とにかく、自分の目で見て確認しないことには始まらない。駆け寄り見せられたそれは残念ながら思い通りのもので、間違いなく自分自身の持ち物。過去形となってしまった所持品は明らかに「水に浸かっていました」的な有様で、残念ながら水没していたのは確実だった。

 しかしながら、気になるのは見つかった場所。どこにあったのかと確かめる私に、躊躇いながら言葉を選んでいるそのスタッフは「その⋯⋯」と言いにくそうに言葉を濁す。「あのバケツの中に⋯⋯」とフェードアウトしていく声が、その先を紡げずただただ困り顔で下唇を噛んでいた。

 指差された方向に流す視線は、化粧室前に無造作に置かれていたどこにでもある掃除道具の元で止まる。雑巾が掛けられているブルーのバケツの中は濁った水で満たされ、そこから見つかったという携帯の成れの果てに嫌がらせだというのは一目瞭然だった。

 ここまでくれば、もう怒りも何もあったもんじゃない。生まれる感情は「呆れ」の他なく、ただ息を吐き肩を落としながら、これでは中のデータは取り出せないと気落ちする。バックアップなんて取ってたっけ? と冷静に考えられるあたり、心のダメージはそれほどでもなかった。

 慣れというのは有難くもあり、恐ろしくもある。

 何せ、心の痛みに対し「耐性」が出来てしまうのだから。

 いつの日か思いやりを忘れてしまうのではないかと、そんな自分が少し怖くもあった。