変な外国人
せわしない朝がやってきた。
六時ちょっと前には起きる。まだまだ暗い朝で夜明け前って感じ、冷えたリビング。
ストーブで部屋を暖めてキッチンに立つ。お弁当作りも、もう何年もやっているから慣れたもの。
さっとブロッコリーをゆでて卵焼き。ウィンナーは小さい頃から葉月の大好物だから入れましょうね。
目玉焼きと昨日の残りのきんぴらごぼうをコタツの上に並べて、納豆と味噌汁を並べると、パパが起きてくる。
まだ夕べのどきどきが止まらなかったのに、パパの顔見たらうそのように消えちゃったよ。
いつもの平和な朝、おはよう。
「昨日は遅かったんだな」
どきん、少しだけ思い出した胸の鼓動を落ち着かせて少しだけパパにうそついちゃった。
「うん、ファミレスの子たちとおしゃべりしてたら遅くなっちゃって、ごめんね。待っててくれなくていいから」
「葉月、起こさなくていいのか?陸上部って朝練あるんだろう?」
とりあえず、朝ごはんの用意とお弁当を作って、葉月の部屋をノックする。
いつも通りの無反応。
この子は昔から朝は、まったくだめなのよね。
わたしは部屋に入って行ってベッドの布団にくるまっている葉月を、お布団からひぎはがした。
「もお~、なにするのよぉ~」
「陸上部の朝練は出なくていいの?」
「いいんだよ、弱小部なんだから。もうちょっと寝かせてよ!」
と言ってまたお布団にくるまろうとしたところを、取り上げて
「起きなさい!」
毎日毎日この繰り返しなんだから。
わたしなんて中学生の頃は、もうパパのお弁当と自分のお弁当作っていたっていうのに。
葉月は
「また和食ぅ、納豆くさいよ。食べらんないよー」
と起きてきたのに、コタツの中にもぐりこんだ。
「大変大変、もうこんな時間だぞ!」
葉月の顔を見てから、満足そうにパパがばたばたしはじめる。そうして、わたしはパパと出かけるんだ。まだまだ夢の中の葉月を残して。
「家のカギ、おねがいねぇ、行ってきま~す!」
パパとわたしの向かう駅は違うのですぐにパパとは別れちゃうけど、わたしはパパを心配する癖がついているので家を一緒にでる。
マンションから表の通りに出て、わたしは角を曲がって路地に入り近道の『夢の湯』の前を通る。パパは曲がらずにそのまままっすぐに行く。
ママが亡くなってからたまにパパはこの桜の木の下でぼぉっとしちゃって、会社に行きそびれることが何度もあった。
桜の木の前を通るたび、いまだにその時の悲しそうなパパの姿が目に浮かぶ。
今日は元気で会社に行ったね。がんばってね、パパ。
ふと、桜の木を通り過ぎようとしてわたしは、木を見上げている人がいるのに気がついた。
ふいに目が覚めるような元気な声が聞こえた。
「ハ~イ!おはよ~ゴザイマス。ここ、ナンデスカ?」
金髪だ。目が青い。外国人だ。
こんな朝早くから変な人につかまっちゃったな。さっさと切り上げないと大学に遅れちゃうよ、今日の講義一限目は大好きな先生なのよね。
え~と、『夢の湯』のこと言っているのかしら。まあ、不思議な空間だものね。
大通りからは隠れて見えないけど、路地をはいると広場になっていて大きな桜の木があって、その木の前にどっしりとした神社みたいな建物。
反り返った屋根はみごとだし、その下に京都の神社みたいな彫り物がしてある。しかも大きな煙突が空にむかってはえているんだからね。
青い目をキラキラ輝かせて、夢の湯の瓦なんかを熱心に見つめている。
変わった外国人。
「えーと、スパ?バス?えっとシャワー、じゃないよね。えっとなんて言うのかな、銭湯って?」
「オ~~、イエスイエス。わかりました。何時にオープンですか?」
入りたいのかしらね。
「三時半からだけど、あ、なんて言えばよかったっけ?英語英語、やば!」
とっさに英語って出てこないなぁ~、情けない。英米文学部じゃないの、わたし。
「オ~ケ~、イイデスネー。サンキュー」
うんうんと首を振っている変な外国人を後にして、わたしは駅に向かった。
ゆっくり鑑賞していて下さいな。
地下鉄の駅からは五つ先の駅を降りれば、大学だ。
緑に囲まれた都会とは思えないさわやかな風の吹くキャンパス。ここはパパとママの母校でもあるの。
わたしがこの大学受験するって言ったとき、パパはめちゃくちゃうれしそうだったな。
ついでにママの思い出話が永遠と続いちゃったけど。
わたしが九つの時にママが亡くなって、ママの事が知りたくてママの歩んだ道が知りたくて、パパとママの思い出に触れたくて、この大学に入学した。
まるでパパがガイドについて歩いているみたいに説明されちゃっているから、どこに何があるか当の昔に覚えちゃってたんだけどね。
校門に向かって歩いて行くと、後ろのほうで変な声が聞こえた。えっ?
