【沙由紀の不安】
変化
葉月は週末に『夢の湯』に出かけていった。
パパは「つまらない」を連発していた。
わたしもファミレスのバイトに出かけた。
パパは「さみしい」をさらに連発した。
少しだけ、後ろめたい気持ちで歩くスピードがゆっくりになった。
きっとパパは昔だったら、会社も休みの週末、大好きな家族と過ごせる一番幸せなときだったに違いないのにね。
ママ似の葉月には煙たがられて、わたしは他の大好きな人に会いに行く。
ごめんね、パパ。
わたしって親不孝なのかもしれないね。下を向くと涙が落ちそうになるから、上をむいた。
そこには、特別の桜の木が空高く枝を伸ばしていた。
そうして、(大丈夫だよ)って言ってくれているみたいに感じる。
みんなを見守ってくれていた桜の木。
春は遠いけど、きっと来るんだよね。はるかかなたに感じていても、絶対来るんだよね。
わたしは、そう桜の木につぶやいて『夢の湯』を通り過ぎた。
その晩の事。
ファミレスのバイトの子が風邪で休んでしまったので、その子の分わたしは終わる時間が遅くなってしまった。
いつもだったらバイトが終わるのが九時くらいで、終わるとすぐに「エーデルワイス」のサトにいのところに走っていくんだけど。その晩は十時をまわっていた。
今日から葉月はバイトだったし、パパの事が心配でわたしは「エーデルワイス」によらずに家に帰った。
家に着いたのは十一時を過ぎていた。
パパは思ったより元気で、葉月が持ってきたおばあちゃんの作ったおかずを前にお酒なんか飲んでいた。
「おかえりおかえり~。お疲れ様だね、沙由紀。明日もバイトあるのか?休みもなくて疲れないのか?せめて、もうちょっと早く帰れないのかな?」
っていつも通りの質問。
パパの相手もしてあげている暇もなくて、明日の朝ごはんの仕度をするとお風呂に入って、もう眠る時間だ。
帰って来たら葉月は、ご飯を食べてさっさと寝たそうだ。
本当に部屋は暗くなっていたし、人と接するのが嫌いな葉月にとっては緊張するバイトだっただろうな。
そんな事を考えてベッドに入った。自分にも大変な事が起きているなんて思ってもいなかったから。
次の日曜日の朝、バイトは十時からだったからパパとも葉月とも顔を合わせる前に出かけた。
早出だから、今日は早くあがれわね。そしたら、サトにいのところに早くいける。
でも今日は「エーデルワイス」も混んでいるかしら。人が多いときはなかなか店を閉められないんだよね。そうすると、サトにいと話している時間が少ししかなくなっちゃう。
そんな事を考えて歩いていた。
「おい!」
声をかけられた。
えっ?わたし?
振り向くと、わたしをにらみつけて洋ちゃんが立っていた。
「お前のせいだからな」
えっ?洋ちゃん何言ってるの?
「お前、この辺の年寄り甘く見てんじゃねぇぞ!何年ここで暮らしてると思ってるんだよ!」
言っている意味がわからないんだけど。
首をひねっているわたしの頭を軽くはたいた。
「まあいい、なんで昨日来なかったんだ。今晩はエーデルワイス来れるんだろうな?」
そりゃ行くの楽しみにしているんだから、わたしは思い切りうなずいた。
「この辺じゃ今、お前の話が一番旬だから、どれだけ尾ひれつくか想像もつかねぇよ!」
そういうと洋ちゃんは、くるっときびすを返して店の方に歩いていった。
「まったく、目立つんだよ。金髪はよ!」
そう、ぶつぶつ言いながら。
わたしは何のことか訳がわからなくて、洋ちゃんが角を曲がって消えるまでぼぅっとして立っていた。
ようやく、バイトに行くために駅に向かった。
この辺はわたしが子どもの頃は、たくさんの商店が店を連ねてにぎやかだった。
だけど、代が変わると店を継いでくれる人もどんどん減っちゃって、今では数件があるだけ。
お肉屋さんのおじいちゃんおばあちゃんは、わたしが前を通るといつも元気に声をかけてくれる。
お隣のお花屋さんも、ここは娘さんが後を継いでいつもだったらにこにこ笑って声をかけてくれる。
日曜日は、ただでさえさびしいのに、お休みの店が多いからさらにさびしい。
とんかつやさんのシャッターが半分しまった中から、楽しそうな話し声が聞こえる。
お休みだからゆっくりしているのかしら。
『これからは英語よぉ、イングリッシュよ!挨拶できるようにしとかなきゃねぇ~』
おばあちゃんの仲良しのとんかつ屋さんのおばちゃんの声が大きく聞こえた。
地下鉄の駅の手前に文房具屋さんがある。
おじいさんとおばあさんがいつも熱心に吹き掃除をしているけど、ほこりをかぶったみたいに見えちゃう店なの。
毎朝声をかけてくれるんだけど、今日はお休みなのよね。
通り過ぎようとしたわたしを見つけて、ガラスの扉を開けておばあさんが出てきた。
「あらら~さゆきちゃーん。今日は彼氏連れてこないのかい?いっぺん見ときたいからねぇ、うわさの金髪さんをさぁ」
え?にっこり微笑んで地下鉄の階段を下りようとしたわたしは、固まった。
(金髪?彼氏?)
