【沙由紀のはじまり】
デミグラスソースの香りに包まれて
今なんて言ったの?
プロポーズされた?
わたし、今プロポーズされちゃったのかな?
「返事、急がないからな!」
カウンターの向こう側の厨房で、サトにいが大鍋のデミグラスソースを丁寧にかき混ぜながら静かにつぶやいた。
濃厚なデミグラスソース、その香りに包まれて今、わたしは動けないままでカウンターの向こう側を見つめていた。
同級生の佐藤君のおにいちゃんで、幼なじみの中では『サトにい』で通っている。
女の子にとってプロポーズはみんな特別なもの。わたしもいつか大好きな人に、夜の町が見下ろせる景色のいいロマンチックな丘なんかで言われたいな、なんて思ったりしたこともあった。
でも、ここは下町の商店街の路地裏にある「エーデルワイス」っていう小さなお店。
しかも、わたしはお客さんではなくてお食事をしている訳でもなくて、片付けの手伝いが終わってコーヒーを飲んでいるところだ。
サトにいの顔は、真剣にデミグラスを見ているから表情はよくわからないけど。大好きな横顔は少しだけ大人っぽくて、だけどいつもより硬い表情。
やっぱり、わたしプロポーズされちゃったんだ。耳の奥に残っている言葉。
『一緒にこの店の味、守って行ってほしいんだ』
たしかに、そう言ったよね。うん、うわ~どうしよう、なんて答えたらいいんだろう。
いや待てよ。
この店の味って従業員として、ってことだったりして?落ち着きなさい、わたし!
早合点して、(わたしウエディングドレスがいい!)なんて言ったら(制服はないよ!エプロンだよ!)なんて笑われたら、恥ずかしくて生きていられないかもしれない。
とりあえずわたしは、静まり返った厨房の空気をかき消すように大きな声で
「うん」とうなずいてみた。
ふぅっとサトにいはため息をもらした。
「いや、返事はまだいいから。とりあえず俺、今言ったよな、プロポーズしたよな。結構これでも死ぬ気で口にしたんだ。とりあえず、まず一歩はオーケーだよな」
独り言みたいにつぶやいた。
気のせいかサトにいの肩の力が抜けたように思えたのは、本当に緊張してたから?
デミグラスをかき混ぜながら、まだ下を向いているけどサトにいの顔、見たいな。
嬉しいよ。やっぱりプロポーズだったんだ。
ええと、こんな時って。
(はい、喜んで)じゃ、堅いよね。
(考えさせてください)ってわたしとしては、すっごくうれしいのよね。断る気、全然ないし。
「うん」
もう一度言ってみたたけどこっち見てないから、サトにいが話し始めた声に消されちゃって聞こえなかったな、きっと。
「沙友紀がいろんな事抱えてるの知ってるし、今すぐって思ってないからな。でも、俺この店お前と一緒にやっていきたいと思っているから」
わたしだって。わたしだってそう思ってる。
本当はファミレスのバイト、サトにいの事助けられたらなって思って始めたんだもの。返事は決まっている。OK、オーケーよ、わたしサトにいのお嫁さんになりたかったんだもの。小さいときからずっと、ずっとよ。
「うん」
なのに、わたしったらさっきからなんで(うん)しか言わないの。
そうか、ここへ来るときはいつもへこんじゃっている時だものね。
いろんなもの、わたし抱えちゃっているよね。簡単にはいかないのかな。表通りから人ごみのガヤガヤが聞こえてくる。
下町の「エーデルワイス」
ここは、サトにいのおじいちゃんが、始めた洋食屋さん。
いろんなとこに修行に行って自分の味をつくりあげたんだって。長い時間火を入れて作るデミグラスソースは、他に無いおいしさなの。
わたしの家はすぐ近くで、小さいときから家族でいつも食べに来ていたんだ。
昔から評判良かったけど、最近では隠れた名店なんてガイドブックなんかに載っちゃうもんだから、ランチは行列ができちゃうし夜はいつも人でいっぱいになる。
って言ってもテーブル席が七つにカウンター席しかないから、たいした人数は入らない。
