秋とは名ばかりの、九月の夜。

あたし、澤原 鞠奈(さわはら まりな)は額に汗を感じながら、彼を見つめていた。



耳に響く重低音。

熱量のこもったギターの音色。

スポットライトの真ん中で。

彼は、歌っている。



「ね!?カッコよくない!?曲もいいっしょ!」



ライブハウスに誘ってくれた大学の友達、坂下 南(さかした みなみ)が、私だけに聞こえるように、だけど大声で言った。



「あの人、誰?」



あたしは彼を見つめたまま、南に尋ねる。



「ボーカルの子?……『ベイビー・サンデー』の藤平 悠馬(ふじひら ゆうま)くん。確か、D大の2回生って話だよ」

「えっ、じゃあ、あたし達と同じ学年じゃん」

「カッコいいよねぇ。どこ探してもいないわ、あのレベルは。もはやズルイ領域!」



南はそう言って、うっとり眺めている。

あたしも、
「うん」
と、うなずいた。



悠馬くんの切なく悲しい、だけど力強い歌声が。

あたしを別世界に連れて行ってくれるみたいに感じる。



薄暗いライブハウスから。

月が輝く夜空に連れ出してくれるみたいな。

足元の頼りなさを感じつつも、それが心地良い気持ち。



演奏が終わる。

わぁっと歓声があがって。

悠馬くん達、『ベイビー・サンデー』はステージからおりた。



「ね、悠馬くんと話す?」



南が私に耳打ちした。



「え?」

「鞠奈が気に入ったなら、協力するってこと!私、このバンド、『ベビ・サン』のドラマーの(たける)くんと親しいんだ!健くんに頼んであげるよ」



あたしは何度もうなずいた。



「いいの?南、ありがとう!感謝する!」

「いいよー、これくらい。いつも助けてもらってるもん。授業とか、レポートとか」



南が舌を出して、「てへへ」と笑う。

今のあたしには、世界一可愛い「てへへ」に見えた。






それから。

ライブハウスから出て、むんっとした暑い夜に包まれたあたし達は。

ライブハウスの隣。

『カクテル・バー レオン』と書かれたお店に入った。

入店したと思ったら南が手を振って、あるテーブルに近寄って行く。




「健くん!」
と、南が笑顔になる。



「南ちゃん!なんだ、来てくれてたんだ」
と言った、ふわふわパーマ頭の男性が、おそらく健くん。



その健くんはあたしをチラッと見て、
「誰?友達?」
と、聞いた。



「澤原 鞠奈ちゃん。大学の友達〜!可愛いでしょー?」
と南は言って、
「鞠奈!こっち来て!!」
と、あたしを手招きする。



「こんばんは」



あたしはとりあえず、そのテーブルに近寄る。



「こんばんはー!鞠奈ちゃんも飲もうよ。南ちゃんも飲むでしょ?」
と、健くんは南を自分の横の席に座らせる。



あたしはドキドキしながら、この丸いテーブルで飲んでいる二人の顔を見た。



(悠馬くんが、いない……)



なんで?

ここにいる二人は確かに『ベイビー・サンデー』のバンドメンバーなのに。



そう思っていたら。



「あれ、なんか女の子が増えてる」



背後から、声がした。

中低音の、心地良い声。





「悠馬ー、電話終わったの?」



健くんが声の主に尋ねる。

あたしはドキドキする心臓をおさえながら、ついに後ろを振り返った。



キリッとした奥二重の目。

形の良い眉毛。

鼻筋はスッと通っていて。

薄い唇が、魅力的。

ちょっと伸びた栗色の髪の毛が、可愛い。



まさしくステージ上で輝いていた、悠馬くんだった。





「鞠奈ちゃん、悠馬のことを見過ぎ!」
と、健くんが笑った。



「あ、ごめんなさい」



思わず顔が赤くなる。



(だって。本当にキレイなんだもん)



「鞠奈ちゃんっていうの?」
と、悠馬くんが言った。



その声で。

あたしの名前を呼んだ。

嬉しくて、全身に何か衝撃的なものが走った気がした。



「澤原 鞠奈です」

「オレは……」
と、悠馬くんが口を動かすと、
「オレ達『ベイビー・サンデー』のボーカル・ギターの、悠馬くんですっ!」
と、金髪に染めた人が横から言う。



「お前、もう酔ってんの?弘樹(ひろき)!」



悠馬くんは笑って、その金髪の弘樹くんの肩を軽く叩いた。

それから私に、
「ごめんな。コイツ、ベースの弘樹。酒に弱いの」
と、言った。



その顔が。

くしゃっと笑っていて。

可愛かった。




「鞠奈ちゃん達はもう、何か頼んだ?」



悠馬くんが席に着いて。

あたしを手招きして、隣に座らせた。



「あ、まだですけど……」



(あんまりお酒、得意じゃないんだよね……)