「ハ~イ、おはようゴザイマース」
さっきの外国人だ。なんで?わたしの後ついてきた?なに?
振り返ると、手を振っている。明らかにここの学生じゃない。
どうしよう、ストーカーだ。
わたしは急いで大学のキャンパスを駆け抜けた。
「どうシマシタカ~?」
わたしの後ろの方から声が追いかけてきた。
講義室の前まで全力で走ってくると、息があがっちゃった。
後ろからは誰もついてきていないよう。
はぁ~、もう大丈夫みたいね。良かった、親切にしてあげたのについて来るなんて、なんてやつなのかな。あったまきちゃう。
講義室の入り口のところで、友だちと話をしていると文学部の先生がやってきた。講義室に入ろうとしたわたしは呼び止められた。
「椎名くん!ちょうど良かった、さがしていたんだよ。頼みたいことがあってね、彼と一緒してほしいんだよ」
大好きな久我先生の頼みだったら、時間つくっちゃうな。
年配の教授なんだけどとっても人気者で、生徒からも慕われている。
何を隠そうパパとママの恩師でもある。わたしの事もあかちゃんの時から知っているっていう恥ずかしい関係なの。
久我先生のうしろから金髪の頭がゆれた。
「ハ~イ!マタお会いしましたネー!」
さっきの外国人じゃないの。どういうこと?
このストーカーったら、久我先生の知り合いだったのかしら?
「無理です、だってその人わたしのことつけてきたんですよ。ストーカーかも。とってもしつこいんだと思うわ、電車にまで乗ってきたなんて」
一瞬不思議そうな顔をしてから、久我先生は笑い出した。
この先生はいつでも楽しそうに笑うんだ。わたしの大好きな笑い顔。
本当にこの変な外国人は、知り合いなのかしら。
「あっはっはっは!とりあえず、変人かもしれないけどストーカーではないから安心しなさい。下町を案内してほしいんだ。日本には何度も来ていて京都奈良、いろんなところに行ったことはあるんだけど、気に入った場所がないって言うんでねぇ」
なんと、青い目の金髪は先生の知り合いの青年だそう。
わたしは先生の知り合いを、ストーカー扱いしちゃったってわけ?
となりで話を聞いていた友だちが「あ、知ってる」って小さな声で言った。何を知っているっていうのかしら。
今日は午後の講義がないので、わたしは下町を案内することになっちゃった。
先生の頼みなので、断れない。
彼の名前はニコルソン、みんなニッキーって呼ぶからって、久我先生は言った。
「ニッキーと呼んでクださい。ジュギョウおわったら、あとでレストランにいまース」
と笑って大学の探検に行っちゃった。
友だちの話では、芸術家だったよって、雑誌にも載っていたよって。
そうなのね、本当にわたしの勘違いだったわけだ。良かったよ、「ストーカーだ!」って叫ばなくってね。
とりあえず、下町ってわたしの家の近辺を案内すればいいのかな。
下町っていっても昔はごちゃごちゃとたくさんの商店が並んでいたんだろうけど、家を継ぐ人もどんどん少なくなって、シャッターの下りている店もたくさんある。
本当に、いいのかしら?
