【葉月の不安】


 朝は、いつもおねえちゃんの声に起こされる。
「はづき!いつまで寝てるの?いいかげんにしてよ!」

 この夢から覚めたのか覚めてないのかわからない、うとうとした朝の至福の時をおねえちゃんは容赦なく壊す。
あたしのぬくぬくしたあったまった布団を引き剥がしてどなる。

「はいはい~、起きればいいんでしょ起きれば!」
 布団からようやく這いだしてあたしはリビングにあるコタツの中に滑り込む。
う~~、さぶっ。
 コタツの上には納豆とインスタントのコーンスープと目玉焼き、ご飯が置かれている。
 玄関からパパの声が聞こえてくる。つづいておねえちゃんの声も。

「いってくるよ~!」
「いってきま~す!じゃあ、後片付けきちんとしてね!」

 コタツの中にすっぽりと首まで入って、あたしはまた夢の中に陥りそう。
ぬくぬくした気持ちよさが誘っている。

「はづきぃ~、いって・き・ま・す!!ちゃんと起きなさいよ!」
 おねえちゃんは勘がするどい。鼻が利くといってもいいかも。
しぶしぶあたしはコタツから出て返事をする。
「いっ、てらしゃ~~ぃ」
 もそもそと、朝ごはんを食べる。

 あたしは朝食はパン、がいいんだけどな。

 パパもおねちゃんもそれからおばあちゃんまで朝はご飯と味噌汁だって言うもんだから、うちの朝は和食だ。
 あら、でも今日はインスタントだけどコーンスープじゃない。

これって合うのかな。まあ、好きだからいっか。

 あたしはぎりぎりまでゆっくりしてから、セーラー服を着てコートを着て出かける。
 はぁっとはく息が白い。手袋をしていても手の先が冷たい。
 
冬って嫌いだな。いつも冬が来るたび思う。
冬には色がないもの。景色も寂しくて、白と黒って感じがする。
 さすがに住宅密集地なので霜はおりていないな。でも、風が頬を切るように通り過ぎる。

 寒いんだったらとことん寒くなって雪でも降ればいいのに、なんて考えて空を見上げてみた。
 うす曇りの空は雲の向こうに、確かに太陽があるのがわかるようにそこの部分だけ明るくぼんやりと光ってる。
 中学の校舎が見えてきた頃には、雲が薄くなって日が差してきた。
これは、お天気として晴れっていうのかね。
 うじうじと寒い冬に文句を言いながら、あたしは校庭を横切る。
校庭のトラックを走っている陸上部の人たちが見えた。その中の一人がこちらに駆けてきた。

「はづき~、陸上部なんだから朝練やろうよ!身体がああたたまるよ!」

 まっぴらごめんだよ、と心の中で叫びながら、無理やり笑顔を作るのはむずかしいから下を向いた。
あたしの気持ちが全然わからない、そのこはクラスメートの平山夏香、陸上部だ。

「いまから一緒に、ちょっとだけはしろうよ~~~」
 はぁ?だいたい陸上部に入るとも入らないとも言う前に、あたしを引っ張って行って入部しちゃったんじゃんか。
 どうも、夏香には逆らいにくい。誰からも好かれている。

いつも屈託のない笑顔がかわいい。
 なぜだか、いつも話しかけてくる。

「むりだよ、時間ないし」
 と手をあげるとあたしは、つまんなそうにしている夏香から早足で逃げ去った。

がっかりした夏香が一人立っている校庭を視界から追い出した。
 けど夏香は本当のあたしをよく見ていたのかもしれない、と時々思うことがある。
 あたしは本当は走る事が好き。走っているときはいろんな事考えなくってもいいから。
 
