自分に呆れつつ、悪巧みする二人の傍から離脱。お酒を飲む精霊さん達と大人達から離れた所で、私達子供も、ジュースと料理で場の空気を味わっていた。
私は時々歩き回っては皆の写真を撮って、アルバムに入れていってたのだけど。お陰様でどんどんアルバムが埋まっていく。
とても楽しい一日。キラキラと宝石のように輝き、愛おしくて尊くて。そんな、貴重で思い出深い、眩しい一日になった。
ふふ、式場でこっそり撮った二人の写真は後でクラリスに渡してあげよう。こっちのメアリー達のスピーチで号泣してる写真も、あとこっちの写真も──……。
アルバムを捲りながら、今日の主役に渡す写真の選定をしていた時だった。何者かが、軽やかな足取りで私達に接近して来た。
「プハァーーッ! やっぱ酒は美味ぇなァ! おねぇちゃんも一緒に飲もうぜ〜〜っ」
ワイングラスを一本抱えたシュヴァルツが、やたらと上機嫌に絡んで来た。彼から匂ってくるお酒の臭いからして、多分手に持ってるワインを空にする勢いで飲んでるんだろう。
「やめんか、シュヴァルツ。アミレスはまだ子供なのじゃぞ。人間の子供は酒を飲んではならんそうなのじゃ……故に、我がアミレスの代わりにお前の酒盛りに付き合うてやるわい」
「ええー、ぼくはおねぇちゃんと一緒に飲みたいんだけど!」
「我儘を言うでない。これ以上アミレスを困らせるならば、今飲んだ酒全て腹から吐き出すぐらい腹を殴ってやるぞ」
「それは嫌かなァ!」
なんとも頼りになるナトラが矢面に立ってくれたので、シュヴァルツは絡み酒を止めて逃げるように走り出した。
しかしその後も、シュヴァルツは何本もワインを空にしてはラークやディオに絡むので、その度にナトラが保護者のように「やめんか!」と言って彼を鎮めていた。
その時メイシアが、「シュヴァルツ君も子供なのに、何であんなにお酒を飲んでるんでしょうか……」と呟いたので、ハッとなった私とマクベスタは「「確かに」」と声を重ねた。
だがここは宴の席。どうせなら楽しもう! と、にんまり笑いながらアルベルトを呼び寄せ屈むように伝えて、
「ルティ。誰にも気づかれないように、子供でも飲めそうなお酒を見繕って来てくれない?」
私は悪の道への誘いを耳打ちした。
「酒ですか。しかし……主君はまだ成人されておりませんし……」
「大丈夫よ、お酒を飲むのが数年早まっても問題無いわ」
「…………畏まりました。それが、貴女様の望みならば」
かなり悩んだようだ。アルベルトは渋々とばかりに了承し、一礼してお酒が置かれている区画に向かった。そして持ち前の隠密技術で、私達のテーブルまでお酒を持って来てくれたのだ。
「こちらは柑橘系の爽やかな風味の酒で、あまり強くない為酒に弱い人でも楽しめるものです。これならば、主君にも楽しんでいただけるかと」
軽く説明しながら、アルベルトは酒をグラスに注いだ。見た目はオレンジジュースのような感じで、確かに匂いもそれを彷彿とさせるものだった。
それをワクワクと眺めていると、マクベスタとメイシアが心配そうにこちらを見つめて、
「本当に飲むのか? お前はまだ十四歳なのだから、あまりそういった事は……」
「そうですよぅ、もしお酒に毒されてしまったりしたら……」
口々にやめておけと伝えてくる。
しかし、ここまで来てはもう止まれない。私はこのままお酒を飲むぞ! というかそもそも……実の所、お酒を飲むのはこれが初めてではない。前に一度、ラ・フレーシャでお酒と知らずにお酒を飲んだ事があるもの。
だから私は結構お酒に強い。多分大丈夫だ!
「どうせなら二人も一緒に飲んでみましょうよ。ね、いいでしょ?」
共犯者を増やそうと、猫撫で声を作って教唆犯となる。私の秘技・上目遣いおねだりはかなり打率が高い。だから……もしかしたらいけるかなーと思ったのだけど。
「ぐ……っ、お前は……どうしてそう……!!」
「いいえと言う選択肢が無いじゃないですかぁ!」
予想以上にチョロかった。
二人共、先程の心配など嘘のように、あっさりと空のグラスを差し出して来たのだ。
寧ろこっちが心配になるレベルの単純さである。大丈夫なのかな、この子達……悪い奴に騙されたりしないのかな。心配になって来たわ。
三人で乾杯してからお酒を飲む。弱いお酒だからかもしれないが……あまり酔ったりする事はなかった。
ちょっぴり苦いね、でも癖があって面白いね。と未知の味に三人で目を丸くして、笑い合って。途中からはアルベルトにも席に座ってもらい、私はセツの頭を撫でながら、皆とこの貴重な席を楽しんだ。
「いつか……ちゃんと大人になったら、その時はわたしが最高級のお酒を用意しますから、またこうして一緒にお酒を飲みましょうね。アミレス様! 今度は二人きりで!」
「こうして一緒に、と言いながらオレとルティは除外するんだな」
「だってアミレス様と二人きりがいいんですもの。マクベスタ様とルティさんは邪魔です、邪魔。わたしとアミレス様の二人きりの甘い時間には不要なのです」
「……君、あの日以降オレ達の扱いが酷くなってないか?」
「うふふ。だって恋敵は早々に蹴落としておかないと、わたしを選んでいただけませんからね」
「蹴落とす、ね…………」
お酒を飲み始めてから二十分ぐらいが経つと、二人共ついに酔ったのか、何やら黒い笑顔でバチバチと火花を散らしていた。
それにしても、大人になったら……か。
帝国では男女共に十七歳が成人年齢と定められており、周辺諸国でもだいたいが十七歳か十八歳だ。
ならば、私は大人になれない可能性の方が高い。
何せアミレス・ヘル・フォーロイトは──ゲームで十五歳の時に死ぬ。それも、ほぼ全てのルートで絶対に。
