……B駅の裏側。
小さなバッティングセンターだった。
「あ、あの、あたし、バッティングとかしたことなくて!」
バットを片手にビュンビュンやって来るボールに怯えながら、あたしは悠馬くんに訴えた。
「前、見て!オレが教えてあげる」
「で、でも!……わっ!」
「こういうのって、リズムだから」
「嘘っ!やだっ!怖いっ」
悠馬くんは、
「はいっ、バットをしっかり持って!」
と、ニコニコして楽しそう。
「ボールが来るよ、はいっ、いち、にー、さんっ!」
悠馬くんのかけ声に合わせて、めちゃくちゃなフォームでバットを振ってみる。
空振り。
「鞠奈ちゃん、さんっのところで振ってみて。多分一拍くらい遅れてるから」
(そんなこと言われたってー!)
「はいっ、来るよー!いち、にー、さんっ!」
カキンっと軽い音がした。
「え、あれ?」
ボールをほんの少しだけバットの先に当てることが叶った。
「当たった!当たりました!!」
「うまい、うまい!」
はしゃぐあたしに合わせて、悠馬くんも拍手をしてくれた。
バッティングセンターを出て。
悠馬くんは、
「どうだった?オレの行きたいところに連れて行かれた感想は?」
と、また意地悪な表情をした。
「……楽しかったです!でも、今度からは、きちんと行きたい場所は伝えるべきだと、思い知りました」
日頃の運動不足がたたって、あたしはゼーハーと言っている。
そんなあたしを見て悠馬くんが、
「そうだね、それがいいね」
と、笑った。
そのあと、あたしの部屋の前まで悠馬くんは送ってくれた。
「楽しかったです」
「オレも楽しかった」
悠馬くんはあたしの手をぎゅっと握った。
「鞠奈ちゃん」
「?」
「ぎゅっとしてもいい?」
え?
(それって……)
恋人とは『ちゃんとした』ってこと?
あたしを選んでくれたってこと?
「……あの、悠馬く……」
言いかけた言葉を遮るように。
悠馬くんは私を抱きしめた。
ぎゅっと、抱きしめてくれた。
(……あったかい)
あたしも悠馬くんの背中に腕を回して。
そっと抱きしめ返した。
悠馬くんがあたしの耳元で、
「好きだよ、鞠奈ちゃん」
と、囁いた。
それだけで。
足元に、季節問わず、様々な花が咲き乱れたみたいな。
優しい木漏れ日の中にいるみたいな。
浮かれて。
安心して。
だけど切ない。
恋心が、爆発した。
恋人とのことは、聞かなかった。
だって。
悠馬くんを。
信じているから。
暗い部屋の中で。
悠馬くんと向き合って。
たくさんのキスをした。
たくさんの好きを伝えた。
手を重ねて。
ぎゅっと握る。
この手を初めて見た時。
この手に触れてもいい女の子になりたいって、強く思ったことを思い出す。
あたし、なれたのかな。
そんな女の子に。
(そうだったら、いいな)
それから、数日後。
少しの荷物と。
大切なギターを持って。
悠馬くんが、あたしの部屋の前に立っていた。
あぁ、始まるんだ。
そう思った。
あたしと、悠馬くんの。
世界の始まりを、確かに感じた。
それから。
あたしの部屋の中には。
これまであった荷物に加えて。
悠馬くんの荷物が少しずつ増えていった。
「ねぇー、このTシャツ可愛いね。借りていい?」
あたしは悠馬くんの淡いブルーのTシャツを手に取り、本人に見せた。
これは悠馬くんのお気に入りのTシャツで、よく着ているのを知っている。
「いいよ。でも、鞠奈には大きくない?」
朝ごはんのバタートーストをかじりつつ、悠馬くんは返事をくれた。
「大丈夫!ほら、見て?可愛くない?」
あたしが着たら明らかに大きいTシャツだけど、黒いロングカーディガンと細身の黒いパンツと合わせて、悠馬くんに見えるようにくるくる回ってみせる。
「可愛い、可愛い」
悠馬くんが目を細める。
嬉しくなって、
「じゃ、借ります!」
と宣言すると、悠馬くんが手招きした。
そばまで行くと、悠馬くんがあたしに小さくキスをした。