相手の気持ちや自分の気持ち。何を感じて何をしたらいいのか。そんな事みんな消えてしまうから。
 ただ前を見て、自分の鼓動を感じて走っていられるから。

 体育の授業で長距離を走ってから、夏香はあたしにつきまとった。

 挙句、陸上部に入部させられて、何かあるとあたしのところにすり寄ってくる。
 しらんぷりをしていても、めげずに話しかけてきた。

いつのまにか耳に夏香の声が響くようになり、あたしはその声に耳を傾けていた。
 
 夏香は男子からも女子からも人気があったから、なんとなくみんなの視線があたしにも集まってくる。
それがとっても嫌だからいつもかわしていたけど、負けずにいつもあたしのそばにいる。

 いまでは、それがあたりまえのようになってしまっているから、人間慣れっておそろしい。
 つまらない授業が終わって、部活に出ようかどうしようかと迷っているあたしに、おきまりのように夏香がよってくる。

 陸上部は校庭が狭い関係で週二回しか活動がない。
火曜日と木曜日、それから休日の土曜日。大会が近いときの週末である。

それ以外はトラックを使えないので自主トレで校庭と校舎の裏を走る。

「きょうは、三年生が一緒に走るってよ」
 驚いた、三年生はまさに今受験シーズンである。

 そろそろ私立の試験が始まるだろう。そんな時期に校庭なんて走っている場合かしら。
 夏香は、あこがれの先輩がいるのでうれしそうに話している。

あたしは別にどっちでもいいやと思っているので、しかたなく着替えを持って部室に向かった。

「岡先輩、どこの高校受けるのかなぁ~、ねぇ~はづき~」

 あとから、目がハートマークになった夏香が雲の上を歩いているみたいに追ってきた。

「本人に聞いてみたらいいじゃん。すっごい頭いい学校行っちゃったらどうするの?がり勉するの?」
 つい夏香に答えて、興味の無い事を聞いてしまった。

ああ、他人の事にあんまり深く入り込まないようにしているっていうのに。
夏香といると調子が狂う。

「する!するするする!がんばっちゃうよ、ああ、なんで一年生と三年生は一年間しか一緒にいられないんだろう!」
 もういいかげんにこの話題から逃れたくなっていたあたしは、さっさと着替えて外に出た。


 昇降口を出たところに陸上部が集まっていた。
きょうは、三年がいるから四十人くらいかな。一年生は一番人数が少なくって十人だ。
弱小部といったところか。


 久々にまとまって走る。先輩の後を声をかけながら走る。
 空はどんより曇って、冷たい白い息がもっと寒さを連れてくる。

ジャージの中までひんやりと冷たくなっている。

 校庭をまわって校舎の裏手を走る。花壇や物置をよけて走っていく。
 吐く息は規則正しく、心臓の鼓動がつづく。
もう一周校庭を走っていく頃には人の列はだいぶ長くなっている。