その運命を変える為に何年もずっと足掻いて来たが…………本当に上手くいくか分からない。アミレスが十五年以上生きた事は、私が知る限り一度もなかった。
だから……生き残りたいと思う反面、本当に可能なのかと不安に思ってしまう。私のやり方は正しいのかと、このままでいいのかと問うてしまう。
それに、ルートにもよるがメイシアは十四歳で自決し、マクベスタもルートによっては十八歳とかで若くして死んでしまう。
私達三人が一緒に大人になれる日が来る可能性は、悔しい事に、本来ならばゼロパーセントに近い事なのだ。
「……──もし、皆で大人になれたなら。その時は、またこうして一緒にお酒を飲もうね」
例え何があっても、あなた達だけは絶対に大人になってね。もしも、私がいなくなっても……私の分も大人になってたくさんの思い出を作ってね。
あなた達の事は絶対に死なせない。あなた達の未来は、私が絶対に守るから。運命も何もかもぶっ壊して、ハッピーエンドにしてみせるから。
あなた達があんな風に苦しみ悲しむ事がないよう、私が頑張るから。あなた達との約束未満の約束を守る為に、私は頑張るから。
だから、どうか。
「はい! 今から三年後が楽しみです!」
「そうだな。早く皆で成人して、今度こそ堂々と酒を飲もう」
これからもずっと、笑顔でいてね。
私の大切な──……大好きな、初めての友達たち。
「高級な酒ってのはやっぱ美味いモンなんだなぁ!」
「あはははっ、こんなの馬鹿みたいに飲んでさぁ、安酒で満足出来なくなったらどうしようかぁ〜〜っ」
「らいよーふら。ほれわろんなはへれもまんろくれきりゅ」
「……はぁ。酔いすぎだぞ、シャル」
結婚式が終わり、その日の夜。
ディオリストラス達は夜更けまで酒を飲んでいた。
披露宴ではアミレスの指示で明らかに多い量の酒が用意されていて。それはアミレスが、皆がどれ程に酒を飲むか分からなかった為、多めに用意していたからなのだが……思ったよりも披露宴で酒が消費され、残るは数本というところまで行った。
なので、結婚祝いにと残りの酒はバドールとクラリスに贈られた。勿論、それらはシャンパー商会の扱う高級酒であった。
なのでバドールとクラリスは、せっかくなら皆で飲みたいと言って、その日のうちに飲み会を開き、飲み干してしまおうと考えたのだ。
その為急遽行われているこの、バドールとクラリスの結婚式二次会・宅飲みパーリナイ──それはもう、盛り上がっていた。
私兵団の面々では、唯一ルーシアンのみが成人しておらず、酒を飲む事も出来ないのだが……ルーシアンに合わせてメアリードも酒を飲まないようにしている為、二人はこの飲み会にジュースで参加していた。
普段は滅多に飲まないユーキとエリニティも、今日ばかりは皆と一緒に酒を煽っていた。
どれだけ飲んでも顔色一つ変えない私兵団一の酒豪、ユーキの傍では私兵団一の下戸のジェジが、尻尾と耳を揺らしてスヤスヤと眠っている。
ジェジ程ではないがエリニティも酒には強くなくて、彼も二杯程飲んで限界が来たようだ。自作の赤い抱き枕を抱えて、「むふふ……メイシアちゃん……結婚して……」と寝言を呟いては幸せそうに眠っていた。
バドールも酒が回ったのか顔を赤くして、口数が更に減っている。左手の薬指にはめた指輪を後生大事に撫でては、頬をだらしなく弛めていた。
その隣では「おいしゃるぅ! あんらねぇ、いっつもばらなこといってぇ、あざとかわいいとでもおもっれんのぉ?」と、同じく左手の薬指に指輪をはめたクラリスが、シャルルギルに向かって意味不明な説教を始めた。これは完全に酔っている。
それに対して、「おれはかわいいが?」と赤い顔でシャルルギルは返した。昔からとにかくラークに可愛がられていた為、この天然馬鹿は自己肯定感が異様に高く育っていた。
そしてその原因とも呼べるラークはというと……今日はもういいや! と羽目を外し、酒をがぶがぶと飲んで楽しそうに笑っていた。その隣では、ディオリストラスが絶え間なくグラスに酒を注ぎ、高級酒に舌鼓を打つ。
もう、収拾がつかなくなりつつある。
この状況で全員が泥酔してはならないと唯一セーブしていたイリオーデが、ため息をつきながら眠るジェジとエリニティにタオル掛けてやると、
「むにゃ……イリにぃといっしょに寝るんら……」
寝ぼけている割に強く、ジェジがその腕を掴んでイリオーデを引き止めようとする。今夜は久々にイリオーデが泊まっていくという事で、ジェジはここぞとばかりにイリオーデに甘えようとしていた。
「……まったく、お前はいくつになっても子供みたいだな」
やれやれ。と眉尻を下げて、イリオーデは目を細めた。
アミレスと再会し、彼女の騎士となってからというもの……イリオーデは貧民街を離れてずっと東宮にいた。なので、表には出さなかったが彼等も相当寂しかったのだ。
だが、イリオーデがアミレスの騎士となる為に全てを捨てて生きて来た事を彼等は知っていた。
だからこそ、ようやくイリオーデの願望が叶ったというのに、自分達の寂しいという感情で、イリオーデの幸福に水を差してはならない……と、彼等なりに遠慮して来た。
しかし今日、アミレスの計らいでイリオーデが久々にディオリストラスの家に泊まっていく事になった。
久々にイリオーデと長時間共にいられるからか、特に彼に懐いていたジェジなんかはそれはもう大はしゃぎ。
非常に弱いのに、ジェジは酒を一気に飲んで一瞬で撃沈した。
(たまにはいいか。王女殿下より暇を出されてしまった今の私は、王女殿下の騎士ではなく──幸運にも彼等と家族になれた、ただのイリオーデなのだから)
