始まりは、いつだったかな。
 六年前? ううん、もしかしたらもっと前だったかもしれない。ただ、あたしが確信を持って言えるのは、六年前のあの日。

 ──ある日、目が覚めたら……あたしは、見知らぬ場所にいた。

 少しボロくて、薄暗い天井。固いベッドにごわごわの布団。
 よく分からないけれど、あたしの声ではないと分かる幼く可愛い声。手足も小さく、あたしのものではない事だけは分かる。

『な──、なにが……おきて……』

 呆然とした。あたしはあたしなのに、ふと気がつけばあたしじゃない誰かの記憶が、勝手に頭に侵入してくる。あたし自身の事は何一つとして分からない(・・・・・)のに、あたしじゃない誰かの記憶ばかりが理解を求めてくる。
 その記憶から、あたしは知ってしまった。気づいてしまった。
 この体はあたしのものではなく、あたしもよく知る少女──ミシェル・ローゼラのものであると。
 何がなんだか分からないけど、どうやらあたしは熱中していた乙女ゲームのヒロインになったらしい。

『……本当に、何が起きているのか全然分からないけど……でも、誰かが昔言ってた気がする。最近は乙女ゲー転生がトレンドだって!』

 記憶に無い思い出。誰がいつどこであたしにそう言ったのかは分からないけれど、その言葉はあたしの不安をかき消すのに十分だった。
 まあ、そういう事もあるんだろう。
 かなり強引ではあるが、自分をそう納得させてあたしは思う。
 この世界が『アンディザ』の世界で、あたしがヒロインのミシェルなら──……あたしが、たくさんの人達に愛されるって事?

 それに気づいた時、あたしの胸はどうしようもないくらいに高鳴った。
 嬉しくて嬉しくて仕方なかった。あたしでも、そんな夢みたいな気分を味わえるんだ! って。
 あたしがずっとずぅっと欲しかったものが手に入る。そう実感した途端、堰を切ったように笑い声が溢れ出た。

『……はは、あはははははははははっ! 優しい神様はあたしの事を見ててくれたんだわ! あんなにも酷い生活だったから、今度こそ幸せにしてあげようって思ってくれたんだ! だって、だって今の(あたし)は──ミシェル・ローゼラだもの!!』

 幸せになる事が約束された少女。誰にでも愛される可愛い可愛い女の子。
 そんなミシェルになれたのは、きっとあたしを哀れんだ神様のお陰。
 ……あれ? あたし、前世でどんな生活をしてたんだっけ? たくさんたくさん愛されたくて、普通の人みたいに幸せになりたいって、思ってた……気が……。

 でももういいや。だって今のあたしはミシェルだから! 何もしなくても皆に普通に愛されて、絶対に普通の幸せを手に入れられるんだもの!
 前世の事なんてどうでもいい。自分の顔と名前すらも思い出せないんだもの、前世なんて忘れてあたしは幸せになるの。

『もう、我慢なんてしなくていい。あたしはあたしのしたいように──自由に生きるのよ!』

 そうと決めてからは早かった。
 ミシェルはまだ幼い。だけど確か、この子の両親は最初からいなかった筈。つまりあたしがまずやるべき事は、あたしを守ってくれる大人を見つける事だった。
 幸いにも、大人の機嫌を取るのは得意だった。
 どう振る舞い、どう話せば大人は喜ぶのか。大人から見てどんな子供が可愛く、ついつい甘やかしてしまうのか。

 そういうのはよく知っている。だからあたしは、村の大人達に可愛がられる子供を演じた。
 この村の人達は良い。だって、あたしを怒らないから。あたしが少し他の同年代の子供に悪口を言っても、大人達は『お前がミシェルに何か悪い事をしたからだ!』とあたしを庇ってくれる。
 そうだ、これでいい。あたしの事を皆が愛し、尊重してくれるこの状況こそが最も望ましい。

 そんなある日。村外れの家で──ミシェルの幼馴染、ロイを見かけた。
 ボロボロの姿で家に入っていったロイの背中が気になって、妙な胸騒ぎを覚えながら聞き耳を立てていたら。

『まともな食料一つ盗んで来れねぇのかこのクソガキィッッ!!』

 ガシャーンッ! と何かが割れる音と共に、ガラガラな叫び声が家の外まで聞こえて来た。
 その直後には……人の体が叩かれ、殴られ、蹴られているような物音まで。
 それらを聞いて、あたしは足がすくんでいた。
 心の奥底から這い出てくる恐怖。疑いようのない、暴力に対する嫌悪。早くこんな所から離れたいのに、体はびくりともしない。