五週走って、校庭の隅に集まる。額には汗がにじんで、からだが温まりかるい。
 その後は各自、自由にトレーニング。

 一年生の女子はおしゃべりの花が満開だ。

 あたしはそこにいる気はさらさら無いので、帰ろうと三年生の中をお辞儀をして通りすぎようとした。

「あ、しいな、椎名だよな。おまえさぁ~、銭湯とか行くんだ」
 三年生の増尾駿矢が声をかけてきた。

 一瞬、自分に声をかけられているのがわからなかったけど、あたしは「銭湯」と言う言葉にどきんとして立ち止まった。
 夏香がすぐ後ろで返事をしていた。

「なんで、そんな事聞くんですか?せんぱ~い!」
 増尾駿矢のとなりでにこにこしているのが夏香の恋する岡和久先輩だ。

増尾先輩は岡先輩に向かって説明していた。

「俺んち、今仮住まいじゃん。それで風呂が壊れちゃって近くの銭湯に行ったんだ。そしたら、椎名が出てきたからさ」

「銭湯か~、いいね~、このへんじゃもう、あそこの『夢の湯』くらい?」

 岡先輩がうなずいているので、夏香がうなずく。

「葉月のうちってそこから近いんですよ!」
 夏香が説明した。

家の場所は、前に夏香が強引についてきて知られてしまった。

 あせった、番台に座っているのがばれちゃったのかと思った。

 『夢の湯』がおばあちゃんの家であたしがそこに手伝いに行っているなんて誰にも言っていない。言う気もないけど。

 あたしは、ほっとして
「うちも、お風呂が調子悪くって」
 なんとか適当にごまかす。

なんだか、三年生の中で銭湯の話題が盛り上がっていく。

「私、行った事な~い。温泉とは少し違うんですかぁ?」
 女子の話題も銭湯に。

もういいかげんに帰ろうと思って歩き出したその後ろで、増尾先輩の声が聞こえた。

「すっげ~きもちいいぜ!今日受験ストレス発散トレーニングだったし、みんなで行ってみるか?」
 岡先輩も賛成して乗り気だ。

「そうだね、受験勉強で緊張した身体をほぐしに行く?」
 恋する夏香がうれしそうにぴょんぴょんはねる。
「行きましょう!いきましょう!」

 え~、別にいいけどこんな寒い日に銭湯はあったまるとして、みんな家が遠いんじゃないの?
 あたしの家は学区の一番端っこで、道路一本へだてて隣町だ。

みんなが家に帰り着く頃には風邪をひいてしまう。
 こんな時期に風邪でもひかせたら、『夢の湯』のせいになってしまう。
あたしは半ば強制的に言い放った。

「だめです。こんな寒い日に銭湯なんか行ったら、家に帰る前に熱が出ます。試験受けられなくなってもいいんですか?」
 さすがに、これは利いた。
シーンと一同静まり返った。

そのなかで何をひらめいたのか、夏香がパチンと手を打った。

「それじゃあ、三年生を送る会を銭湯ツアーにしましょうよ!」
 二年生の次期部長がにっこりうなずいてその日は、解散となった。
 あたしはほっとして、胸をなでおろした。



 日曜の朝は大抵、昼近くまで寝ている。

 ぼ~っとした顔で起きて来ると、その日もいつもの通りリビングにはパパがだらんと寝転がって、テレビを見ていた。

だるだるのグレーのスウェットの上下はいつもながら、汚らしく見える。

あたしは目に入らない感じで横を通り過ぎてキッチンへ向かう。

 あたしの顔を見るとうれしそうに起き上がって
「よぅ~、おそよう~!はづき!」
 ちっとも面白くないのに、いつもこんな調子。

ひげも伸びているし、おまけに朝ごはんのご飯粒まで丁寧につけている。

 うげっ!なんだか、男性用のオーデコロンのにおい。
「なんなの?このにおい!気持ち悪いんだけど!」
 パパは目を大きく見開いて、よくぞ気づいてくれましたとばかりに
「新しくオーデコロン買ってみたんだ。おじさんくさいって言うからさ、はづきが!」
 あたしにばかり気をつかっちゃってまったく、いい加減うんざりだ。

はずき、はずきって奥さんがいないからってあたしにふらないでよ!

 おねえちゃんは、いっつも日曜はお昼前からバイトで逃げちゃうから、パパの餌食になるのは毎度のことあたしだけ。いいなぁ~気楽な大学生は。

「お昼、何食べる?たまには外食しようか?なんでも葉月の好きなもの言ってみなさい」

 あたしは、「ん~」とだけ生返事をして冷蔵庫からピザを取り出してトースターに入れる。
「ピザ焼くから、いい」

 パパはなおもしつこい。
「じゃ、ピザ取るか?」
「いいよ、今トースターに入れちゃったもん」
 おもいっきりがっくりきているのが、わかる。

この人って、めちゃくちゃわかりやすいんだよね。
そのうち、一緒に出かけようとか言ってくるよ。

「そうだ、葉月が好きだったレッサーパンダ見に行こうか。なんか、大山動物園にレッサーパンダの子供が生まれたって今テレビでやってたんだ。ものすごく、かわいかったぞ~」

 ほ~ら来た。
ここで先週からあたしは用意してある言葉をゆっくり唱える。


「あたしは、おばあちゃんの家の手伝いがあるからね。銭湯の!」
 ふはは、どん底まで落ちなさい。

「そ~か~そうだったなぁ、たまには葉月とどっか出かけたいよ~」
 まだ諦められないらしいが、もうあたしはピザを知らん振りして食べ始めた。
 パパはがっくりとしてうつろにテレビを眺めだした。終了!


