「こちらが自宅になります」
健が指した先は誰もが知っている六本木のタワーだった。
「すごーい」
全員口を開いたまま見上げる。
「じゃあ、いこうか」
レジデント用のエレベーターで12階まで上がり、マンションの一室のドアを開ける。
「ここが自宅です。どうぞ」
大理石の玄関で靴を脱いでスリッパに履き替え部屋に入っていく。
「ここが自分の部屋兼仕事部屋」
ドアを開けると12畳程度の部屋と窓から東京タワーが見える。
「すごい! 広い!」
美園が言った。
「たくさん本があるね。アプリの作り方、AI入門、えっとジャバスクリプト?」
苺が壁一面に並んだ本を見て言った。
「だいたいが仕事の本。ジャバスクリプトはプログラミング言語のことだよ」
みらいは本棚から『ガラスの仮面』を取り出してパラパラとめくって本棚に戻した。
「東京タワーも見える」
伊香保が窓の外の景色を見渡している。
「リビングからはスカイツリーも見えるよ」
健は自室を出て、リビングへ進んだ。リビングには大きなテーブルと椅子があり、テーブルの上にはアフタヌーンティーセットが置いてある。
「親父が少し遅くなるみたいなんだ。だから、ちょっとお茶して待とうか。どうぞ座って」
健を囲んでそれぞれが椅子に腰をかけた。
「紅茶でいいかな?」
健がキッチンからお盆にティーポットをのせて運んできた。その後ろから一人の女性が同じようにお盆を持ってついてくる。
「あれ? おばあちゃん、じゃないよね」
伊香保が小声でつぶやく。
「こちらは家の手伝いをしてくれてる、ハルさん」
「どうも、ハルです」
ハルはお盆からティーポットをテーブルに置くとそそくさと奥に行ってしまった。
「週二回家にきて掃除とか洗濯とか料理とかを助けてもらってるんだ。親父がほとんど家事をやらないから、俺とハルさんでやってる」
「早く言ってよ。健が忙しい時は、私が週7で手伝ってあげるのに。学校に持っていくお弁当も作ってあげるからね」
伊香保が健にウインクをした。
「わたし、お菓子くらいなら作ってあげるよ」
苺も負けじとアピールをする。
「私は、これから家事もできるようになる」
と美園が小声で言った。
「みんなありがとう。でも、できるだけ自分のことは自分でやりたいんだよね。ところで、親父遅いな」
壁にかかった時計をみると約束の時間から一時間が過ぎている。突然ドアが開いた音がすると、ドタドタと足音が聞こえた。
「ごめん、遅くなっちゃって。父の景行(けいこう)です。よろしく。あっ、みんな話題のアプリやってる?」
「いきなり仕事の話かよ」
ジーンズにTシャツの四十代の男性が汗を拭きながらリビングに入ってきた。
「今、女子高生向けのコンテンツ作ってるからさぁ。今日もその会議だったんだよ。おっ、ちょうどいい、話聞かせてくれよ」
「あとで話を聞くから、とりあえず、みんなのことを紹介させてくれよ」
「おぉ、そうだな。とりあえず、名前くらいは聞いとかないとな」
景行はリビングに座っている女性を左から順に見ていき、みらいで視線が止まった。
「ご無沙汰しています」
「見た事あると思ったら、みらいちゃんじゃないか。大きくなったねぇ。みらいちゃんが健のお嫁さんになってくれたら、お父さんは嬉しいよ。いや、でも娘と息子がくっつくみたいで、それはそれで複雑だなぁ」
景行は腕を組んで頭を傾げる。
「親父、他の子もいるんだぞ」
「そうだったな。失礼、失礼」
健は景行を一瞥してから、いつもの笑顔を女子たちに向けた。
「じゃあ、紹介していくよ」
「こちらは小山苺さん」
「はじめまして、小山苺です」
ぺこりと頭を下げた。
「いやぁ、可愛らしい子じゃないか。たけると同い年か?」
「そうだよ」
「小学生じゃ、ないよな?」
「し、小学生……」
苺は渋い顔をする。
「同級生だよ。ごめんな、苺。親父なりの冗談なんだ。気にしないで」
「いや、可愛らしいってことだよ。なぁ、健。かわいいよな?」
「あぁ、かわいいよ。じゃあ、次いくぞ」
「こちらは、浦和美園さん」
「おぉ、おっきいねぇ。バレー部?」
美園は席を立ち上がって頭を下げた。
「はい、バレーやってます」
「あっ、やっぱり。なんかすごいスパイク打ちそうだもん。でも、どこかでみたような。こないだテレビに出てなかったか? 美少女すぎるバレー部員みたいな感じで」
「あっ、はい。取材していただきました」
「いやぁ、いいね。生で見るとより美少女だね。こんどはユニフォームで来てよ」
「は、はい……」
美園は困ったように俯く。
「親父、いやらしい目でみてないか?」
「ぜんぜん、全然見てないよ。見てない」
景行は何度も首を振る。
「そして、こちらが赤城伊香保さん」
「おっ、べっぴんさんだね。ちょっと隣で酒作ってくれよ」
「お父さん、熱燗でいい?」
「伊香保も乗らなくていいから」
伊香保はニコニコとしている。
「俺の人格が疑われるから、それくらいにしてくれよ」
「あぁ、すまんすまん。健は俺の息子だが、性格は母さん似だから心配するな。ちなみにもう離婚しちまってるけどな」
「こんな親父についていけなくなったんだ。なんとなくわかるだろ?」
「俺は今でも愛しているけどな」
「母さんは迷惑がっているからな」
景行は健をこづいた。
「ところで、みんなはこいつのどこに惚れたんだ?」
景行は女子達を見渡す。
「わ、わたし、たけるの雰囲気が好きです。一緒にいて安心するっていうか。もともと男性が苦手だったんですけど、たけるならちゃんと話せるし、一緒にいたいなぁって思うんです」
美園が先陣を切って言った。
「おぉ、そうか。健の雰囲気か。一緒にいて安心するっていうのは大事だよな」
「わたしはたけるくんと一緒にいて楽しいから好きです。一緒にポニーの馬車乗ったり、水族館行ったりしたんですけど、すごく楽しかったんです。だからたけるくんとこれからもずっと一緒にいたいなぁって思ってます」
苺が緊張しているのか、たどたどしく景行に伝えた。
「なるほど。楽しいってのは大事だよな。人生楽しく過ごしたいもんな」
「あたしは健に一目惚れっていうか、直感でいいなって思いました。あたしのつくったご飯を食べているのを見た時、幸せだなぁって感じたんです」
伊香保がゆっくりと景行に伝える。
「ほほう、直感って案外正しいことが多いからなぁ。一緒に食事をして幸せと感じられる間柄ってのはやっぱり良いもんだよな」
「わたしは、たけちゃんの全部を好きです」
みらいが言った。
「ずるい」
伊香保が小声で呟く。
「たけちゃんの良いところ、悪いところ、全て知っています。それを理解した上で、たけちゃんのことが好きです」
「みらいちゃんはこいつとつきあいが長いからねぇ。全部知ってくれてるよな。その上で好きだなんて嬉しいじゃないか」
景行はお茶を一口啜った。
「みんな、健の事を愛してくれてありがとう。こんな立派な息子を持った俺は鼻が高いぜ」
景行はすこし照れ臭そう笑った。
「じゃあ、ちょっと別室で一人ずつ話してもいいかな?」
景行は健の顔を見て言った。
「あぁ、変なことするなよ?」
「わかってるって。こう見えて、社長をやってるんだ。コンプライアンスは守る」
景行は一人一人自室に誘い、十五分程度話をすると次の人を呼んでいった。
「よし、だいたいわかった。詳細はあとでメールしておく」
「バチェラー、そろそろお時間です」
バンザイ先生がリビングに現れた。
「あれ、あんたは」
「バンザイ先生。このバチェラー部の顧問」
「やっぱり、バンザイじゃないか」
「ご無沙汰しています」
「二人は知り合いなの?」
「大学の先輩、後輩の中です」
「お前が顧問やってるってことは、そういうことか。なるほどな」
「親父、どういうことだよ」
「それはバンザイ本人から聞きな」
「えぇ、いずれは話をしなければいけないと思っておりました。しかし、お話をするのは今ではありません。その時が来ましたら、私からお伝えさせていただきます」
「わかりました」
健はしぶしぶ頷いた。
「それでは、今日はここまでということになります。明日、健さんのお母さまとお会いすることになります」
「今日は来てくれてありがとう」
健は玄関先で女子たちを見送った。
「みんな素敵な女の子じゃないか。あの中から選べるのか?」
景行が言った。
「正直、迷ってる」
「だよな。俺の評価も参考にしてくれ」
「ありがとう」
「じゃあ、俺は仕事に戻るから」
景行は残ったお茶を飲み干すとドタドタと家を出て行った。
数時間後、メールで「俺の評価」という題名のファイルが送られてきた。
小山苺
容姿:4.5
丸い顔、童顔、小柄が好きなら一目惚れしてもおかしくないレベルの美少女。
家事スキル:3.5
お菓子作りのみ。他のスキルは教えればできるようになるだろう。
家庭環境:4.5
父親はお前もよく知っているあの人。家庭は普通のようだ。
知力:3
良くも悪くもなく、普通。天然。
総合評価:4
健の事を大好きな事は伝わった。彼女にとって一世一代の大恋愛中といったところだ。童顔の見た目に加え、性格はやや幼く可愛らしい。それが好きなら選べば良い。素直な性格のため、教えたらなんでもできるようになるだろう。顔と雰囲気で選んで後は教育するってやり方もありだ。最初は苦労すると思うが、愛があれば大丈夫だ。
浦和美園
容姿:4
スポーツ系美少女。長身スレンダーが好きなら最高だ。
家事スキル:2
体力はあるが、家事や生活のスキルは身に付けていない。できないのはやっていないからだ。普通の高校生ならそんなものだろう。
家庭環境:4
普通に暖かい家庭のようだ。実際に見て確かめてくると良い。
知力:3.5
頭は良いが、スポーツ脳。根性論の部分がある。しかし、この世の中は根性があるやつが成功することが多い。
総合評価:4
真剣に健とバチェラーに向き合っている。健も彼女のひたむきさに惹かれているのではないか? もし、美園さんを選ぶなら、常に魅力的な男でいるんだ。そうすれば、ずっと好きでいてくれるはずだ。
赤城伊香保
容姿:3.5
美人なお姉さんだ。十年後、二十年後に改めて美人さに気づくだろう。
家事スキル:4.5
家事全般はできるし、人付き合いも含めて、女性として高いスキルを持っている。
家庭環境:2.5
あまり恵まれてはいないが、それを糧にして強く生きている。彼女が常に笑顔なのは、家族の影響のようだ。
知力:2.5
普通。決して頭は良くないが、接客や人付き合いをするにはこれくらいがちょうどいい。
総合評価:3.5
健はまだ伊香保さんの魅力に十分気付いていないだろう。伊香保さんの家に行って、きちんと話を聞いてくるんだな。それと、女の尻に敷かれるのも悪くないぞ?
