「なんだよ。いくら見てもやらねぇからな」
「いや……そういう訳では……あの、ここはどこで貴方は誰なんですか?」

 こんな風に、蔑むような目で見られたのは初めてだ。
 クッキーを守るように隠しながら僕を睨んだ男に、僕は一番の疑問をぶつける事にした。
 ここがどこで、目の前の男が誰なのか。それが今の僕にとって何よりの疑問だった。

「チッ……めんどくせー。ここは俺の邸、そして俺はアンヘル・デリアルドだ。以上」

 舌打ちした。この人、僕に、舌打ちした。

「アンヘル・デリアルド……さん。貴方が、恐らく僕を助けてくださったんですよね。ありがとうございます。こんな風に、手当てまでしていただいて」

 聖人として頭を下げる訳にはいかない。だけど、感謝の言葉ぐらいは述べるべきだと、僕は僕の常識に従ってこれぐらいはしなければと思ったのだ。
 この僕から感謝の言葉を聞くなど容易い事ではない。だから信徒ならばこれで充分感謝の気持ちは伝わるだろう。
 だが、男──アンヘル・デリアルドさんにはあまり伝わらなかったようで。

「あぁん? 仕事帰りの馬車の前に人間が落ちてきたらそりゃあ無視も出来ねぇだろうが。落ちるなら俺の邪魔にならない場所に落ちろよ。面倒事増やしやがって」

 あれ、おかしいな。この人には全然僕の感謝が伝わって……ない、ような…………。

「──貴方、人間じゃないんですか?」

 彼をじっと見つめていたら、明らかな違和感に襲われた。
 確かに人間なのだけど、同時に人間ではない何か。
 どちらかと言えば、人間ではない要素が七割近く占めている事から人間要素がおまけなのだろう。

「……はァ。これだから聖職者は嫌なんだ」

 表情をきつく歪めて、彼は深く息を吐いた。

「俺は、魔族だとか亜人だとか言われてる呪われた種族──吸血鬼だ。おまえ等聖職者共が散々迫害し、ヴァンパイアハンターとやらを組織してまで滅ぼそうとした……悪魔にも人間にも成れない中途半端な存在。それが俺だ」

 その紅い双眸には強い侮蔑が浮かぶ。
 憤怒でも嫌悪でも憎悪でも怨念でもなく、侮蔑。
 彼は、かつて自分の一族を迫害した存在に対して憤る事もなく、ただそういった存在として認識して侮蔑するだけだった。
 ……なんと悲しく、虚しい事なのだろうか。

「それで? 混ざりものとは言え俺が吸血鬼と知った聖職者サマは俺を殺すのか? もっとも……俺が最後の吸血鬼である以上、俺は死なないがな」

 最後の吸血鬼? 確かに、四百年程前に唯一の吸血鬼一族が次々と不審死を遂げた事により、壊滅状態に陥ったと何かの文献で見かけた気がする。
 彼がその一族の生き残りなのだとして。彼が最後の吸血鬼である事と、それによって死なないという自信の因果関係が分からない。

「……そうですね。僕は主の教えに従い、貴方を殺すべきだ。でも、同時に主は我々にこうも教えてくださった──『汝、人の温もりを忘れることなかれ』と。人の温もりとその優しさや恩を決して忘れる事無く、必ずやそれに報いるよう、神々は仰ったのです。なので、僕は貴方を殺しません。僕は貴方に命を救われたのですから、僕が貴方の命を脅かす事だけはあってはなりません」
「──フン、どうだかな。今のおまえは魔力も底を尽き、何より負傷している。だからその判断をするしかないが……万全の状態に戻った時、おまえ達聖職者は吸血鬼(オレ)を見逃せるか? 吸血鬼(オレ)を生かすか? いや、おまえ達は迷わず殺すだろう。何故なら俺がおまえ達の敵だから」

 彼の言葉は正しい。
 確かに、吸血鬼という曖昧で奇妙な存在は国教会(ぼくたち)の敵──……いいや。敵と言うより、決して受け入れられない存在だ。
 吸血鬼は長時間太陽の下にいられない。太陽の光を浴び続けると太陽光に当たっていた人体の魔力が凝固し、その痣と症状は太陽光に当たっていた時間に比例して激痛を伴い全身へと伝播していくという。
 やがて、全身の至る箇所が壊死し、ボロボロと体が崩れて生物としてではなく、無生物として壊れて(死んで)いく事から……吸血鬼は太陽に見放された存在と言われている。