やっぱり絶品メニューは、ビーフシチューとオムライス。
小さいときは、わたしとパパがビーフシチューで妹の葉月とママがオムライスだった。
ほんとにほんとに、なによりもご馳走だった。
その頃はサトにいと、同級生で弟の洋ちゃんもちょろちょろ店に出てきては怒られていたっけ。なつかしい記憶は昨日のことのようだ。
近所の子たちは仲良しで、いつも一緒に遊んでいた。朝から晩まで遊んでいた。その時から、わたしはサトにいの事が大好きだった。サトにいの事ばかり見ていた。
「わたし」
返事しよう、そう思った。
「返事はいいよ、今度来た時でいいから。それより、お父さん、最近はお母さんの話するの?」
サトにいがこっちを向いた。
ちょっといつもの冷静なサトにいの顔じゃないみたいだけど、やっぱり緊張しているみたい。
緊張している顔も素敵だな、なんて思っていたら、あれ?返事しそびれた。
うれしいのになんだか照れくさいような、返事しちゃうのがもったいないような。こんな不思議な気持ちになるなんて。
プロポーズされたこのままで時が止まってしまうといい。なんて思っちゃう。
わたしも緊張した顔しているのかな、顔がこわばって思ったように笑えない。
照れ隠しで、うんと気軽な感じで言ってみた。
「そうそう、パパは葉月にべったりなんだ。亡くなったママにほら、目元とかすっごく似てるでしょ?葉月」
ママは『ミスさくら』に選ばれたほど美人で、ここら辺では評判だったの。
パパは転校してきたママに一目ぼれしちゃったとかなんとか。わたしが小学三年生の時にママは天国に旅立った。
お仏壇で微笑んでいるママは、本当にきれいな人でわたしだって自慢のママなんだけどね。
パパはママの話をし始めると止まらなくなっちゃうの。それくらい、愛しちゃってたって事みたいだけどね。
妹の葉月には、小さい頃にママが亡くなっちゃったのが、一番悲しい出来事だったんだと思う。
当時わたしも悲しかったけど、今はなんとか元気に生きている。
入り口のカウベルが、のんきな音をたてた。
「すいません、もう閉店しちゃったんですけど」
厨房から入り口に向かって、サトにいが大きな声で言った。
すると、聞きなれた声。
「オレだよ、オレ。おー沙友紀、来てたんだ。また落ち込んでるのかぁ?オレとちがって兄貴は頼りになるからねぇ。お悩み相談承ります、エーデルワイスってかんじ?」
洋ちゃんだった。
兄弟でこうも違うものかなって思うくらい顔も雰囲気も違う二人。いつもダルダルした感じのやつ。ま、悪いやつじゃないんだけどね。
サトにいは、まだデミグラスを丁寧にかき混ぜて
「なんだよ、また飯食いに来たのか?家帰って食えよ、お袋が飯作って待ってるぞ!」
洋ちゃんは同級生で、ちょっと遠くの大学の寮に入っているから土日に帰ってきて家でご飯を食べるらしい。
そうか、今日は土曜日だからこっち帰ってきたんだ。
ちなみにわたしは、ファミレスのバイトに行く土曜日と日曜日は一週間のうちで家事から解放される唯一の日なんだよね。
他の日はママが亡くなってからは、大学から帰るとお掃除に洗濯夕ご飯の支度、っていうのが日課。
家事はきらいじゃないけど、土日はうんと羽を伸ばしてここに来るのが、楽しみの一つ。大好きなサトにいのお手伝いをしつつ。
ここには、大好きなサトにいと、おいしいものがいっぱい詰まっているからね。忙しさの中に幸せの匂いが立ち込めてたくさんの心配事も柔らかくなってくる。
けっこうきつい毎日だけどそれなりに充実しているから、悩みはそんなことじゃない。
「沙友紀の大好きな兄貴と二人っきりのとこ、申し訳ないんだけどさ。オムライス食わせてよデミソースたっぷりで。やっぱ、食わないとけっこう禁断症状現れんのよ、これが!」
だ、大好きとか、二人っきりとか、なんでそんなこと言っちゃうのかな?こいつ。
わたしは耳までかぁっと熱くなった。
「おまえ!何言ってんの?そんなやつに食わせるデミはねぇよ!」
向こう向いてサトにい、どんな顔しているんだろう?