しかし、ここはカクテル・バー。



「もしかして、お酒に弱い?」



悠馬くんはそう言って、メニュー表を慣れた手つきで手に取り、
「ここらへんのお酒は、そんなに強くないよ」
と、教えてくれた。



「じゃあ、これにしようかな」



選んだお酒が運ばれてきた時。

悠馬くんは、
「飲めそう?」
と聞いてくれて、
「無理だったら残しちゃいな。オレが飲んであげる」
と、笑った。



その笑顔に。

その言葉に。

なんだかふわふわした気持ちになる。



酔っている弘樹くんが、
「鞠奈ちゃんも、南ちゃんも可愛いよねー」
と、突然近寄ってきた。



(あ。やだな)
って、咄嗟(とっさ)に思った。



弘樹くんがあたしと南の肩に触れる。



健くんは笑って見ていたけれど。

悠馬くんは、
「はい、飲み過ぎー。離れろ、酔っ払い」
と、弘樹くんをあたし達から離してくれた。



「悠馬くん、優しい〜」
と、南が本当にときめいた顔をしてみせたら、そこで健くんが慌てて、
「南ちゃん、オレだって優しいよ?」
と、言った。



そんなふたりを放っておいて悠馬くんは、
「大丈夫?イヤだったよな、ごめんな」
と、あたしを気遣ってくれた。



(あぁ、ダメだ。好きになっちゃうよ)



ただ、カッコいいって。

いいな、この人って。

思っていただけなのに。



(知れば知るほど、好きになっていっちゃう)



テーブルに置いた、悠馬くんの手。

細いけれど、骨張ってる。

爪が短くて、それがまた、あたしの悠馬くんへの印象を良くした。



(この手に触れたい)



強く思った。



触れても、許してもらえる女の子になりたい。








時間は過ぎて。

健くんと南は、『ベイビー・サンデー』の話をしている。



「『ベビ・サン』はさー、オレが作ったようなもんなんだよー。バンドがやりたい!って思ってさー、悠馬を誘ってさー……」



だんだん自慢話と化している健くんに、南は辛抱強くうなずいている。



「健、そのへんにしとけよ。お前も酔ってきてるぞ」



悠馬くんが南に、
「ごめんね」
と、小さな声で言う。



他の二人に「しっかりしろよ」と声をかけつつ、悠馬くんはあたし達への気配りも忘れない。



(もう、認めよう)



あたしは、悠馬くんが好きになっちゃったんだ。

今夜、初めて見て。

初めて話しただけなんだけど。



(好きにならずにはいられない)



優しくて。

紳士的。

頼もしいし。

何より、カッコいい。



(恋って、こんなに急激に始まるんだな)



過去に恋に落ちた瞬間を思い出そうとしたけれど、それは思い出せなかった。










『カクテル・バー レオン』を出て。

時計を見ると、23時になる頃。

健くんと南ちゃんは、ニコニコ笑って「じゃあね」と、ふたりで夜の街に消えて行った。

あたしは帰ろうと思っていたけれど。



「もう少し二人で話そうよ、鞠奈ちゃん」
と、他の誰でもない悠馬くんが言った。







夜の公園。

リンリンと、秋の虫の声。

ベンチに座って、あたしの恋心は、さっきから勝手にどんどん膨らんでいる。



「鞠奈ちゃんって、普段何してる人?」



ベンチの隣。

悠馬くんが、あたしを見ている。



「だ、大学生です。B大学の、2回生。20歳です」

「なんだ、タメじゃん」

「……タメですね」



悠馬くんは「あはっ」と笑って、
「鞠奈ちゃん、緊張してる?」
と、私の顔をのぞきこんだ。



その時。

肩と肩が触れて。

私の体がビクッと震えた。

顔が真っ赤になるのがわかる。



(あぁ、冷静になって。お願い、あたし)



そっと悠馬くんのほうを見た。

触れてしまいそうな距離に。

悠馬くんの唇を見つけた。