 家はママがいないから、パパがこんなにあたしの事愛しまくっちゃうんだろうな。
 おねえちゃんはどう思うかわかんないけど、あたしはパパにべたべたされるくらいなら、いっそ新しい奥さんでももらったらいいんじゃないかなと思う。

 あたしは、一人がいい。一人でいい。友だちも彼氏もいらない。

自由に自分の気持ちのままにただよっていたい。

人の気持ちを考えるのは面倒くさい。

それに気を使うのもかったるい。自分の気持ちのままにいたい。
 時々突然、むなしい気持ちに襲われる事がある。

結局、人間って一人で生まれて一人で生きていく、そして一人で死んでいくんだ。
 ものすごく悲しくて寂しくて、どうしようもなくなる。胸が苦しくなる。
 何のために人は生きているんだろう。

何のためにあたしは生きているんだろう。
どんな風に生きたって、最後はみんな死んじゃうんだもの。


 その日、おばあちゃんはなんだかそわそわしていた。
「きょうは、町内会で相撲大会があるから、みんな大会の後にここに来るからね」
 ああ、小学校のころそんな行事があったかな。男の子ががんばって本当のお相撲さんと相撲するとか騒いでいたっけ。
 あたしもその頃は、おもしろがっておじいちゃんと相撲大会見に行ったものだ。

ついでに、お餅つきなんかもやっていてみょうに楽しかった記憶が懐かしい。

「力士だった人も来るって言ってたから、きっとここにも入りにくるよ!」
 おばあちゃんは、相撲好きだったのかな。うれしそうだ。

 まあ、なんだか騒がしそうだな、と思って銭湯の番台に上がる。
脇に狭い階段があって五段くらい上ったところに人一人分の空間がぽっかり空いている。
 天井はとっても高いから立ち上がって手をのばしても大丈夫。

ただ、頭の後ろに棚があっていろいろなものが置いてある。
気をつけないとこの間みたいにたんこぶを作る羽目になる。注意、注意。

 男湯と女湯の境目の壁が目の前に続いている。
番台は昔はもっと高い位置にあって湯船の方まで見通せたって。

 あたしは人の裸なんか見たくないから良かったなって思うけどこの間
「いいねぇ~、番台座ってみたいねぇ~天国だね~」

 なんて言うおじいさんがいたので
「うちの番台は高くないから見えません。ついでにロッカーがあるから向こう側の着替えてる人も見えません」
と、あたしらしくもなく熱く言う。

「そうかねぇ~、そういえば昔の番台よりも低いの~。なるほどみんなロッカーの向こう側で着替えるからの」
 と本当に今気がついた風で感心しているおじいさん。

 後でおばあちゃんに聞くと、少し前に改装したときにこういう配置にしたそうだ。

 今ロッカーのこっち側には籐で編んだ椅子とかベンチが置いてあって、自動販売機なんか置いてある。みんなここで涼んでいく。
 ロビーみたいなものかな。楽しそうにおばあさん達がよくおしゃべりしている。
 あたしも話しかけられれば、にっこり笑ってうなずいたりする。

 ここに座っていろんな人と話ができる事を、楽しいと感じている自分に首をかしげる。
 普段人とかかわるのがあんなに嫌なのにどうしてだろう。
話し相手が年配ばかりだからかな、不思議だ。無理せずに笑うことができる。

 あたしはここに座ると人が変わるのかも。
 まあ本当に変装しているから自分じゃないみたいだけど、それがかえって違う人格にしてしまうのかな。もしかしたら、本当の自分だったりするのかな。

 開いたばかりの銭湯はおじいさんばっかりだ。
 年寄りは昼間っからお風呂にはいっちゃって、さぞや眠りにつくのも早いんだろうか?
そうそう、年取ると朝早いって言うもんね。

「ハ~イ!はづき~。元気でしたか?」
 金髪の人懐っこい青い目、この間あたしのファン一号に認定したニッキーだ。
「イエスイエス、ちょう~元気で~す!」
 こんな事普段だったら、絶対言わない。

 あたしはニッキーって呼んでいるけど、本当の名前何ていうんだろう?