ああ、だからさっきもとんかつ屋さんのおばちゃん、イングリッシュで挨拶って話していたの?
うそっ!
そうか、洋ちゃんはこの事を言っていたんだ。
そうだった。このへんの噂話ってはんぱじゃなかったんだっけ。
とにかく、このへんの年寄り連中は仲がいいんだ。そしておしゃべり。
となれば、当たり前のように噂話はそっちでもこっちでも花が咲くのよね。おまけに尾ひれが付きだしたら止まらないんだ。
失敗した。
わたしは、この間の月曜日一日中ここいら辺をニッキーを連れて歩いたんだもの。
翌日も銭湯で、長い事ニッキーは大騒ぎしていた。
こうくると、だいたいこの辺の噂は決まっているな。
さしずめ、わたしが外国人の彼氏を連れてきて。そうそう、結婚の挨拶に来た、なんて事になっているのかも。
おじいちゃんおばあちゃんの井戸端会議の種には、もってこいなのよね、そういう話は。
洋ちゃんが知っているって事は、サトにいの耳にも入っちゃっているって事かしら。
どうしよう、困ったな。
わたしはその日一日中、バイトの注文は聞きそびれるしお皿は割るし、失敗だらけだったの。
もう、はやくバイト終わりにしてサトにいに会いに行きたい。
ようやく、バイトが終わる時間になってあわててエーデルワイスに走った。
「エーデルワイス」は火曜日がお休み、今日は営業のはず。
なのに閉まっている。
ドアには『お休みです、またのおこしをお待ちしています』の札がゆれていた。
あわてて、裏にまわって厨房のドアを開けた。
厨房には明かりがついていて大好きなサトにいが、いつもと変わらずデミグラスソースをくるくるかき回していたの。
すごく安心した、力がぬけるくらい。
「良かった、どうしちゃったのかと思った」
と息をはいた。
だけどサトにいの口から思いもしない言葉がこぼれた。
「沙友紀、オレが、この間言った事、忘れちゃってよ。なんか自信なくなっちゃってさ」
えぇ?この間言った事って、それってプロポーズって事?
「ど、どうして?わたし返事したよね。一緒にお店の味守って行こうねって。わたし、すごくうれしくって。あっ、あの噂?金髪の外国人のこと?あの人は関係ないの。ゼミの教授の知り合いで」
デミグラスソースをちょっと手の甲につけて、サトにいは味を見た。
そうして曇った表情になった。
「じいちゃんがさ、おとといの晩倒れちゃってさ。さっき病院から戻ってきたんだけどね。俺のデミじゃ店開けられないって言うんだ」
知らなかった。
「それで?おじいさんは大丈夫なの?」
「ああ、じじいだけどけっこう身体は丈夫だからな。ちょっと疲れただけだってさ。『夢の湯』のおじいさんが亡くなった時は落ち込んじゃってちょっとやばかったけどね。大したことはないから、百歳まで生きますよなんて病院で言われたって喜んで帰ってきたんだけどさ」
「そうか、良かったわ」
サトにいは、わたしにコーヒーを入れてくれて
「良くないのはさ、俺なのよ」
情けなさそうに笑った。コーヒーの香りと一緒に苦味が口いっぱいに広がった。
良くないって?どうしたの?
わたしはサトにいの次の言葉を待った。
「ああ、噂ね。いろんな事言うんだよね、この辺のおじいちゃんおばあちゃんってそういうの大好きだからさ」
サトにいの耳にはなんて入ってきたの?
「沙友紀がさ、結婚するってさ。で、相手はオレじゃないわけね。なんか外国人で芸術家だって話。銭湯が気に入ってて、結婚したら後を継いでもいいって言ってるなんて。俺がさ、勇気ふりしぼって告白した次の日に、そんな噂。さすがのオレでもへこんじゃったわ」
いつも冷静なみんなに頼りにされるサトにいが、へこんじゃった?
