背中に冷たいものが流れていく。
「そのTシャツ……、悠馬のだもんね?」
と、美人な彼女は眉をひそめた。
あぁ、知ってるんだ。
これが、悠馬くんのお気に入りだって。
これを着ているから、わかったってことなんだ?
悠馬くんのそばにいる子が、あたしだって。
「……返して」
美人な彼女は、あたしに近寄ってくる。
「返してよ、悠馬を!悠馬がいないと、私……!!」
「……っ」
逃げ出したい。
それくらい、怖い。
(でも、逃げたくない)
悠馬くんのことで、あたしは逃げたくない。
「私の何と引き換えてもいいからっ、欲しいものは何でもあげるから、だからっ……」
美人な彼女の目には涙がいっぱいに溜まっている。
「だから、悠馬だけは返して……っ、悠馬だけは、私からとらないでっ」
美人な彼女が、あたしにしがみつくように泣き出した。
「何あれ、修羅場?」
「えーっ、こんな所で?」
「マジ場所考えろっつーの」
通りすがりの高校生達の、冷たい言葉が聞こえる。
「あの、場所を変えませんか?」
あたしは彼女に提案した。
彼女は首を振って、
「……いい。もう、いいです」
と、呟いた。
それから、
「私にはそのTシャツ、貸してくれなかったの。大事だから着ないでって。……わかってた。悠馬が私のこと、もう好きじゃないって。飽きてるって」
と、涙を拭いた。
「悠馬くんが、飽きたって……」
そんな、悠馬くんだけがヒドイみたいな言い方……。
「返してほしいって言ったところで、返ってこないってわかってるんです。でも、あなたを見つけたら、気持ちがどうにもならなくて。本音をぶつけたくなったの」
「……」
美人な彼女は、
「あなたは、飽きられないようにね」
と、鼻をすすりながら言った。
「は?」
この世の終わりみたいな表情で、美人な彼女は去って行った。
(何だったの……!?)
今更ながらふつふつと。
怒りに似た感情がわいてくる。
(じゃあ、最初から放っておいてよ!!なんで声をかけてくるのよ!!なんで、なんで!!)
あの美人な彼女に一番腹が立つことは。
悠馬くんをまるでヒドイ人間だと言わんばかりの、自分だけが被害者だみたいな、そういう態度だった。
(……いい、忘れる)
悠馬くんの美人な元カノのことなんて、忘れたい。
……それに。
あたしだって、悪いところがないとは言えない。
彼女をあんなふうにしたのは、あたしにも責任があるもの。
「でも、悠馬くんは、あたしを選んでくれたんだから」
自分を励ますように、すっかり暗くなった空に向けて呟いた。
部屋に帰って来たら。
電気が点いていたから、
「悠馬くん?帰ってる?」
と、声をかけつつ玄関で靴を脱ぐ。
「おかえり」
玄関からは死角になっているキッチンから、ヒョコッと悠馬くんが顔をのぞかせた。
「あれ?バイトは?」
「それがさー……」
悠馬くんは持っていたらしい包丁を置いて、あたしのほうへ近寄ってきてくれた。
エプロン姿も様になる。
カッコいい。
「バイト先の先輩に、急にシフト変わってくれって言われてさー。だから、することないし、帰ってきたんだ」
ちょっと残念そうな悠馬くんに、
「でも、早く会えて嬉しい」
と伝えると、
「おっ、嬉しいー」
と、あたしを抱きしめた。
「!?悠馬くん、なんか、玉ねぎの匂いがする」
「あっ、玉ねぎ切ってたから。カレーライス作るつもりでさー。あはははっ、ごめん、ごめん」
そう言って離れかけた悠馬くんの体に、あたしはもう一度抱きついて、
「玉ねぎの匂いがしててもいいから、ぎゅうってして」
と言った。
「……何かあった?」
悠馬くんはあたしをぎゅうっと抱きしめてくれた。
(元カノに会ったよ)
心の中で話しかけた。
(すっごく美人な人だったよ?悠馬くん、あの人のことが好きだったんだよね?)
心の中が。
暗い色になっていく。
「鞠奈?」
「ね、このTシャツね」
と、あたしは自分の心の平和のために話を逸らす。
「南に羨ましがられたよ。可愛いねって」
悠馬くんは「良かったじゃん」と笑って、
「それ、鞠奈にあげよっか」
と、言った。
(え?)