ジェジに掴まれた腕を振りほどく事もなく、イリオーデはそこに腰を据えた。
ゆるやかで、賑やかで。別段この空気が得意という訳ではないイリオーデだが……どうしてだろうか。この空間は、やはり心地よいものなのだろう。
彼にとっての第二の家族達。それは間違いなく、彼の中では特別な立ち位置にあった。
生きる意味とも言うべきアミレスとはまた違う意味で、とても、とても──……特別な存在だったのだ。
「あー! イリ兄が笑ってる!」
「ほんとだ。姫の前でもないのに、イリ兄が笑ってるなんて珍しいね」
泥酔した者達の介抱をしていたメアリードとルーシアンが、目敏くイリオーデの微笑に気づいた。
「……私だって笑う時は笑うさ」
「でもイリ兄、姫と会うまで、アタシ達の前ではほとんど笑った事無かったし。こうやってイリ兄がアタシ達の前でも笑ってくれてうれしーな!」
「僕も嬉しいよ。イリ兄がようやく僕達にも心を開いてくれたみたいで」
「別に心を閉ざしていたという訳では……」
「でも似たようなものだったじゃん」
「ね、メアリ姉」
「ねー?」
メアリードとルーシアンは顔を見合わせて笑った。
(そんなに、私は笑ってこなかったのか? それなりに笑っていたつもりだったんだが…………)
そして、こちらは密かにショックを受けていた。イリオーデなりにこれまでの人生でも笑ってきたつもりだったのだが、それはまったくの無意味だったらしい。
元々無口無表情な方だから、仕方の無い事なのかもしれない……。
「ぉおい! いりおーれ、おめーなにのんびりしてやある! もっとのむぞ!!」
「……ディオ、飲みすぎだ」
「そうだよぉ〜〜、いりおーで。せっかくのおさけなんだから、いっぱいのまなきゃぁ〜〜っ」
「ラーク、お前まで……!?」
平静を保ち続けるイリオーデに、泥酔したディオリストラスとラークが襲いかかる。二人共酒に飲まれ、完全に悪酔いしているではないか。
自分だけはセーブしなければ、と思っていたイリオーデだったが……この通りディオリストラスとラークに無理やり飲まされ、彼もまた酔う事になる。
──翌朝、目が覚めた時。
イリオーデは随分と胸元をはだけさせ、頭痛に悩まされながら体を起こした。
もはや寝台で寝る事もなく、十一人もの人間が雑魚寝をしていた。右隣にはジェジとエリニティ、左隣にはディオリストラスとラーク。
近くでメアリードとルーシアンも寝ており、まさに身動きが取れないような状況。
「……──はぁ。酔うまで飲むなんて、私らしくもない」
二日酔いが頭痛となって彼を襲う。
だが、こんな日があってもいいだろう。
自分の周りで雑魚寝する家族を見て、イリオーデは小さく頬を綻ばせた。
♢♢
「へーいかっ、見て下さいよこのワイン! シャンパージュ伯爵がもし良かったら陛下にと、献上してくれたんですよ〜! 一緒に飲みましょうよ!」
時は少し遡り、バドールとクラリスの結婚式があった日の夜。ケイリオルが、軽やかな足取りで北宮にあるエリドルの私室を訪れた。
その手には上質なワインが二瓶とグラスが二つ抱えられていて。浮ついたその声から、献上されたワインに破顔している事がありありと目に浮かぶ。
「……それは別に構わぬのだが、せめてノックぐらいしろ。お前ぐらいだぞ、私の部屋に扉を蹴破って入ってくるのは」
氷柱から水が滴り落ちるかのような落ち着いた声で、エリドルはケイリオルを窘めた。
その時のエリドルの格好は、バスローブ一枚。
彼は湯上りだった。その硬い銀色の髪からポタリポタリと水滴を落としている様子から、本当につい数十秒前まで湯浴みをしていたのだろう。
それに気づいたケイリオルは、「あっ」と声を漏らした。
「はは、湯浴み中でしたか。お邪魔してしまい申し訳ございません。それはともかく、ワイン飲みましょう、ワイン!」
「一国の皇帝の私室にワイン片手に押し入り、我が物顔で寛ぐとは……」
「もう業務時間外ですからね。あ、じゃあ陛下って呼ばない方がいいのでしょうか?」
「知るか。既に好き勝手やってるのだから、好きにすればいい」
「はーい。じゃあ一応、このまま陛下って呼びましょうか。誰かに聞かれては困りますので」
「……ならば、その布を外す気は無いのだな」
「そりゃあ、まあ。この布を人前で外す日はもう二度と来ないんじゃないですかね? 時と場合によりますけど」
相当、普段からこの部屋に入り浸っているのか、ケイリオルは慣れた動きで長椅子に座り、ワインの栓を抜く。
業務時間外という事で皇帝にさえも遠慮が無くなるケイリオルに、エリドルは呆れたようにため息をついた。しかし、普段臣民に見せるような冷酷な眼差しはそこにはなく。彼はケイリオルを呆れの眼差しで見つめるだけだった。
(相変わらず、個人の空間では途端に人が変わるな)
それどころか、嬉々としてワインをグラスに注ぐケイリオルを、微笑ましく思っていた。
他の誰よりも皇帝の側近とずっと一緒にいたエリドルにとって……『彼』の無邪気な姿というものは、自分が奪ってしまった彼らしさだったのだ。
遠い昔の思い出の中では当たり前だったそれに、エリドルは瞳を細めた。
(……お前だけは、俺の前から居なくならないでくれ。お前まで居なくなったら、私は…………)
眉間に皺を寄せ、苦しげにエリドルは思う。
「陛下。大丈夫ですよ、僕はここにいます。地獄の果てまでも、僕は貴方と共にいますよ」
その思いを視てケイリオルは優しく語り掛けた。布があって、その表情は見えないが……エリドルはこの言葉を聞いて、ケイリオルがどんな表情をしているか分かった。
長い付き合いだからこそ、例え見えておらずともその声音で表情も判断出来るのである。
