悠馬くんは持っていたらしい包丁を置いて、あたしのほうへ近寄ってきてくれた。
エプロン姿も様になる。
カッコいい。
「バイト先の先輩に、急にシフト変わってくれって言われてさー。だから、することないし、帰ってきたんだ」
ちょっと残念そうな悠馬くんに、
「でも、早く会えて嬉しい」
と伝えると、
「おっ、嬉しいー」
と、あたしを抱きしめた。
「!?悠馬くん、なんか、玉ねぎの匂いがする」
「あっ、玉ねぎ切ってたから。カレーライス作るつもりでさー。あはははっ、ごめん、ごめん」
そう言って離れかけた悠馬くんの体に、あたしはもう一度抱きついて、
「玉ねぎの匂いがしててもいいから、ぎゅうってして」
と言った。
「……何かあった?」
悠馬くんはあたしをぎゅうっと抱きしめてくれた。
(元カノに会ったよ)
心の中で話しかけた。
(すっごく美人な人だったよ?悠馬くん、あの人のことが好きだったんだよね?)
心の中が。
暗い色になっていく。
「鞠奈?」
「ね、このTシャツね」
と、あたしは自分の心の平和のために話を逸らす。
「南に羨ましがられたよ。可愛いねって」
悠馬くんは「良かったじゃん」と笑って、
「それ、鞠奈にあげよっか」
と、言った。
(え?)
「いいよ、借りるってことで大丈夫だから」
と、あたし。
なんとなく、イヤな予感。
「気に入ったなら鞠奈にあげる。オレには新しいの、あるから」
悠馬くんは私から離れて、部屋に置いてあった紙袋の中から真っ黒のTシャツを取り出した。
胸の所に白い線で、ギターのピックと、その上に寝転がるウサギのイラストが描いてある。
「今日、帰りに買ったんだ。これ、可愛くない?」
満面の笑みであたしに尋ねる悠馬くん。
「でも、これは?もう、いいの?」
と、あたしは自分が借りているTシャツを少し引っ張る。
「うーん、それね」
悠馬くんは迷う様子もなく、こう続けた。
「もう、いらないや。飽きたから」
悠馬くんは。
新しいものが好き。
使い慣れたものに対して、執着することはあまり無い。
そのことが。
あたしを不安にさせる。
あの美人な彼女の言葉を思い出す。
『あなたは、飽きられないようにね』
十二月の夕暮れの空を。
あたしはキッと睨んで。
大丈夫って心の中で唱える。
(大丈夫。悠馬くんはきっと、ずっとそばにいてくれるから)
『ベイビー・サンデー』は、今週末にまたあのライブハウスで演奏する。
固定ファンのみならず、どんどん人気が高まってきている。
その中には、悠馬くんの容姿に惹かれるファンも多い。
「鞠奈もはじめは一目惚れだもんね?」
南が珍しく、学校帰りにお茶しようと誘ってくれて。
あたし達はカフェにいる。
「そうだね、一目惚れってやつだね」
あたしはココアラテの入ったカップを両手で包んで、口元に持っていく。
「……何?元気ない?」
と、南が心配そうな表情になる。
「ううん、大丈夫」
あたしは強がった。
でも。
本当は。
怖くて仕方がなかった。
悠馬くんに一目惚れしたファンのことを。
もしも悠馬くんが気に入ってしまったら?
(あたしだって、そうだったもん)
そこまで考えて。
あたしは首を振って、考えたことをよそへ追い出す。
部屋に帰ると。
悠馬くんの姿がなかった。
(え?なんで?)
慌てて鞄の中を探って、スマートフォンを取り出す。
(何の連絡もきてない……)
なんで?
どこに行ったの?
バンドの練習かな?
でも、それだったら前もって言ってくれるはず。
バイト?
……そうなのかな。
でも、今朝はそんなこと言ってなかった。
スマートフォンの画面に、悠馬くんの連絡先。
電話をかけたい。
確かめたい。
「……」
でも。
電話するのはちょっと、重い?
(じゃあ、メッセージを送ろうかな……)
焦ってきて、指が震える。
悠馬くん、どこにいるの?
誰といるの?
