夏が終わった。完全に終わった。夏休みなんて遠い記憶の彼方だ。もう蝉の声も聞こえない。その代わりに虫の声が聞こえ始めた。
朝晩は涼しい。空は高く、青く晴れ渡り、食欲の秋がやってきた。
今の時期に落ちてくるのは、ほんのり赤く色づいた木の葉とか冷たいにわか雨とか、運が悪かったら鳥のフンだって落ちてくるだろう。もっと運が悪かったら自分に命中することだってある。もしも通学中にそんな悪運に見舞われてしまい、もしも制服を汚されたら、回れ右で家に帰るしかない。
しかし、わたしの肩に前触れもなくトンと落ちてきたのは木の葉でも雨粒でも鳥のフンでもなかった。
「えっ!!!ぶぎゃ!」変な声を上げながら転んでしまったわたしへ、涼しい顔で「やあ」と言ったのは…
わたしと同い年、そう、高校生ぐらいの男の子だった。空から落ちてきたのは、なんと、人だったのだ。
転んだのはいきなりで驚いたから。その子は重くなかった。むしろ軽い。むかし飼っていた猫ぐらいの重さだ。猫といえば、男の子の頭には、まるで猫のように黒い耳がぴょこんとくっついていた。かっこいい服を着ている。まるで士官のような金のモールがある制服だ。
「大丈夫かい。芽留《める》。ほら」猫耳の男の子はニコニコしながら優しく助け起こしてくれた。
なんだろうこの状況は。頭がパニックを起こしていた。とりあえず「なんでわたしの名前を知ってるの?きみは誰?なんで空から落ちてきたの?それにその耳はなに?」などと思いつくままに質問を投げかけてみる。
「ちょ、ちょっと待ってよメル」
「あ!わかった。きみはレイヤーの人なんだ」
「レイヤー?なにそれ」
「コスプレイヤーだよ。猫耳男子なんて何のキャラクターだっけ」
「あのさ。メル」
「でも変よね。空から落ちてくるのはフツーなら女の子じゃない?わたしが読んだラノベはみんなそうだったけど」
「ストップ、ストップ、ちょっと待って。ほら深呼吸して。いち、に、さん」
すう、はあ、吸って、吐く。
はあ。少し落ち着いたような。
「で、きみは誰なの」
「僕はハルだよ」
「はい?」
「僕はメルがかわいがってくれた黒猫のハルさ」
「…ははは。えっ?ええっ!?まさか」
「ハル。ラインハルトだよ。メル」
まだ小学生の頃、たぶん四年生だったと思う。その日が朝から雨がザアザアと降っていた。学校からの帰りに、傘を差して歩いていたわたしは、あと少しで家に着くという所で、道端に置かれた段ボール箱を見つけた。通り過ぎる時に、その箱から「にゃあ」という弱々しい小さな声が聞こえた。雨にびっしょり濡れた蓋を開けてみたら、中には子猫が。五匹か六匹ぐらいいたと思う。ぴくりとも動かない。するとそのうちの一匹が小さな口を開けてにゃあと鳴いた。
かわいそう。放っておいたら死んでしまう。他の子猫たちはもうたぶん駄目だ。今、自分が助けてあげないとこの子も兄妹たちのあとを追うことになる。ハンカチとスカートでその真っ黒な子猫を包んで、家に連れて帰った。捨て猫を拾ってきたわたしを両親は怒らなかった。
すぐに冷え切った体を温めてあげる。電子レンジで温めたミルクをやったら小さな舌で舐めた。翌日、ペットクリニックへ連れて行き、健康状態を診てもらい、感染症の薬をもらった。獣医の先生からは生き延びるかどうかはこの子次第だと言われた。
人間たちの懸命な努力が実を結んだのか、死にかけていた子猫は日増しに元気になっていった。すくすく育ってスマートな美しい雄猫になった。艶のある真っ黒な毛並みと金色の目。彼に、好きな小説の主人公から拝借して「ラインハルト」と名付けた。でも長いので普段はハルと呼んだ。
わたしは運動も得意じゃないし勉強の成績もそれほど。美人でもなければ「かわいいね」などと容姿をほめてもらったこともない。地味で平凡などこにでもいるタイプだ。心を許せる友だちなんていない。ハルはそんなわたしの唯一の大切な友だちになった。
ハルが死んだのは二年前。交通事故だった。遊びに行きたいとせがまれて外に出してしまったのだ。わたしのせいだ。外に出さなければ死なずに済んだのにと、あれからずうっと、今でも自分を責めている。
ハル。わたしの大切なハル。
「メル?大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫よ」
「良かったあ」
しかし。まさかねえ。この男の子がハルだなんて信じられないよ。
「えっと。きみは本当にハルなの」
「そうだよ」
「信じられないわ」
「そう言われてもなあ」
「それじゃあ質問するから答えて。ぜんぶ答えられたら信じてあげる」
「いいよメル。なんでも聞いて」
「第一問!きみを拾った時、きみはどこにいたのかな」
「大きな箱の中だよ。雨が降っていたね。すごく寒かった」
「正解。第二問ね。きみにハルって名前を付けた理由は?」
「メルが好きな小説から取った。メルはそう言ったよね」
「正解!」
当たっている。小説の主人公は帝国軍の士官で…ああそうか、だからこの子も軍服を着ているのね。
「第三問。ハルの好物は?」
「北海道産のミルクだよ」
「当たり!ねえ。本当にきみはハルなの?」
「だから最初からそう言ってるけど。ところでねえメル。そろそろ授業が始まるんじゃないかな。行かなくて大丈夫なのかい」
「えっ!」
時計を見たら…やばい。まずいぞ。急がないと!