故に。エリドルは柔らかく安堵の表情を浮かべ、「そうか」と一言零した。そして何事も無かったかのように、彼は続ける。
「なあ、ケイリオル…………その顔で笑うなと何度言えば分かるんだ」
「えー? 今は陛下にも見えてないんだからいいじゃないですかぁー」
「見えてなくとも不快である事には変わりないだろう」
「はぁい。善処します〜〜」
ワイングラスをエリドルの前にも置き、ケイリオルは布の下でグラスを傾けた。
相変わらず、食事の際も布を外そうとはしないらしい。
どうせこの言葉も口先だけで、見えないのをいい事にこれからも笑うのだろう。そう、ため息を吐きながらエリドルもワイングラスを手に取った。
何度か揺らし、香りを味わい、口に含み舌でワインを撫でる。
その深い美味に、エリドルはその後暫く間髪入れずにワインを飲み続けていた。
真夜中の北宮。人はほとんどおらず、いるのはこの二人のみ。
他人の目が無いからか──……エリドルとケイリオルは、心置き無く朝まで飲み続けていた。
風邪を引いてしまった。
体が重く、頭はぼーっとする。熱もあって、定期的に咳が出てしまう。
お父さんの手伝いをしながら伯爵の仕事の勉強をして、同時進行で製薬部門の薬師や魔導師達と一緒にある新薬の開発。
いつかまたアミレス様と踊りたいからダンスも更に完璧にして、アミレス様のぬいぐるみに囲まれて眠りたいから、お母さんからお裁縫も教えてもらおう。
最近珈琲に興味を持っているアミレス様の為にも珈琲の勉強もしなきゃ。仕入れはお父さんが趣味と実益を兼ねてやってるし、わたしは珈琲について色んな地方の本を読んで学ぼう。
それにあたって、共通語だけじゃなくて地方の言語の勉強もしないとね。
自分磨きだって大事だ。アミレス様に可愛いと言ってもらえるわたしでいなければならない。アミレス様にお嫁さんにしたいと思ってもらえるわたしでいなければならない。
侍女達と一緒に色んなケアを試し、一番効果のあったものを継続。シャンパー商会の次期会長候補の権限を乱用し、色々と商会でも企画開発した。
勿論出来のいいものはアミレス様にも献上した。もっとも、あんなもの使わなくてもアミレス様はとっても美しくて可憐な方だけど!
とにかくアミレス様に相応しいわたしになろうと、日々頑張ってきた。世界で一番好きな人があんなにも努力家で周囲を慮る方だから、わたしもたくさん頑張ろうと思うし、世の為人の為になる事をしようと思う。
わたしという人間は……今やアミレス様無しでは語れない程、その大部分を彼女の存在が占めているのだ。
そんなアミレス様が、『私が男だったらどんな手段を使ってでも嫁にしてたよ』と言ってくれた。
愛が何か分からないと仰っていたのに、それでもわたしの告白を蔑ろにしたりせず、真っ直ぐ向き合ってくれた。
わたしの想いを、大事にしてくれた。
だから、わたしは──男になれる薬を作ろうと考えた。
わたしもわたしの家族も、アミレス様が家族になるのならいつでも大歓迎だ。
例えお世辞だったとしても、アミレス様がああ仰ってくれたんだ。ならもう、わたしかアミレス様のどちらかが男になるしかないよね?
だってそしたらアミレス様と結婚出来るんだもの! アミレス様のお嫁さんになれるんだもの!!
手段は選んでられないわ……これから先もずっとアミレス様の傍にいる為なら、わたしは何だってしてみせる。
世間からの声も評価もどうでもいい。わたしにとって大事なのは、アミレス様の唯一になる事だから。
……って、頑張ってたんだけどなあ。
「まさか風邪を引くなんて……」
ぼーっとする頭で天井を見つめては、咳き込む。夢の中でアミレス様にお会い出来たけど、実際には会えてなくて、それが寂しさをより募らせる。
昨日からずっとこの調子。お医者さんからは無理が祟った風邪と言われたので、こんな事で司祭様を呼ぶ事も出来ず、寝れば治るからとポーション等を飲む事も出来ない。
ただただ、無意味な体調不良で時間が無駄になっていくだけだった。
ずっと横になってるだけなんて暇だったから、一度編み物をしてみたら……濡れタオルを交換しに来た侍女に見つかり、没収されてしまった。他も同様で、何かしていたらすぐに怒られてしまう。
ちゃんと寝て下さい。って。
でもわたしは、こんな所で立ち止まってる暇なんてない。少しでも早くアミレス様に相応しい人間になって、アミレス様に選んでいただかないといけないの。
だってアミレス様の周りには凄い人や素晴らしい人が沢山いるから。わたしでは到底太刀打ち出来ないような、魅力溢れる男性が沢山いるから。
ただでさえ女だからと不利なわたしは、一分一秒を惜しまなくてはならない。一秒たりとも無駄にしてはいけないのに。
まさかこんな、風邪で寝込むだなんて……こんな事なら、普段からもっと体調管理に気を配ればよかった。
悔やんでももう遅い。既に一日近く無駄にしてしまった。どうやって明日から巻き返したものか……と涙目で考えていた時だった。
コンコン、と誰かが部屋の扉を叩く。「お嬢様、お客様がいらっしゃるのですが……」と扉の向こうから聞こえて来た。
わたしが寝てると思ったのだろう。わたしの返事を待たず、扉は開かれた。
一体誰が……と顔を扉の方に向けて、わたしはハッと息を呑んだ。
「メイシア、体調の方は大丈夫かしら? 伯爵から聞いて、お見舞いに来たのだけど……」
あ、アミレス様──────?!
眉尻を下げ、心配そうにわたしを見てくるアミレス様。そんな、わざわざわたしの為にここまで!? アミレス様にわたしの事伝えてくれてありがとうお父さん!!