湊みらい
容姿:4.5
安定の可愛さ。
家事スキル:2
みらいちゃんに家事や家庭的なスキルを求めてはダメだ。
家庭環境:4.5
みなとカバンの令嬢。
知力:4.5
頭は良く、年上と上手にやるスキルを身につけている。
総合評価:5
一緒に過ごした時間は誰よりも長く深い。お互いの良いところ、悪いところは全て知っているだろう。あとは、みらいちゃんの全てを愛せる覚悟があるかないかだ。なんだかんだ言っても、俺はみらいちゃん推しだ。
総評
四人ともそれぞれの魅力を持ち合わせていて、健の生涯の伴侶としてふさわしい。あとは、誰がタイプかどうか、誰との絆が一番強いかだ。こればかりは、本人にしかわからない。検討を祈る。
女性達を乗せたバスがとある料亭の前で止まった。
バスを降りると健が立っていた。
「母を紹介します」
和服を着た品のいい女性が店から出てきた。
「はじめまして。健の母です」
「はじめまして」
美園が最初に答え、他の四人も頭を下げた。
「詳しいお話は、中でしましょう。どうぞ、こちらへ」
案内されるまま、中へ進んだ。麻布の一等地に立つ料亭に足を踏み入れると、都会の喧騒が嘘のような静寂さに包まれていた。
「こちらへどうぞ」
和室の個室に案内されると六席が用意されていて、窓からは和風の小庭が見える。
「健の母です。こちらで女将をしております」
正座をして頭を下げると、皆も頭を下げた。
「堅苦しいのはこれくらいにして、せっかくですので料理を楽しんでください。足も崩していただいて構いませんので」
スッと立ち上がり、戻ってくるときにはお盆に料理を乗せていた。
「どうぞ」
色とりどりの季節を模した料理が目の前に運ばれてくる。
「いただきます」
最初に手をつけたのは、みらいだった。それを見て、美園と伊香保も料理に口をつける。苺は周りをキョロキョロしながら、恐る恐る箸を持った。
「いかがですか?」
「美味しいです」
みらいが答え、全員が頷く。
「それはよかった」
「あの、たけるは小さい時どんな子だったんですか?」
美園が尋ねた。
「美園さん、きっと聞かれると思ってアルバムを用意してあるの。見せていいかしら?」
「いいよ」
健が答えると、テーブルの上に大きなアルバムをのせ、一ページずつ開いていく。
「あれ? これって」
「そう、みらいちゃん。健はずっとみらいちゃんと一緒にいたの。二人とも可愛いでしょう」
みらいとタケルが手を繋いで幼稚園の門で写真を撮っている。ページをめくっても、みらいと一緒の写真ばかりが出てくる。みらいの登場が少なくなってくるのは、小学生に上がってから。それでも、一ページに一回は一緒に写っている写真があった。
「みなさんは、このバチェラーに参加するにあたって、結婚も考えているのかしら?」
「はい」
最初に返事をしたのはみらいだった。
「みらいちゃんは健の事をよく知ってるものね」
みらいは微笑む。
「私はお付き合いしたあとに結婚があると思うんです。私たち、まだ高校生だし。でも、いまは、たけるの事を真剣に考えています」
美園が言葉を選びながら、ゆっくりと言った。
「美園さん、ありがとう。健との事を真剣に考えてくれて」
「おかあさま、あたしが責任を持って、たけるの事を幸せにします」
「伊香保ちゃん、ありがとう」
「たけるくんのことはわたしが一番大好きです」
「苺ちゃん、ありがとう」
たけるの母は四人を見つめて微笑む。
「健がこんなに愛されているのを見ることができて、誇らしい気持ちです。このバチェラーに参加するって大変よね。でも、なにものにも代え難い貴重な経験だと思うの。だから、最後までやり抜いて欲しい」
和やかな雰囲気で食事は終わった。
「きょうはありがとうございました」
四人は揃って頭を下げると、料亭から出て行った。
料亭には健と母が残っていた。
「かあさん、お疲れ様」
「たけるもお疲れ様」
「かあさんは誰が良いと思った?」
「全員素敵よ。苺ちゃんは可愛いと思うかもしれないけど、健とは精神的な年齢差があると思う。お付き合いするだけなら良いけれど、少し幼いわね。美園ちゃんはお行儀もいいし、親御さんがしっかりしていると思う。素直そうだしあなたにはちょうどいいのじゃないかしら。伊香保ちゃんとお付き合いするのも悪くないと思う。きっと幸せにしてくれる。でも、彼女の包容力に甘えていたらダメになるから、それだけは気をつけなさい。みらいちゃんならお母さんは安心。娘のような存在だもの」
「なるほど。さすがかあさん」
「だてに女将やってないわよ。たくさんのお客様をみているから、それなりに観察眼はあるつもりよ」
「親父もかあさんもみらい推しなんだな。もし、みらいのことを選ばなかったらどう思う?」
「ご縁がなかった。そう思うだけ。みらいちゃんで悩んでいるの?」
「みらいのことはやっぱり好きだ。でも、まだ決めきれない」
「そうね。もし、自分の気持ちに自信がなければ、きちんと話をしてみるのね」
「わかった。もう一回向き合ってくる」
「みらいちゃんには、バチェラーが終わったら遊びに来るように伝えておいて。二人だけでたくさんお話しましょうって」
「あぁ」
「ちゃんと伝えるのよ」
「わかったって」
「これからお会いする親御さんには失礼のないようにね」
「わかってる」
自宅訪問初日は伊香保の実家だった。
電車を乗り継ぎ渋川で降りると、リムジンの前にバンザイ先生が立っていた。
「バチェラー、ここからは車で向かいましょう」
リムジンに乗り込むと佐久間先生がカメラを構える。
「伊香保さんのことはどう思っていますか?」
「伊香保さんはいつも笑顔で、年上だからなのか包容力というか安心感のような雰囲気を感じます。伊香保さんの家はきっと楽しい家庭なんじゃないかと想像しています」
小一時間で温泉街に着いた。リムジンを降りると大きな階段の前で伊香保が待っていた。
「ようこそ、我が町。伊香保温泉へ」
車から出てきた健をハグして出迎える。
「家に行くまえに少しだけ、この街を案内するね」
伊香保は健の手を取り、石段をゆっくり登る。
「この街は昔懐かしい感じの温泉街。射的があったり、神社があったり、湖もあるの」
石段の左右にはお土産屋が立ち並ぶ。
「あれ? 伊香保ちゃんじゃない。帰ってきてるの?」
温泉まんじゅう屋の店員が伊香保に声をかけた。
「今川おばちゃん、久しぶりー」
伊香保は手を振ってこたえる。
「あんた、帰ってきてるなら言ってよ。それに、素敵な彼氏じゃない」
まんじゅう屋の今川は伊香保を肘で小突く。
「やだー。まだ、彼氏じゃないの。まだ」
伊香保は健にウインクをした。
「せっかくだから、おまんじゅう食べてきなさいよ。ほら、座って」
店先のベンチに腰掛けると、蒸し立ての湯の花まんじゅうとお茶を渡された。健と伊香保はまんじゅうを一口で頬張った。
「おいしい」
「でしょ? 実は出会った時に食べてもらったおまんじゅうはこのお店のだったんだ」
「伊香保ちゃん。これ、お土産に持って行って」
店先にあった湯の花まんじゅうの箱を一つ取り、伊香保に押し付けるように手渡した。
「いいの?」
「いいのよ。こんな素敵な男の子を見たの久しぶりなんだから。伊香保ちゃん、頑張るのよ」
「ありがとう」
伊香保は「後で一緒に食べようね」と言うと、渡されたまんじゅうをカバンにしまった。
お土産屋さんや射的場、旅館、通り過ぎるたびに店員が店から顔を出して伊香保に声をかけてきた。
伊香保は笑顔でそれに応えて立ち話をしては、階段を少しずつ登っていく。
「あたしね、この街が好き」
「良い街だよね」
健の言葉に伊香保は頷く。
「今はプライム高校の女子寮に住んでるんだけど、中学生まではこの街で暮らしてたの。あたしが中学校二年生の時にこの街を盛り上げるためにフォトコンテストが開催されて、この街のイメージ少女として選ばれたの。ほら、あたしみたいな美少女ってバエルじゃない?」
伊香保は黙っていた健を小突く。
「う、うん。そうだね」
「あたしはこの街が大好きだったから、フォトコンテストを盛り上げようと思って参加した。夏は浴衣を着て、冬は雪景色の中を歩いて写真を撮ってもらった。温泉に入っている写真もあったよ。まだ見れるかもしれない。あたしのセクシーショットが見れるからHPをみてみてね。SNSとか街のHPにたくさん写真をアップしたの。そうしたら、この街も注目されるようになってテレビとか雑誌の取材とかも増えて、少しずつ元気になってきた」
伊香保と健はゆっくりと石段を登っていく。
「でもね、街のみんなもお母さんも一度街を出なさいって言うの。広い世界に出ていろんなものを見てきてから戻ってこいって。それが街の繁栄になるからって言われて、東京に出てきたの。プライム高校って私立だからそれなりに学費が高いじゃない? 実はそれも商店街のみんなが奨学金って言って少しずつお金を出してくれている。ちなみに、この赤城伊香保っていう名前は芸名。だって、こんな群馬の地名をくっつけただけの名前なんてありえないでしょ? 本名は福田真理子。超、普通の名前」
伊香保は笑った。
「もう一つ本当のことを言うと、この街のPRのためにバチェラーに出たっていうのもある。でもね、勘違いしてほしくないんだけど、健のこと大好き。だから、バチェラーを続けてる」
「大丈夫。それはわかってる」
「さすが健。ありがとう」
「理由はどうであれ、伊香保がバチェラーに参加してくれて嬉しかった。そうじゃなかったら、出会えなかったんだから」
「やだ……。嬉しい。ちょっと涙出てきちゃった」
伊香保はバッグからハンカチを取り出して涙を拭った。
「家に行く前に、一箇所だけ行きたいところがあるの。付き合ってくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、いこう」
二人が辿り着いたのは、ロープウェイ乗り場だった。
「これに乗って上に行くよ」
チケットを購入し、ゴンドラに乗り込む。
「そういえば、伊香保と一緒に観覧車のったよね」
「そうだね。遊園地に行ったのが、すっごく昔みたいに感じる。あの時、ヒカリとミキが観覧車を揺らしてさ。停まっちゃって係員さんにすっごい怒られてたよね」
「そうそう」
「健と初めて二人だけになって緊張しててさ。いまも少し緊張しているんだけどね。ほら、手汗かいてるし」
伊香保は健の手を握る。
「ほんとだ、手が湿ってる」
「ごめんごめん」
伊香保はハンカチで手を拭って、手を握り直した。
「健の手を握ってると、安心する。ドキドキもするんだけど、守られている感じがして、ずっと握っていたくなるの」
二人は手を握ってじっとみつめ合う。
「あっ、もうついちゃったね」
あっという間にロープウェイは頂上に到着し、二人はロープウェイを降りた。
「もう少し二人でいたかったな」
伊香保がぼやく。
「また、止まればよかった?」
「もう、止まると怖くなっちゃうから嫌」
二人は顔を見合わせて笑った。
ロープウェイ乗り場から少し歩くと展望台に出た。展望台からは温泉街や渋川駅まで一望できる。
「うわぁ、すごい絶景だね」
「これを見せたかったの。あたしの大好きな街。昔は華やかだったけど、だいぶ廃れてきちゃった。でもいいところもたくさんあるし、輝きも戻ってきている。それに、知れば知るほど歴史は深くてドラマがある。噛めば噛むほど味がでるスルメみたいな感じ。あたしも知れば知るほど良い女」
伊香保は健を見てウインクをした。
「じゃあ、家に行こうか」
二人はロープウェイで街に降りて、石段を下っていき木造の定食屋の前で足を止めた。
「ここがあたしの家」
のれんには『あかぎ食堂』と書かれていて、ドアに本日貸し切りと張り紙が貼られている。
「ただいまー」
伊香保はドアを開けた。
「あら、かっこいい」
伊香保を少し小さくして老けさせたような女性が出てきた。
「かっこいいでしょ。こちらが山戸健君。そして、こちらがあたしのお母さん」