「わりぃ、すみません。だってさぁ、いい加減二人ともうじうじしてて、見てていらいらしてくるんだよなぁ。はやく、プロポーズでもしちゃえばいいのによー」
うわっ、した。されたよ、されました。
今さっき確かにプロポーズされたよ、わたし。返事してないけど。
「てめっ!口ん中に煮立ったデミぶっこまれたいか!」
サトにいが、こっちを向いた。こんなサトにいあんまり見たことない。
怒ってるけどめっちゃ赤い顔してる。わたしも顔が熱いよ。
「あーれー、もう告っちゃったぁ?やばいとこ来ちゃったって感じ?ありゃま、図星なんだぁ、あはは」
屈託なく笑った。洋ちゃんは、嫌なやつだけど感がするどいの、お見通しって顔してにやついてる。悔しいけどいつでもお見通しの洋ちゃんは、ニヤニヤ上目遣いでわたしの顔を見つめた。
「あ、わたし、そろそろ帰るね。パパと葉月が心配するから」
これ以上いると洋ちゃんが何言い出すかわからないので退散しようっと。
洋ちゃんは、舌を出して
「沙友紀が、ねえちゃんになんのかぁ。まあ、オレは賛成してやるから心配しないでまかせとけって」
なんて言って、お気楽な感じで手を振った。
あんまり頼もしくないけど、賛成はしてくれるんだね。良かった。
少し勇気をもらった気がして、声に出した。
「サトにい、わたし、オーケーだからね。いろんな事いっぱいあるけど大丈夫だからね!」
そう言って、急いでカウベルを鳴らして外に出た。
「気をつけて帰れよ!」
やさしいな、サトにい。わたし、返事しちゃった。
プロポーズ、オーケーしちゃった。
「兄貴のデミ、合格点もらって店に出せるんだって?よかったじゃん!」
洋ちゃんの声がカウベルの音の隙間から聞こえてきて遠ざかった。優しいエーデルワイスの明かりが胸を暖かくする。
外は北風が吹いて頬が冷たかったけど、なんだろう心があったかくってふわふわして足が地面についていないような感じ。
大丈夫?わたし。ちゃんと右足左足交互に出ているかな?まるでどこ歩いているのかわからない感じ。
少し落ち着いたと思ったら、もう桜の木の下。さっきよりはドキドキもなくなったけど、息を止めていたみたいで苦しい。わたしは深く息を吸い込んだ。冷たい空気があっつい胸を冷やしていく。
ああびっくりした、そして嬉しかった。
「エーデルワイス」の先の路地は反対側の大通りにつながっている。
その路地を入ったところに『夢の湯』がある。
亡くなったおじいちゃんがやっていた銭湯。今も元気なおばあちゃんがやっている。
銭湯って言うのは、昔は家にお風呂がない家が多かったからお金を払ってみんな入りに来る町のお風呂屋さんだ。
湯船が大きくて男湯と女湯がわかれていて、家族でそろって入りに来る人がたくさんいた。
わたしの小さい頃まではたくさん人が来ていたけど、最近じゃお風呂のない家は珍しいくらいだから、つぶれちゃう銭湯も多い。
『夢の湯』はなんとかやっている、昔からの人たちに守られて。
パパの実家でもあるこの銭湯の入り口の広くなったところに、大きな桜の木がある。
まだまだ、冬の顔で春は遠いよ、って感じで立っている。北風に負けずに立っている。
さんざん聞かされたパパとママの思い出の桜の木を見上げる。
ここで出会ってたくさんいろんな事話して、そしてパパとママの間にわたしが生まれて葉月が生まれたと聞く。
風に吹かれて、小枝が音をたてる。これからもっと、寒くなるのかな。
そうそう、ママはパパを置いて天国に行っちゃったんだよね。
わたしは今、サトにいのこと一番大切な人だと思っている。
その大切な人が、突然この世から消えてしまったらどんなにつらいだろう。どんなにさびしいだろう。
最近になって、パパの悲しみがわかるような気がしているんだ。