「いいよ、借りるってことで大丈夫だから」
と、あたし。
なんとなく、イヤな予感。
「気に入ったなら鞠奈にあげる。オレには新しいの、あるから」
悠馬くんは私から離れて、部屋に置いてあった紙袋の中から真っ黒のTシャツを取り出した。
胸の所に白い線で、ギターのピックと、その上に寝転がるウサギのイラストが描いてある。
「今日、帰りに買ったんだ。これ、可愛くない?」
満面の笑みであたしに尋ねる悠馬くん。
「でも、これは?もう、いいの?」
と、あたしは自分が借りているTシャツを少し引っ張る。
「うーん、それね」
悠馬くんは迷う様子もなく、こう続けた。
「もう、いらないや。飽きたから」
悠馬くんは。
新しいものが好き。
使い慣れたものに対して、執着することはあまり無い。
そのことが。
あたしを不安にさせる。
あの美人な彼女の言葉を思い出す。
『あなたは、飽きられないようにね』
十二月の夕暮れの空を。
あたしはキッと睨んで。
大丈夫って心の中で唱える。
(大丈夫。悠馬くんはきっと、ずっとそばにいてくれるから)
『ベイビー・サンデー』は、今週末にまたあのライブハウスで演奏する。
固定ファンのみならず、どんどん人気が高まってきている。
その中には、悠馬くんの容姿に惹かれるファンも多い。
「鞠奈もはじめは一目惚れだもんね?」
南が珍しく、学校帰りにお茶しようと誘ってくれて。
あたし達はカフェにいる。
「そうだね、一目惚れってやつだね」
あたしはココアラテの入ったカップを両手で包んで、口元に持っていく。
「……何?元気ない?」
と、南が心配そうな表情になる。
「ううん、大丈夫」
あたしは強がった。
でも。
本当は。
怖くて仕方がなかった。
悠馬くんに一目惚れしたファンのことを。
もしも悠馬くんが気に入ってしまったら?
(あたしだって、そうだったもん)
そこまで考えて。
あたしは首を振って、考えたことをよそへ追い出す。
部屋に帰ると。
悠馬くんの姿がなかった。
(え?なんで?)
慌てて鞄の中を探って、スマートフォンを取り出す。
(何の連絡もきてない……)
なんで?
どこに行ったの?
バンドの練習かな?
でも、それだったら前もって言ってくれるはず。
バイト?
……そうなのかな。
でも、今朝はそんなこと言ってなかった。
スマートフォンの画面に、悠馬くんの連絡先。
電話をかけたい。
確かめたい。
「……」
でも。
電話するのはちょっと、重い?
(じゃあ、メッセージを送ろうかな……)
焦ってきて、指が震える。
悠馬くん、どこにいるの?
誰といるの?
その時。
……カチャカチャ、と玄関ドアの向こうで音がした。
続いて聞こえたのは、鍵を鍵穴に差し込む、ジャッという濁った音。
「悠馬くん?」
あたしは玄関までかけ寄る。
玄関ドアが開くと、悠馬くんが部屋に入って来た。
「悠馬くん!」
「わっ、ビックリした!どうしたの、鞠奈」
あたしは悠馬くんに抱きつき、
「……何でもないけど、心配してただけ!」
と、悠馬くんの胸のあたりに顔をうずめた。
「何でもないって感じじゃないよ?」
悠馬くんは荷物を持ったまま、あたしを抱きしめてくれた。
背中でビニール袋のガサガサっという音。
「買い物に行ってたんだ?」
「えっ?うん。なんかさー、急に甘いもの食べたくなってさ」
「……あたしも、食べたい……」
呟くように言うと、悠馬くんは「あはははっ」と笑って、
「ちゃんと鞠奈の分も買ってきたって」
と、あたしから離れた。
夜。
お風呂から上がって、レポートを仕上げていた。
もう期限ギリギリなのに。
最近あまり集中して取り組めていない。
周りの子から遅れている。
南にさえも「大丈夫?」と、心配されている。
しばらくすると、悠馬くんがお風呂から上がってきた。
あたしと同じボディーソープの香り。
「鞠奈、忙しい?」
そう言って、悠馬くんはあたしを後ろから抱きしめた。
「うーん、レポートしてるけど……」
「そっか……、それは忙しい、よな?」
言いつつ、悠馬くんはあたしの頭のてっぺんや、頬にキスをする。
「……うーん、忙しい、けどっ」
首筋にキスを落とされて、
「降参しますっ」
と、あたしはパソコンを閉じた。
悠馬くんは、
「あはははっ」
と、機嫌良く笑った。