「山戸健です。本日はよろしくお願いします」
健が頭を下げる。
「いいのよ、そんなに硬くならなくて」
「そう、楽にしててね」
健を店の中へ入れて、伊香保は店の戸を閉めた。
「あの、これ。つまらないものですが」
健は東京駅で買ってきた銘菓『ひよこ』を渡した。
「あーら、気を遣ってもらっちゃって。あとで、みんなで食べましょうね」
「ねぇ、お父さんにも挨拶していい?」
「お父さんも喜ぶわよ。いってらっしゃい」
「健、こっち」
伊香保は店の奥に進みドアを開け、急な階段を登っていき、健は後ろについていく。
階段を上がり少しだけ廊下を進み伊香保が襖を開けると、六畳程度の和室だった。
「健、こっち」
和室に入ると仏壇がある。
「お父さん、こちらが健。かっこいいでしょ?」
仏壇に飾ってある遺影を前に伊香保は言った。
「山戸健です。今回、バチェラーに参加して、伊香保さんと一緒に旅を続けています。本日は、よろしくお願いします」
健は仏壇を前に手を合わせた。
「小学生の頃に亡くなったんだ。肝臓癌の多発転移。楽しいお父さんだった。お母さんのことが大好きでね、すごく仲が良かった。夜はお店閉めてから二人で晩酌してよく笑ってた。癌が分かったのが、あたしが中学生の頃。それから一年で亡くなった。ほんと、あっという間だった。日本酒が好きで、なくなる直前まで呑んでた。本当に最高のお父さんだった」
伊香保の目には涙が滲んでいた。
「伊香保ー、ご飯できたよ」
下から声が聞こえた。
「はーい、いま降りるね」
健はもう一度、仏壇の前で手を合わせて、下に降りた。
「今日はごちそうにしました」
テーブルの上には食べられないほどの料理が並んでいる。
「群馬の名物を用意しました。上州牛ステーキ、焼きまんじゅう、ひもかわうどん、ソースカツ丼」
「ソースカツ丼は私が作ったの。いろどりは悪いけど、美味しそうでしょ?」
健は頷いた。
「それと、私は大盃大吟醸」
「ちょっと、お母さん。あんまり飲みすぎないでよ」
「いいじゃない、こんなときくらい」
伊香保の母は大吟醸を二つのコップに注ぎ、一方は空の隣の席に置いた。
「さて、いただきましょう。食べられなかったら、タッパーに入れてあげるからね」
「いただきまーす」
三人は手を合わせた。
「二十年前にお父さんがこのお店始めたの。群馬の名物が主なメニュー。他にも定番メニューで煮付けとかトンカツもあるけど、やっぱり群馬のソウルフード、ソースカツ丼が人気なのよ。どう、美味しい?」
「美味しいです」
「そうでしょう? 愛情を込めて作ったから。ところで、伊香保は彼女にどうかしら?」
「もう、お母さん。気が早いって」
「伊香保にはお兄ちゃんがいるんだけど東京に出ちゃって帰ってこないの。お父さんが亡くなってからは、この家にはもう私だけで、時々寂しいのよ。健君が来てくれたら私も嬉しい。うちなら絶対楽しいから。将来的にお婿さんにだって来て欲しいし。ねぇ、伊香保」
「もー、お母さんったら、健が困ってるじゃない」
「お母さん、伊香保さんは普段どんな感じなんですか?」
「このまま。裏表ないの。笑いたい時には笑う、泣きたい時に泣く。わかりやすいでしょ?」
伊香保は返す言葉もなく苦笑いをする。
「もし、伊香保を選ばなかったとしても、時々ご飯食べにきてね。タダでお腹いっぱい食べさせてあげるから。空いている部屋があるから泊まりもOKよ。あっ、伊香保じゃなくて、私を選んでくれてもいいのよ。私ならすぐに結婚できる年齢だし」
「もー、お母さんやめてよー。恥ずかしい」
「あはは。酔っちゃったかしら」
伊香保の母はグラスに残った大吟醸を飲み干した。
「じゃあ、またきてねー」
食事が終わり伊香保の母に見送られながら定食屋を出て、公園のベンチに二人で座る。
「少し疲れたでしょ。ちょっと待ってて」
伊香保が自販機で缶コーヒーを買ってきて健に渡した。
「うちはわりとあんな感じ。でも、今日はお母さんが普段よりテンションあがっちゃって手に負えなかった」
伊香保が苦笑いを浮かべる。
「でもね、あたしも将来あんな感じになると思うの。やっぱり、理想の夫婦はお父さんとお母さん。夜になったら晩酌でもしながらゆっくりと二人だけの時間を過ごすの。そして、夜が明けたらいつも通りに仕事して、楽しいことがあって、つらいこともあって、今日も一日よくがんばったねって言って、その日が終わる。それが私の理想とする幸せ」
「いいね、そういう幸せも」
「お母さんの言ってたとおり、よかったらたまにご飯食べにきてよ。喜ぶから」
「そうだね」
「じゃ、そろそろ行こうかな」
「ばいばい、またね」
健は一人で石階段を降りていく。伊香保は見えなくなるまで見つめていた。
埼玉県のとある駅を降りると、美園が健に気づき、ジャンプをしながら手を振った。
「おはよー」
「おはよう」
「長旅ご苦労様。たけるの家から遠かったでしょ。でもね、駅から家までけっこう歩くんだ」
「美園は実家に住んでいるの?」
「最初は実家から通っていたけど、部活が夜遅くまであるから途中で寮にしたの。部活の仲間もいるから最初から寮に住めばよかったって思った」
遮るもののない強い日差しの下、十五分ほど歩くと二階建ての一軒家についた。表札には浦和と書かれている。
「ただいまー。たける連れてきたよ」
美園が玄関のドアを開けて中に呼びかける。
「いらっしゃい。たけるくんね。どうぞ」
玄関では反町隆史似のお父さんと竹内結子似のお母さんが迎えてくれた。美園の整った顔は両親の影響ということがわかる。
「おじゃまします」
リビングに通され、大きなダイニングテーブルの隅の席に座る。
「こちらがバチェラーの山戸健くん」
「よろしくお願いします」
「父の浦和栄吉です」
「母のあずさです」
「お父さんはね、昔、やんちゃだったんだけど今は高校の先生やってるんだ。あだ名はグレートティーチャー浦和。GTUって呼ばれているの。お母さんは、お父さんと一緒に高校の先生をやっていたけど、いまはCAをやってる」
「それと、こっちがハルコ。たけるに挨拶して」
幼稚園生くらいの少女が美園の後ろから顔だけをだし、健をじっとみつめる。
「パルコです」
ハルコは健を睨んでいる。
「おねぇちゃんはパルコのおねぇちゃんだからね」
ハルコは健の太ももをバシンと叩いて、どこかに行ってしまった。
「こら、ハルコ。ごめんね、たける。たぶんやきもち妬いてるの」
「お姉ちゃん大好きなんだね」
「そう、甘えん坊なの。ここじゃなんだから、中に入って」
案内されるままリビングに進み、美園の隣に座った。
「あの、これ。つまらないものですが」
健は東京で買ったフィナンシェを手渡した。
「あら、ありがとう。みんなで食べましょう」
あずさは受け取り、奥へ行った。
「美園はどうですか? 彼氏を連れてくることなんてないから、ちょっとこっちが緊張しちゃうくらいなのですよ」
永吉が尋ねた。
「女の子の友達はたくさん連れてくるんだけどね。男の子は初めてよね」
あずさがフィナンシェをお皿に乗せてリビングへ戻ってきた。
「まぁ、初めてだと思う」
美園は恥ずかしそうに頷く。
「美園さんは最初の頃は緊張していたのですが、最近では緊張が解けてきて、明るくて元気という本来の魅力を感じているところです。すごくこのバチェラーにも真摯に向き合っていて、いつも一生懸命なところがいいなって思います。それに、美園さんとなら一緒に目標を持って歩いていける。そんな気がするんです」
「なんか、恥ずかしい」
美園は照れてもじもじとしている。
「良かった。お母さん安心した。美園は男の子が苦手だからうまく振る舞えなくてすぐに帰ってくるんじゃないかってお父さんと話をしていたの。でも、ちゃんとこうして美園に向き合ってくれる人がいるなんて親として嬉しい。美園の魅力をきちんと理解してもらえたのね」
「美園、よかったな」
「うん……」
美園は恥ずかしそうに俯いた。
ピンポーンというドアチャイムがなり、奥からパタパタと足音が聞こえ玄関のドアが開いた音がした。
「あっ、氷川くん。まってたよ。はやく中に入って」
「おじゃましまーす」
リビングにもハルコの声と男の子の声が聞こえてくる。
「ママ、氷川君とおくのへやにいるね」
「うん、わかった。あとで、お菓子とジュース持っていくね」
「パルコがやるからいいよ」
ハルコは同い年くらいの男の子と奥の部屋へ行ってしまった。
「しっかりしてるんだね」
「早く大人になりたいのよ」
「ママ、ケーキ取って」
ハルコは冷蔵庫を開けても手が届かないらしい。あずさが冷蔵庫からケーキを取り、ジュースとケーキをおぼんにのせると、ハルコはそれを持ってリビングを出て行こうとしたが、健のほうに振り向いた。
「ねぇ、たけるはおねぇちゃんのことどれくらい好き?」
「いっぱい好きだよ」
「いっぱい?」
「いーっぱい」
ハルコは健を凝視する。
「おねぇちゃんは、もーっと、もーっと、いーっぱい好きって言ってたよ」
「もう、ハルコ。たけるを困らせないの」
「おねえちゃん、もしふられてもパルコが慰めてあげるからね」
ハルコは言い放つと奥へ行ってしまった。
それから、あっという間に時間は過ぎた。
「どうか、美園をよろしくお願いします」
玄関で栄吉とあずさは頭を下げて見送った。その後ろでハルコが健と美園を見つめていた。
「駅まで送るよ」
夕焼け空の下、駅まで美園と健は並んで歩いた。
「素敵なお父さんとお母さんだね。あと、妹さんも可愛かった。家族から大切にされているのがわかってよかった」
「たける、ハルコの言ったこと、あんまり深く考えなくて良いからね」
「美園のことはちゃんと真剣に考えてるよ」
「ありがとう。信じていていいの?」
「うん」
「よかった。安心した。じゃあまた、ローズセレモニーでね」
美園は健の乗る電車を見えなくなるまで見つめていた。
小山駅を降りると駅のロータリーに苺が立っていた。
「おはよ。ようこそ、とちぎへ」
「栃木は初めてきたよ」
「これから家まで案内するね」
苺はバス乗り場に向かい、健はあとについていく。二人はどちらからともなく、手を繋いだ。小さくて柔らかい手が硬い健の手を強く握る。
「ここからバスで十五分なんだ」
バス停でバスに乗り、二人並んで席に座った。
「沖縄の思い出帳ができたの。たけるくんに見てほしいな」
赤のノートの表紙には『初デート!』と書かれていて、ジンベイザメのオブジェの前で撮った写真が貼られている。ページを捲ると健と苺が手を繋いで写っていて『手を繋いだ!』と苺の字で書かれてる。
「これ、いつ撮ったの?」
「えへへ……」
苺は笑ってごまかし、次のページをめくった。次のページには『ヒトデとたけるくんの手と苺の手』。さらにページをめくると、カフェで店員さんに撮ってもらった写真、そして、最後にはジンベイザメのぬいぐるみマスコットを持って苺と健が一緒に撮った写真があり『またデートしようね』と書かれていた。
「これ、たけるくんにプレゼント」
「いいの?」
「いいの。だって二冊作ったんだもん」
苺はカバンから同じアルバムを出した。
「ありがとう」
健はアルバムをカバンにしまった。
「あっ、バス停ついた」
バスから降りると、あたりは畑に囲まれていた。
「こっち」
苺はタケルの手をひっぱり、バス停近くのビニールハウスの中に入った。
「ここ、入っていいの?」
「うん。大丈夫だよ。うちのビニールハウスだから」
中に入ってみると暖かく、苺の香りに包まれている。
「ここって……」
「ママがね、いちご作ってるの」
「でも、夏だよ?」
「夏いちごだよ。品種としてはちょっと珍しいんだけど、いちごは美味しいから一年中食べたいよね?」
「まぁ、食べられれば」
「はい、あーんして」
苺はいちごをひとつ摘み、健の口に運ぶ。それを一口で頬張った。
「美味しい?」
「うん、美味しい」
「えへへ。あと少し摘んでこうっと」
