それは、六月のある日だった。
 雨ばかりで気が滅入るような日々の中、特訓でストレスを解消する事も出来ず、仕事に囲まれて更にストレスが降り積もる。
 五分に一回ぐらいはため息が出てしまうので、仕事を手伝ってくれているイリオーデとアルベルトも、度々心配そうな面持ちを向けて来るようになった。

「主君……何か息抜きなどなされた方がよろしいのでは?」

 澄んだ瞳を物憂げに細めて、アルベルトが提案してくる。そう言えば……いつの日からか、光の無かったアルベルトの瞳に光が灯るようになっていたのだ。
 理由は彼も分からないそうなのだが、ある日を境に色を認識出来るようになったとか。シルフもこれには、『機能を失った魔眼が普通の目になる事があるなんて……』とたまげていた。
 まあ、アルベルトの世界に彩りが戻った事で彼の人生がもっと楽しいものになったのなら……原因なんてどうでもいいものだ。

「息抜きねぇ……どうせ客なんて滅多に来ないんだし、サロンを室内訓練用の部屋にでも変えようかしら」

 これまでに考えて来なかった訳では無い。ただ、その度に面倒だしいいやと諦めてきた。
 しかし……今年の雨季は中々に酷い。この間の視察の日が奇跡だったぐらい朝から晩までずっと雨。お陰で湿気が凄く、気圧の所為か私は毎日頭痛や体調不良に悩まされている。
 まるで、いずれ起こる魔物の行進(イースター)や様々な大事件に世界が憂鬱になっているのかのように、毎日雨模様だったのだ。
 私がアミレスになってから八年近く経つが……ここまで酷い雨季は今年が初めてで。流石にストレスが非常に溜まる。
 面倒だから長年放置していた計画にも、そろそろ着手しようかと悩む程に。

「では、そのように手配しましょうか?」
「そうね……今後生まれてくる王女達には申し訳無いけど、サロンを室内訓練用の部屋に改装しましょうか。細かい手配は任せたわ、ルティ」
「は、仰せのままに」

 小さく腰を曲げ、ルティは踵を返した。早速手配に向かってくれたらしい。
 もし速攻で手配が済み、今日から改装工事が始まろうとも……今日から室内訓練に使えるようになる訳ではない。だからまだ暫くはストレスと同居しなくてはならない。
 それが憂鬱で、ため息をついた時だった。
 忙しない足音が近づいてくる。それはこの部屋の前で止まり、そして勢いよく扉を開け放ちシュヴァルツが現れた。

「入電────ッ!!」

 その手には、魔水晶が握られていて。

「シュヴァルツ、王女殿下の執務室にノックも無しで飛び込むな、不敬だぞ」
「あ、ごめんねおねぇちゃん。でも今それどころじゃないの! 超緊急事態なの!!」

 凄まじい気迫で入室したシュヴァルツに戸惑う事無く、イリオーデは冷静に彼を窘めた。でもシュヴァルツはかなり急いでいるようで、早足に私の元へと駆け寄ってくる。
 執務机に身を乗り出して、シュヴァルツは勢いよく報告した。

「ついに、バドールがクラリスに求婚(プロポーズ)するっぽいんだ! ラーク達が明らかにそわそわしてるバドールを見たって連絡して来たの。しかもバドール、こんな雨の日なのにちゃんとした服着て出かける準備してるらしいんだよ!」
「なっ、なんですってーー!? そんなのどう考えても求婚(プロポーズ)イベント確定演出じゃないの!!」

 この時を待ってたとばかりに、私は鼻息荒く立ち上がる。シュヴァルツの「確定……なんて??」という戸惑いの声が聞こえた気がするが、気にしない気にしない。
 そうか、ついにか……! もし本当に今日プロポーズが成功したら、ワンチャンジューンブライド狙えるわよねこれ? やっぱり今すぐにでも式場押さえられるようにしておこうかしら。

「イリオーデ、シュヴァルツ! 今すぐ出るわよ! 求婚(プロポーズ)イベントを見逃す訳にはいかないわ!!」
「王女殿下がそう仰るなら……傘等の準備をして参ります」
「やったー! 出歯亀するぞーーっ!」

 仕事なんてしてる場合じゃねぇ。部下の一世一代のイベントの方がもっと大事だ。

「でもドレスとかだと目立つし、動きにくいわね……よし、全員目立たない私服に着替えて十分後に玄関集合! いいわね?」
「畏まりました」
「らじゃー!」

 二人にビシッと命じて、私も早足で私室へと向かう。
 途中で侍女を一人拉致して私室に入り、乱雑にドレスを脱ぎ捨てて、目立たない服へと着替える。目立たない服と言ってもいつものシャツとズボンである。
 いやぁ、よかった。ややこしいドレスが嫌で簡単に脱ぎ着出来るドレスを着ておいて! お陰様で十分以内に準備が済みそうだ。
 湿気があるものの、ここ暫くの雨で外はかなり寒そうなので薄手のローブも羽織る。
 銀髪は一纏めにして帽子の中に突っ込む。瞳もまあ目立つので、以前シルフが使っていた瓶底メガネを装着。
 シルフが処分をめんどくさがって私に押し付けておいてくれてよかった。今頃、精霊界でお仕事中のシルフがくしゃみとかしてる頃だろう。
 ソードベルトを腰に巻き、白夜を帯剣して準備は完了。

「それじゃあ後は頼んだわよ!」
「うぅ……王女殿下、せめて普通にドレスを着てお出かけしてくださいよぉ!」

 侍女に向け華麗にアデューを決め、私は走り出す。侍女の悲痛な叫びもものともせず、淑女らしからぬ見事な疾走を披露せしめた。
 そして玄関に辿り着くと、そこには既にシュヴァルツとイリオーデが待っていて。