 すなわち──我等が神々に見放された愚かな存在だと憐憫を向ける傍らで、ならば我々神の遣いが救ってやらねばなるまい……と、国教会の教えにはあった。
 だから、双方が相手を敵と認識していてもそれは仕方の無い事だ。

「そう仰るならば、どうして僕を助けてくださったんですか? 僕が貴方の正体に気づき次第、殺されると思っていたなら……見殺しにするならばまだしも、助ける理由など貴方には無い筈です」

 僕が疑問を捲し立てると、彼は鼻で笑った。

「そうだな、俺には無い。だが俺の従者が騒いだ。だからおまえを助けてやった。それだけだ」
「な…………っ、たった、それだけの理由で貴方にとって天敵と言える僕を助けたと?」
「ああそうだ。まあ、おまえには俺を殺せないから、その点の心配は特にしてないがな」
「……さっきから、気になってたんですが。吸血鬼が不老不死という話は聞いてますが、それでも不死身ではない筈。なのにどうして、僕には貴方を殺せないのですか?」

 別に、自分の実力を過信している訳ではない。
 ただ……生きとし生けるものならば死から逃げられない。なのに彼は、僕には殺せないと断言した。それがどうにも頭に引っ掛かるのだ。

「……──さあな。どうしてそんな事まで部外者のおまえに話してやらないといけないんだ」

 袋の中に手を入れ、中身が無くなったからか眉を顰める。そして、彼はため息と共に立ち上がって、

「クッキーが無くなるまではおまえの様子を見ておけ。と従者に言われて来ただけだから、クッキーが無くなった以上俺はもう出る。怪我が治り次第さっさと消えろ」

 そう言い残して部屋を後にした。
 …………怪我が治るまで、ここにいてもいいんだ。事情は分からないけれど、僕が彼にとって脅威である事に変わりは無い筈なのに。
 戸惑いから僕はそのまま寝台(ベッド)に体を沈めて、また誰かが部屋に来るまで眠りにつく。
 怪我が治るまでの間という短い期間ではあるけれど──……こうして、僕と彼の奇妙な日々は始まったのだ。

 デリアルド邸で療養する事になってから一週間、なんと一度も彼と顔を合わせる事は無かった。
 それはひとえに僕が安静の為に部屋から出ず、そして彼もまたこの部屋に来ないからであって。彼の代わりに、彼の部下で人間だという初老の男性ソウディガー・ブアンさんとその孫ジオール・ブアンさんが僕の看病や世話をしてくれた。
 僕が寝台(ベッド)の上から動けない分、歳の近いジオールさんが付きっきりで僕の傍にいてくれた。その際に、暇潰しにとジオールさんが色んな話をしてくれたんだ。
 その時、僕はふと気になってジオールさんに聞いた。

「あの……どうして貴方達は、僕の事を受け入れてくれたんですか? 僕は、貴方達に名乗ってすらいない不義理な人間なのに」

 本当は、初日に名乗ろうと思ったけど……僕の正体を知った彼等にここを追い出されてしまったら。酷く負傷した今の僕では恐らく死んでしまう事だろう。
 聖人としての役割を全然果たせていないのだから、それだけは避けなければならない。
 そんな身勝手から、僕は一週間、彼等に名乗らずにいた。それなのにどうして彼等は不審な子供を受け入れるのか……それが、分からなかったのだ。

「え? きみ、そんな事考えてたの? やっぱり聖職者の人って真面目なんだなぁ……俺だったらそんな難しい事、わざわざ考えないよ。でも、そうか理由か……うーん、滅多にないお客様だからお帰りになられる時まで精一杯もてなそう! って思ったからかな?」
「そう、なんですか……」

 あまり理由になってないような。そう、喉まで出かかったけどなんとか我慢する。
 それから僕はジオールさん達とよく話すようになって、色んな話を聞いた。
 彼が極度の甘党だとか、魔導具作りにだけは真面目だとか、全然社交活動をしてくれないとか。時々愚痴も挟まる彼等の話を聞くのは、とても新鮮で楽くて。
 体が少しずつ治っていき本調子ではないにしろ、自由に歩き回れるようになってからも、僕は彼等とよく話していた。