苺は5、6個摘むとハンカチに包んだ。
「じゃあ、家にいこっか」
ビニールハウスの隣にある二階建ての一軒家のインターホンを押すと「はーい」と声がして、玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい」
出てきたのは、苺を大人にしたような小柄で可愛らしい人が出てきた。
「苺のママ。あっ、いちごとってきたの。はい」
苺はハンカチに包んだいちごを渡した。
「苺の母の茜(あかね)です」
「こっちがね、パパ」
「こんにちは。苺の父で、茂(しげる)と申します。苺がいつもお世話になっております」
「よ、よろしくお願いします」
健は茂の顔をじっと見つめる。
「こちら、よかったら」
手に持っていた手土産を差し出した。
「これね、来るときに苺とたけるくんで選んで買ってきたんだ」
「あら、これ苺が好きな紅茶じゃない」
「うん。ママのシフォンケーキに合うと思ったんだ。それにママも好きでしょ?」
「そうね、それじゃあせっかくだから紅茶も入れてくるわね。リビングで座って待っていて」
茜は手土産を受け取ると、奥へ戻った。
「今日ね、ママがシフォンケーキ作ったんだ。一緒に食べよう」
「うん、食べよう」
「ここじゃなんだから、上がってください」
茂にリビングに案内され、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
「苺もママのお手伝いしてきてくれないかな」
「はーい」
苺は茂の言う通りに、とてとてとキッチンへ向かっていき、茂は健の向いに座った。
「健くん、早速だけど、苺のどういうところが良いと思ったのかね」
「苺さんの可愛らしいところです」
「そうか。結婚も考えているのかな?」
「はい。お付き合いするとなったら、結婚を前提にお付き合いさせていただきます」
「真剣に考えてくれているということだね」
「はい、その時はよろしくお願いします」
健は頭を下げた。
「その時はこちらこそ頭を下げさせてもらうよ。でも、まだ若いんだ。交際をしてもうまくいかないこともあるだろう。もし、うまくいかなくなったとしても、自分を責めないで欲しい。それに、苺は君にはもったいないかもしれない。君には別にふさわしい女の子がいる気がするんだ。それは君が悪いのではなくて、苺がまだ未熟という意味で」
「待ってください。まだ、その、何も決まっていなくて……」
「あぁ、そうだな。まだ気が早かったな」
茂はすまなそうに窓の外を見た。
「あの、お父さん。逆に質問をしてもいいですか? お父さんはどうして苺さんのお母さんと結婚したのですか?」
「おぉ、いい質問だね」
茂はあごを撫でながら笑みを浮かべる。
「とある理由で茜がずっと私の家に居ついちゃってね。そのまま結婚することにしたんだよ」
「後悔していますか?」
「まさか。茜と一緒になってから、不思議と幸運が続くんだ。例えば、商店街のくじ引きで一等が当たったり、おみくじが大吉ばかりだったりね。ちょっとした幸運なんだけど、毎日楽しく過ごしていると、それだけで幸せを呼び込むのかもしれない」
「実は僕も苺さんと一緒になったら、同じように幸運が続くと思っているんです。実はここにくる前に神社に寄ってきたのですが、おみくじを引いたら二人とも大吉でした」
「ははは……。苺も茜の血を引いてるからな」
「あの、茂さん。ちょっとだけ、別の話をしてもいいですか?」
「いいよ」
「実は、僕がプログラミングを始めたきっかけが、茂さんなのです」
「それは嬉しいなぁ」
「たった一人で『ガノンの伝説』や『クレイジーコング』など、名作ゲームソフトを開発したのは有名な話だと思いますが、それに憧れて僕もアプリの開発を始めたのです」
「光栄だねえ。でも、今の君ならあれくらいはできるはずさ。君は高校生なのに一人であのアプリを開発したみたいじゃないか。噂には聞いてるよ」
「恐縮です。でも、僕はまだ茂さんには遠く及ばないと思います。あの、どうしても聞きたいことがありまして、でもとても失礼なことなのですが……」
「いいよ。せっかくだから、なんでも聞いてくれ」
「どうして、プログラマーを引退したのですか?」
「引退したわけじゃない。一戦を退いて後進に任せただけさ」
「でも、茂さんならもっとすごいことができるような気がして」
「まぁ、できなくはないけど、それと引き換えに大切なものを失うくらいだったら、すごいことなんてできなくてもいいと思ったんだ。わかりやすく言うとね、あの時は命を削って仕事をしていた。少しでも早くゲームをリリースしたくて、寝る間を惜しんで栄養ドリンクをたくさん飲んで、休憩時間もご飯を食べたら終わり。そんな毎日だった。それでも楽しかったんだけど、茜と出会ってから価値観が変わったんだ」
茂はあごを撫でる。
「茜とは中学校の同級生でね。卒後十周年の同窓会で再会したんだ。中学生の時にも仲は良くて、再開した日に私の家に来て一緒にゲームをした。それがすごく楽しくてね。今まで自分のための一人用ゲームを作っていたのだけど、いつしか茜と一緒にプレイしたくてみんなで出来るゲームを作っていた。でもね、ある日頑張り過ぎて体調を崩したんだ。ゲームを作りたかったのだけど、出社できなくて寝込む日が続いた。その時に茜はずっと側にいてくれた。茜はゲームが大好きだと思っていたから、寝ている私の隣でゲームをするかと思っていたけど、私の介抱が終わると、隣で漫画を読み始めたんだ。不思議に思って茜に『ゲームをしないのか?』と、聞いたんだ。そしたら茜は『私は茂君と一緒にいたい。それだけでいい』って言った。その時、私は気づいたんだ。茜は『ゲーム』が好きだったんじゃない。『私とゲームをする時間』が好きだったんだ。それ以来、茜と一緒にいる時間を最優先に考えることにした。だから一線は退いた」
健がリビングの本棚に目をやると、たくさんのプログラミングの本とたくさんの家族写真が飾られている。
「東京で命を削って働くよりも、栃木の田舎で農家をやりながら、家族と過ごして、趣味程度にプログラミングに携わるなんて、最高の贅沢だと思わないかい? まぁ、それができるのも死ぬ気で働いたおかげなんだけどね」
茂はあははと笑った。
「パパー、たけるくん、おまたせ」
苺がシフォンケーキと紅茶をお皿に乗せて持ってきた。
「パパと何の話をしてたの?」
「それは、男同士の秘密だよ」
健と茂が顔を見合わせて笑った。
「ずるーい」
苺が口を尖らせた。
それから三人でシフォンケーキを食べた。苺と茜は姉妹のように仲が良くてそれを微笑みながら茂が見つめていた。
「もう、時間かな?」
茂の声で時計をみると十七時を指していた。
「茂さん、ありがとうございました。いろいろ教えていただいて」
「いや、いいんだ。うちは息子がいないけど、息子と話をしている気がして、私も楽しかったよ。良かったらまた遊びに来てくれ。今度は好きなプログラム言語について話をしようじゃないか。それと、ここで話をした内容は内緒だぞ」
「はい、それは承知しております」
「じゃあ、苺。健君を駅まで送ってあげなさい」
「はーい」
苺と健は帰り支度をして玄関に立った。
「本日は、本当にありがとうございました」
健は深々と頭を下げた。
「また来てね」
茜が言い、茂は黙って頷いた。
「じゃあ、たけるくんを駅まで送ってくるね。いってきまーす」
苺と健は家を後にした。
「たけるくん、楽しかったね」
「うん、楽しかった」
家まで来た道を逆行するように戻っていく。手を繋いでバスに乗り、小山駅で降りる。
「たけるくん、これでバイバイなんだけど……」
苺は何かを言いたそうにもじもじしている。
「どうしたの?」
「今日プレゼントしたアルバムの最後の写真の裏側を後で見て欲しいの。それだけ」
「わかった」
「ばいばい」
苺は急いで踵を返し、バスに乗って家に帰っていった。
健は苺を見送った後、カバンからアルバムを取り出し、最後の写真をめくり裏側をみる。
そこには苺の字で『大好き』と書いてあった。
元町中華街駅を降りると、白いワンピース姿でみらいが立っていた。
気づいたみらいは健に手をふる。
「久しぶりに元町にきた気がする」
健はあたりを見回す。
「大丈夫、何も変わってないから」
みらいは笑顔でこたえ、元町ストリートを二人で並んで歩く。みなとカバンの前を通り過ぎようとすると、中から中年の女性店員が出てきて「みらいちゃんこんにちは」と、声をかけられた。
「佐藤さん、こんにちは」
みらいが答えると、佐藤さんは隣の健に目を向けた。
「あれ? もしかして、健君?」
「ごぶさたしています」
健は頭を下げた。
「元町に来るのは久しぶりなのですけど、覚えていてくれたのですね」
「佐藤さんは購入してくれたお客様の名前と顔は絶対忘れないくらい記憶力がいいの」
「みらいちゃんが小さい頃、二人はずっと一緒にいたじゃない。でも、健君も大きくなったわねぇ。もう高校生よね」
「はい」
健は頷いた。
「なんだか二人が並んでいるのをみて、嬉しくて涙が出てきちゃった」
佐藤さんはハンカチを取り出し涙を拭う。
「もう、佐藤さん泣かないで」
「だって、健君も大きくなって、みらいちゃんとまた一緒になったんですもの」
「いや、その……」
健は説明に困り、言葉に詰まった。
「佐藤さん、いつもわたしたちを見守ってくれてありがとうございます。これからわたしたち、家に行かなきゃいけないので、もう行きますね。お店にはまた来ます」
みらいが小さく頭を下げると、佐藤さんは涙ながらに「また二人で来てくださいね」と言って、頭を下げた。
「たけちゃん、行こうか」
みらいは店を後にし、健も置いていかれないようについていった。
「あの言い方だと勘違いされちゃうような気がするんだけど」
「勘違い?」
「ほら、なんというか、その……」
「わたしはもう覚悟はできてるよ」
みらいは立ち止まり、健を見つめた。健は耐えられずに目を逸らす。
「手ぶらもなんだから、手土産でも買って行こうか」
みらいは真剣な顔から笑顔に戻し、再び歩き出した。
「たけちゃん、パパとママの好きなスイーツ覚えてる?」
「お父さんが『きくやのラムボール』、お母さんは『パブロフのパウンドケーキ』かな」
「さすが、たけちゃん。じゃあ、まずはきくやに行こう」
健とみらいはきくやでラムボールを、パブロフでパウンドケーキを購入するとみらいの家に向かって歩いていく。元町ストリートから、代官坂を登り少し歩くとみらいの家に着いた。
「いらっしゃい」
三階建の一軒家の大きなドアが開くと、白髪で白髭を蓄えた父が出迎える。
「いらっしゃい。久しぶりだね。どうぞ、中へ」
中に入り長い廊下を進み、リビングでみらいの父と母、向かい合って健とみらいが座った。
「今日は……。婚姻届の証人の欄にサインすれば良いのかな?」
「いやいや、お父さん。まだ未成年なので」
「そうだった。まだ未成年だ。気が早かったね。あっはっはっ」
「ところで、うちの会社のホームページを新しく作ってくれてありがとう」
「いえ、管理は父の会社ですし……」
「健君が尽力してくれたのは聞いているよ。あのホームページは見やすくてとても好評だよ」
「それは、良かったです」
「うちの会社も順調だし山戸さんの会社も右肩上がり。良いことだね、ママ」
「そうですね」
みらいの母は笑顔を浮かべた。
「あの、これ。よかったら食べてください」
健は手土産を渡した。
「おぉ、気を使わせて悪いね。ラムボールとパウンドケーキじゃないか。私たちの好きなものを覚えていてくれたのか」
「せっかくだからいただきましょうか」
みらいの母はケーキを切り分け、皿にのせて持ってきた。
「こうして二人が再会できたのはよかったよ」
「そうですね」
みらいの父と母は顔を見合わせる。
「せっかくの再会で申し訳ないのだけど、実はこのあと大事な会食があってね。もう行かなければいけないんだ。会食が終わったらママと箱根に行ってくるから、今日は帰らないよ。あとは二人でゆっくりしたまえ」