「アミレスさっ──、ごほっ、けほっ!」
「急に起き上がっちゃ駄目でしょ! ほら、大人しく寝てなさい」
勢いよく起き上がったら、案の定咳き込んでしまった。額に乗っていたタオルは落ちるし、アミレス様には諭されるし……だめだめだなぁ、今日のわたし。
こんな無様な姿、アミレス様にだけは見られたくなったな。見損なわれたらどうしよう。アミレス様に見限られたら、わたし──。
「貴女が風邪を引いたって聞いて、仕事を放り投げて急いで来て正解だったわ。まさか病人なのにここまで元気とは」
アミレス様は、わたしを寝かせて布団を掛け直してくれた。そして、落ちたタオルを拾い水の魔力でそれを包み込む。
こんなわたしを見ても、アミレス様は……と感動した時。同時に頭に引っ掛かる事があって。
「仕事を放り投げて…………わたしの、ために?」
つい、随分と自意識過剰な事を聞いてしまった。そんな訳が無いのに、心のどこかで期待してしまう。
すると、水桶の上でタオルをしぼりながら、アミレス様はニコリと微笑んだ。
「当たり前じゃない。いつも元気なメイシアが病気だって聞いて、心配しない訳が無いでしょ?」
ひんやりと濡れたタオルをわたしの額に乗せて、アミレス様は優しく頭を撫でてくれた。
「えへへ、嬉しいです」
「そう? まあ確かに、王女自らお見舞いに行くなんてそう滅多にないものね」
違いますよ、アミレス様。わたしが嬉しいのは、他ならないあなたが来てくれたから。
例えアミレス様が王女だろうと平民だろうと、あなたがわたしを心配してお見舞いに来てくれたという事実が凄く嬉しいの。
あなたが何者であろうとも──……スミレちゃんでも、アミレス様でも。
あなたという人が来てくれた事が、本当に嬉しいの。
今この時、あなたの大切な時間をわたしが独占しているという事実が、今すぐこの風邪を吹き飛ばしてしまいそうな程、わたしを喜ばせるの。
「ほら、もう寝なさい。寝なきゃ治るものも治らないから」
「……眠るまで、そばにいてくれますか?」
「いいわよ。貴女が眠るまでここにいるわ」
「寂しいので、手を繋いでいてくれませんか?」
「それぐらいお安い御用よ」
「アミレス様の子守り唄とか、聞きたいです」
「えっ……!? こ、子守り唄か…………えぇ……子守り唄ぁ……?」
あんまりにもアミレス様が優しいから、色々とお願いをしてしまった。こんな時じゃないと絶対言えないようなお願い。
アミレス様の歌声を聞いた事がなかったから、ここぞとばかりにお願いしてしまったけど、なんだろう……急に歯切れが悪いな。
もしかして、アミレス様って歌があんまり好きじゃないとか? そうだったらどうしよう、わたし、何も考えずにお願いしちゃった……!
謝ろうと口を開いた瞬間、躊躇うようにアミレス様が語り出す。
「……いいわよ。ただ、私、音痴だから。あんまりクオリティは求めないでね。本当に音痴だから」
音痴。音痴と言うと……歌が苦手という、あれの事かな。
あの完全無欠のアミレス様が、音痴。
──何それ可愛い! 凄い……これがカイル王子の言ってたギャップ萌えってやつなのかな? そうだよね、きっとそうだ!
アミレス様にも苦手な事があったなんて!! 照れてるアミレス様も本当に美しくて可愛いらしいわ〜〜〜〜っ!
興奮気味に、わたしはアミレス様のお歌を心待ちにする。
「ね……ねんねーん、ころーりーよ、おこーろーり……よ……」
耳を赤くして、恥ずかしげにアミレス様は歌う。全く聞いた事のない不思議な歌だったけど、ぎこちなく小声で歌うアミレス様がとっても可愛くて愛おしくて……とても、心が温かくなった。
何だか不思議な曲調だなぁと思ったのは最初だけで、途中からわたしはすやすやと眠りについていたらしい。
次に目が覚めた時、アミレス様がいなくて寂しかった。
でも、まだ頭の中にあの不思議な歌が残っている。
「ねんねん、こーろりよ? アミレス様はどんな風に歌ってたっけなぁ」
天井に向かってあの子守り唄を歌ってみる。だけど全然上手く歌えない。何度か記憶だよりに歌ってみたところ、
「そこの歌詞は『ぼうやのお守りはどこへ行った』よ」
「アミレス様!」
扉を開けて、アミレス様が現れた。
その時、扉の隙間から不安げなルティさんとイリオーデさんの姿が見えた。当然の事だけど、アミレス様一人ではなかったのね。
帝国唯一の王女殿下だもの、護衛が伴うのは当たり前。なのにどうして、こんなにもわたしの心は苦しくなるの?
「起きててくれて丁度良かったわ。じゃじゃーん、お見舞いという事で、お粥を用意してみましたー!」
「……おかゆ?」
「簡単な麦粥だけどね。初めて作ったから味に自信が無くて、とりあえずイリオーデとルティに味見して貰ったら、二人共何故か泣き崩れたから結局味は分からなかったの。ただ、私の舌では普通の味だと思うし……お腹が空いているようであれば、食べて欲しいなーと」
そう語るアミレス様の手には、トレーに載せられた麦粥が。
いや、それよりももっと大事な事がある!
「あの、アミレス様が作ったんですか? その麦粥を」
「えぇそうよ。いつもお世話になってるし、何かしてあげたいなあと思って。貴女が寝てから、料理長達に教えて貰いながら作ったの。だから、見栄えが悪いのは勘弁して欲しいわ」
「アミレス様、が……わたしの、ために…………」
どこにでもあるような普通のお粥なのに、わたしの眼には、黄金で出来たこの世の何よりも美味しそうな美食のように映っていた。
体を起こし、わたしはじっと麦粥を凝視する。
こんなにも麦の一粒一粒が美しく見えた事は今までになかった。大好きな人がわたしの為に作ってくれた料理というだけで、こんなにも輝いて見えるものなの?