ふと、夕べのプロポーズの事を思い出した。
そう、そんな中で、「エーデルワイス」はおじいちゃんの店を孫であるサトにいが継いでちゃんと切り盛りしているんだから、すごい。
まあ、ここまで来るにはすったもんだあったみたいだけどね。
思い出しただけで、どきんと胸の奥が熱くなる。当分、こんな感じが続くのかしら。
まずいな。「エーデルワイス」行きにくくなっちゃうな。どんな顔していけばいいかな。
お昼になって講義も終わって、ニッキーにどんなところに行きたいのか聞こうと思って学食に行ったら、なんだかいつもと様子が違っていた。
人だかりがしているし、たまに「きゃ~」とか「わぁ~」とか声がしている。
もう、ニッキーはどこいっちゃったのかなと思って捜していると
「さゆき~、ココいまーす」
ってニッキーの声、人ごみの中から。
なんと、人ごみはニッキーのまわりにできていたわけで、大勢の生徒がこっちを見るものだからめちゃめちゃ恥ずかしかった。
ニッキーを知っている学生が何人もいて、それを聞きつけてのやじうまだった。
彼のシルクスクリーンの絵は世界的にも名前が知られているらしいけど、わたしはまったく知らなかったし、シルクスクリーンっていうものがどんなものかも想像できなかった。
簡単にいうと版画みたいなもので、色鮮やかなものやリアルなものもあるらしい。
そうして、わたしは困惑しながら出かけた。
久我先生が言うには、特別じゃない日本らしい場所に連れて行ってあげたらいいよって。
浅草も仲見世も何度も行っているから、有名どころはもういいらしいって。
普通の気取らない場所に行けばいいって。
とりあえず、うちの周りの商店街からいくつもかかる橋を渡って歩くことにした。
ニッキーは、小さなおじぞうさんとか路地裏の狭いごちゃごちゃした場所とか「ワァオ、日本ジョウチョですねェ」
とか、わかっているんだかわかってないんだか、うれしそうに声をあげていた。
曲がりくねった階段とかウゥーンってうなっていたし、写真まで撮っていた。なんだか、芸術家の感覚ってやつなのかしらね、わたしには理解できないな。
「エーデルワイス」の前を少し緊張気味に通りかかった。お昼もとうに過ぎたって言うのに十五人くらいの人が並んでいた。
「ナニしていますか?」
ニッキーが不思議そうな顔をした。
う~んなんて答えればいいかな。行列って外国の人ってわかるのかしら。
「とても、人気があるレストランなので順番を待っている人たちです」
んーっと考えていたニッキー。
並びたいって言い出したら困るなって思っていたら、歩き出したのでほっとした。まだ、サトにいの顔見るのこわい。店の中をのぞくのさえ、ためらわれた。
突然、パンと手を叩いて
「お風呂屋さん!行ってもイイデスカ?」
ああ、そういえば朝『夢の湯』の前で会ったんだっけ。
もう、三時半になろうとしている。
『夢の湯』が始まるのは三時半だ。
おばあちゃんに言って見学させてもらおうか。
ニッキーは、『夢の湯』の外観をあっちこっちから眺めては「ワンダフル」とか「ファンタスティック!」とか喜んでいたので、まあなんとなく気に入ってもらえてうれしかった。
桜の木の下にかなり傷んだ木のベンチがある。
パパとママの待ち合わせアンド、デート場所だった憩いのベンチ。
ニッキーは何かを感じたのかしら、愛おしそうにベンチをなでていた。
空は薄い水色で寒そうに雲が刷毛で描いたように、すっすっと白く色づけられている。
どっしりとした瓦の屋根は昔から変わらずに、たくましくそこにあって太い煙突が空に伸びている。
もうそろそろ開店時間なので、暖簾をくぐって女湯の方から中をのぞいた。
いたいた、おばあちゃんが籐でできたいすを拭き掃除していた。
事情を話そうと思ったら、ニッキーが自分の家みたいに入ってきて「ワァオ!」って興奮した感じ。
「沙友紀かい!なにやってんだい。男湯はあっちだって教えてやんなよ!もうお客さん入ってきちまうだろうが」