「えっ……」
健は思わず声が出てしまった。
「じゃあ、あとは若い二人に任せましょうか」
みらいの父と母は席を立った。
「じゃあ、健君、十八歳の誕生日にうちにきなさい。印鑑は用意しておくから」
「は、はい……」
健はどうしたら良いかわからず、とりあえず頷いた。
「じゃあ、みらい。よろしく頼むぞ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
健とみらいは、みらいのお父さんとお母さんを玄関で見送った。
「行ってしまった……。挨拶に来たつもりだったけど、これで良かったのかな?」
「いいの。お父さんもお母さんも自由人だから。たけちゃんも知っているでしょう?」
「まぁ、たしかに。昔からあんな感じだった」
「みーちゃんの家の放任主義がちょっとうらやましかったんだ。うちの母さんは細かいタイプだし、父さんだって面倒なことも多いから」
「わたしは逆にたけちゃんの家が羨ましたかった。すぐに二人でどっかいっちゃうから一人きりになることも多くて、ちょっと寂しかったんだ」
「ないものねだりだね」
「そうだね。久しぶりに、わたしの部屋に来ない?」
みらいの提案でリビングから二階のみらいの部屋へ移った。
「あんまり昔と変わらないね。あれ? これ、僕の『HUNTER×HUNTER』じゃない?」
「そうだよ。たけちゃんが置いてったやつ。新刊は出た?」
「まだ」
「そっか。じゃあ新刊出たら一緒に読もう。あっ、そういえば、たけちゃんの家に『ガラスの仮面』あったね」
「あるよ。みーちゃんが置いてったやつ。新刊出た?」
「まだ」
「なんだ。まだなのか。ガラスの仮面は今度持ってこようか?」
「読みたくなったら、読みに行くからいい。HUNTER×HUNTER持って帰る?」
「いや、荷物になるしいいや」
健は改めて部屋をぐるっと見渡す。
「ねぇ、たけちゃん。この部屋に入ると思い出すことない?」
「思い出すこと?」
「うそ、わかってるくせに。最後に来た時に何をしたか覚えてない?」
「覚えてる。思い出すだけで動機がするから考えないようにしてた」
「やっぱり、そのことにも触れなければいけないと思うの」
みらいは目の前にあるカメラと佐久間先生をじっと見つめる。
「あの、カメラは少しだけ外してもらいたいんです。マイクはつけていても大丈夫です」
佐久間先生はみらいに「大丈夫か?」と聞き「大丈夫です」と答える。
「じゃあ、カメラは外す。俺たちも部屋の外に出てるから、話が終わったら教えてくれ。五分だけだぞ」
撮影スタッフはみらいの部屋を出た。
「二人きりになったら急にドキドキしてきた」
みらいの顔が紅潮している。
「いや、みーちゃんがそうしろって言ったんだろう?」
「そうだけどさ。あっ、声は聞こえてるからね」
「わかってるよ」
みらいはそっと健の手に自分の手を重ねる。健はビクッとするも声を出さず耐えた。
「バチェラーで一緒に旅をしてわかったの。やっぱりわたし、たけちゃんの事が好き。他の誰にも取られたくない」
みらいは健に顔を近づける。
健はハッとしてみらいの方を向くと二人の唇が触れた。
「あっ、あの時と同じようにほっぺにするつもりだったのに。まっ、いっか」
健は一呼吸おくと、みらいの頬に口付けた。
「これが僕の気持ち。もう逃げない」
健はみらいを抱きしめた。
「あの時もこうすれば良かった。あの時は逃げてごめん」
「しかたないよ。わたしたち小学生だったし」
二人はお互いの温もりを感じ合う。
「時間だぞー」
部屋の外から佐久間先生が言った。
「はーい」
二人は手を繋いで部屋を出て、玄関まで向かった。
「じゃあ、ローズセレモニーで待ってるね」
「うん」
みらいと健は玄関で別れた。
ローズセレモニーの会場に一度、全員が集まり、バンザイ先生が口を開く。
「本日、パーティはありません。そのままローズセレモニーになります」
健は女子四人が顔を合わせたあと、すぐに別室に移った。
「バチェラー、ローズセレモニーまで一時間あります。ローズを渡す相手を考えておいてください。今回は四人から二人を選んでいただく形になります。よろしくお願いいたします」
バンザイ先生はそう言うと、部屋を出た。
健は女子の顔写真入りのパネルを睨む。
湊みらい、浦和美園、赤城伊香保、小山苺。
それぞれの顔写真を見るとそれぞれの思い出が蘇ってくる。
「よし」
ローズを渡す二人はすぐに決まった。どんな言葉で想いを伝えるかも考えてある。健は鏡の前に立ち、もう一度自分の姿を眺める。悩み苦しむ顔ではなく、今は自信に満ち溢れている。
「それでは、バチェラー。お時間になりました」
バンザイ先生の後を歩き、ローズセレモニーの会場へ向かう。
ドアを開けて中に入ると、全員がしっかりと前を向いていた。
緊張はしているが、凛々しく自信に満ち溢れている。
「それでは、ローズセレモニーを開始いたします。今回、ローズをお渡しするのは二人になります。つまり、二人がこの場を去ることになります。バチェラー、ローズをお渡しする方のお名前を呼んでください」
「今回、みなさまの自宅にお邪魔しました。それぞれの自宅での生活を見ると、その人が毎日どのように過ごしているのか、今までどのように生きてきたのかを知ることができました。そして、一緒になったらどのような家庭を築くのか、それも想像することができました」
健は言い終わると一輪のローズを手に取った。
「みなとみらいさん。ローズを受け取っていただけますか?」
「はい」
みらいはローズを手に、自分の立ち位置へ戻った。
「それでは、バチェラー。最後のローズです」
健は二本目であり、最後のローズを手に取った。
「浦和美園さん。ローズを受け取っていただけますか?」
「はい、よろこんで」
美園はローズを手に、自分の立ち位置に戻った。
「ローズを受け取れなかった、赤城伊香保さん、小山苺さんはここでお別れになります」
「うぅ。うぇーん。あぁぁぁ……。たけるくんの事が大好きなのに」
バンザイ先生が言い終えた瞬間、苺はその場で尻もちをついて泣き出してしまった。伊香保が慌てて駆け寄り背中をさする。それでも苺は涙を流したままその場を立たず、伊香保が健を見つめて首を横に振った。
「苺、こっちへおいで」
健は苺の元に歩み寄り、お姫様抱っこをして外のソファーへ連れて行った。
「たけるくーん。ひっく、ひっく。もう、バイバイなの?」
「もう少し一緒にいよう」
健は苺をソファーにおろすと、苺の左手を両手で包むように握った。
「苺のことは可愛くて、愛おしく思う。苺を選べなかったのは、僕のせいなんだ。僕がもっと成長していれば、苺を本当に幸せにしてあげられたと思う。でも、今の僕には幸せにする自信がなかった。ごめん」
こんなに可愛い。愛おしいのに、最後の一人を選ぶためにはお別れをしなければいけない。苺との出会いがバチェラーでなければ、普通にお付き合いをして、楽しくすごせたのかもしれない。しかし、バチェラーの目的は結婚を目的とした交際だ。結婚を考えると、最後の相手は苺ではなかった。もし、茂さんのようなプログラマーとしての能力と包容力があれば、苺を選んでいただろう。
「苺、落ち着いた?」
心配した伊香保が声をかけにきた。
「うん」
苺は涙を両手で拭い、腫れた目で伊香保を見上げた。
「あたしたちはもう行かなきゃ」
伊香保は苺に手を差し伸べ、苺は伊香保の手を取り立ち上がった。
「伊香保、ありがとう」
「気にしないで。あたしはみんなのお母さんだから」
健の言葉に伊香保は自虐的に笑った。
「伊香保のそういうところが大好きだった。伊香保と一緒にいればいつも笑顔で過ごせると思った。でも、伊香保の優しさ、包容力に甘えてしまいそうで怖かった。だから、伊香保を選べなかった」
伊香保は涙を流したまま、じっと健を見つめる。
「うん、それでいいよ。でも、少しだけ……」
伊香保は健の胸に頭をあてると、健は包むように優しく抱きしめた。
「健、ありがとう」
伊香保は健から離れると、苺の手を握った。
「伊香保ちゃん」
「苺、一緒に行こうか」
二人は手を繋いで、ローズセレモニーの会場まで戻り、みらいと美園の前に立つ。
「みらい、美園、がんばってね」
伊香保の言葉に二人は黙って頷く。目には溢れそうなほど涙が浮かんでいる。
「みらいちゃん、みそのちゃん。応援してるからね」
苺の言葉に美園が先に涙をこぼした。みらいも続いて涙が溢れた。
伊香保と苺は健の方向に向き直し、正面から見つめる。
「たけるくん、いままでありがとう。バイバイ」
「健、もっと一緒にいたかった。また、うちの食堂にご飯食べにきてね。ご馳走するから。今度は温泉も入っていって。背中流してあげる」
健はうなずくと、伊香保と苺は手を繋いだまま、会場を去っていった。そして、バンザイ先生が再び会場の中心に戻ってきた。
「それでは、最後の二人となりました。あとはお一人ずつデートをしていただき、最後のローズセレモニーになります。また、その時にお会いいたしましょう」
バンザイ先生は言い残すと部屋を退出し、健も追うように部屋を出て控え室に向かった。
控え室ではバンザイ先生が立ったまま待ち構えていた。
「バチェラー。ローズセレモニー、大変おつかれ様でした」
健は小さく頭を下げた。
「最後のデートの前に少しだけお話をさせてください」
「はい、バンザイ先生、話というのは……」
「私とバチェラー部についてです」
健が指した先は誰もが知っている六本木のタワーだった。
「すごーい」
全員口を開いたまま見上げる。
「じゃあ、いこうか」
レジデント用のエレベーターで12階まで上がり、マンションの一室のドアを開ける。
「ここが自宅です。どうぞ」
大理石の玄関で靴を脱いでスリッパに履き替え部屋に入っていく。
「ここが自分の部屋兼仕事部屋」
ドアを開けると12畳程度の部屋と窓から東京タワーが見える。
「すごい! 広い!」
美園が言った。
「たくさん本があるね。アプリの作り方、AI入門、えっとジャバスクリプト?」
苺が壁一面に並んだ本を見て言った。
「だいたいが仕事の本。ジャバスクリプトはプログラミング言語のことだよ」
みらいは本棚から『ガラスの仮面』を取り出してパラパラとめくって本棚に戻した。
「東京タワーも見える」
伊香保が窓の外の景色を見渡している。
「リビングからはスカイツリーも見えるよ」
健は自室を出て、リビングへ進んだ。リビングには大きなテーブルと椅子があり、テーブルの上にはアフタヌーンティーセットが置いてある。
「親父が少し遅くなるみたいなんだ。だから、ちょっとお茶して待とうか。どうぞ座って」
健を囲んでそれぞれが椅子に腰をかけた。
「紅茶でいいかな?」
健がキッチンからお盆にティーポットをのせて運んできた。その後ろから一人の女性が同じようにお盆を持ってついてくる。
「あれ? おばあちゃん、じゃないよね」
伊香保が小声でつぶやく。
「こちらは家の手伝いをしてくれてる、ハルさん」
「どうも、ハルです」
ハルはお盆からティーポットをテーブルに置くとそそくさと奥に行ってしまった。
「週二回家にきて掃除とか洗濯とか料理とかを助けてもらってるんだ。親父がほとんど家事をやらないから、俺とハルさんでやってる」
「早く言ってよ。健が忙しい時は、私が週7で手伝ってあげるのに。学校に持っていくお弁当も作ってあげるからね」
伊香保が健にウインクをした。
「わたし、お菓子くらいなら作ってあげるよ」
苺も負けじとアピールをする。
「私は、これから家事もできるようになる」
と美園が小声で言った。
「みんなありがとう。でも、できるだけ自分のことは自分でやりたいんだよね。ところで、親父遅いな」
壁にかかった時計をみると約束の時間から一時間が過ぎている。突然ドアが開いた音がすると、ドタドタと足音が聞こえた。