「メイシア、ご飯は食べられそう?」
起き上がったわたしの額に触れながら、アミレス様は聞いて来た。
……一人じゃ食べられないって言ったら、アミレス様が食べさせてくれるのかな。せっかくだから試してみよう!
「まだ、頭がぼーっとしてて……一人じゃ難しそうです」
ドキドキと緊張から高鳴る心臓の音を聞いていたら、
「そっか。じゃあ食べさせてあげようか?」
アミレス様がわたしの願望通りの提案をしてくれたので、
「はい! よろしくお願いします!」
わたしは、病人とは思えないぐらい元気よく返事した。
その後、本当にアミレス様が手ずから麦粥を食べさせてくれて、まさに夢心地だった。口の中はアミレス様の愛情たっぷりの麦粥で満たされ、外からはアミレス様の優しさが包んでくれる。
ここが天国かな。と真剣に考えたぐらいだ。
アミレス様が帰宅してしまった時は勿論寂しかったけど、寝台の上にいつも置いてあるアミレス様ぬいぐるみを抱え、先程までのアミレス様と過ごした時間を思い返せば寂しさもなくなっていた。
こんな事なら……たまには風邪を引くのも悪くないかも、なんて。
♢♢
メイシアが風邪で寝込んでると聞いて、私は急いで駆けつけた。お見舞いとして色々した訳だけど、帰路につく為、シャンパージュ伯爵邸から出た時にふと思った。
「……私のぬいぐるみ、知らないうちにめちゃくちゃ量産されてたわね…………」
メイシアの周りに、なんか凄い数の大小様々なアミレスぬいぐるみがあった。
一体いつの間に……?
「王女殿下、ぬいぐるみ……とは何の事でしょうか?」
「ええと、メイシアが前に私のぬいぐるみを作ってくれたの。ほら、私の部屋にも飾ってあるでしょう?」
「確かに。主君のお部屋には可愛いぬいぐるみが二つ並べて飾られてましたね」
「そのうちの一つの私のぬいぐるみをね、知らないうちにメイシアが量産してたみたいで……メイシアの寝台の上が私だらけだったなぁ、って思い出してたの」
意外にもぬいぐるみに興味を持った二人に説明する。
すると二人揃って目をギンッと見開いて固まってしまって。
「王女殿下のぬいぐるみだらけの…………」
「寝台だなんて…………」
「どうしたの、二人共。おーい?」
二人に向かって手を振ったりしてみる。暫く呼びかけて、ようやく二人は動きだしてくれた。
「「────羨ましい……っ!!」」
「えっ、何が??」
羨ましい、などと口を揃えながら。
『……──ごめんね。君を守れない不甲斐ない私を、どうか、許さないでくれ』
優しくて、低く響くような声。
誰かが私の頭を撫でている。ゆっくりと、柔らかく、全てを慈しむように。
ああ、そうだ。この温かくて優しい手が、とても大好きだった。
ぼんやりと開く視界。ぼやけて何も見えないが、そこには誰かがいた。真っ白で、ユラユラとキラキラと輝く、私の大切な──……。
『おやすみ、愛しい我が子…………君の願い一つ叶えられない私に、どうか、君の幸せになった姿を見せておくれ』
誰かに瞳を閉ざされる。世界が真っ暗になって、夢へと引きずり込まれていく。手を伸ばしても決して届かない。もう二度と、あのひとに触れる事は叶わない。
やだ、いかないで。おいてかないで。
ずっとそばにいてよ、ずっとずっと一緒にいるって約束したのに! いやだ、わたしを……私を、独りにしないで────────!!
♢♢♢♢
「……──っ! はぁ、はぁ…………何か、大事な夢を……見た気がする……」
何かを追いかけるように跳ね起きると、とてつもない喪失感に襲われた。
蜃気楼のように朧気な夢は、記憶からも簡単に消えてしまっていて。この喪失感が何に対するものなのか、私には分からなかった。
「時間は……まだ四時じゃないの」
時計を見ると、まだ朝早い事が分かった。だけどもう、眠る気にはならない。
顔を洗って、シャツとズボンに着替えたら白夜を持って外に出た。
夏を迎えたと言えども、氷の国とも呼ばれるフォーロイト帝国は他国と比べまだまだ涼しい方だ。その朝方ともなれば、夏とは思えない涼しさである。
水で色んな体型の人型の的を作り白夜でそれを斬る。首、心臓、膝、頭、顔、うなじ。どの角度からどのように斬り込むと抵抗の隙を与えず一撃で沈められるのか……そんな事を考えながら、白夜を振っていた。
簡単な自主練習を暫く続けていると、
「こんな時間から特訓とは精が出るのぅ、アミレス」
侍女服に身を包んだナトラが、果実水の入った水筒とタオルを差し入れてくれた。どうやら私がこんな朝っぱらから自主練習に勤しんでいるのを見て、気を利かせてくれたらしい。
ナトラにありがとうと告げてそれを受け取り、喉を潤し汗を拭く。
「そう言えば、ナトラはこんな朝早くから仕事? 駄目よ、ちゃんと勤務時間は守らなきゃ」
「むぅ……それ、シュヴァルツにも言われたのじゃ。『下手に業務時間外も働かれると後処理がめんどくせぇーの』とかなんとか言っておったわい」
「あー……分かるわ。残業代出さなきゃいけないし、社員の仕事量調整や体調管理の事も考えなきゃならないものね」
「人間とは面倒じゃな……そんな事まで考えなければならんとはのぅ」
「まぁ、そういう社会だからね」
それにしても、シュヴァルツって妙なところあるよね。何かたまに管理職の人間みたいな事言い出すし。凄い堂々としてるし、やっぱりどこかの国の貴族とか王子なのかなあ、あの子。
なんて物思いに耽っていると。ギザギザの歯を覗かせて、ナトラが小さな口でため息を吐いた。
「仕事の為に起きている訳ではないから安心せい。実はな、近頃……妙な胸騒ぎがするのじゃ。その影響か全く寝付けなくての」
「胸騒ぎ? 竜種の感じる胸騒ぎって、相当な事なんじゃ……」
もしかして魔物の行進の事だろうか。いやでも、魔物の行進は人類にとっての災害であって、魔族より遥かに強い竜種からすれば取るに足らない出来事だと思うのだが、どうなんだろうか。