わたしはあわててニッキーに男湯に行くように言って、おばあちゃんに説明した。
「町のさびれた風呂屋なんか、見てもおもしろいかねぇ~。最近はめっきりお客さんもすくなくなってねぇ。みんな一人で狭い風呂に入って楽しいのかねぇ」
って言いながら男湯と女湯の間にあるドアを開けてニッキーがいる男湯の掃除に取り掛かった。
「一応、案内でもしてやるかね。沙友紀は番台に座っとくれ!」
わたしは、しかたなく風呂屋の番台に座った。
お風呂屋さんには、男湯と女湯の間が塀で区切られていて二つの空間をつないでいる壁の少し高い入り口に人一人座る場所がある。
それが、番台。
入り口に背を向けて座るようになっていて、男湯も女湯も入ってきた人からお金を受け取るところだ。後、せっけんとかシャンプーなんかも売っている。
まあホテルの受付、みたいなところかしら。
昔は、広い脱衣所から湯ぶねの方まで全部見渡せた。でも、何年か前に改装して脱衣所はロッカーができてそれが脱衣所の目隠しになって着替えるところは入り口から陰になって見えなくなった。番台からも見えない。
小さい頃は、いつも近所の子どもたちと遊び半分でお風呂に入っていたっけ。
さえぎるロッカーもなかったから、鬼ごっことかして遊んではおじいちゃんに怒られたものだわ。
サトにいなんかも一緒だったな。洋ちゃんはいたずらしては、おじいちゃんにゲンコツもらっていた。すごく懐かしい。男の子も女の子もみ~んなはだかんぼうでね。
「そりゃそうさ。風呂にはいりゃみんな家族みたいなもんよ。昔はねぇ、今と違ってはだかになりゃみんな一緒って感じさ。金持ちも貧乏人も偉い人もいないのさ。いい時代だったねぇ」
っておばあちゃんは、やけにいろいろとニッキーに説明しているみたいだ。まだ、始まったばかりの銭湯はだれも来ていなかった。
今日はなんだか、疲れちゃったな。昨日からいろんな事あったし。
せわしない朝がやってきた。
六時ちょっと前には起きる。まだまだ暗い朝で夜明け前って感じ、冷えたリビング。
ストーブで部屋を暖めてキッチンに立つ。お弁当作りも、もう何年もやっているから慣れたもの。
さっとブロッコリーをゆでて卵焼き。ウィンナーは小さい頃から葉月の大好物だから入れましょうね。
目玉焼きと昨日の残りのきんぴらごぼうをコタツの上に並べて、納豆と味噌汁を並べると、パパが起きてくる。
まだ夕べのどきどきが止まらなかったのに、パパの顔見たらうそのように消えちゃったよ。
いつもの平和な朝、おはよう。
「昨日は遅かったんだな」
どきん、少しだけ思い出した胸の鼓動を落ち着かせて少しだけパパにうそついちゃった。
「うん、ファミレスの子たちとおしゃべりしてたら遅くなっちゃって、ごめんね。待っててくれなくていいから」
「葉月、起こさなくていいのか?陸上部って朝練あるんだろう?」
とりあえず、朝ごはんの用意とお弁当を作って、葉月の部屋をノックする。
いつも通りの無反応。
この子は昔から朝は、まったくだめなのよね。
わたしは部屋に入って行ってベッドの布団にくるまっている葉月を、お布団からひぎはがした。
「もお~、なにするのよぉ~」
「陸上部の朝練は出なくていいの?」
「いいんだよ、弱小部なんだから。もうちょっと寝かせてよ!」
と言ってまたお布団にくるまろうとしたところを、取り上げて
「起きなさい!」
毎日毎日この繰り返しなんだから。
わたしなんて中学生の頃は、もうパパのお弁当と自分のお弁当作っていたっていうのに。
葉月は
「また和食ぅ、納豆くさいよ。食べらんないよー」
と起きてきたのに、コタツの中にもぐりこんだ。
「大変大変、もうこんな時間だぞ!」
葉月の顔を見てから、満足そうにパパがばたばたしはじめる。そうして、わたしはパパと出かけるんだ。まだまだ夢の中の葉月を残して。
「家のカギ、おねがいねぇ、行ってきま~す!」