「ごめん、遅くなっちゃって。父の景行(けいこう)です。よろしく。あっ、みんな話題のアプリやってる?」
「いきなり仕事の話かよ」
ジーンズにTシャツの四十代の男性が汗を拭きながらリビングに入ってきた。
「今、女子高生向けのコンテンツ作ってるからさぁ。今日もその会議だったんだよ。おっ、ちょうどいい、話聞かせてくれよ」
「あとで話を聞くから、とりあえず、みんなのことを紹介させてくれよ」
「おぉ、そうだな。とりあえず、名前くらいは聞いとかないとな」
景行はリビングに座っている女性を左から順に見ていき、みらいで視線が止まった。
「ご無沙汰しています」
「見た事あると思ったら、みらいちゃんじゃないか。大きくなったねぇ。みらいちゃんが健のお嫁さんになってくれたら、お父さんは嬉しいよ。いや、でも娘と息子がくっつくみたいで、それはそれで複雑だなぁ」
景行は腕を組んで頭を傾げる。
「親父、他の子もいるんだぞ」
「そうだったな。失礼、失礼」
健は景行を一瞥してから、いつもの笑顔を女子たちに向けた。
「じゃあ、紹介していくよ」
「こちらは小山苺さん」
「はじめまして、小山苺です」
ぺこりと頭を下げた。
「いやぁ、可愛らしい子じゃないか。たけると同い年か?」
「そうだよ」
「小学生じゃ、ないよな?」
「し、小学生……」
苺は渋い顔をする。
「同級生だよ。ごめんな、苺。親父なりの冗談なんだ。気にしないで」
「いや、可愛らしいってことだよ。なぁ、健。かわいいよな?」
「あぁ、かわいいよ。じゃあ、次いくぞ」
「こちらは、浦和美園さん」
「おぉ、おっきいねぇ。バレー部?」
美園は席を立ち上がって頭を下げた。
「はい、バレーやってます」
「あっ、やっぱり。なんかすごいスパイク打ちそうだもん。でも、どこかでみたような。こないだテレビに出てなかったか? 美少女すぎるバレー部員みたいな感じで」
「あっ、はい。取材していただきました」
「いやぁ、いいね。生で見るとより美少女だね。こんどはユニフォームで来てよ」
「は、はい……」
美園は困ったように俯く。
「親父、いやらしい目でみてないか?」
「ぜんぜん、全然見てないよ。見てない」
景行は何度も首を振る。
「そして、こちらが赤城伊香保さん」
「おっ、べっぴんさんだね。ちょっと隣で酒作ってくれよ」
「お父さん、熱燗でいい?」
「伊香保も乗らなくていいから」
伊香保はニコニコとしている。
「俺の人格が疑われるから、それくらいにしてくれよ」
「あぁ、すまんすまん。健は俺の息子だが、性格は母さん似だから心配するな。ちなみにもう離婚しちまってるけどな」
「こんな親父についていけなくなったんだ。なんとなくわかるだろ?」
「俺は今でも愛しているけどな」
「母さんは迷惑がっているからな」
景行は健をこづいた。
「ところで、みんなはこいつのどこに惚れたんだ?」
景行は女子達を見渡す。
「わ、わたし、たけるの雰囲気が好きです。一緒にいて安心するっていうか。もともと男性が苦手だったんですけど、たけるならちゃんと話せるし、一緒にいたいなぁって思うんです」
美園が先陣を切って言った。
「おぉ、そうか。健の雰囲気か。一緒にいて安心するっていうのは大事だよな」
「わたしはたけるくんと一緒にいて楽しいから好きです。一緒にポニーの馬車乗ったり、水族館行ったりしたんですけど、すごく楽しかったんです。だからたけるくんとこれからもずっと一緒にいたいなぁって思ってます」
苺が緊張しているのか、たどたどしく景行に伝えた。
「なるほど。楽しいってのは大事だよな。人生楽しく過ごしたいもんな」
「あたしは健に一目惚れっていうか、直感でいいなって思いました。あたしのつくったご飯を食べているのを見た時、幸せだなぁって感じたんです」
伊香保がゆっくりと景行に伝える。
「ほほう、直感って案外正しいことが多いからなぁ。一緒に食事をして幸せと感じられる間柄ってのはやっぱり良いもんだよな」
「わたしは、たけちゃんの全部を好きです」
みらいが言った。
「ずるい」
伊香保が小声で呟く。
「たけちゃんの良いところ、悪いところ、全て知っています。それを理解した上で、たけちゃんのことが好きです」
「みらいちゃんはこいつとつきあいが長いからねぇ。全部知ってくれてるよな。その上で好きだなんて嬉しいじゃないか」
景行はお茶を一口啜った。
「みんな、健の事を愛してくれてありがとう。こんな立派な息子を持った俺は鼻が高いぜ」
景行はすこし照れ臭そう笑った。
「じゃあ、ちょっと別室で一人ずつ話してもいいかな?」
景行は健の顔を見て言った。
「あぁ、変なことするなよ?」
「わかってるって。こう見えて、社長をやってるんだ。コンプライアンスは守る」
景行は一人一人自室に誘い、十五分程度話をすると次の人を呼んでいった。
「よし、だいたいわかった。詳細はあとでメールしておく」
「バチェラー、そろそろお時間です」
バンザイ先生がリビングに現れた。
「あれ、あんたは」
「バンザイ先生。このバチェラー部の顧問」
「やっぱり、バンザイじゃないか」
「ご無沙汰しています」
「二人は知り合いなの?」
「大学の先輩、後輩の中です」
「お前が顧問やってるってことは、そういうことか。なるほどな」
「親父、どういうことだよ」
「それはバンザイ本人から聞きな」
「えぇ、いずれは話をしなければいけないと思っておりました。しかし、お話をするのは今ではありません。その時が来ましたら、私からお伝えさせていただきます」
「わかりました」
健はしぶしぶ頷いた。
「それでは、今日はここまでということになります。明日、健さんのお母さまとお会いすることになります」
「今日は来てくれてありがとう」
健は玄関先で女子たちを見送った。
「みんな素敵な女の子じゃないか。あの中から選べるのか?」
景行が言った。
「正直、迷ってる」
「だよな。俺の評価も参考にしてくれ」
「ありがとう」
「じゃあ、俺は仕事に戻るから」
景行は残ったお茶を飲み干すとドタドタと家を出て行った。
数時間後、メールで「俺の評価」という題名のファイルが送られてきた。
小山苺
容姿:4.5
丸い顔、童顔、小柄が好きなら一目惚れしてもおかしくないレベルの美少女。
家事スキル:3.5
お菓子作りのみ。他のスキルは教えればできるようになるだろう。
家庭環境:4.5
父親はお前もよく知っているあの人。家庭は普通のようだ。
知力:3
良くも悪くもなく、普通。天然。
総合評価:4
健の事を大好きな事は伝わった。彼女にとって一世一代の大恋愛中といったところだ。童顔の見た目に加え、性格はやや幼く可愛らしい。それが好きなら選べば良い。素直な性格のため、教えたらなんでもできるようになるだろう。顔と雰囲気で選んで後は教育するってやり方もありだ。最初は苦労すると思うが、愛があれば大丈夫だ。
浦和美園
容姿:4
スポーツ系美少女。長身スレンダーが好きなら最高だ。
家事スキル:2
体力はあるが、家事や生活のスキルは身に付けていない。できないのはやっていないからだ。普通の高校生ならそんなものだろう。
家庭環境:4
普通に暖かい家庭のようだ。実際に見て確かめてくると良い。
知力:3.5
頭は良いが、スポーツ脳。根性論の部分がある。しかし、この世の中は根性があるやつが成功することが多い。
総合評価:4
真剣に健とバチェラーに向き合っている。健も彼女のひたむきさに惹かれているのではないか? もし、美園さんを選ぶなら、常に魅力的な男でいるんだ。そうすれば、ずっと好きでいてくれるはずだ。
赤城伊香保
容姿:3.5
美人なお姉さんだ。十年後、二十年後に改めて美人さに気づくだろう。
家事スキル:4.5
家事全般はできるし、人付き合いも含めて、女性として高いスキルを持っている。
家庭環境:2.5
あまり恵まれてはいないが、それを糧にして強く生きている。彼女が常に笑顔なのは、家族の影響のようだ。
知力:2.5
普通。決して頭は良くないが、接客や人付き合いをするにはこれくらいがちょうどいい。
総合評価:3.5
健はまだ伊香保さんの魅力に十分気付いていないだろう。伊香保さんの家に行って、きちんと話を聞いてくるんだな。それと、女の尻に敷かれるのも悪くないぞ?
湊みらい
容姿:4.5
安定の可愛さ。
家事スキル:2
みらいちゃんに家事や家庭的なスキルを求めてはダメだ。
家庭環境:4.5
みなとカバンの令嬢。
知力:4.5
頭は良く、年上と上手にやるスキルを身につけている。
総合評価:5
一緒に過ごした時間は誰よりも長く深い。お互いの良いところ、悪いところは全て知っているだろう。あとは、みらいちゃんの全てを愛せる覚悟があるかないかだ。なんだかんだ言っても、俺はみらいちゃん推しだ。
総評
四人ともそれぞれの魅力を持ち合わせていて、健の生涯の伴侶としてふさわしい。あとは、誰がタイプかどうか、誰との絆が一番強いかだ。こればかりは、本人にしかわからない。検討を祈る。
女性達を乗せたバスがとある料亭の前で止まった。
バスを降りると健が立っていた。
「母を紹介します」
和服を着た品のいい女性が店から出てきた。
「はじめまして。健の母です」
「はじめまして」
美園が最初に答え、他の四人も頭を下げた。
「詳しいお話は、中でしましょう。どうぞ、こちらへ」
案内されるまま、中へ進んだ。麻布の一等地に立つ料亭に足を踏み入れると、都会の喧騒が嘘のような静寂さに包まれていた。
「こちらへどうぞ」
和室の個室に案内されると六席が用意されていて、窓からは和風の小庭が見える。
「健の母です。こちらで女将をしております」
正座をして頭を下げると、皆も頭を下げた。
「堅苦しいのはこれくらいにして、せっかくですので料理を楽しんでください。足も崩していただいて構いませんので」
スッと立ち上がり、戻ってくるときにはお盆に料理を乗せていた。
「どうぞ」
色とりどりの季節を模した料理が目の前に運ばれてくる。
「いただきます」
最初に手をつけたのは、みらいだった。それを見て、美園と伊香保も料理に口をつける。苺は周りをキョロキョロしながら、恐る恐る箸を持った。
「いかがですか?」
「美味しいです」
みらいが答え、全員が頷く。
「それはよかった」
「あの、たけるは小さい時どんな子だったんですか?」
美園が尋ねた。
「美園さん、きっと聞かれると思ってアルバムを用意してあるの。見せていいかしら?」
「いいよ」
健が答えると、テーブルの上に大きなアルバムをのせ、一ページずつ開いていく。
「あれ? これって」
「そう、みらいちゃん。健はずっとみらいちゃんと一緒にいたの。二人とも可愛いでしょう」
みらいとタケルが手を繋いで幼稚園の門で写真を撮っている。ページをめくっても、みらいと一緒の写真ばかりが出てくる。みらいの登場が少なくなってくるのは、小学生に上がってから。それでも、一ページに一回は一緒に写っている写真があった。
「みなさんは、このバチェラーに参加するにあたって、結婚も考えているのかしら?」
「はい」
最初に返事をしたのはみらいだった。
「みらいちゃんは健の事をよく知ってるものね」
みらいは微笑む。
「私はお付き合いしたあとに結婚があると思うんです。私たち、まだ高校生だし。でも、いまは、たけるの事を真剣に考えています」
美園が言葉を選びながら、ゆっくりと言った。
「美園さん、ありがとう。健との事を真剣に考えてくれて」
「おかあさま、あたしが責任を持って、たけるの事を幸せにします」
「伊香保ちゃん、ありがとう」
「たけるくんのことはわたしが一番大好きです」
「苺ちゃん、ありがとう」
たけるの母は四人を見つめて微笑む。
「健がこんなに愛されているのを見ることができて、誇らしい気持ちです。このバチェラーに参加するって大変よね。でも、なにものにも代え難い貴重な経験だと思うの。だから、最後までやり抜いて欲しい」