走り出したわたしの後ろから猫耳男子がついてくる気配がした。
朝晩は涼しい。空は高く、青く晴れ渡り、食欲の秋がやってきた。
今の時期に落ちてくるのは、ほんのり赤く色づいた木の葉とか冷たいにわか雨とか、運が悪かったら鳥のフンだって落ちてくるだろう。もっと運が悪かったら自分に命中することだってある。もしも通学中にそんな悪運に見舞われてしまい、もしも制服を汚されたら、回れ右で家に帰るしかない。
しかし、わたしの肩に前触れもなくトンと落ちてきたのは木の葉でも雨粒でも鳥のフンでもなかった。
「えっ!!!ぶぎゃ!」変な声を上げながら転んでしまったわたしへ、涼しい顔で「やあ」と言ったのは…
わたしと同い年、そう、高校生ぐらいの男の子だった。空から落ちてきたのは、なんと、人だったのだ。
転んだのはいきなりで驚いたから。その子は重くなかった。むしろ軽い。むかし飼っていた猫ぐらいの重さだ。猫といえば、男の子の頭には、まるで猫のように黒い耳がぴょこんとくっついていた。かっこいい服を着ている。まるで士官のような金のモールがある制服だ。
「大丈夫かい。芽留《める》。ほら」猫耳の男の子はニコニコしながら優しく助け起こしてくれた。
なんだろうこの状況は。頭がパニックを起こしていた。とりあえず「なんでわたしの名前を知ってるの?きみは誰?なんで空から落ちてきたの?それにその耳はなに?」などと思いつくままに質問を投げかけてみる。
「ちょ、ちょっと待ってよメル」
「あ!わかった。きみはレイヤーの人なんだ」
「レイヤー?なにそれ」
「コスプレイヤーだよ。猫耳男子なんて何のキャラクターだっけ」
「あのさ。メル」
「でも変よね。空から落ちてくるのはフツーなら女の子じゃない?わたしが読んだラノベはみんなそうだったけど」
「ストップ、ストップ、ちょっと待って。ほら深呼吸して。いち、に、さん」
すう、はあ、吸って、吐く。
はあ。少し落ち着いたような。
「で、きみは誰なの」
「僕はハルだよ」
「はい?」
「僕はメルがかわいがってくれた黒猫のハルさ」
「…ははは。えっ?ええっ!?まさか」
「ハル。ラインハルトだよ。メル」
まだ小学生の頃、たぶん四年生だったと思う。その日が朝から雨がザアザアと降っていた。学校からの帰りに、傘を差して歩いていたわたしは、あと少しで家に着くという所で、道端に置かれた段ボール箱を見つけた。通り過ぎる時に、その箱から「にゃあ」という弱々しい小さな声が聞こえた。雨にびっしょり濡れた蓋を開けてみたら、中には子猫が。五匹か六匹ぐらいいたと思う。ぴくりとも動かない。するとそのうちの一匹が小さな口を開けてにゃあと鳴いた。
かわいそう。放っておいたら死んでしまう。他の子猫たちはもうたぶん駄目だ。今、自分が助けてあげないとこの子も兄妹たちのあとを追うことになる。ハンカチとスカートでその真っ黒な子猫を包んで、家に連れて帰った。捨て猫を拾ってきたわたしを両親は怒らなかった。
すぐに冷え切った体を温めてあげる。電子レンジで温めたミルクをやったら小さな舌で舐めた。翌日、ペットクリニックへ連れて行き、健康状態を診てもらい、感染症の薬をもらった。獣医の先生からは生き延びるかどうかはこの子次第だと言われた。
人間たちの懸命な努力が実を結んだのか、死にかけていた子猫は日増しに元気になっていった。すくすく育ってスマートな美しい雄猫になった。艶のある真っ黒な毛並みと金色の目。彼に、好きな小説の主人公から拝借して「ラインハルト」と名付けた。でも長いので普段はハルと呼んだ。
わたしは運動も得意じゃないし勉強の成績もそれほど。美人でもなければ「かわいいね」などと容姿をほめてもらったこともない。地味で平凡などこにでもいるタイプだ。心を許せる友だちなんていない。ハルはそんなわたしの唯一の大切な友だちになった。
ハルが死んだのは二年前。交通事故だった。遊びに行きたいとせがまれて外に出してしまったのだ。わたしのせいだ。外に出さなければ死なずに済んだのにと、あれからずうっと、今でも自分を責めている。
ハル。わたしの大切なハル。
「メル?大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫よ」
「良かったあ」
しかし。まさかねえ。この男の子がハルだなんて信じられないよ。
「えっと。きみは本当にハルなの」
「そうだよ」
「信じられないわ」
「そう言われてもなあ」
「それじゃあ質問するから答えて。ぜんぶ答えられたら信じてあげる」
「いいよメル。なんでも聞いて」
「第一問!きみを拾った時、きみはどこにいたのかな」
「大きな箱の中だよ。雨が降っていたね。すごく寒かった」
「正解。第二問ね。きみにハルって名前を付けた理由は?」
「メルが好きな小説から取った。メルはそう言ったよね」
「正解!」
当たっている。小説の主人公は帝国軍の士官で…ああそうか、だからこの子も軍服を着ているのね。
「第三問。ハルの好物は?」
「北海道産のミルクだよ」
「当たり!ねえ。本当にきみはハルなの?」
「だから最初からそう言ってるけど。ところでねえメル。そろそろ授業が始まるんじゃないかな。行かなくて大丈夫なのかい」
「えっ!」
時計を見たら…やばい。まずいぞ。急がないと!
走り出したわたしの後ろから猫耳男子がついてくる気配がした。