おばあちゃんの作戦
翌日、誰かに話しておきたくて大学の講義が終わってから『夢の湯』に向かった。
桜の木の下の壊れそうなベンチに誰かが座っていた。
背が高い外国人、金髪が風に揺れた。こっちを振り向いて人懐っこい笑顔を見せる。
「さ~ゆ~き!マッテマシター」
ニッキーは、手を振りながら難しい顔をして見せた。
「このベンチ、コワレそうですねェ。イケマセーンね。ココには、きれいなベンチヒツヨウですネ」
まあ、そりゃそうだけど。なんでニッキーは、わたしを待っているんだっけ?
今日は何にも頼まれてないけど。なんか、約束したかしら?
「どうしたの?」
なれなれしい笑顔に友だちみたいな気分になる。
わたしより、ずっと年上なのにね、きっと。
「昨日、お風呂約束シマシタネ。でも、まだシマッテマス」
もう、三時半はとうに過ぎている。
どうしたんだろう?時間に開いてないなんて事なかったのに。
わたしは、あわてて広い玄関先の引き戸を開けようとした。
ん?鍵はしまってない、ガタガタいって少しだけすき間ができる。
あ、この扉壊れてる。わたしは、力いっぱい引き戸を開けようとした。
「なんだいなんだい、さゆきかい?こまっちまってねぇ。今、トメキチじいさん呼んでるんだけどねぇ」
玄関の内側からおばあちゃんが、声をあげる。
「コワレテル?」
ニッキーは、嬉しそうな笑顔を向けた。
「アケレバ、いいデスカ?」
ガサガサと肩から下げた大きな黒いバックからなにやら取り出した。
くぎ抜きだ、なんでそんなもの、持っているんだろう?
「これ、キニイリマシテ買いましたデス」
なんと、ニッキーは器用にくぎ抜きを引き戸の下に引っ掛けると、ひょいっと持ち上げた。引き戸は簡単に持ち上がって扉は外れた。
ニッキーは「オォ~」とかなんとかしゃべりながら、子どもみたいに扉の奥から何かを取り出した。
それは子どもがよく手にしている、とても小さなプラスチックでできた自動車のおもちゃだった。
挟まって下に入ってしまったんだろう。半分壊れている。
「あれまぁ、そんなもんが入っちゃってたのかい?ニッキさん、ありがとうねぇ、助かったってもんだよ。今日は御代はいらないよ、ゆっくりお湯につかっとくれ!」
おばあちゃんは、上機嫌でニッキーを男湯に案内した。
お湯の出し方とか、入り方、出るときは身体をタオルで拭いて、最後は入り口でお湯を足にかけて桶は逆さにして入り口に置く、とか細かくレクチャーしていた。一つ一つに「オ~」とか「イェース」とか大げさな声が聞こえてきた。
そうして、お客さんが何人かやってきたので、わたしは急いで番台に上がった。
クラッとめまいがして、長い時間が経ったような気がした。
今、番台に上がったのよね、わたし。不思議な感覚が身体を包む。ポケットに入れた手に何かが触れた。
『大丈夫かい、ママさん。沙友紀だけ置いててくれりゃ、じじいが面倒見るんだけどねぇ』
わたしのすぐそばから、声が聞こえた。おじいちゃんの声だ。
『大丈夫よ、おじいちゃん。沙友紀はここで遊ぶの大好きなんだもの。ちゃんとおねえちゃんにも愛情たくさんかけてあげないといけないのよ!お母さんって』
ママがいた。
赤ちゃんを背中におぶって片付けなんかをしている。ああ、背中におぶわれているのは葉月だ。
ママは家にある写真より少しだけふっくらしてる。
籐のベンチのところでしゃがんで遊んでいるのは、わたしだね。
隣で一緒に遊んでいる男の子は、ふふ、洋ちゃんだ。
幼稚園くらいかしら。それとも、小学一年生くらいかな?
『かえしてよぉ』
小さい子、じゃなくって小さいわたしの声が聞こえた。ポッケに手を突っ込んで知らん振りしているのは洋ちゃん。
そこにママがやってくる。
『あらあらあら、男の子って複雑ねぇ。洋ちゃんは沙友紀の事困らせてこっちを見てもらいたいのね。でもね、あんまりやりすぎちゃだめよ。女の子は難しいんだから、ふふふ』
「さゆきは、兄貴とばっかあそんでるからだよぉ!」
むっとした顔して小さな洋ちゃんは、番台の前の男湯と女湯の境にあるドアを開けて逃げて行っちゃった。
そうそう、小さい頃はよく意地悪されたんだっけ。でもね、わたしもだんだん意地悪に負けない女の子になっていったのよね。少しずつ泣き虫が泣き虫じゃなくなるの。そうだ、ちゃんと言いたい事だって言えるようになっていたな、おかしい。
幼いわたしは、ママと小さな池の中をのぞいた。
昔の『夢の湯』には脱衣所の端ガラスの引き戸の向こうの縁側に小さな池が作ってあった。その中には金魚が何匹も泳いでいる。
小さな箱庭みたいなその場所は、子どもの頃のお気に入りの場所だった。ママが銭湯のお手伝いをしてる時は、いつまででもその場所にいられたのよね。
外の塀に囲まれてちっぽけな箱庭だったけど、ミニチュアの池、水車、流れ落ちる小さな小さな滝なんかが一つの景色みたいに作ってあって、小さなわたしはその中で想像の自分を遊ばせるのが大好きだった。
『沙友紀はママといつでも一緒に遊べるから、とっても幸せなんだよ。パパはもっともっと沙友紀や葉月と一緒にいたいけど、会社から帰ってからの時間しかなくってかわいそうよねぇ。ママもずっとパパと一緒にいたいんだけどなぁ』
そう言って、小さなわたしと一緒に金魚にえさをあげている。
ああ、ママは本当にパパの事愛していたんだね。本当に二人とも大好きだったんだね。
そう思うだけで、一緒にいられない今の二人の事がわたしの胸を痛くする。一人ぼっちで泣いていたパパの姿が思い出されて、涙が出てきちゃう。
わたしは、そんなパパを残してお嫁さんに行っちゃっていいんだろうか。
赤ちゃんの葉月が泣き出した。
すごい、元気なあかちゃんだ。今の、ぶすっとした葉月とは思えない元気な赤ちゃん。ママがあやすと、顔中にっこりになって笑う。
なんて表情豊かなのかしら?