和やかな雰囲気で食事は終わった。
「きょうはありがとうございました」
四人は揃って頭を下げると、料亭から出て行った。
料亭には健と母が残っていた。
「かあさん、お疲れ様」
「たけるもお疲れ様」
「かあさんは誰が良いと思った?」
「全員素敵よ。苺ちゃんは可愛いと思うかもしれないけど、健とは精神的な年齢差があると思う。お付き合いするだけなら良いけれど、少し幼いわね。美園ちゃんはお行儀もいいし、親御さんがしっかりしていると思う。素直そうだしあなたにはちょうどいいのじゃないかしら。伊香保ちゃんとお付き合いするのも悪くないと思う。きっと幸せにしてくれる。でも、彼女の包容力に甘えていたらダメになるから、それだけは気をつけなさい。みらいちゃんならお母さんは安心。娘のような存在だもの」
「なるほど。さすがかあさん」
「だてに女将やってないわよ。たくさんのお客様をみているから、それなりに観察眼はあるつもりよ」
「親父もかあさんもみらい推しなんだな。もし、みらいのことを選ばなかったらどう思う?」
「ご縁がなかった。そう思うだけ。みらいちゃんで悩んでいるの?」
「みらいのことはやっぱり好きだ。でも、まだ決めきれない」
「そうね。もし、自分の気持ちに自信がなければ、きちんと話をしてみるのね」
「わかった。もう一回向き合ってくる」
「みらいちゃんには、バチェラーが終わったら遊びに来るように伝えておいて。二人だけでたくさんお話しましょうって」
「あぁ」
「ちゃんと伝えるのよ」
「わかったって」
「これからお会いする親御さんには失礼のないようにね」
「わかってる」
自宅訪問初日は伊香保の実家だった。
電車を乗り継ぎ渋川で降りると、リムジンの前にバンザイ先生が立っていた。
「バチェラー、ここからは車で向かいましょう」
リムジンに乗り込むと佐久間先生がカメラを構える。
「伊香保さんのことはどう思っていますか?」
「伊香保さんはいつも笑顔で、年上だからなのか包容力というか安心感のような雰囲気を感じます。伊香保さんの家はきっと楽しい家庭なんじゃないかと想像しています」
小一時間で温泉街に着いた。リムジンを降りると大きな階段の前で伊香保が待っていた。
「ようこそ、我が町。伊香保温泉へ」
車から出てきた健をハグして出迎える。
「家に行くまえに少しだけ、この街を案内するね」
伊香保は健の手を取り、石段をゆっくり登る。
「この街は昔懐かしい感じの温泉街。射的があったり、神社があったり、湖もあるの」
石段の左右にはお土産屋が立ち並ぶ。
「あれ? 伊香保ちゃんじゃない。帰ってきてるの?」
温泉まんじゅう屋の店員が伊香保に声をかけた。
「今川おばちゃん、久しぶりー」
伊香保は手を振ってこたえる。
「あんた、帰ってきてるなら言ってよ。それに、素敵な彼氏じゃない」
まんじゅう屋の今川は伊香保を肘で小突く。
「やだー。まだ、彼氏じゃないの。まだ」
伊香保は健にウインクをした。
「せっかくだから、おまんじゅう食べてきなさいよ。ほら、座って」
店先のベンチに腰掛けると、蒸し立ての湯の花まんじゅうとお茶を渡された。健と伊香保はまんじゅうを一口で頬張った。
「おいしい」
「でしょ? 実は出会った時に食べてもらったおまんじゅうはこのお店のだったんだ」
「伊香保ちゃん。これ、お土産に持って行って」
店先にあった湯の花まんじゅうの箱を一つ取り、伊香保に押し付けるように手渡した。
「いいの?」
「いいのよ。こんな素敵な男の子を見たの久しぶりなんだから。伊香保ちゃん、頑張るのよ」
「ありがとう」
伊香保は「後で一緒に食べようね」と言うと、渡されたまんじゅうをカバンにしまった。
お土産屋さんや射的場、旅館、通り過ぎるたびに店員が店から顔を出して伊香保に声をかけてきた。
伊香保は笑顔でそれに応えて立ち話をしては、階段を少しずつ登っていく。
「あたしね、この街が好き」
「良い街だよね」
健の言葉に伊香保は頷く。
「今はプライム高校の女子寮に住んでるんだけど、中学生まではこの街で暮らしてたの。あたしが中学校二年生の時にこの街を盛り上げるためにフォトコンテストが開催されて、この街のイメージ少女として選ばれたの。ほら、あたしみたいな美少女ってバエルじゃない?」
伊香保は黙っていた健を小突く。
「う、うん。そうだね」
「あたしはこの街が大好きだったから、フォトコンテストを盛り上げようと思って参加した。夏は浴衣を着て、冬は雪景色の中を歩いて写真を撮ってもらった。温泉に入っている写真もあったよ。まだ見れるかもしれない。あたしのセクシーショットが見れるからHPをみてみてね。SNSとか街のHPにたくさん写真をアップしたの。そうしたら、この街も注目されるようになってテレビとか雑誌の取材とかも増えて、少しずつ元気になってきた」
伊香保と健はゆっくりと石段を登っていく。
「でもね、街のみんなもお母さんも一度街を出なさいって言うの。広い世界に出ていろんなものを見てきてから戻ってこいって。それが街の繁栄になるからって言われて、東京に出てきたの。プライム高校って私立だからそれなりに学費が高いじゃない? 実はそれも商店街のみんなが奨学金って言って少しずつお金を出してくれている。ちなみに、この赤城伊香保っていう名前は芸名。だって、こんな群馬の地名をくっつけただけの名前なんてありえないでしょ? 本名は福田真理子。超、普通の名前」
伊香保は笑った。
「もう一つ本当のことを言うと、この街のPRのためにバチェラーに出たっていうのもある。でもね、勘違いしてほしくないんだけど、健のこと大好き。だから、バチェラーを続けてる」
「大丈夫。それはわかってる」
「さすが健。ありがとう」
「理由はどうであれ、伊香保がバチェラーに参加してくれて嬉しかった。そうじゃなかったら、出会えなかったんだから」
「やだ……。嬉しい。ちょっと涙出てきちゃった」
伊香保はバッグからハンカチを取り出して涙を拭った。
「家に行く前に、一箇所だけ行きたいところがあるの。付き合ってくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、いこう」
二人が辿り着いたのは、ロープウェイ乗り場だった。
「これに乗って上に行くよ」
チケットを購入し、ゴンドラに乗り込む。
「そういえば、伊香保と一緒に観覧車のったよね」
「そうだね。遊園地に行ったのが、すっごく昔みたいに感じる。あの時、ヒカリとミキが観覧車を揺らしてさ。停まっちゃって係員さんにすっごい怒られてたよね」
「そうそう」
「健と初めて二人だけになって緊張しててさ。いまも少し緊張しているんだけどね。ほら、手汗かいてるし」
伊香保は健の手を握る。
「ほんとだ、手が湿ってる」
「ごめんごめん」
伊香保はハンカチで手を拭って、手を握り直した。
「健の手を握ってると、安心する。ドキドキもするんだけど、守られている感じがして、ずっと握っていたくなるの」
二人は手を握ってじっとみつめ合う。
「あっ、もうついちゃったね」
あっという間にロープウェイは頂上に到着し、二人はロープウェイを降りた。
「もう少し二人でいたかったな」
伊香保がぼやく。
「また、止まればよかった?」
「もう、止まると怖くなっちゃうから嫌」
二人は顔を見合わせて笑った。
ロープウェイ乗り場から少し歩くと展望台に出た。展望台からは温泉街や渋川駅まで一望できる。
「うわぁ、すごい絶景だね」
「これを見せたかったの。あたしの大好きな街。昔は華やかだったけど、だいぶ廃れてきちゃった。でもいいところもたくさんあるし、輝きも戻ってきている。それに、知れば知るほど歴史は深くてドラマがある。噛めば噛むほど味がでるスルメみたいな感じ。あたしも知れば知るほど良い女」
伊香保は健を見てウインクをした。
「じゃあ、家に行こうか」
二人はロープウェイで街に降りて、石段を下っていき木造の定食屋の前で足を止めた。
「ここがあたしの家」
のれんには『あかぎ食堂』と書かれていて、ドアに本日貸し切りと張り紙が貼られている。
「ただいまー」
伊香保はドアを開けた。
「あら、かっこいい」
伊香保を少し小さくして老けさせたような女性が出てきた。
「かっこいいでしょ。こちらが山戸健君。そして、こちらがあたしのお母さん」
「山戸健です。本日はよろしくお願いします」
健が頭を下げる。
「いいのよ、そんなに硬くならなくて」
「そう、楽にしててね」
健を店の中へ入れて、伊香保は店の戸を閉めた。
「あの、これ。つまらないものですが」
健は東京駅で買ってきた銘菓『ひよこ』を渡した。
「あーら、気を遣ってもらっちゃって。あとで、みんなで食べましょうね」
「ねぇ、お父さんにも挨拶していい?」
「お父さんも喜ぶわよ。いってらっしゃい」
「健、こっち」
伊香保は店の奥に進みドアを開け、急な階段を登っていき、健は後ろについていく。
階段を上がり少しだけ廊下を進み伊香保が襖を開けると、六畳程度の和室だった。
「健、こっち」
和室に入ると仏壇がある。
「お父さん、こちらが健。かっこいいでしょ?」
仏壇に飾ってある遺影を前に伊香保は言った。
「山戸健です。今回、バチェラーに参加して、伊香保さんと一緒に旅を続けています。本日は、よろしくお願いします」
健は仏壇を前に手を合わせた。
「小学生の頃に亡くなったんだ。肝臓癌の多発転移。楽しいお父さんだった。お母さんのことが大好きでね、すごく仲が良かった。夜はお店閉めてから二人で晩酌してよく笑ってた。癌が分かったのが、あたしが中学生の頃。それから一年で亡くなった。ほんと、あっという間だった。日本酒が好きで、なくなる直前まで呑んでた。本当に最高のお父さんだった」
伊香保の目には涙が滲んでいた。
「伊香保ー、ご飯できたよ」
下から声が聞こえた。
「はーい、いま降りるね」
健はもう一度、仏壇の前で手を合わせて、下に降りた。
「今日はごちそうにしました」
テーブルの上には食べられないほどの料理が並んでいる。
「群馬の名物を用意しました。上州牛ステーキ、焼きまんじゅう、ひもかわうどん、ソースカツ丼」
「ソースカツ丼は私が作ったの。いろどりは悪いけど、美味しそうでしょ?」
健は頷いた。
「それと、私は大盃大吟醸」
「ちょっと、お母さん。あんまり飲みすぎないでよ」
「いいじゃない、こんなときくらい」
伊香保の母は大吟醸を二つのコップに注ぎ、一方は空の隣の席に置いた。
「さて、いただきましょう。食べられなかったら、タッパーに入れてあげるからね」
「いただきまーす」
三人は手を合わせた。
「二十年前にお父さんがこのお店始めたの。群馬の名物が主なメニュー。他にも定番メニューで煮付けとかトンカツもあるけど、やっぱり群馬のソウルフード、ソースカツ丼が人気なのよ。どう、美味しい?」
「美味しいです」
「そうでしょう? 愛情を込めて作ったから。ところで、伊香保は彼女にどうかしら?」
「もう、お母さん。気が早いって」
「伊香保にはお兄ちゃんがいるんだけど東京に出ちゃって帰ってこないの。お父さんが亡くなってからは、この家にはもう私だけで、時々寂しいのよ。健君が来てくれたら私も嬉しい。うちなら絶対楽しいから。将来的にお婿さんにだって来て欲しいし。ねぇ、伊香保」
「もー、お母さんったら、健が困ってるじゃない」
「お母さん、伊香保さんは普段どんな感じなんですか?」
「このまま。裏表ないの。笑いたい時には笑う、泣きたい時に泣く。わかりやすいでしょ?」
伊香保は返す言葉もなく苦笑いをする。
「もし、伊香保を選ばなかったとしても、時々ご飯食べにきてね。タダでお腹いっぱい食べさせてあげるから。空いている部屋があるから泊まりもOKよ。あっ、伊香保じゃなくて、私を選んでくれてもいいのよ。私ならすぐに結婚できる年齢だし」
「もー、お母さんやめてよー。恥ずかしい」
「あはは。酔っちゃったかしら」
伊香保の母はグラスに残った大吟醸を飲み干した。
