その時。
玄関ドアの向こう。
男女の声がする。
ボソボソとしか聞こえなくて、何を言っているのか聞き取れない。
あたしは玄関ドアに近づいた。
何故か心臓がバクバクしている。
「もー、鍵ってどれですか?ほら、ちゃんと立ってくださいよ、悠馬さん!」
(えっ)
聞こえてきたのは、鈴が鳴るような、高い女の子の声。
「もー、ほんっと、飲み過ぎ!悠馬さん、鍵、どれー?」
……違う。
違うよね?
「悠馬さん」って聞こえたけれど、悠馬くんのことじゃないよね?
人違いだよね?
ううん、そもそも名前を聞き違えたかも。
自分を必死に励まそうと、あたしは心の中で(大丈夫)と繰り返す。
でも。
そんなの、何の役にも立たなくて。
「あはははっ」
と、悠馬くんの笑い声が聞こえてきた。
間違えようのない、悠馬くんの笑い声。
あたしの好きな、機嫌の良い笑い声。
玄関ドアの覗き穴から。
ドアの向こうを確かめる必要なんて無かった。
(あぁ、終わっちゃうんだ……?)
あたしと。
悠馬くんの世界は。
こんなにすぐ。
こんなに呆気なく。
終わっちゃうんだ?
『あなたは、飽きられないようにね』
あの、美人な彼女の言葉が脳裏に蘇る。
「やめて」
あたしは、はっきりと言った。
それから、玄関の鍵を内側から解除して。
勢いよく、玄関ドアを開けた。
「えっ、きゃっ!」
扉の向こう。
背の低い、小柄な女の子が驚いて小さな悲鳴をあげた。
あたしを見て、目を丸くしている。
「あ、あの……?」
女の子は、ショートカットにおしゃれなパーマをかけていて。
ふわふわなその頭に、妙な色気を感じた。
そのことが。
ものすごくイヤだった。
「あの、ここって、悠馬さんの部屋じゃないんですか?」
と、女の子はまだ驚いた表情をしている。
「……間違いありませんよ。その人、ここで暮らしていますから」
あたしの声が、思ったより低く、マンションの廊下に響く。
女の子は、
「あはっ」
と、笑った。
は?
「なーんだ、良かった!」
女の子は、あたしに悠馬くんを押し付けるように預けて、
「じゃっ、悠馬さん!私は帰りますからね」
と、悠馬くんに声をかけた。
「では、失礼します」
と、ニコニコする女の子は、振り返ることもなく去って行った。
(何?何だったの?)
酔っている悠馬くんを支えつつ、あたしはその場にへたりこんだ。
静かに。
あたし達の世界に。
薄暗い雲が広がっていくのを感じながら。
その夜、遅い時間。
酔って寝ていた悠馬くんが、目を覚ました。
「あれ?……っ!痛たたっ!」
頭を両手でおさえている。
「大丈夫?」
と、あたしは立ち上がり、キッチンに行ってコップに水を注いだ。
それを悠馬くんに渡す。
受け取りながら悠馬くんは、
「ありがとう。鞠奈、レポートしてたの?」
と、さっきまであたしが座っていたテーブルの上にあるパソコンを横目で見る。
「うん。もう提出期限は過ぎてるんだけど、一応やっておかないと」
「え、期限過ぎてるの?」
悠馬くんは水をひとくち飲んだ。
「……今日って、練習じゃなかったっけ?」
と、あたしは話を変えた。
「え?」
「悠馬くん、バンドの練習に行くってメッセージをくれたよね?」
「うん、そうだね」
悠馬くんはだから、何?というような顔をしている。
本当なら、ここで何も聞かない、言わないほうが平和だろうな、とは思った。
……思った、けど。
「じゃあ、なんでそんなになるまで飲んでるの?」
あたしは、止められなかった。
「バンドの練習に行くって嘘だったの?あたしに嘘ついて、女の子と一緒にお酒飲んでたんだ?ベロベロに酔っちゃうくらい」
「鞠奈?」
「……可愛い子だったよね?小柄で、ウェーブのパーマが超似合ってて。声も高くて可愛いし」
「……何、妬いてんの?」
悠馬くんがあたしに近づいて、抱きしめようとした。
ニコッと笑って。
「やめて」
あたしは、悠馬くんから一歩、離れた。
「抱きしめて、うやむやにしようとしないで」
「そんなつもりじゃないって」
「じゃあ、どんなつもり?」
あたしの声は、ものすごく刺々しい。
自分でもわかっている。
(可愛くない)
……だけど。
だけど!