その時。
……カチャカチャ、と玄関ドアの向こうで音がした。
続いて聞こえたのは、鍵を鍵穴に差し込む、ジャッという濁った音。
「悠馬くん?」
あたしは玄関までかけ寄る。
玄関ドアが開くと、悠馬くんが部屋に入って来た。
「悠馬くん!」
「わっ、ビックリした!どうしたの、鞠奈」
あたしは悠馬くんに抱きつき、
「……何でもないけど、心配してただけ!」
と、悠馬くんの胸のあたりに顔をうずめた。
「何でもないって感じじゃないよ?」
悠馬くんは荷物を持ったまま、あたしを抱きしめてくれた。
背中でビニール袋のガサガサっという音。
「買い物に行ってたんだ?」
「えっ?うん。なんかさー、急に甘いもの食べたくなってさ」
「……あたしも、食べたい……」
呟くように言うと、悠馬くんは「あはははっ」と笑って、
「ちゃんと鞠奈の分も買ってきたって」
と、あたしから離れた。
夜。
お風呂から上がって、レポートを仕上げていた。
もう期限ギリギリなのに。
最近あまり集中して取り組めていない。
周りの子から遅れている。
南にさえも「大丈夫?」と、心配されている。
しばらくすると、悠馬くんがお風呂から上がってきた。
あたしと同じボディーソープの香り。
「鞠奈、忙しい?」
そう言って、悠馬くんはあたしを後ろから抱きしめた。
「うーん、レポートしてるけど……」
「そっか……、それは忙しい、よな?」
言いつつ、悠馬くんはあたしの頭のてっぺんや、頬にキスをする。
「……うーん、忙しい、けどっ」
首筋にキスを落とされて、
「降参しますっ」
と、あたしはパソコンを閉じた。
悠馬くんは、
「あはははっ」
と、機嫌良く笑った。
ぎゅうっと抱きしめられていると。
不安になっていた自分が、バカみたいに思える。
(何にも不安に思うことなんかないじゃん)
だって。
悠馬くんは。
こんなにもあたしのことを好きだって伝えてくれる。
その目で。
その手で、体温で。
「鞠奈」
「ん?何?」
「オレのこと、見て?」
「うん。見てるよ」
あたしの両頬を包んで。
悠馬くんは、
「何かあったよね?」
と、じっとあたしを見た。
「何もないよ?」
とぼける。
でも。
「何か悩み事?」
と、悠馬くんは引き下がらない。
あたしは少し考えた。
不安だよ。
バカみたいだけど。
やっぱり、不安はあるよ。
不安で、あたし……悠馬くんのこと、信じたいのに、信じきれない時があるよ。
(そんなこと、言えない)
知られたくない。
こんなあたしの、本音。
だから。
代わりにあたしは、
「歌ってくれる?」
と、言った。
「ん?何を?」
「歌ってほしいんだ。悠馬くんのその声で、あたしの、あたしだけの、歌」
そう言って、
「やっぱりこんなの、わがままだよね?」
と、おどけるようにぺろっと舌を出した。
「……それは、鞠奈へのラブソングを作ってほしいってこと?」
悠馬くんは慎重に言った。
「……いいの、忘れて」
恥ずかしくなってきて、あたしは両頬に添えられている悠馬くんの手に自分の手を重ねる。
それから悠馬くんの両手ごとスライドさせて、自分の目を隠してみる。
「……何してるんすか、鞠奈さん」
悠馬くんが笑っている。
「恥ずかしいんすよ、悠馬さん」
と答えると、
「何それっ」
と、悠馬くんは大笑いした。
(大丈夫だよね?)
朝方。
隣で眠る悠馬くんの寝顔に向かって、心の中で尋ねる。
(大丈夫、大丈夫だよね?どこにも行かないよね?)
夕方。
学校帰りに、悠馬くんからメッセージが来た。
《急にバンド練習が出来ることになったから、行ってくる!》
その短い文章を読んで。
あたしは何故かイヤな予感がした。
でも。
《わかった〜!頑張ってね!》
と、送った。
そして。
部屋に帰って。
もう提出期限が過ぎてしまったレポートの続きに取り組む。
「あー、やる気なし!」
ひとりで唸ってみたものの、やるしかない。
パソコンに向かう。
しばらくして。
時計を確認した。
「もう、こんな時間?」
悠馬くん、帰りが遅くない?
(バンド練習って言っても、こんなに遅くなったことはないのに)
また。
また、だ。
(信じなくちゃ)
不安に負けちゃだめ。
(大丈夫。あたしは、飽きられてなんかない)
呪文みたいに心の中で、唱える。
何度も、何度も。