「うむ……このような胸騒ぎ、ここ数百年は感じて来なかったからして、我にも分からんのじゃ」
ナトラは申し訳無さそうに言ってしょんぼりと項垂れる。
竜種だと言うのにとても小さく見えるその頭に手を置き、優しく撫でてあげて、
「ありがとう、教えてくれて。未知のものに対する恐怖は誰だって同じだもの、ナトラだって怖いのに、こうして不安を打ち明けてくれてありがとう」
私はナトラを元気づけようと言葉を掛けた。これにナトラはホッとしたように胸を撫で下ろし、少し俯いた。
「……我は、もし何が起きてもお前の味方じゃ。お前を決して死なせぬ。お前の事は、我が護ってやる。じゃから…………」
か細い声が聞こえてくる。
小さくて、されどとても力強い彼女の幼い指が、私の腕にぴたりと絡まる。やがて私の手は彼女自身によって、そのもっちりとした頬に持っていかれて。
「──これからもずっと、我と一緒にいてくれ。我はもう二度と、大事なものを失いたくないのじゃ」
私の手に、ナトラは頬を擦り寄せた。
そのあまりにも切なげな表情と、絞り出したような切実な声。ずっと平気なフリをしていたみたいだけれど、赤の竜と青の竜の件はやっぱりこの子にとってもかなり辛い出来事だったのだろう。
白の竜は今もこの大陸のどこかで封印されていて、黒の竜は行方不明──あの悪魔の話によると、魔界にいるそうだけど。
とにかくナトラが大事な家族を失い、離れ離れになっている事に変わりはない。ナトラは何千何万の時を生きる竜種だけれど、その蓋を開けてみればこの通り、見た目も中身もとても幼い子供のような子だ。
ずっと寂しくて、ずっと辛かったのだろう。
大事な家族の現況を見聞して、人類に憤りを覚えた事だろう。しかし彼女は……家族を破滅へ追いやった人間とは違うからと、私の事を信じて共に来てくれた。
人間社会なんて竜種のナトラには生きづらいだろうに、ナトラは文句一つ言わずに私といる事を選んでくれた。
そんな彼女に、私が出来る事はただ一つ。
「いいよ。死ぬまでは、ナトラとずっと一緒にいるね。仕事とかで傍を離れちゃうと思うけど……愛想尽かして私の事を見捨てたりしないでね?」
最短一年。最長でもあと九十年とかだろうか。悠久の時を生きる緑の竜にとってはとても短い時間しか、人間の私は生きられない。
そもそも、私は来年にはもう死んでいる可能性すらあるのだ。だから約束しよう。
死ぬまでの間、ただ一緒にいるだけの約束なら……きっと私にだって守る事が出来る。ナトラが人類に愛想を尽かさない限り、この契約は不履行にならない。
だから私は約束した。私が生きている間は、ナトラと一緒にいると。
「……うむ。良い答えじゃ。我、お前とずっと一緒にいたいから頑張るのじゃ!」
ナトラは満足気に、にんまりと笑った。
何を頑張るのかは分からないけれど、ナトラが楽しそうだからいっか。
もしかしたら対フリードルや対皇帝の戦いを代わりにやってくれるのかもしれない。だとしたら嬉しいなあ、私にはあの人達と正面切って戦う事すら出来なさそうだし。
ナトラは竜種だから戦闘面においては期待大! だしね。
その後、なんとナトラが自主練習に付き合ってくれたのだ。自主練習の相手が竜種なんて人、多分私以外には世界中捜してもいないと思う。
竜らしい固有の能力や権能なんかは使えないと言っていたが、そういったデバフを補って余りあるその膂力に翻弄された。
分かってはいたが、やはりその力強さは人智を超越している。単純な速さや力では師匠すらも軽く上回る真性の怪物。
本気を出されたら目で追う事なんてまず叶わないような俊敏さに、拳一つで大地を割れるような怪力。
見た目があまりにも可愛らしいから忘れてしまいがちだが──やはりナトラは……この世に五体しか産み落とされなかった魔族の祖、音に聞こえし純血の竜種なのだ。
そう言えば……多くの魔族や動物は、この五体の竜を基に改良などを重ね創られたと神話などでは伝えられていた。
────曰く。この世界の始まりは虚無だったらしい。
しかしそこに美しく神秘的な芽が生えた。その芽は徐々に膨らみ成長する。やがて大きな樹となったそれは、虚無に深く根を張り、その葉を広げ【世界】を創った。
だがそれだけではツマラナイ。だからこそ、その樹はその【世界】に生きる生物を創った。
樹より咲いた五色に輝く一つの花。
それが【世界】へと落ちた時、その花の花弁一枚一枚がそれぞれ樹より生を与えられた。
黒、白、赤、青、緑。初めはただの色付く光の玉だった。しかしそれでは不便だろうと、樹はその枝を分け与えた。するとその五色の光はそれぞれの姿を得て、言い伝えられているような竜の姿へと変貌したのだという。
それが、純血の竜種。この世に五体のみ存在する始まりの存在。
純血の竜種の次に産み落とされたのが、なんと神々だったという。
創り出した【世界】はその根を広げ、他にもいくつかの世界を形成しつつあった。それを管理する役目として、樹は神々を創った。
そして神々に全てを任せ、樹は【世界】の維持の為に永い眠りについた。
その後神々は人を創り、魔物を創り、精霊を創り、妖精を創った。そのどこかのタイミングで天使を創ったとも言われている。
いつしか神々は【世界】を創りあげた樹の事を【世界樹】と呼ぶようになり、それは今も尚この世界の何処かにある…………。
この辺りの国々で一番ポピュラーな創世神話では、そう語られていた。
実際はどうかとか、ゲームではその辺りの事はなんにも語られてなかったから私は知らないけどね。
「む。アミレスよ、我はそろそろ仕事に行かねばならんのじゃが、大丈夫かの?」
「う……ん、だい、じょーぶ……です…………」
ナトラとの模擬戦で疲弊しきった私は、はしたなくも地面に五体投地。ぜーぜーと肩で息をして、声も絶え絶えに返事した。
竜種との戦い──やっっっっっば!!