だから、パパが葉月葉月っていうのもわかる気もしてくる。
葉月はどんどんママに似てきているものね。きれいな澄んだ湖みたいな瞳と長いまつげ。人をまっすぐに見るまなざし。
わたしは桜の木におやすみを言って、大通りに出て左手のマンションに入って行く。ここが、わたしと葉月とパパが暮らす家。
ママがいなくなっても、たくさんのママの思い出が詰まったおうち。
パパはきっと一生ここを離れないんだろうな。
結婚して甘い新婚生活、そして家族が増えて、ずっとずっと続くと思っていたよね。
春になって桜が咲くたび、パパは眩しそうな顔をしてこの木を見上げて長い事立っているんだ。
まだ、桜の花はずっと先みたいだよ、パパ。
寒さに耐えて、春を待っている。
「ただいまぁ~」
わたしは、少し小さな声で言いながら廊下をリビングまでそっと歩いていった。葉月はもう寝たみたいで部屋の電気は消えている。
リビングの電気はついたままだった。
コタツの横でパパが横になっていた。わたしのこと待っていて寝ちゃったんだね。
ごめんね、パパ。
パパの左の薬指には結婚指輪がずっと光っている。
「パパ、風邪引くわよ。はやくお布団に入って寝てね!」
う~んと言って、開けたんだか開けないんだかわかんないちっちゃな目を手でこすりながら、隣の和室に入っていった。
「う~ん、おやすみ~」
声がした。良かった、風邪は引かなかったかな?もう、どんどん寒くなってきてストーブなしじゃ凍えちゃうよね。パパが安心して眠れますように!
わたしは暖かい想いを胸に今日は、眠れるかどうかわからないけどベッドに入ります。
続きます
デミグラスソースの香りに包まれて
今なんて言ったの?
プロポーズされた?
わたし、今プロポーズされちゃったのかな?
「返事、急がないからな!」
カウンターの向こう側の厨房で、サトにいが大鍋のデミグラスソースを丁寧にかき混ぜながら静かにつぶやいた。
濃厚なデミグラスソース、その香りに包まれて今、わたしは動けないままでカウンターの向こう側を見つめていた。
同級生の佐藤君のおにいちゃんで、幼なじみの中では『サトにい』で通っている。
女の子にとってプロポーズはみんな特別なもの。わたしもいつか大好きな人に、夜の町が見下ろせる景色のいいロマンチックな丘なんかで言われたいな、なんて思ったりしたこともあった。
でも、ここは下町の商店街の路地裏にある「エーデルワイス」っていう小さなお店。
しかも、わたしはお客さんではなくてお食事をしている訳でもなくて、片付けの手伝いが終わってコーヒーを飲んでいるところだ。
サトにいの顔は、真剣にデミグラスを見ているから表情はよくわからないけど。大好きな横顔は少しだけ大人っぽくて、だけどいつもより硬い表情。
やっぱり、わたしプロポーズされちゃったんだ。耳の奥に残っている言葉。
『一緒にこの店の味、守って行ってほしいんだ』
たしかに、そう言ったよね。うん、うわ~どうしよう、なんて答えたらいいんだろう。
いや待てよ。
この店の味って従業員として、ってことだったりして?落ち着きなさい、わたし!
早合点して、(わたしウエディングドレスがいい!)なんて言ったら(制服はないよ!エプロンだよ!)なんて笑われたら、恥ずかしくて生きていられないかもしれない。
とりあえずわたしは、静まり返った厨房の空気をかき消すように大きな声で
「うん」とうなずいてみた。
ふぅっとサトにいはため息をもらした。
「いや、返事はまだいいから。とりあえず俺、今言ったよな、プロポーズしたよな。結構これでも死ぬ気で口にしたんだ。とりあえず、まず一歩はオーケーだよな」
独り言みたいにつぶやいた。
気のせいかサトにいの肩の力が抜けたように思えたのは、本当に緊張してたから?
