ゆらゆらと。ぬくぬくと。
 冷たいけれど、どこか温かい。
 そんな不思議な揺籃の中で命が芽吹くのを待ちながら、みどり(・・・)はずっと眠っていた。

 ようやく、満を持して、みどりが姿を得てこの目を開いた時。目を輝かせてみどりを覗き込んでくる何かがいた。
 その生き物達はみどりを見てたくさん笑った。ぎゅっと抱きしめて、何度も『緑』とみどりを呼んでくれた。
 まだ何も知らないみどりが、この者達を同じ竜種(そんざい)であると理解し、この世界でたった四体だけの兄姉(かぞく)であると知ったのは、少し後の事じゃった。

 己の権能を学び、この世界を学び、いつの間にか築かれていた人間社会を学び、勉強に飽きた()は白の姉上と共に花畑を作る事にした。
 赤の兄上と駆け回れる広大な花畑。青の兄上とたくさんの花冠を作れる花畑。黒の兄上と一緒に昼寝出来る花畑。白の姉上と選定した花々の咲く花畑。
 我の大好きな花々と、我の大好きな家族に満たされるあの花畑が大好きだった。
 あの日々が本当に幸せだった。ずっと、これから先の未来もこの日々が続くものだと思っていた。

 ──そんなの、夢のまた夢じゃった。
 我の宝物はことごとく潰され、我の夢は全て打ち砕かれる。
 花畑も、兄上も、姉上も、かつて愛した人間達も……全部、全部、全部全部全部全部全部! 我の手からこぼれ落ちていった。
 何一つ守れなかった。
 宝物でさえ、家族でさえ。弱い我は、大事なものの一つすらも守れない最低最悪の愚者だった。
 ……偉大な竜となると誓ったのに。もう人間を信用したりはしないと誓ったのに。
 それでもかつて愛し、共に笑いあって生きていた人間の事が忘れられなくて……何度も人間を信じては、その度に兄上達に迷惑をかけてしまった。

 その愚行の代償が、あの百年の孤独だった。
 訳も分からず姉上に眠らされ、気がついた時には体が酷く衰弱しており生存本能で呪いを振り撒いていた。
 よりにもよって、我はこの自然豊かな国を──我等の花畑があったこの地を、我が自然(みどり)の権能で侵し滅ぼそうとしてしまった。
 何かの種族に花畑を荒らされ怒り狂った過去があるというのに、それをも超える罪を我は犯してしまいそうだったのだ。

 もし、あの時アミレスが我を見つけてくれなければ……きっと我はあの地の自然を全て枯らしてまで生き長らえ、そして一万年の思い出が詰まるあの地をこの手で滅ぼした事実に狂い理性を失っていた事だろう。
 それだけでも、アミレスには感謝してもしきれぬというのに。
 あやつは、あろう事か我の意思を尊重してきた。
 いつも自分勝手で我儘であった人間が、我等の声を聞いた事など数千年と無かった。
 我が何でも叶えてやると言うたのに、あやつは自分の為になどならんであろう事を願い、あまつさえ我に手を差し伸べてきた。

 我は竜だ。一万年の時を生きる純血なりし竜。
 だから本当は分かってしまうのだ。分かりたくもなくて、ずっと目を逸らしていたのだが──目を合わせれば、相手が心に抱く裏の言葉がなんとなく(・・・・・)分かってしまう。
 アミレスの裏の言葉は何故か全然理解出来なかったのだが、その際の感情はなんとなく読み取れた。
 なんの打算も、意図もなく。ただ純粋に、アミレスは我と一緒にいたいと思っていた。

 それがどれ程我にとって嬉しい事だったか……きっと、鈍いあやつは知らんのだろうな。
 ──我は、人間を憎み恨む気持ちだってあるものの、それと同時に何千年もの間、在りし日のように人間と信じ合い笑い合える日がまた来る事を待ち続けていた。
 ただ一人だけでよい。たった一人、もう一度信じる事が出来る人間が現れてくれる事をずっと願ってた。
 強欲でも、無欲でも、王勇でも、蛮勇でも何だって構わない。
 我を竜種としてではなく、ただの緑として見てくれる友が欲しかった。
 数千年前人間との決別を選んだあの日から、もう二度と叶う事はないと思いつつ夢見ていたもの。それに、アミレスはなってくれたのじゃ。


 黒の兄上は人間(アミレス)をいまいち信用しておらぬようじゃが……アミレスは、我を裏切らない。
 きっといつまでも我の良き友でいてくれると、漠然とそう確信出来た。
 だってアミレスだから。
 悲運に付き纏われているのに、それを必死に否定しようといつも笑って障害を薙ぎ倒し、過去を悔やむ事無くただひたむきに前へと進む愚直で眩しい生き様の人間。
 死を恐れる癖に、後先考えずに誰彼構わず助ける生粋の善人だから。
 そんなあやつだから、我はアミレスに着いていこうと──……あやつを信じ、友になりたいと思った。