葉月、いつのまにか笑わなくなっちゃったんだ。
わたしのもう一つの心配の種、どうしたら葉月は笑顔をとりもどしてくれるんだろう。
ぼ~っとそんな風景を眺めているとまた、くらっと世界がゆれた。
目の前の景色がぐにゃんとくずれて回転していく。
ああ、まだママの姿見ていたいのに。もっと笑顔見ていたいのに。
この間みたいに目の前が白い霧に包まれる。身体が引き戻されるのがわかった。
しばらく真っ白な霧の中を泳いでいたような感覚。ゆっくり目を開けると、おばあちゃんの顔が目の前にあった。
「ニッキさん、帰るってよ!しっかりおしよ。ねぼけてるのかい?」
ニッキーがほかほかと湯気を立てて、ほっこりと笑顔で立っている。
笑うとかわいい顔のニッキーは、わたしの手を握り締めて
「さゆ~き!オフロヤサンっていいデスネ。きもちイイデスネ、おばあさまのオハナシためになります」
あれれ、おばあちゃんニッキーとどんな話したのかしら。
とにかく、ニッキーはものすごく満足したみたいで「マタキマス」といっておばあちゃんの手まで握り締めて帰っていった。
おばあちゃんは、握り締められたしわしわの自分の手を眺めながら
「おもしろい外人さんだねぇ。昔の話ばっかり聞きたがるもんだから、なんだか若い頃の事を思い出しちまったよ!」
おばあちゃんは遠くのほうを見ているみたいな顔をしていた。
おばあちゃんとおじいちゃんではじめたこの銭湯。きっと、いろんな事いろんな思い出あるに違いない。このお風呂屋さんにはたくさんの思い出がつまっているのね。
わたしにとっても、パパにとっても。
ふとおばあちゃんに聞いてみた。
「わたしが結婚しちゃったらパパどうなっちゃうかな?」
おばあちゃんは「おや?」という表情でわたしを見た。
「あ、もしも、もしもの話だけどさ。あの家出るような事になったら、どうなっちゃうかな」
いっそうにやついた顔のおばあちゃん。
「そうかい、沙友紀にもそんな人ができたって訳だね。いいねぇ、若いってのは。うらやましいよ」
わたしは、あわてて手を振って否定したけど、おばあちゃんはうなずいて
「なに言ってんだい!沙友紀は自分の幸せだけを考えりゃいいのさ。あんな腑抜けたパパなんか気にしてちゃいつまでたっても幸せにゃなれないよ!」
そう?本当にそうなの?
「さしづめ、まず葉月だねぇ~、あの子にゃすこ~しおとなになってもらわなくちゃならないねぇ、うん」
そう言うとあごに手を当てて考えている。そうして、ぱんと手を叩いてにっこり微笑んだ。
「番台に座らせようか。バイトに来いって言っといておくれよ。まずはそこからだね!あたしもまだまだもうろうくしてないねぇ。うん」
たいそう満足したみたいで、おばあちゃんはわたしと交代で番台に座ると入ってきたお客さんに元気よく声をかけていた。いつもより数倍頼もしい、わたしのおばあちゃんだった。いつも小さな身体のおばあちゃんがなんだか大きく感じた。
葉月に言うと、意外にも喜んでオーケーした。
「土曜日とか日曜日とか、パパと一日中一緒にいるのしんどかったからラッキー。おまけにバイトとくりゃ最高じゃん。番台ってのがネックだけど」
それから葉月はおばあちゃんの家からヘアーウィッグなんかさがしてきた。ストレートの黒髪をつけると、まったく葉月には見えなかった。どこのおねえさんって感じ。
さらにメガネなんかもさがしてきて、これじゃ変装しているみたいだけどそんなんでいいのかな?
おばあちゃんは、「なんだって、いいんだよ!」って言って葉月を番台に座らせていた。
すごくすごくわたしは不安だったけど、おばあちゃんがそばについているんだからと自分を納得させた。
ママがいなくなってから、葉月の面倒はわたしがずっと見ていた。つらい事もしんどい事もたくさんあったけど葉月が少しずつおとなになっていくのかなって思うと嬉しいような悲しいような複雑な気持ちで一杯になる。
何かが、変わるかしら?わたしも、パパも葉月も。どこかが少しでも。
☆☆☆☆☆☆☆