「チッ……」

 部屋に響くは彼の舌打ち。
 相変わらずいい音だなぁ……とうっとりしていると、彼は虫を追い払うように手を動かす。それに従い、(わたし)はロンドゥーア皇帝を解放した。

「なあエリドルよ。一つ、オマエに聞きたい事があったのを今思い出したんだが」
「……何だ。くだらない内容であれば三枚おろしにするぞ」
「三枚おろしか……っと、違う違う。実は数日前にオマエの娘に会ったのだが」

 瞬きのうちの事だった。陛下の体が、一瞬固まる。

「オマエの娘をオレの妃に迎えたい。駄目か?」

 どうしてそうなった。──いや、あの王女殿下ならさぞかし彼好みの対応をしそうですね。クソッ……ぬかったか。

「……呆れた奴よな。この私の前でアレの話をするなど。貴様なぞと親類になるなど想像もしたくないわ。ケイリオル、もうその蜥蜴に構わなくていい。お前まで蜥蜴臭くなってしまう」
「は、仰せのままに。もし臭くなったら、適当に香水でも振りかけておきますね」
「そこらの香水の陳腐な匂いなど、お前には合わん。香水で誤魔化すような真似はするな」

 これ以上王女殿下の話題を広げさせぬようにと、エリドルは強引に話を切り上げた。
 彼も酔いが回って来たようで、エリドルは不思議な発言を繰り返す。その瞬間、彼に胸ぐらを掴まれ引っ張られた。
 一気に互いの呼吸が聞こえるぐらいの距離に近づく顔。ロンドゥーア皇帝とアビリオ王が目を点にするなか、彼はそんなの気にも留めずに(わたし)の首元で何度か鼻を動かす。

「──やはり市販の香水などお前には合わない。せめて特注品(オーダーメイド)にしろ」
「香水とか興味無いんですけどねぇ……そのような事に割く時間(ひま)があれば、仕事をしたいですし」
「本当に仕事中毒だなお前は。ならば私と同じ匂いになれ。下手な匂いを纏われても鬱陶しいからな」
「陛下が使っている香油を使えばいいんですか?」
「そうしろ。わざわざ用意するのが面倒なら、私が使っているものを持っていけばいい」
「あー……あれでしたら、まだまだ在庫はあったかと」

 エリドルは、十三年前からずっと同じ香りの香油しか使っていない。
 薄紅色の花弁が可愛らしく重なる花、それの蜜を元に作られた甘く優しい香り。彼はあの女性(ひと)から片時も傍を離れたくないあまり、彼女を彷彿とさせるその香りを纏い続けていた。
 そんな彼の為に、(わたし)は職権を濫用して専用の職人を雇用し、香油や香水を作らせている。だから、在庫はまだあるのだ。

「なら在庫から好きなだけ持っていけ。これからは変な香水を使うなよ」
「本当に我儘ですね、陛下は。……かしこまりました、今夜からそうしますね」
「ああ、そうしろ」

 満足したのか、陛下はようやく(わたし)を放した。ぐちゃぐちゃになった胸元を整えつつ、横目でロンドゥーア皇帝達の方を視てみると、

(エリドルめ、もしや娘が惜しいのか? 確かにあの娘はな……手放すのが惜しくなるのも頷ける。というかエリドルはケイリオル相手ならそんな顔も出来るのか……!? ぐぬぅ、妬けるではないか!)
(流石は彼が即位した時から彼を支える側近。フォーロイト皇帝との心の距離が、我々と段違いだな。いや、少々近すぎる気もするが)

 なんともまあ、愉快な事を考えていらっしゃった。


 ♢♢♢♢


 その日の深夜。諸々の後片付けを終え、言いつけ通り北宮の倉庫からエリドルの香油を拝借し、皇宮の中庭を通って城にある自室に向かっていた時だった。

「──ケイリオル卿?」

 遠くから可愛らしい声が聞こえて来た。
 声に引かれて顔を動かすと、東宮の外廊下からこちらを見ている王女殿下と目が合う。突然の事に暫く体が固まったが、慌てて彼女の元に駆け寄る。

「王女殿下、このような時間にどうされたのですか?」
「ちょっとした散歩です。たまに……眠れない時にしてるんですよ。それにしても珍しいですね、ケイリオル卿がふわふわした服を着てるのって。いつもスラッとしてらっしゃるので……」

 確かに、今の(わたし)は寒さ対策に毛皮のローブを羽織っている。ちなみにこれはエリドルに押し付けられたローブだ。
 それにしてもこんな時間に王女が一人で散歩なんて。あまりにも危険すぎる。どうして彼女には危機感が無いのか……。

「眠れないのなら、子守唄でも歌って差し上げましょうか?」
「ケイリオル卿の子守唄ですか? それはそれですごく聞きたいですけど……折角ならケイリオル卿の話が聞きたいです。もし良ければ、ケイリオル卿の事を教えてくれませんか?」

 少し鼻を赤くして、王女殿下はふわりと笑う。

「──仕方ありません。少々恥ずかしいですが……(わたし)の話をお聞きいただけますか?」
「はいっ!」

 そして、(わたし)話せる(・・・)内容(・・)だけ話していった。彼女の期待に応えられるかどうか不安ではあったのだが、存外楽しんでくれたようだった。

「ケイリオル卿ってクッキーが好きなんですね。なんだか意外です」
「まあ、この歳にもなって……とは自分でも思います。実はとある思い出のクッキーが記憶にありまして、どうにかその味を再現出来ないかと長年苦心惨憺しているんですよ」
「へぇ……ケイリオル卿の作ったクッキー、とっても美味しそうですね」
「褒めても今は何も出せませんよ?」
「今は、という事は……?」
「ふふふ。今度、自信作を献上させていただいてもよろしいですか?」
「喜んで」

 ああ……この笑顔を見られるだけで、疲れが吹っ飛んでしまう。どんな無茶振りでも応えようと思えてしまう。……やっぱりこの笑顔に弱いなあ、(わたし)

 そうして、それからも暫く雑談は続いた。
 彼女が眠気に襲われ瞼を擦るその時まで、(わたし)は子守唄かのように喋り続けたのである。
 ちゃんと東宮の中まで彼女が戻るのを見届けてから、(わたし)も自室に戻り軽く湯浴みをして眠る──つもりだったのだが。
 あの少女の笑顔が忘れられなくて、(わたし)はこんな時間にも関わらず、厨房で美味しいクッキー作りに励むのであった。