デミグラスをかき混ぜながら、まだ下を向いているけどサトにいの顔、見たいな。
嬉しいよ。やっぱりプロポーズだったんだ。
ええと、こんな時って。
(はい、喜んで)じゃ、堅いよね。
(考えさせてください)ってわたしとしては、すっごくうれしいのよね。断る気、全然ないし。
「うん」
もう一度言ってみたたけどこっち見てないから、サトにいが話し始めた声に消されちゃって聞こえなかったな、きっと。
「沙友紀がいろんな事抱えてるの知ってるし、今すぐって思ってないからな。でも、俺この店お前と一緒にやっていきたいと思っているから」
わたしだって。わたしだってそう思ってる。
本当はファミレスのバイト、サトにいの事助けられたらなって思って始めたんだもの。返事は決まっている。OK、オーケーよ、わたしサトにいのお嫁さんになりたかったんだもの。小さいときからずっと、ずっとよ。
「うん」
なのに、わたしったらさっきからなんで(うん)しか言わないの。
そうか、ここへ来るときはいつもへこんじゃっている時だものね。
いろんなもの、わたし抱えちゃっているよね。簡単にはいかないのかな。表通りから人ごみのガヤガヤが聞こえてくる。
下町の「エーデルワイス」
ここは、サトにいのおじいちゃんが、始めた洋食屋さん。
いろんなとこに修行に行って自分の味をつくりあげたんだって。長い時間火を入れて作るデミグラスソースは、他に無いおいしさなの。
わたしの家はすぐ近くで、小さいときから家族でいつも食べに来ていたんだ。
昔から評判良かったけど、最近では隠れた名店なんてガイドブックなんかに載っちゃうもんだから、ランチは行列ができちゃうし夜はいつも人でいっぱいになる。
って言ってもテーブル席が七つにカウンター席しかないから、たいした人数は入らない。
やっぱり絶品メニューは、ビーフシチューとオムライス。
小さいときは、わたしとパパがビーフシチューで妹の葉月とママがオムライスだった。
ほんとにほんとに、なによりもご馳走だった。
その頃はサトにいと、同級生で弟の洋ちゃんもちょろちょろ店に出てきては怒られていたっけ。なつかしい記憶は昨日のことのようだ。
近所の子たちは仲良しで、いつも一緒に遊んでいた。朝から晩まで遊んでいた。その時から、わたしはサトにいの事が大好きだった。サトにいの事ばかり見ていた。
「わたし」
返事しよう、そう思った。
「返事はいいよ、今度来た時でいいから。それより、お父さん、最近はお母さんの話するの?」
サトにいがこっちを向いた。
ちょっといつもの冷静なサトにいの顔じゃないみたいだけど、やっぱり緊張しているみたい。
緊張している顔も素敵だな、なんて思っていたら、あれ?返事しそびれた。
うれしいのになんだか照れくさいような、返事しちゃうのがもったいないような。こんな不思議な気持ちになるなんて。
プロポーズされたこのままで時が止まってしまうといい。なんて思っちゃう。
わたしも緊張した顔しているのかな、顔がこわばって思ったように笑えない。
照れ隠しで、うんと気軽な感じで言ってみた。
「そうそう、パパは葉月にべったりなんだ。亡くなったママにほら、目元とかすっごく似てるでしょ?葉月」
ママは『ミスさくら』に選ばれたほど美人で、ここら辺では評判だったの。
パパは転校してきたママに一目ぼれしちゃったとかなんとか。わたしが小学三年生の時にママは天国に旅立った。
お仏壇で微笑んでいるママは、本当にきれいな人でわたしだって自慢のママなんだけどね。
パパはママの話をし始めると止まらなくなっちゃうの。それくらい、愛しちゃってたって事みたいだけどね。
妹の葉月には、小さい頃にママが亡くなっちゃったのが、一番悲しい出来事だったんだと思う。
