どっと疲れた面持ちで、妹は僕の執務室を後にした。
 ランディグランジュの神童とあの女の『影』らしい執事服の男を連れ、早足に帰って行ったのだ。その時、扉が閉まるまで僕はその背中を眺めていた。
 僕のそれよりも明るく柔らかい、銀色の髪をじっと見つめていた。

『──急にお兄様が私に優しくなって、怖かったんです。今まであんなにも私を嫌ってらしたので』

 もう、あの女の姿は見えぬと言うのに。
 あの時見せた妹らしからぬ表情……それがとても珍しくて、強く記憶に残った。その所為か、何度もあの光景が脳裏を過ぎるのだ。
 憎悪や嫌悪の籠っていないあいつの目など、数年振りに見たな。あいつは、あんな顔も出来たのか。
 そう、頭の中を妹の顔や声が占拠してくる。だがどうしてか、不思議とそれが嫌だとは思わない。

「……どうすれば、あの顔を僕にも向ける事が出来るのだろうか」

 あいつが友人と共にいる時にだけ見せる、屈託のない笑顔。僕には一度たりとも見せなかったあいつの本当の顔。
 なかなかどうして、これはとても気に食わないと思う。
 ランディグランジュの神童も、『影』の男も、オセロマイトの王子も、シャンパージュの次期当主も、ララルスの女侯爵も、平民の私兵も、使用人達も、ケイリオル卿も。
 全て気に食わない。僕が与えられないものを与えられる彼等が気に食わない。妙に苛立つこの感情は、まさか──、

「この僕が、嫉妬しているのか……」

 水滴のようにポツリと呟く。それは僕の心に答えを寄越し、それを理解した途端腑に落ちて思わず笑い声が零れた。
 僕は嫉妬していた。妹に笑顔を向けられる者全てに。妹の愛情を向けられる者全てに。
 僕だってあの女を愛したいのに。
 兄としてあの女を(あい)したいのに。
 これまでの十数年の代償か、僕にはそれが叶わない。今更これまでの穴を埋める事が出来るとは思わないが、それでも出来る限りを尽くすしかない。
 あの女を愛し、そして殺す為には兄妹としてこの関係をやり直す必要があると、僕は気づいたから。

 だから僕なりに努力していた。プレゼントを渡し、茶会を開き、出会ったら挨拶をして、優しく接するよう心がけた。
 懐疑的ではあったものの、とにかく参考書通りに行動した。先人の残した知見というものは、今を生きる我々にとって貴重な宝物。そう邪険にするものではない。
 だから、本当にこれでいいのかと疑いつつも僕に出来る範囲で実行した。

 それなのに、何故上手くいかない。
 かつて僕に愛されたいと願っていた癖に、どうしてお前はいざ愛されるとそんな風に顔を引き攣らせるんだ。
 未だに僕からの愛を諦められてない癖に、どうしてお前はいざ愛を与えられると当惑し怯え逃げて行くんだ?
 僕がお前を愛せば成し遂げられる事と思っていたのに。容易にお前を殺す事が叶うと思っていたのに。
 何故、お前は──……僕に(あい)されてくれないんだ。
 愛し愛され、互いを想いあって殺し合いたいだけなのに。何故、お前は僕への愛を否定するんだ。
 僕はこうしてそれを思い出し、受け入れ、変わろうと努力しているというのに。
 何故、なぜ────。

 そうやって、ぐるぐると頭の中で不満や嫉妬が渦巻いていた。今まではそれを苛立ちとだけ表現していたが……そうか。これが、嫉妬か。
 僕にもこんな人並みの感情があったなんて驚きだ。
 煩わしくて、面倒で。
 たけどそれすらも心地よく感じてしまう。あの女によってこの心が乱されるなんて、少し前までは考えるだけで腹立たしかったのに。
 まさか、こんなにも露骨に寛容(バカ)になってしまうとはな。
 だがまあ……狭量な男は嫌われると参考書にも記されていた。ならばこれはこれで良いのではないか。
 僕の目標は兄妹らしく互いを愛し合う事。そしてあいつの最期をこの手で迎えさせてやる事だ。ならば、好かれるよう振る舞うに越した事はない。

「フフ、嬉しそうですね」
「……否定はしない。あの女が嫌悪無しに僕を見たのは数年振りだからな」
「王女側からしても同じだと思いますけどね。ふくくくっ」
「笑うな」

 あの女が置いていった空き瓶をジェーンに向け投げつける。鮮やかに宙を舞い、それは中々の速度で一直線に彼の脳天目掛け飛んでゆく。
 しかし、ジェーンは当然のようにそれを片手でキャッチして、「もー危ないじゃないですかぁー」と文句を言った。
 よく言うよ、当時最優秀の諜報員にして皇太子の『影』の癖に。と心の中で悪態をつき、鋭くジェーンを睨む。

「殿下、本当にどうして王女に何も言ってないんですか?」
「どうした死にたいのか」
「いや死にたくはないですよ。さっきも言いましたけど、何で『好き』の二文字さえも伝えられてないんですか? もしくは『愛してる』の五文字でも構いませんけど。王女、面白いくらいただただ怯えてましたよ?」
「……これでも態度で示してきたつもりだったんだがな。あの女には欠片も伝わってなかったらしい」
「そのようですねぇ〜〜」

 ジェーンの鼻持ちならない言い方が妙に癪に障る。今度は氷の短剣を投擲したところ、この男は当たり前のようにそれを避ける。
 本当に鼻につく男だな。

「てっきり、全然伝わってない事にしょんぼりしてるものと思ってたんですが……案外気にしてなさそうですね、殿下」
「お前は僕をなんだと思ってるんだ……? これしきの事でいちいち傷ついてなどいられぬから傷ついていないだけだ。一応、それなりに気にしてはいる」
「気にしてるんですか。くくっ、気にしてるんですか……!」

 何でわざわざ二回言ったんだ、この男は。

「はぁーおもしろ……っごほん! ならやっぱりちゃんと伝えないと駄目ですよ。殿下の言葉で、真剣に王女に『愛してる』と言わなければ彼女には伝わりませんよ。彼女、なんか凄く鈍感っぽかったので」
「…………ちゃんと伝える、か」

 果たして、真正面から愛してると伝えて……本当にあの女はこの言葉を信じるのか? 何か裏を勘繰り、また怯えたような表情で僕から逃げるんじゃないか?
 これまでの十二年が、奈落のように深い崖となり妹との距離を縮めさせまいとしている。僕がどれだけ橋をかけようとしても、対岸のあの女が橋がかかる事を拒否するものだから、一向に橋がかかる事無く時が過ぎて行く。
 ……──こうなったら、無理にでも賭けに出るしかないのか。
 奈落に落ちる覚悟で崖を飛び越える道しか、もはや僕には残されていない。
 これまであの女から目を逸らして来た代償なのだと思えば、それは一歩を踏み出す勇気の足しにでもなるだろうか。
 いずれ、必ずや……お前を愛させてくれと伝えるから。どうかその時は、僕にも笑いかけてくれ。

 お人好しなあの女なら。
 その心の中にまだ僕への愛情を抱く妹なら。
 きっと、少しぐらいは僕を見てくれるだろう。
 きっと、崖を飛び越えようとする僕に思わず手を伸ばしてくれるだろう。
 お前を愛する為に、僕はお前の全てを利用する。どれだけ罵られ、謗られようと構わない。

 僕はどうしても──……この手でお前を(あい)したいんだ。