酷く、懐かしい。
あ、あのバルコニー、直したのね。
——あれから10日。
私は、帝国の皇太子宮の入り口に立っていた。
とんぼ帰りしたアルバート様が、私を皇太子宮に送り届けるよう、護衛と馬車を手配してくれていた。
絶対に逃げられないようにされたとも言う。逃げないけどね。
どうしても学校に行かないといけない日があったので、出発はアルバート様より3日ほど遅れたが、到着は予定通り。
でも、事情を知らないだろう顔見知りの衛兵が、驚いた表情でこちらを見ている。
そりゃ、そうだ。
もう、皇太子の婚約者ではないのだから。
入って良いのか躊躇っていると、アルバート様が迎えに来てくれた。
「マーガレット嬢、中へどうぞ。
——エドウィン様は、執務室においでです」
案内に着いて行くと、かつて見慣れていた、重厚な両開きの扉。
アルバート様が、ノックの後、恭しく告げる。
「エドウィン様、失礼致します」
「アルバートか、入れ」
——懐かしい、声。
少し、力無く聞こえるのは、どうしてだろう。
ミクの行方不明に、心を痛めているのかな。
ちくちく痛む胸を持て余していたが、執務机に着いてこちらも見ずにペンを走らす姿を見て、息を呑んだ。
———これは、誰?
アルバート様以上に痩せて、顔色悪く、もういつ倒れてもおかしくない様子だ。
「エドウィン様は、毎日食事は1、2回。
それも、ほんの少ししか取られません。
まとまった睡眠時間も、毎日2時間程。
——私が『死んでしまう』と言ったことは、誇張ではないと分かっていただけたろうか」
アルバート様が囁く。
私は、駆け出した。
そして、執務机を力一杯叩いた。
「エドウィン様!」
叫ぶ。怒りが渦巻く。
何やってんのこの人‼︎
驚いて顔を上げたエドウィン様は、私を見てさらに目を見開いた。
——酷い顔。
イケメンが一欠片も、残ってないよ。
「こっちに来て‼︎」
私が腕を引っ張って立ち上がらせると、彼はすんなり付いてきた。
なんて非力!
私の力で動かせるなんて‼︎
私は無理矢理ソファにエドウィン様を座らせ、更に隣に座った私の膝に、エドウィン様の頭を乗せるよう引っ張った。
驚いたまま、私の膝枕で横になっているエドウィン様を尻目に、私はアルバート様に言った。
「今から私が良いというまで、この部屋に誰も入れないで‼︎」
私の剣幕に驚いている文官の皆様を促し、「よろしくお願いします」と言って、アルバート様は部屋を出て行った。
私は、エドウィン様の目の上に、優しく右手を置いた。
「エドウィン様、お久しぶりですわ」
努めて平静を装って、声をかける。
エドウィン様は、驚き過ぎたのか、何も言えずにいる。
「目を瞑って、お休みください。
そんな状態で執務されても、良いことはありませんわ」
左手で、ゆっくりエドウィン様の頭を撫でる。
美しいプラチナブロンドだったのに、今はくすんでいる。
健康状態が良くないことの現れだ。
撫でながら、昔よく一緒に歌った童歌を、鼻歌で歌う。
子守唄代わりになれば良い。
「マーガレット…?」
「はい、ウィン様。
レティとは呼んでくださいませんの?」
悪戯っぽく、私は言う。
この人はダメだ。これ以上は。
私の想いなど、今は要らない。
全力で、フォローする。
「……レティ」
「はい。ここにおります」
蚊の鳴くような声で告げられた愛称。
全力で縋ってくるエドウィン様を、受け止める。
受け止めきってやる。
「———ごめん、レティ。
本当にごめん。
あ…謝りたくて……ずっと……」
右手が濡れる。
ぽろぽろと、雫が落ちる。
完璧天才皇太子が、剥がれ落ちて。
出逢ったばかりの、一緒に笑い合った少年が顔を出す。
「いいのですよ。もういいのです。
私は、貴方を嫌っていませんよ。
分かってるでしょう?ウィン」
私は、笑いを含んだ声で言う。
本当に、何でもないのだと。
「お側にいますから、少し眠ってくださいませ。
そんな顔色だと、心配しちゃいますわ。
後でゆっくりお話ししましょうね」
「……本当に?どこにも行かない?」
幼い子のような問いかけに、優しく答える。
「ええ、約束します。
私が約束を必ず守るの、知っているでしょう?」
「そう、だね。
レティ、は、やくそく、まもる……」
寝息が聞こえた。
規則的なそれと、少し重くなった膝。
——もう大丈夫かな。
私は、そっと右手を外した。
彼の、涙でぐちゃぐちゃになった目元を、ハンカチで優しく拭う。
そして、私の目元も。