当時わたしも悲しかったけど、今はなんとか元気に生きている。
入り口のカウベルが、のんきな音をたてた。
「すいません、もう閉店しちゃったんですけど」
厨房から入り口に向かって、サトにいが大きな声で言った。
すると、聞きなれた声。
「オレだよ、オレ。おー沙友紀、来てたんだ。また落ち込んでるのかぁ?オレとちがって兄貴は頼りになるからねぇ。お悩み相談承ります、エーデルワイスってかんじ?」
洋ちゃんだった。
兄弟でこうも違うものかなって思うくらい顔も雰囲気も違う二人。いつもダルダルした感じのやつ。ま、悪いやつじゃないんだけどね。
サトにいは、まだデミグラスを丁寧にかき混ぜて
「なんだよ、また飯食いに来たのか?家帰って食えよ、お袋が飯作って待ってるぞ!」
洋ちゃんは同級生で、ちょっと遠くの大学の寮に入っているから土日に帰ってきて家でご飯を食べるらしい。
そうか、今日は土曜日だからこっち帰ってきたんだ。
ちなみにわたしは、ファミレスのバイトに行く土曜日と日曜日は一週間のうちで家事から解放される唯一の日なんだよね。
他の日はママが亡くなってからは、大学から帰るとお掃除に洗濯夕ご飯の支度、っていうのが日課。
家事はきらいじゃないけど、土日はうんと羽を伸ばしてここに来るのが、楽しみの一つ。大好きなサトにいのお手伝いをしつつ。
ここには、大好きなサトにいと、おいしいものがいっぱい詰まっているからね。忙しさの中に幸せの匂いが立ち込めてたくさんの心配事も柔らかくなってくる。
けっこうきつい毎日だけどそれなりに充実しているから、悩みはそんなことじゃない。
「沙友紀の大好きな兄貴と二人っきりのとこ、申し訳ないんだけどさ。オムライス食わせてよデミソースたっぷりで。やっぱ、食わないとけっこう禁断症状現れんのよ、これが!」
だ、大好きとか、二人っきりとか、なんでそんなこと言っちゃうのかな?こいつ。
わたしは耳までかぁっと熱くなった。
「おまえ!何言ってんの?そんなやつに食わせるデミはねぇよ!」
向こう向いてサトにい、どんな顔しているんだろう?
「わりぃ、すみません。だってさぁ、いい加減二人ともうじうじしてて、見てていらいらしてくるんだよなぁ。はやく、プロポーズでもしちゃえばいいのによー」
うわっ、した。されたよ、されました。
今さっき確かにプロポーズされたよ、わたし。返事してないけど。
「てめっ!口ん中に煮立ったデミぶっこまれたいか!」
サトにいが、こっちを向いた。こんなサトにいあんまり見たことない。
怒ってるけどめっちゃ赤い顔してる。わたしも顔が熱いよ。
「あーれー、もう告っちゃったぁ?やばいとこ来ちゃったって感じ?ありゃま、図星なんだぁ、あはは」
屈託なく笑った。洋ちゃんは、嫌なやつだけど感がするどいの、お見通しって顔してにやついてる。悔しいけどいつでもお見通しの洋ちゃんは、ニヤニヤ上目遣いでわたしの顔を見つめた。
「あ、わたし、そろそろ帰るね。パパと葉月が心配するから」
これ以上いると洋ちゃんが何言い出すかわからないので退散しようっと。
洋ちゃんは、舌を出して
「沙友紀が、ねえちゃんになんのかぁ。まあ、オレは賛成してやるから心配しないでまかせとけって」
なんて言って、お気楽な感じで手を振った。
あんまり頼もしくないけど、賛成はしてくれるんだね。良かった。
少し勇気をもらった気がして、声に出した。
「サトにい、わたし、オーケーだからね。いろんな事いっぱいあるけど大丈夫だからね!」
そう言って、急いでカウベルを鳴らして外に出た。
「気をつけて帰れよ!」
やさしいな、サトにい。わたし、返事しちゃった。
プロポーズ、オーケーしちゃった。
「兄貴のデミ、合格点もらって店に出せるんだって?よかったじゃん!」