ふんわり、バターの香りのするキス。
「!?何、何のキス!?」
思わず赤面して尋ねると、
「うーん、可愛いから?」
と、悠馬くんは笑った。
身支度が終わると。
あたし達は部屋を出た。
「今日はあたし、ちょっと遅くなるかも」
「うん。わかった。オレもバイトあるから」
マンションの下で「じゃっ!」と、あたし達はそれぞれの大学へと向かった。
午後になって。
大学の食堂。
以前、南にノートを貸したお礼に、食堂のおやつメニューであるソフトクリームをおごってもらっている。
「今日のTシャツ、可愛いね」
南はソフトクリームを頬張りつつ、Tシャツを指差す。
「可愛いでしょ。借りたんだ」
ちょっと自慢げに言ってみる。
「いいなぁ〜」
と、南はため息を吐いて、
「彼氏の服を借りるとかさー、ちょっと憧れじゃん?しかもあの、悠馬くんのだよ?」
と、あたしをじっと見る。
「うまくいってるみたいで、安心したよ」
と、南はニコニコしてくれる。
「ありがとう」
と返事をして、あたしは南のことを考えた。
あれ以来、南は健くんの話をしなくなった。
『ベイビー・サンデー』のライブにだって来ていない。
(『先』を見ているのかな)
健くんの『先』。
(そこに南の、運命の恋があればいいのに)
「ね、先輩が教育実習の時の話をしてくれたけれど、かなり忙しいみたいだよ」
ソフトクリームを食べ終えて、南は鞄からスマートフォンを取り出しながら言う。
「母校の高校、懐かしんでる暇もないって」
「わぁー……、あたし、乗り切れるかな」
不安になってきた。
「鞠奈が乗り切れなかったら、私、本当にやばいから。あはははっ」
「南はねー、授業中に寝過ぎなんだって。起きてたら絶対に優秀な人なのに」
あたしがそう言うと南は、
「起きてたらって言われても、眠いんだよぉ」
と、機嫌良く笑った。
大学の授業が終わって家まで帰る頃、空は薄暗くなっていた。
駅の改札を出た時、
「あの、すみません」
と、肩をポンポンされる。
突然だったから驚いて、勢いよく振り返ると、そこにはサラサラストレートロングヘアーの美人がいた。
「?あの、あたしに何か?」
こんな美人、あたしは知らない。
美人な彼女は、
「あなたでしょ?」
と、あたしを指差した。
!?
美人な彼女は口角を上げているものの、目はかなり怒っている。
「あなただよね?」
と、もう一度確認するように尋ねてくる。
「あの、何のことかわからないんですけれど」
とりあえず、彼女から一歩離れた。
美人な彼女はあたしを上から下へと、舐めるように見る。
「わかってるでしょ?悠馬のことだよ」
突然悠馬くんの名前が彼女の口から出てきてまた驚いたけれど、でも、それであたしはハッとした。
(悠馬くんの、元カノ……?)
「悠馬のこと、とったの、あなただよね?」
「……」
「あたしから、奪ったの、あなたでしょう?」
背中に冷たいものが流れていく。
「そのTシャツ……、悠馬のだもんね?」
と、美人な彼女は眉をひそめた。
あぁ、知ってるんだ。
これが、悠馬くんのお気に入りだって。
これを着ているから、わかったってことなんだ?
悠馬くんのそばにいる子が、あたしだって。
「……返して」
美人な彼女は、あたしに近寄ってくる。
「返してよ、悠馬を!悠馬がいないと、私……!!」
「……っ」
逃げ出したい。
それくらい、怖い。
(でも、逃げたくない)
悠馬くんのことで、あたしは逃げたくない。
「私の何と引き換えてもいいからっ、欲しいものは何でもあげるから、だからっ……」
美人な彼女の目には涙がいっぱいに溜まっている。
「だから、悠馬だけは返して……っ、悠馬だけは、私からとらないでっ」
美人な彼女が、あたしにしがみつくように泣き出した。
「何あれ、修羅場?」
「えーっ、こんな所で?」
「マジ場所考えろっつーの」
通りすがりの高校生達の、冷たい言葉が聞こえる。