パパとわたしの向かう駅は違うのですぐにパパとは別れちゃうけど、わたしはパパを心配する癖がついているので家を一緒にでる。
マンションから表の通りに出て、わたしは角を曲がって路地に入り近道の『夢の湯』の前を通る。パパは曲がらずにそのまままっすぐに行く。
ママが亡くなってからたまにパパはこの桜の木の下でぼぉっとしちゃって、会社に行きそびれることが何度もあった。
桜の木の前を通るたび、いまだにその時の悲しそうなパパの姿が目に浮かぶ。
今日は元気で会社に行ったね。がんばってね、パパ。
ふと、桜の木を通り過ぎようとしてわたしは、木を見上げている人がいるのに気がついた。
ふいに目が覚めるような元気な声が聞こえた。
「ハ~イ!おはよ~ゴザイマス。ここ、ナンデスカ?」
金髪だ。目が青い。外国人だ。
こんな朝早くから変な人につかまっちゃったな。さっさと切り上げないと大学に遅れちゃうよ、今日の講義一限目は大好きな先生なのよね。
え~と、『夢の湯』のこと言っているのかしら。まあ、不思議な空間だものね。
大通りからは隠れて見えないけど、路地をはいると広場になっていて大きな桜の木があって、その木の前にどっしりとした神社みたいな建物。
反り返った屋根はみごとだし、その下に京都の神社みたいな彫り物がしてある。しかも大きな煙突が空にむかってはえているんだからね。
青い目をキラキラ輝かせて、夢の湯の瓦なんかを熱心に見つめている。
変わった外国人。
「えーと、スパ?バス?えっとシャワー、じゃないよね。えっとなんて言うのかな、銭湯って?」
「オ~~、イエスイエス。わかりました。何時にオープンですか?」
入りたいのかしらね。
「三時半からだけど、あ、なんて言えばよかったっけ?英語英語、やば!」
とっさに英語って出てこないなぁ~、情けない。英米文学部じゃないの、わたし。
「オ~ケ~、イイデスネー。サンキュー」
うんうんと首を振っている変な外国人を後にして、わたしは駅に向かった。
ゆっくり鑑賞していて下さいな。
地下鉄の駅からは五つ先の駅を降りれば、大学だ。
緑に囲まれた都会とは思えないさわやかな風の吹くキャンパス。ここはパパとママの母校でもあるの。
わたしがこの大学受験するって言ったとき、パパはめちゃくちゃうれしそうだったな。
ついでにママの思い出話が永遠と続いちゃったけど。
わたしが九つの時にママが亡くなって、ママの事が知りたくてママの歩んだ道が知りたくて、パパとママの思い出に触れたくて、この大学に入学した。
まるでパパがガイドについて歩いているみたいに説明されちゃっているから、どこに何があるか当の昔に覚えちゃってたんだけどね。
校門に向かって歩いて行くと、後ろのほうで変な声が聞こえた。えっ?
「ハ~イ、おはようゴザイマース」
さっきの外国人だ。なんで?わたしの後ついてきた?なに?
振り返ると、手を振っている。明らかにここの学生じゃない。
どうしよう、ストーカーだ。
わたしは急いで大学のキャンパスを駆け抜けた。
「どうシマシタカ~?」
わたしの後ろの方から声が追いかけてきた。
講義室の前まで全力で走ってくると、息があがっちゃった。
後ろからは誰もついてきていないよう。
はぁ~、もう大丈夫みたいね。良かった、親切にしてあげたのについて来るなんて、なんてやつなのかな。あったまきちゃう。
講義室の入り口のところで、友だちと話をしていると文学部の先生がやってきた。講義室に入ろうとしたわたしは呼び止められた。
「椎名くん!ちょうど良かった、さがしていたんだよ。頼みたいことがあってね、彼と一緒してほしいんだよ」
大好きな久我先生の頼みだったら、時間つくっちゃうな。
年配の教授なんだけどとっても人気者で、生徒からも慕われている。
何を隠そうパパとママの恩師でもある。わたしの事もあかちゃんの時から知っているっていう恥ずかしい関係なの。
久我先生のうしろから金髪の頭がゆれた。
「ハ~イ!マタお会いしましたネー!」
さっきの外国人じゃないの。どういうこと?
