【葉月 春が来た】
パパとおねえちゃんが仲なおりをしてから番台に座っている時の事。
田嶋あおいが雑誌をもって『夢の湯』に来た。
そこには、大きな絵とその前に立っている外国人の写真が掲載されている。
そのさらさらした金髪の男の人は、良く顔を見た事がある。ニッキーだ。
「わたし、彼のファンなんだ。この間の事件は驚いたわね」
田嶋あおいは、瞳を輝かせた。
そうだ、パパとお姉ちゃんが仲なおりをしたすぐ後の事だ。
テレビに夢の湯とニッキー、そしておばちゃんとお姉ちゃんが映っている映像が流れた。
慌てたあたしの耳に信じられない言葉が聞こえてきた。
『ワタシと結婚シテクダサイ』
ニッキーはなんだか着物を着ていたし、周りにはたくさんの報道の人たちがいて近所の商店街のおじさんやおばさんがしっかり映っていた。
なになに?なんだ?このニュースは?
テレビに顔を近づけてボリュームを上げて正座をした。
ぼーっとしていたおねえちゃんの隣に「エーデルワイス」にいるお兄さんが現れた。
『沙由紀はぼくのフィアンセなんです。ごめんなさい』と言っておねえちゃんは画面から消えて、ニッキーが一人取り残された。
大写しになったニッキーの悲しそうな瞳、描かれた桜の花びらに揺れる美しい人の横顔。
あたしは胸のどこかがキュンとしてどうしていいかわからなかったし、家に帰ってきたお姉ちゃんに苦しそうな表情が消える事はなかった。
「この辺の人には、ニッキーって呼ばれてたよ」
あたしの言葉にあおいは笑って
「本名はニコルソン、世界的に有名なシルクスクリーンの画家だよ」
あおいは楽しそうに話した。
「彼がしばらく日本に滞在しているって知って、びっくりしてたらここに入っていくじゃない。驚いたのなんのって。わたしの部屋にも彼の絵、飾ってあるよ。小さいやつだけどね」
知らなかった。あおいが絵を好きだった事。ニッキーのファンだって事。
そして、ニッキーがそんなに有名な画家だったなんて。
「まさか、こんな事件を目撃するとは思ってもなかったけどね」
あおいは、もの凄く嬉しそうに話す。
「まさか、おねえちゃんがプロポーズされるなんてびっくり!」
あたしの言葉にあおいが同じ言葉を重ねたんだ。
「そして、振られちゃうなんて」
「まさか、ふられちゃうなんて」
あたしたちは、顔を見合わせて笑った。
そしてもう一度、同じタイミングで言葉を重ねた。
「かわいそう~」
「きのどく~」
もう一度目を合わせて笑う。
なんだか、胸のどこかがふわふわ膨らんでくる。
あおいは、雑誌を指差して
「ここ、ここ。葉月見て!」
そこには、絵のタイトルが書かれている。
『The Spring in the cherry blossom』(桜に抱かれた泉)
そう、その絵の中には『夢の湯』が描かれている。
そして絵の中の『夢の湯』の前には、今満開の桜の木が大きく美しく咲き誇っている。
桜の花のピンク色の向こう側には、昔そうであっただろう人々の楽しそうに出入りする風景。
木の下にはベンチが置かれ、座って上を向いている人もいる。
まさに、『夢の湯』がすべての人に愛されている昔。あたしが、見てきた風景。
なんだか、嬉しくなって目に涙が浮かんだ。
あおいが、微笑んであたしを見ている。目があってあたしたちは、もう一度笑い出した。
嬉しくて悲しくて、切なくておかしくて。
もう、桜は花開き始めている。
☆おしまい☆