摘する。

 よくよく見てみると、仕事に行く時、王家主催の夜会の時。
 決まって王城に出向く時身なりをしっかり整えてキリッとして行くのに、帰って来てからは溜息を吐く事があるのに気付いた。

「きっと王城に気になる方がいるんだわ」

「でも恋人がいるのよ、その方に」

「きゃ~~秘めた恋!」

 好き勝手に妄想する女性陣を、複雑な顔で見ていたのはディートリヒに付き従って登城する侍従のトーマスだった。

 付き従える範囲が限られている為想像に留まるが、恋する相手がいるのはトーマスからも見て取れた。

 その相手も何となく想像がつくし、もし正解なら主の行動にも納得がいく。

 だが、本来ならばその相手に懸想するなどあってはならない事なのだ。


 なぜなら、その相手は。
 王太子殿下の婚約者。未来の王妃。未来の国母。

 カトリーナ・オールディス。

 そうでなくとも相手は公爵家令嬢。
 伯爵と身分差もあった。ディートリヒより8つも年下で年齢差もあった。

 さらにディートリヒは彼女から嫌われていると自覚していた。

 全ては顔に残る傷跡のせい。

 だが、この傷跡が無ければ彼は今頃既婚者となっていた。
 今、心だけは自由に想えるのは傷跡があるから。

 ──傷跡があるから彼女に囚われた。

 どちらが良いかは分からない。

 どうにもできない想いは募り、王城で見かける度、夜会で美しく着飾っているのを見る度。
 彼の心はどうしようもなく高鳴り、行き場の無い想いを燻らせていたのだ。

 だがある日、明らかに使用人の誰から見ても、主が意気消沈した時があった。
 王城主催の、とある夜会から帰宅した時。
 出迎えた執事のハリーはいつになく顔色の悪い主が気になり薬湯を、と持って行ったところ、静かに涙していた姿を見てしまった。

『この傷が無ければ……』

 結局肩を震わせている主に声を掛けられず、その場を後にしたのだ。

 その後彼はいつも通りに振る舞う主に合わせ、いつも通りに振る舞った。
 だがこっそりと、使用人たちは落ち込んだ主の為にさり気ない優しさをもって接した。

 食事に好きなものを増やしたり、こまめに気分転換を提案したり。

 それもあってか、ディートリヒは次第悲しみが癒やされていき自分のすべき方向を変えたのだ。

 〝嫌われているなら、遠くから。自分にできる事をしよう。国を守る事が彼女の為になるならば、剣を振るい続けよう〟

 そう決意した主が、まさか想い人と婚姻し、その日のうちに連れ帰って来た時使用人の誰もが驚いた。

『彼女……カトリーナ嬢は記憶が無い。とても心細いと思うから、みな良くしてやってくれ』

 そう言って使用人に頭を下げた。

 記憶が戻り、カトリーナが荒れた時。

『今は記憶が戻ってから混乱しているのもあると思う。だが彼女の目を見れば本音が分かるから、どうか察してやってほしい』

 どんな状況でも己の愛する女性を思いやり、頭を下げる姿勢に、使用人たちは否やは言わなかった。

 誰もが主であるディートリヒの恋を応援し、女主人であるカトリーナを敬愛した。
 だから、二人が愛し合う夫婦となり、仲良くしている事が使用人たちは嬉しかったのだ。


「いやあ、あの時はホント、ディートリヒ様正気?って思いましたよ~」

 休憩室のおやつを摘みながら、侍従のトーマスが言う。

「『今日から妻になった』っていきなり連れて来たからびっくりしますよねぇ」

 カトリーナ付きの侍女ソニアがクッキーを口にする。

「それからの主の顔がもう、にやにやしっぱなしで!」

 ぷぷっ、と笑うのはカトリーナが王太子に謁見した時に着いてきた護衛のベルトルト。

「奥様が来られてから領地経営も捗って助かります。何より私の休みが増えました」

 感極まったように話すのは家令のフーゴ。

「……でも、幸せそうで良かったですよ」

 マグカップを持ちながら優しい目をするのは侍女長のマルタ。

「そうですね。大旦那様達が亡くなられて、旦那様の結婚も白紙になって。一時期はどうなるかと思いましたが……
 きっかけはあれですが、奥様が来て下さって良かったです」

 執事のハリーも目を閉じて回想する。

「奥様といえば、王太子殿下に謁見した時に『ディートリヒ・ランゲの妻です』って宣言した時思わず『よっしゃ!』ってなったわ。それまで自信無さげだったからまだ嫌なのかな~ってちょっと思ってたのよね」

 カトリーナ付きの侍女エリンは当時を思い出す。

「奥様、無自覚に旦那様好き好き~ってなってたわよね。それをガツン!!て宣言したのカッコ良かったのよ」

「最初はまあ、八つ当たりもされたけど、その後すっごく気にしてるのがすっごく伝わって来てね。叱られた子猫みたいで可愛かったわ」

「あ~、わかる!口では辛辣でも目がね!態度がね!許しちゃう」

「そんな奥様だから旦那様も構いたいんだろうなぁ」

「旦那様も奥様への好きが溢れてるよな。戦場の死神?ナニソレ誰の事ってくらい空気が緩い」

「想い合う夫婦ってステキ。はー、もう眼福ごちそうさまです!って感じ」

 わいわいと主を褒め称え、使用人の休憩室のおやつが切れかけたところで、お開きの合図となった。


 今は夜も更ける頃。
 使用人のミーティングと称した座談会は終了である。


 ランゲ伯爵邸の使用人たちは主夫妻が大好きなのであった。