「ごめんね、ごめん。わたしこんな事になるなんて思ってもいなくて、日本の普通の人たちの生活が見たいって言われても、思いつかなくって。『夢の湯』はお気に入りになっちゃってたし」
ふぅっとため息をはいて、サトにいは
「いいのいいの。沙友紀のせいじゃないよ。俺ってこんなに情けないんだって思っただけだから。わかってたよ、わかってたけど、気が散っちゃってさ。いつも沙友紀がそばにいるのが当然だったからさ。いなくなったらどうしようって思ったら、デミの味おかしくなっちゃったんだ。笑っちゃうだろ?」
不謹慎にも、わたしは嬉しかった。
だって、そんなに私のこと思ってくれているんだ。大切に思ってくれている。胸がどきどきした。
「わたしは、ずっとずっとサトにいのそばにいるわ。だめ、言った言葉は取り消しできないよ。わたしははなれろって言われても、サトにいにくっついてるんだからね」
大鍋のデミに向かっていたサトにいが、くるっとわたしのほうを向いた。そして、ぎゅっとわたしの頭を抱きしめた。
「約束してくれる?絶対にはなれないって」
ぎゅっと抱きしめられたわたしは、もがくように何度も何度もうなずいた。そして、広くて大きなサトにいの背中に手を回して想いと一緒に力を込めた。
階段を下りてくる足音がして声が聞こえた。
「ほっほ~、これでデミグラスソースは無事に本来のお味を取り戻すって訳ね~、なんだかね~心配して損したぜ!」
洋ちゃんだった。
慌てて、わたしたちは離れた。
「おまえらさ、たまには厨房以外でも愛をたしかめてよ!厨房がますます暑くなるってばよ~~ああ居心地悪いったらねぇよ」
サトにいはデミをかき混ぜ始めた。わたしは真っ赤な顔していると思う。あたまから湯気が出ている気がする。
「で?兄貴は沙友紀の事好きなの?嫌いなの?ちゃんと言った事ねぇだろ?」
洋ちゃんはなんでそんな事まで知っているんだろう?
うん、本当は聞きたいよ。
「おまえなぁ、いつもいつもおせっかいなんだよ!ほっとけ!」
サトにいは洋ちゃんにそう言ったけど、見上げているわたしの表情に気がついたみたいだった。
そして、うなずいて深呼吸して、厨房の天井に向かって大きな声で言った。
「好きだよ!大好きだ」
そしてもう一度、わたしに向かって
「俺、沙友紀が好きだよ。おまえの事本当に大切だと思ってる」
って。
いつも冷静でかっこよくって誰からも好かれていて、大好きな大好きなサトにいがわたしに向けた言葉。
(洋ちゃん、サンキュ!)
そう小さな声で洋ちゃんにウィンクした。
それから、わたしはサトにいの目を見て
「わたしも、大好き。ずっとずっと一緒にいるから!約束する」
恥ずかしくて言えなかったけど、今は素直に言葉にできたの。
「けっ!勝手にしてろっつうの!あ~~本当に心配して損したぁ。あほらしくていらんねぇよ!二人でよろしくやってくれ!あばよ!」
って洋ちゃんは頭を抱えて厨房のドアを開けて、出て行った。
外からは冷たい風が入ってきた。
洋ちゃんは、態度はあんなだけどいつもいつも二人の事心配してくれる。大事なときに現れてわたしの背中を押してくれる。
わたしは心から洋ちゃんに感謝した。
おじいさんは元気だけど、わたしは「エーデルワイス」で働く事にした。ファミレスで働くよりいいバイトだからね。楽しいし。
で、もう一つ決めた事がある。
大学を辞めて調理師の学校に行って調理師の免許を取る。
大学を辞める事は、サトにいも反対したんだけど決意は変わらない、そうしようと思っているの。
そもそも、大学に行ったのは特別に勉強したい事があるとかじゃなかった訳で、ママの歩んだ道を実際に自分で確かめたかったって言うか知りたかった。そして、パパが特別に喜ぶから。
でも、今わたしには目指す目標ができちゃった。
いつもいつも、人手が足りなくて困っているお店。
少しでも力になりたい。
厨房はおじいちゃんとサトにい。近所に住んでいるサトにいのおばさんとか知り合いがウェイトレスさんでなんとかやっていけている。
でも、休日のランチ時と夜は人手が足りなくて困っている。狭いお店だからどっちも手伝える人がいたらっていつもサトにいこぼしていたし。
うん、そうしよう。
わたしは、家に帰りながら心に強く決めた。
でも、いくつか問題があるのよね。そう考えるとまっすぐに家に帰る気がしなくって、わたしは『夢の湯』に寄った。