模擬戦、それもナトラは実力の九割を制限されている状態だというのに、この強さか。ナトラもかなり手加減してくれていたようなのに、手も足も出なかった。
模擬戦でこれなんだから、竜種と本気で戦うなんて事になったら…………私達に勝ち目なんて全く無い。人類は滅びの一途を辿る事だろう。
だからこそ私は、同時に理解した。師匠もシルフも、私に師事する時は相当私に合わせていてくれたのだと。
これが人ならざる超越存在の力。人類が総力をあげないと、赤の竜と青の竜を討伐出来なかった理由を身をもって理解した。
……だからこそ、どこぞの悪魔の恐ろしさが増してしまう。
暴走状態だったらしい黒の竜の片腕を簡単に消し飛ばし、なおかつ竜の呪いを受けても無事だったとか。あの悪魔は本当に何者なの?
竜も、精霊も、悪魔も……ゲームでは名前しか出てこなかったような舞台装置に過ぎない筈なのに、実際にはこんなにも強く恐ろしい存在だったなんて。間違いなく、この世界に転生して初めて分かった事だわ。
「ほれ、我の手を掴むのじゃ。引っ張ってやるわい」
「あ……ありがと……」
ナトラの小さな手を握り、引っ張りあげてもらう。白夜を杖のようにしてヨロヨロと歩き、途中でナトラと別れて自室に戻った。
仕事の為にと起きて来たアルベルトやイリオーデがボロボロの私に気づき、血相変えて駆け寄って来た。ナトラとの模擬戦でこうなった……と話すと、二人共唖然としていた。
模擬戦と言えども、竜種と戦うなんてとんでもない! と二人は慌てて治療の為にと駆け回るのだった。
♢♢
『ギャアアアアアアアアアアッッ』
『グガアッ、ボワァッ!』
『ヴゥルルルルル……』
『ビガァァアアアアアアアアアアアンッッッ』
とても暗く、おぞましい空間だった。
砂糖に群がる蟻のように、教祖に縋る信者のように。
その異形の怪物達は、人が十人同時に通れる程度に開かれた巨大な扉──禍々しくも流麗な魔界の扉に、我先にと押しかけていた。
その扉の向こうは、血と死の臭いが蔓延するこの世界とは百八十度異なる、餌で溢れた世界。
あまりの食糧難に同族同士で殺し合い、同族の屍体を貪り食うような魔物達で溢れかえった魔界の住人にとっては、まさにオアシスのような場所。
普段ならばその扉はほとんど閉ざされており、稀に生まれる空間の歪みで世界間の移動を果たすか、向こうの世界で繁殖した魔物達だけが餌にありつけるような状況なのだが……今は違う。
時の流れの影響か、魔界の扉が開かれつつあった。
それは、数百年に一度あるかないかといったレベルの好機。魔界の住人が人間界を侵略する事が出来る絶好の機会だった。
しかし人間にも限りがある。故に何体もの魔物達が我先にと扉を通ろうとしているのだが、そこに、彼等も予想し得なかった本当の怪物が現れた。
「──退け。下等な魔物ども」
ほんの一言二言だった。たったそれだけで、下位の魔物も上位の魔物もすべからく声を奪われ体の自由を失う。
中でも自由意思のある亜人などは、その怪物を見て思わず跪き頭を垂れた。
(なんだ、この威圧感……ッ! 見た目は中位悪魔などと大差無いのに、何故、あの男を見ているだけでこんなにも恐怖が…………!!)
(待て……黒い髪に、黄金の瞳の隻腕の怪物…………まさか、この男はあの御方の客人と噂の────?!)
闇より深い暗黒の髪。魔界においては眩しすぎる、鋭い黄金の瞳。
中身を伴わない服の袖が、ヒラヒラと風に靡く。あまりにも質素な服装である事が、その男の底知れなさを格上げする。
「……この扉を開くのも、百年ぶりとかだな」
断裂した大地かのように開かれた魔物の群れ。その道は真っ直ぐ魔界の扉へと通っていた。
扉にそっと触れ、男はボソリと呟いた。
この扉は世界と世界を繋ぐもの。精霊王や魔王でさえも容易に開閉出来ぬものだ。
しかし。かつて、それを無理やりこじ開けて魔界に侵入した者がいた。憤怒と悲嘆に我を失ったその者は、本来誰にも干渉出来ない筈の扉に干渉したのだ。
その者とは──、
(待っててね、緑。今……お兄ちゃんが迎えに行くから)
──黒の竜。世界より産み落とされた五体の竜の長兄にして、この【世界】に初めて産まれた、原初の存在である。
その男は僅かに開かれていた扉を、百年前と同じように無理やりこじ開けた。そしてその身を竜の姿へと変貌させ、扉の中へと姿を消して行った。
全ての生物にとっての災害、純血の竜種。その姿と凶悪なオーラを目の当たりにして、魔物達の多くは意識を……いや、命さえも失っていた。
黒の竜によって大きく開かれた扉は、まさに魔物の行進の際と同等であった。しかし、魔物達は扉に近づけない。
まだ、その扉に…………触れただけで身を滅ぼしそうな、黒の竜の魔力が強く残留していたから……。