外国人だよね。どこの国の人なのかな?にっと歯をみせてあたしは笑った。

ガラガラガラ

 ニッキーの後ろの引き戸が開いて人が入ってきた。

 町内の相撲大会の人らしく、この時間に多く来る年配の人よりも若い男の人達だ。
みんな寒そうな薄着だ。

同時に女湯にもぺちゃくちゃ話をしながら、おばあさんやおばさんが入ってきた。
いろいろとお手伝いをしている人達らしい。

 つづいて男湯には泥だらけの男の子ががやがやとやってきた。
ティーシャツに半ズボンやら中にはまわしをつけている子もいる。

 銭湯なんて、入った事がないのだろう、みんなきょろきょろ周りを見回している。
「たか~い」
「ひろ~い」
 などと、かなり感激している様子。

 あたしはなんだか自分がほめられているようで、うれしいような恥ずかしいような感じ。

 そうだよね、天井はとっても高いし湯船はたっぷり広いし、家庭のお風呂と違って蛇口をひねればあっついお湯がすぐに出てくるもんね。
楽しいよね。地下水を沸かしているのでたっぷりのお湯は入るとジャブ~と外にこぼれるんだよね。それがまた、気持ちいいんだ。

 あたしの小さい頃を思い出していると、頭の後ろでコツンと音がした。ズキッ。
この間のたんこぶが痛んだ。

一瞬視界が真っ暗になった。真っ暗な中で泳いでいるよう。

 身体が上に持っていかれる感じ。宙に浮いている感覚。

ぼんやりして首を振った。ゆれて周りが見えてきた。
ここはどこ?どうなっちゃったんだろう?

 う~っと顔を上げると、さっきよりも人が多い。

 女湯はがらがらだったのに、さまざまな人がいてにぎやかだ。
 子供づれ、おばあさん、おばさん、おねえさんもいる。

 なんだかいつもと違う。そうだ、この間見た夢の景色と同じだ。

やっぱり、やだ、湯船まで見通せちゃう。
 脱衣所のところで若いお母さんから、赤ちゃんを受け取っておばさんがベビーベッドに寝かせて身体を拭いてあげている。
服を着せていると若いお母さんが、上がってきて「どうもすみません」と頭を下げている。

 身内なのかと思ったら、どうも他人のようだ。
他の人も寄っていって、おかあさんが着替える間赤ちゃんをあやしたりしている。

 ふ~ん、みんな親切なんだなぁ~。
こんな風景見た事無いな。今日の人達は優しい人が多いんだろうか?


 するとあたしの座っている番台から声が聞こえた。

『うちの息子も春が来ちゃいましてね~ぽかぽかですんで、桜がいつ散ってしまわないかと心配ですよ』
 ん?この間きいたおっさんの声だ。

なんだろう、また夢でも見ているのかな?

 籐の椅子に腰掛けてこの間見た白い髭のおじいさんがにっこりうなずいている。
この間より、髭が長くなっている。優しく笑う。

「銭湯じゃ、中に入ってゆっくりしなさいなんて言えないしねぇ~」
 白い髭のおじいさんが言いながら、立ち上がって窓の外を背伸びしてのぞいた。
足腰鍛えられた職人さんみたいな風情だ。粋な感じ。

 あたしは番台の背中にある小さなガラス窓の隙間から外を見てみる。

銭湯の入り口は入ると下駄箱が並んでいて、出入り口に暖簾がかかっている。

その外にはベンチが置いてあり、そ
こに座っているのは高校生くらいの女の子。となりにうれしそうに立っているのは。
 あたしは、目をうたがった。
だってそこに立っているのは、高校生くらいの男の子。パパだ。
 隣にすわって話をしているのは、そうだママだ。
若い女の子?どうしちゃったんだろう。