このストーカーったら、久我先生の知り合いだったのかしら?
「無理です、だってその人わたしのことつけてきたんですよ。ストーカーかも。とってもしつこいんだと思うわ、電車にまで乗ってきたなんて」
一瞬不思議そうな顔をしてから、久我先生は笑い出した。
この先生はいつでも楽しそうに笑うんだ。わたしの大好きな笑い顔。
本当にこの変な外国人は、知り合いなのかしら。
「あっはっはっは!とりあえず、変人かもしれないけどストーカーではないから安心しなさい。下町を案内してほしいんだ。日本には何度も来ていて京都奈良、いろんなところに行ったことはあるんだけど、気に入った場所がないって言うんでねぇ」
なんと、青い目の金髪は先生の知り合いの青年だそう。
わたしは先生の知り合いを、ストーカー扱いしちゃったってわけ?
となりで話を聞いていた友だちが「あ、知ってる」って小さな声で言った。何を知っているっていうのかしら。
今日は午後の講義がないので、わたしは下町を案内することになっちゃった。
先生の頼みなので、断れない。
彼の名前はニコルソン、みんなニッキーって呼ぶからって、久我先生は言った。
「ニッキーと呼んでクださい。ジュギョウおわったら、あとでレストランにいまース」
と笑って大学の探検に行っちゃった。
友だちの話では、芸術家だったよって、雑誌にも載っていたよって。
そうなのね、本当にわたしの勘違いだったわけだ。良かったよ、「ストーカーだ!」って叫ばなくってね。
とりあえず、下町ってわたしの家の近辺を案内すればいいのかな。
下町っていっても昔はごちゃごちゃとたくさんの商店が並んでいたんだろうけど、家を継ぐ人もどんどん少なくなって、シャッターの下りている店もたくさんある。
本当に、いいのかしら?
ふと、夕べのプロポーズの事を思い出した。
そう、そんな中で、「エーデルワイス」はおじいちゃんの店を孫であるサトにいが継いでちゃんと切り盛りしているんだから、すごい。
まあ、ここまで来るにはすったもんだあったみたいだけどね。
思い出しただけで、どきんと胸の奥が熱くなる。当分、こんな感じが続くのかしら。
まずいな。「エーデルワイス」行きにくくなっちゃうな。どんな顔していけばいいかな。
お昼になって講義も終わって、ニッキーにどんなところに行きたいのか聞こうと思って学食に行ったら、なんだかいつもと様子が違っていた。
人だかりがしているし、たまに「きゃ~」とか「わぁ~」とか声がしている。
もう、ニッキーはどこいっちゃったのかなと思って捜していると
「さゆき~、ココいまーす」
ってニッキーの声、人ごみの中から。
なんと、人ごみはニッキーのまわりにできていたわけで、大勢の生徒がこっちを見るものだからめちゃめちゃ恥ずかしかった。
ニッキーを知っている学生が何人もいて、それを聞きつけてのやじうまだった。
彼のシルクスクリーンの絵は世界的にも名前が知られているらしいけど、わたしはまったく知らなかったし、シルクスクリーンっていうものがどんなものかも想像できなかった。
簡単にいうと版画みたいなもので、色鮮やかなものやリアルなものもあるらしい。
そうして、わたしは困惑しながら出かけた。
久我先生が言うには、特別じゃない日本らしい場所に連れて行ってあげたらいいよって。
浅草も仲見世も何度も行っているから、有名どころはもういいらしいって。
普通の気取らない場所に行けばいいって。
とりあえず、うちの周りの商店街からいくつもかかる橋を渡って歩くことにした。
ニッキーは、小さなおじぞうさんとか路地裏の狭いごちゃごちゃした場所とか「ワァオ、日本ジョウチョですねェ」
とか、わかっているんだかわかってないんだか、うれしそうに声をあげていた。
曲がりくねった階段とかウゥーンってうなっていたし、写真まで撮っていた。なんだか、芸術家の感覚ってやつなのかしらね、わたしには理解できないな。