 我の想像通り……というか、想像以上にアミレスと過ごす日々は楽しかった。
 何もかもが真新しくて、予想外の事の連続で。
 少し窮屈に感じる事もあった。頭を使う事が苦手な我は現代文化を学ぶのもかなり疲れた。でも、アミレスと共に生きる為ならばどれも苦ではなかった。
 本当に、本当に幸福な日々だった。
 毎朝アミレスの元を訪れ、寝起きでボサボサの頭で『おはよう、ナトラ』と我に笑いかけてくれる事が本当に嬉しかった。毎日、その平穏と幸せを噛み締めていた。
 だから、アミレスが暫く目を覚まさなかった時は本当に辛かった。毎朝毎晩あやつの元を訪れ、名前を呼びながら体を揺らしてもあやつは目覚めない。
 我の名を呼んでくれない。我に笑いかけてくれない。
 もしも、このままアミレスが永遠に目覚めなかったら。
 もしも、赤の兄上や青の兄上のように、死んで二度と会えなくなってしまったら──。
 そう、考えた時。我の目からは恐怖がポロポロと零れ落ちていた。怖かった。また我は独りになるのかと……もう二度とアミレスに我の名を呼んでもらえぬのかと、恐怖のあまりアミレスの傍で一晩中泣いていた。

 我は、アミレスの笑顔が好きだ。
 黒の兄上とも、白の姉上とも、赤の兄上とも、青の兄上とも違う……とても眩しい笑顔。思い出の中の七色の花畑を彷彿とさせる、キラキラと輝くそれを見る事が大好きだ。
 もっともっと笑って欲しいし、あわよくば我の名を呼びながら笑って欲しい。
 これから先もずっと、我に向けて笑いかけて欲しい。その為なら、我は何だってするから。
 これから先もずっと、我の名前を呼んで頭を撫でて欲しい。その為なら、我は頑張れるから。
 運命だって(ことわり)だって、何だって変えてみせる。お前が一生笑って幸せに暮らせるよう、我はお前の往く道を阻む障害を全て破壊しよう。
 今度こそ、大事なものを守れるように我はいっぱいいーっぱい頑張るから。
 大丈夫じゃ! 今は少し、いやかなり弱体化しておるが、それでも我は緑の竜──この世に三体しかいない純血なる竜種だ。
 小さき命をぷちっと潰す事も、所構わず暴れるのも得意……な筈だとも。

 そんな、本来何者とも相容れぬ我等を受け入れ、好きだと言ってくれる者がただ一人だけでもいるのなら、我はもう十分だ。
 それ以外の者達からどう思われても構わない。お前の為なら、災害にだってなってもいい。この世界に嫌われてもいい。
 ただ、お前が──……お人好しで、馬鹿で、愚直で、馬鹿で、生粋の善人のお前が、なんの憂いもなく望むままに幸せを享受してくれるのなら。
 それは、我がこの世界を敵に回すに値する理由になるから。


♢♢♢♢


 我が魔界の扉に干渉して、【世界樹】がどのような対応を取ってくるか分からなかったが……我は、アミレスのお願いを叶える為に世界と世界を繋ぐ扉に干渉した。
 ただでさえ弱体化していた我は、本来不可能な扉への干渉を成し遂げるべく自然(みどり)の権能の一部を担保(・・)にして足りない魔力や力を【世界樹】からもぎ取り、扉を閉めた。
 どうやら【世界樹】は、あくまでもこちらには不干渉の姿勢を貫くらしい。
 我が母でもある【世界樹】については、アミレスに非情な運命を背負わせおって! と少し恨めしく思っていたものの……このまま不干渉であってくれるのならば寧ろ助かる。

 ──これから、もし我がアミレスの運命を捻じ曲げたとしても、我等が母上は知らぬ振りをしてくれる事だろうから。

「ありがとう、ナトラ。お疲れ様」

 我ながら無茶をした。これはアミレスに褒めてもらわねば割に合わない! と思い訴えかけたところ、アミレスは我を抱きしめ、笑って我の頭を撫でた。
 本当はもっと褒めて褒めて褒めて欲しかったが……これだけでもう十分だと思った。
 久しく聞いて来なかった、その五文字の簡単な言葉だけでも嬉しかったのだ。

「むふふ。我、やっとお前の願いを一つ叶えられたのじゃ」

 あの時、我ではない人間の手で我が呪いの種は消滅した。だから明確には、我はアミレスの願いを叶えられていなかったのだ。
 だからこそ、無欲なあやつの数少ない願いをようやく叶えてやれた事が個人的にとても嬉しい。まあ、我を救ってくれた事への恩返しには到底及ばぬ些細な願いじゃったが。
 だからこれからも、我はアミレスの願いを叶える。
 利用されたって構わない。こやつが望むだけ、望むままに願いを叶えてやろう。
 それでアミレスのあの笑顔が見られるのなら、見返りなど何も要らぬとも。

 ……──ふわふわと。ぬくぬくと。
 アミレスの腕の中で我は眠る。
 とても心地よい、このゆりかごの中で夢を見る。
 もう二度とおはようもおやすみも言えない相手を思い出し、寂しさに包まれる。だからこそ、もうこれ以上こんな思いはしたくない。
 頭の悪い我でも決して忘れぬよう、そしてお前が長生き出来るよう。我の最後の夢が叶うよう、そしてお前の夢が叶うよう。
 目が覚めたら、お前の顔を見て我はこう言うのじゃ。

 おはよう、アミレス────と。