洋ちゃんの声がカウベルの音の隙間から聞こえてきて遠ざかった。優しいエーデルワイスの明かりが胸を暖かくする。
外は北風が吹いて頬が冷たかったけど、なんだろう心があったかくってふわふわして足が地面についていないような感じ。
大丈夫?わたし。ちゃんと右足左足交互に出ているかな?まるでどこ歩いているのかわからない感じ。
少し落ち着いたと思ったら、もう桜の木の下。さっきよりはドキドキもなくなったけど、息を止めていたみたいで苦しい。わたしは深く息を吸い込んだ。冷たい空気があっつい胸を冷やしていく。
ああびっくりした、そして嬉しかった。
「エーデルワイス」の先の路地は反対側の大通りにつながっている。
その路地を入ったところに『夢の湯』がある。
亡くなったおじいちゃんがやっていた銭湯。今も元気なおばあちゃんがやっている。
銭湯って言うのは、昔は家にお風呂がない家が多かったからお金を払ってみんな入りに来る町のお風呂屋さんだ。
湯船が大きくて男湯と女湯がわかれていて、家族でそろって入りに来る人がたくさんいた。
わたしの小さい頃まではたくさん人が来ていたけど、最近じゃお風呂のない家は珍しいくらいだから、つぶれちゃう銭湯も多い。
『夢の湯』はなんとかやっている、昔からの人たちに守られて。
パパの実家でもあるこの銭湯の入り口の広くなったところに、大きな桜の木がある。
まだまだ、冬の顔で春は遠いよ、って感じで立っている。北風に負けずに立っている。
さんざん聞かされたパパとママの思い出の桜の木を見上げる。
ここで出会ってたくさんいろんな事話して、そしてパパとママの間にわたしが生まれて葉月が生まれたと聞く。
風に吹かれて、小枝が音をたてる。これからもっと、寒くなるのかな。
そうそう、ママはパパを置いて天国に行っちゃったんだよね。
わたしは今、サトにいのこと一番大切な人だと思っている。
その大切な人が、突然この世から消えてしまったらどんなにつらいだろう。どんなにさびしいだろう。
最近になって、パパの悲しみがわかるような気がしているんだ。
だから、パパが葉月葉月っていうのもわかる気もしてくる。
葉月はどんどんママに似てきているものね。きれいな澄んだ湖みたいな瞳と長いまつげ。人をまっすぐに見るまなざし。
わたしは桜の木におやすみを言って、大通りに出て左手のマンションに入って行く。ここが、わたしと葉月とパパが暮らす家。
ママがいなくなっても、たくさんのママの思い出が詰まったおうち。
パパはきっと一生ここを離れないんだろうな。
結婚して甘い新婚生活、そして家族が増えて、ずっとずっと続くと思っていたよね。
春になって桜が咲くたび、パパは眩しそうな顔をしてこの木を見上げて長い事立っているんだ。
まだ、桜の花はずっと先みたいだよ、パパ。
寒さに耐えて、春を待っている。
「ただいまぁ~」
わたしは、少し小さな声で言いながら廊下をリビングまでそっと歩いていった。葉月はもう寝たみたいで部屋の電気は消えている。
リビングの電気はついたままだった。
コタツの横でパパが横になっていた。わたしのこと待っていて寝ちゃったんだね。
ごめんね、パパ。
パパの左の薬指には結婚指輪がずっと光っている。
「パパ、風邪引くわよ。はやくお布団に入って寝てね!」
う~んと言って、開けたんだか開けないんだかわかんないちっちゃな目を手でこすりながら、隣の和室に入っていった。
「う~ん、おやすみ~」
声がした。良かった、風邪は引かなかったかな?もう、どんどん寒くなってきてストーブなしじゃ凍えちゃうよね。パパが安心して眠れますように!
わたしは暖かい想いを胸に今日は、眠れるかどうかわからないけどベッドに入ります。
続きます