 銭湯に入ってくる人達が声をかけていく。

高校生のパパは、いちいち丁寧に頭を下げる。

「桜小町をつかまえるとは、見上げたものだよね~」
 粋な感じのおじいさんが感心して自分の白い髭をなでている。
自分の事のようにうれしそうだ。

『あいつだけはぽかぽかでも、外はまだ寒いんでねぇ~。よそのお嬢さん風邪ひかせちゃなんねぇよって言ってるんですけどねぇ』

 まてよ。と言う事はこのがらがら声のおっさんは、亡くなったおじいちゃんって事なんじゃないの?

 あたしは、きゅうにうれしくなった。大好きだったおじいちゃんだ。

ママが亡くなってから、一年か二年でぽっくりと天国に行っちゃった。

ママが亡くなってから、ずっとあたしはおじいちゃんの後ばっかり追いかけていたっけ。

銭湯の番台のおじいちゃんのひざの上に乗せてもらうのが、とっても大好きだった。

この夢が昔の世界なら、あたしはおじいちゃんの顔が見たい。

 だけどおじいちゃんの顔を見る事はできなかった。

あたしは、ポロリと涙が出た。

『なんだか、一緒の大学に行く事になったってんで二人とも喜んでるんですな、これが』
 おじいちゃんは、ぼりぼり頭をかいている。

そうそう、こんな口調でおしゃべりする人だったっけ。
「おや、じゃぁこのお風呂屋さんは、継いでくれないんですかな?」

『次男が継ぎたいとは言ってるんですが、あたしゃ先の長くないこの商売はいいから、自分のやりたい事をやれと言ってるんですけどねぇ~』

 そうか、パパが学生の頃はまだこんなに銭湯に足を運ぶ人がいたんだ。

女湯のおばさんは若いおかあさんに「赤ちゃんは、冬でもあせもができちゃうのよ~、気をつけないとねぇ~」と、赤ちゃんをあやしながら、楽しそうだ。
あっちでもこっちでも、人々は挨拶をしたり話をしながらて入っていく。
 昔は、近所の人みんな知り合いって感じ。ゆったりしたなごやかな時間が流れている。
 なんだか、微笑ましいな。


ズキッ、また、たんこぶのあたりが。
 ぐらりと目の前が揺れた気がした。
引き戻されていく。ずんずん引っ張られていき、急にずしんと重力を感じる

 夢から覚めたような感じで周りが明るくなって、あたしはぐるりと周りを見渡した。
ぼんやりと思う。
 ああ、ここはあたしの住んでいる世界だ。ロッカーもあるし湯船の方も見通せない。

ガラガラガラ
 引き戸が開いた。
「こんにちは~」
 おじいさんが入ってきた。白い髭のおじいさん。
あら今さっき、そこの籐の椅子に腰掛けていたおじいさんじゃないの。

えっ、まてよ。このおじいさんったらさっき見たよりかなり年取っているよね。
歩く姿もそうだけど、背がちいさくなっちゃって、なのに声はさっき見た昔の中のまんまだ。
白い髭はきれいにそろえられていて胸のあたりまである。

仙人かな?物腰はゆっくりだ。

「ちわ~!」
 後ろから付き添うように入ってきた男の子。あたしは身体が固まった。
 だって、それは先輩だったから。

増尾駿矢先輩。
あたしのところにやってきてお金を差し出す。

「あ、は、はい。どうも」
 あせっているのがわかっちゃうようなかすれ声が出てしまう。
落ち着け葉月。大丈夫、大丈夫。
あたしは学校にいる葉月じゃないんだから。
髪はストレートさらさらロングだし、めがねもかけているし。平気平気。

 なのに、だ。なのに先輩はまっすぐにあたしを見つめた。
ばれた?どうしよう。

あたしは、はやくあっち行ってくれと願いながらうつむいて長い髪で顔をかくす。

女湯の方をうかがっているふりをする。それでも先輩はまだそこに立っている。

さらにあたしに話しかける。