「エーデルワイス」の前を少し緊張気味に通りかかった。お昼もとうに過ぎたって言うのに十五人くらいの人が並んでいた。
「ナニしていますか?」
ニッキーが不思議そうな顔をした。
う~んなんて答えればいいかな。行列って外国の人ってわかるのかしら。
「とても、人気があるレストランなので順番を待っている人たちです」
んーっと考えていたニッキー。
並びたいって言い出したら困るなって思っていたら、歩き出したのでほっとした。まだ、サトにいの顔見るのこわい。店の中をのぞくのさえ、ためらわれた。
突然、パンと手を叩いて
「お風呂屋さん!行ってもイイデスカ?」
ああ、そういえば朝『夢の湯』の前で会ったんだっけ。
もう、三時半になろうとしている。
『夢の湯』が始まるのは三時半だ。
おばあちゃんに言って見学させてもらおうか。
ニッキーは、『夢の湯』の外観をあっちこっちから眺めては「ワンダフル」とか「ファンタスティック!」とか喜んでいたので、まあなんとなく気に入ってもらえてうれしかった。
桜の木の下にかなり傷んだ木のベンチがある。
パパとママの待ち合わせアンド、デート場所だった憩いのベンチ。
ニッキーは何かを感じたのかしら、愛おしそうにベンチをなでていた。
空は薄い水色で寒そうに雲が刷毛で描いたように、すっすっと白く色づけられている。
どっしりとした瓦の屋根は昔から変わらずに、たくましくそこにあって太い煙突が空に伸びている。
もうそろそろ開店時間なので、暖簾をくぐって女湯の方から中をのぞいた。
いたいた、おばあちゃんが籐でできたいすを拭き掃除していた。
事情を話そうと思ったら、ニッキーが自分の家みたいに入ってきて「ワァオ!」って興奮した感じ。
「沙友紀かい!なにやってんだい。男湯はあっちだって教えてやんなよ!もうお客さん入ってきちまうだろうが」
わたしはあわててニッキーに男湯に行くように言って、おばあちゃんに説明した。
「町のさびれた風呂屋なんか、見てもおもしろいかねぇ~。最近はめっきりお客さんもすくなくなってねぇ。みんな一人で狭い風呂に入って楽しいのかねぇ」
って言いながら男湯と女湯の間にあるドアを開けてニッキーがいる男湯の掃除に取り掛かった。
「一応、案内でもしてやるかね。沙友紀は番台に座っとくれ!」
わたしは、しかたなく風呂屋の番台に座った。
お風呂屋さんには、男湯と女湯の間が塀で区切られていて二つの空間をつないでいる壁の少し高い入り口に人一人座る場所がある。
それが、番台。
入り口に背を向けて座るようになっていて、男湯も女湯も入ってきた人からお金を受け取るところだ。後、せっけんとかシャンプーなんかも売っている。
まあホテルの受付、みたいなところかしら。
昔は、広い脱衣所から湯ぶねの方まで全部見渡せた。でも、何年か前に改装して脱衣所はロッカーができてそれが脱衣所の目隠しになって着替えるところは入り口から陰になって見えなくなった。番台からも見えない。
小さい頃は、いつも近所の子どもたちと遊び半分でお風呂に入っていたっけ。
さえぎるロッカーもなかったから、鬼ごっことかして遊んではおじいちゃんに怒られたものだわ。
サトにいなんかも一緒だったな。洋ちゃんはいたずらしては、おじいちゃんにゲンコツもらっていた。すごく懐かしい。男の子も女の子もみ~んなはだかんぼうでね。
「そりゃそうさ。風呂にはいりゃみんな家族みたいなもんよ。昔はねぇ、今と違ってはだかになりゃみんな一緒って感じさ。金持ちも貧乏人も偉い人もいないのさ。いい時代だったねぇ」
っておばあちゃんは、やけにいろいろとニッキーに説明しているみたいだ。まだ、始まったばかりの銭湯はだれも来ていなかった。
今日はなんだか、疲れちゃったな。昨日からいろんな事あったし。