納得できないんだもん!
悠馬くんは「はあっ」と、大きくため息を吐いた。
「……なんだよ、いちいち全部、鞠奈に報告しなくちゃいけないの?」
「は?」
「バンド練習が終わったよー、仲間と飲むことになったよー、帰りが遅くなるよーって?」
「ちょっと、待って」
「なんだよ、そういうことだろ?」
イライラし出した悠馬くんが、
「鞠奈って、オレの何?」
と、言った。
背中がゾッとした。
「何って……、こ、恋人だよ?」
必死の思いで、そう伝える。
「恋人だよね?あたし、ちゃんと、悠馬くんの……恋人なんだよね?」
涙目になる。
のどの奥が絞られるみたいに、ギュンとした痛みを感じる。
「あたしっ、あたしっ、悠馬くんのっ」
ぽたぽたと、あたしの涙が床まで落ちる。
悠馬くんは。
眉間にシワを寄せて、吐き捨てるように言った。
「最近の鞠奈は、変だよ」
「えっ?」
「恋人ってさ、もっと対等な関係なんじゃないの?」
「……っ」
「オレ、ここに居ていいのかなって最近思うんだよね」
「なんで?なんでそんなことっ」
悠馬くんにすがりついて、あたしは必死に続けた。
「他に好きな女の子が出来たの?さっきの、あの女の子?ねぇ、あたしが悪かったから、ちゃんと直すから、お願いっ」
悠馬くんはすがりつくあたしを、悲しい目で見下ろしている。
「お願いだから、あたしのこと、捨てないでっ!頑張るから、飽きられないように、頑張るからぁっ!」
「……なんで?」
と、悠馬くんはあたしと目線を合わせるようにしゃがんだ。
「なんで、そんなこと言うの?」
そんなの、決まってる。
好きだから。
好きだからだよ。
悠馬くん。
「……鞠奈が、わからないよ」
と、悠馬くんは、自分の腕にしがみつくあたしの手をとり、
「こんなこと言う子じゃなかったじゃん」
なんて言って、あたしの手を離した。
「……待って、待って」
あたしは慌てて、立ち上がった悠馬くんの脚にもう一度すがった。
「離して、鞠奈」
「やだっ、お願い、一緒にいてっ!あたしとずっと、一緒にいてよ!」
「……」
「なんでもするからっ、言うこと聞くからっ」
悠馬くんは、何も言わない。
パンツのポケットから、鍵を取り出した。
それをそばにあるテーブルの上に置く。
「オレ達が一緒に居ても、鞠奈のためにならないよ」
「やだっ、悠馬くん!」
「ごめんな、鞠奈。こんなふうにさせたの、オレが原因だよな?オレが悪いよな?」
悠馬くんはあたしから離れる。
それから。
「もう、一緒にいるの、やめような」
と、言った。
優しい声で。
……悪魔みたいだ。
こんな時まで。
声も、姿も、キレイなんだから。
あたしはひとり、
「やだっ、行かないで」
と、繰り返していたけれど。
悠馬くんはスマートフォンだけ持って、この部屋から出て行ってしまった。
ひとり残された部屋で。
悠馬くんの置いていった鍵を見つめて。
あたしは泣いた。
(罰が下ったんだ)
あたしはあの美人な彼女から、悠馬くんを奪った。
それなのに。
美人な彼女に対して、何も思わなかった。
苛立ちとか、そういう気持ちしかなかった。
(さっきのあたし、あの美人な彼女と同じようなことを言ってた)
同じなんだ。
今度は、あたしが。
奪われる番なんだ。
あの小柄な可愛い女の子の顔が、頭の中にチラつく。
憎くて。
悲しくて。
……羨ましかった。