「じゃあ、またきてねー」
食事が終わり伊香保の母に見送られながら定食屋を出て、公園のベンチに二人で座る。
「少し疲れたでしょ。ちょっと待ってて」
伊香保が自販機で缶コーヒーを買ってきて健に渡した。
「うちはわりとあんな感じ。でも、今日はお母さんが普段よりテンションあがっちゃって手に負えなかった」
伊香保が苦笑いを浮かべる。
「でもね、あたしも将来あんな感じになると思うの。やっぱり、理想の夫婦はお父さんとお母さん。夜になったら晩酌でもしながらゆっくりと二人だけの時間を過ごすの。そして、夜が明けたらいつも通りに仕事して、楽しいことがあって、つらいこともあって、今日も一日よくがんばったねって言って、その日が終わる。それが私の理想とする幸せ」
「いいね、そういう幸せも」
「お母さんの言ってたとおり、よかったらたまにご飯食べにきてよ。喜ぶから」
「そうだね」
「じゃ、そろそろ行こうかな」
「ばいばい、またね」
健は一人で石階段を降りていく。伊香保は見えなくなるまで見つめていた。
埼玉県のとある駅を降りると、美園が健に気づき、ジャンプをしながら手を振った。
「おはよー」
「おはよう」
「長旅ご苦労様。たけるの家から遠かったでしょ。でもね、駅から家までけっこう歩くんだ」
「美園は実家に住んでいるの?」
「最初は実家から通っていたけど、部活が夜遅くまであるから途中で寮にしたの。部活の仲間もいるから最初から寮に住めばよかったって思った」
遮るもののない強い日差しの下、十五分ほど歩くと二階建ての一軒家についた。表札には浦和と書かれている。
「ただいまー。たける連れてきたよ」
美園が玄関のドアを開けて中に呼びかける。
「いらっしゃい。たけるくんね。どうぞ」
玄関では反町隆史似のお父さんと竹内結子似のお母さんが迎えてくれた。美園の整った顔は両親の影響ということがわかる。
「おじゃまします」
リビングに通され、大きなダイニングテーブルの隅の席に座る。
「こちらがバチェラーの山戸健くん」
「よろしくお願いします」
「父の浦和栄吉です」
「母のあずさです」
「お父さんはね、昔、やんちゃだったんだけど今は高校の先生やってるんだ。あだ名はグレートティーチャー浦和。GTUって呼ばれているの。お母さんは、お父さんと一緒に高校の先生をやっていたけど、いまはCAをやってる」
「それと、こっちがハルコ。たけるに挨拶して」
幼稚園生くらいの少女が美園の後ろから顔だけをだし、健をじっとみつめる。
「パルコです」
ハルコは健を睨んでいる。
「おねぇちゃんはパルコのおねぇちゃんだからね」
ハルコは健の太ももをバシンと叩いて、どこかに行ってしまった。
「こら、ハルコ。ごめんね、たける。たぶんやきもち妬いてるの」
「お姉ちゃん大好きなんだね」
「そう、甘えん坊なの。ここじゃなんだから、中に入って」
案内されるままリビングに進み、美園の隣に座った。
「あの、これ。つまらないものですが」
健は東京で買ったフィナンシェを手渡した。
「あら、ありがとう。みんなで食べましょう」
あずさは受け取り、奥へ行った。
「美園はどうですか? 彼氏を連れてくることなんてないから、ちょっとこっちが緊張しちゃうくらいなのですよ」
永吉が尋ねた。
「女の子の友達はたくさん連れてくるんだけどね。男の子は初めてよね」
あずさがフィナンシェをお皿に乗せてリビングへ戻ってきた。
「まぁ、初めてだと思う」
美園は恥ずかしそうに頷く。
「美園さんは最初の頃は緊張していたのですが、最近では緊張が解けてきて、明るくて元気という本来の魅力を感じているところです。すごくこのバチェラーにも真摯に向き合っていて、いつも一生懸命なところがいいなって思います。それに、美園さんとなら一緒に目標を持って歩いていける。そんな気がするんです」
「なんか、恥ずかしい」
美園は照れてもじもじとしている。
「良かった。お母さん安心した。美園は男の子が苦手だからうまく振る舞えなくてすぐに帰ってくるんじゃないかってお父さんと話をしていたの。でも、ちゃんとこうして美園に向き合ってくれる人がいるなんて親として嬉しい。美園の魅力をきちんと理解してもらえたのね」
「美園、よかったな」
「うん……」
美園は恥ずかしそうに俯いた。
ピンポーンというドアチャイムがなり、奥からパタパタと足音が聞こえ玄関のドアが開いた音がした。
「あっ、氷川くん。まってたよ。はやく中に入って」
「おじゃましまーす」
リビングにもハルコの声と男の子の声が聞こえてくる。
「ママ、氷川君とおくのへやにいるね」
「うん、わかった。あとで、お菓子とジュース持っていくね」
「パルコがやるからいいよ」
ハルコは同い年くらいの男の子と奥の部屋へ行ってしまった。
「しっかりしてるんだね」
「早く大人になりたいのよ」
「ママ、ケーキ取って」
ハルコは冷蔵庫を開けても手が届かないらしい。あずさが冷蔵庫からケーキを取り、ジュースとケーキをおぼんにのせると、ハルコはそれを持ってリビングを出て行こうとしたが、健のほうに振り向いた。
「ねぇ、たけるはおねぇちゃんのことどれくらい好き?」
「いっぱい好きだよ」
「いっぱい?」
「いーっぱい」
ハルコは健を凝視する。
「おねぇちゃんは、もーっと、もーっと、いーっぱい好きって言ってたよ」
「もう、ハルコ。たけるを困らせないの」
「おねえちゃん、もしふられてもパルコが慰めてあげるからね」
ハルコは言い放つと奥へ行ってしまった。
それから、あっという間に時間は過ぎた。
「どうか、美園をよろしくお願いします」
玄関で栄吉とあずさは頭を下げて見送った。その後ろでハルコが健と美園を見つめていた。
「駅まで送るよ」
夕焼け空の下、駅まで美園と健は並んで歩いた。
「素敵なお父さんとお母さんだね。あと、妹さんも可愛かった。家族から大切にされているのがわかってよかった」
「たける、ハルコの言ったこと、あんまり深く考えなくて良いからね」
「美園のことはちゃんと真剣に考えてるよ」
「ありがとう。信じていていいの?」
「うん」
「よかった。安心した。じゃあまた、ローズセレモニーでね」
美園は健の乗る電車を見えなくなるまで見つめていた。
小山駅を降りると駅のロータリーに苺が立っていた。
「おはよ。ようこそ、とちぎへ」
「栃木は初めてきたよ」
「これから家まで案内するね」
苺はバス乗り場に向かい、健はあとについていく。二人はどちらからともなく、手を繋いだ。小さくて柔らかい手が硬い健の手を強く握る。
「ここからバスで十五分なんだ」
バス停でバスに乗り、二人並んで席に座った。
「沖縄の思い出帳ができたの。たけるくんに見てほしいな」
赤のノートの表紙には『初デート!』と書かれていて、ジンベイザメのオブジェの前で撮った写真が貼られている。ページを捲ると健と苺が手を繋いで写っていて『手を繋いだ!』と苺の字で書かれてる。
「これ、いつ撮ったの?」
「えへへ……」
苺は笑ってごまかし、次のページをめくった。次のページには『ヒトデとたけるくんの手と苺の手』。さらにページをめくると、カフェで店員さんに撮ってもらった写真、そして、最後にはジンベイザメのぬいぐるみマスコットを持って苺と健が一緒に撮った写真があり『またデートしようね』と書かれていた。
「これ、たけるくんにプレゼント」
「いいの?」
「いいの。だって二冊作ったんだもん」
苺はカバンから同じアルバムを出した。
「ありがとう」
健はアルバムをカバンにしまった。
「あっ、バス停ついた」
バスから降りると、あたりは畑に囲まれていた。
「こっち」
苺はタケルの手をひっぱり、バス停近くのビニールハウスの中に入った。
「ここ、入っていいの?」
「うん。大丈夫だよ。うちのビニールハウスだから」
中に入ってみると暖かく、苺の香りに包まれている。
「ここって……」
「ママがね、いちご作ってるの」
「でも、夏だよ?」
「夏いちごだよ。品種としてはちょっと珍しいんだけど、いちごは美味しいから一年中食べたいよね?」
「まぁ、食べられれば」
「はい、あーんして」
苺はいちごをひとつ摘み、健の口に運ぶ。それを一口で頬張った。
「美味しい?」
「うん、美味しい」
「えへへ。あと少し摘んでこうっと」
苺は5、6個摘むとハンカチに包んだ。
「じゃあ、家にいこっか」
ビニールハウスの隣にある二階建ての一軒家のインターホンを押すと「はーい」と声がして、玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい」
出てきたのは、苺を大人にしたような小柄で可愛らしい人が出てきた。
「苺のママ。あっ、いちごとってきたの。はい」
苺はハンカチに包んだいちごを渡した。
「苺の母の茜(あかね)です」
「こっちがね、パパ」
「こんにちは。苺の父で、茂(しげる)と申します。苺がいつもお世話になっております」
「よ、よろしくお願いします」
健は茂の顔をじっと見つめる。
「こちら、よかったら」
手に持っていた手土産を差し出した。
「これね、来るときに苺とたけるくんで選んで買ってきたんだ」
「あら、これ苺が好きな紅茶じゃない」
「うん。ママのシフォンケーキに合うと思ったんだ。それにママも好きでしょ?」
「そうね、それじゃあせっかくだから紅茶も入れてくるわね。リビングで座って待っていて」
茜は手土産を受け取ると、奥へ戻った。
「今日ね、ママがシフォンケーキ作ったんだ。一緒に食べよう」
「うん、食べよう」
「ここじゃなんだから、上がってください」
茂にリビングに案内され、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
「苺もママのお手伝いしてきてくれないかな」
「はーい」
苺は茂の言う通りに、とてとてとキッチンへ向かっていき、茂は健の向いに座った。
「健くん、早速だけど、苺のどういうところが良いと思ったのかね」
「苺さんの可愛らしいところです」
「そうか。結婚も考えているのかな?」
「はい。お付き合いするとなったら、結婚を前提にお付き合いさせていただきます」
「真剣に考えてくれているということだね」
「はい、その時はよろしくお願いします」
健は頭を下げた。
「その時はこちらこそ頭を下げさせてもらうよ。でも、まだ若いんだ。交際をしてもうまくいかないこともあるだろう。もし、うまくいかなくなったとしても、自分を責めないで欲しい。それに、苺は君にはもったいないかもしれない。君には別にふさわしい女の子がいる気がするんだ。それは君が悪いのではなくて、苺がまだ未熟という意味で」
「待ってください。まだ、その、何も決まっていなくて……」
「あぁ、そうだな。まだ気が早かったな」
茂はすまなそうに窓の外を見た。
「あの、お父さん。逆に質問をしてもいいですか? お父さんはどうして苺さんのお母さんと結婚したのですか?」
「おぉ、いい質問だね」
茂はあごを撫でながら笑みを浮かべる。
「とある理由で茜がずっと私の家に居ついちゃってね。そのまま結婚することにしたんだよ」
「後悔していますか?」
「まさか。茜と一緒になってから、不思議と幸運が続くんだ。例えば、商店街のくじ引きで一等が当たったり、おみくじが大吉ばかりだったりね。ちょっとした幸運なんだけど、毎日楽しく過ごしていると、それだけで幸せを呼び込むのかもしれない」
「実は僕も苺さんと一緒になったら、同じように幸運が続くと思っているんです。実はここにくる前に神社に寄ってきたのですが、おみくじを引いたら二人とも大吉でした」
「ははは……。苺も茜の血を引いてるからな」
「あの、茂さん。ちょっとだけ、別の話をしてもいいですか?」
「いいよ」
「実は、僕がプログラミングを始めたきっかけが、茂さんなのです」
「それは嬉しいなぁ」
「たった一人で『ガノンの伝説』や『クレイジーコング』など、名作ゲームソフトを開発したのは有名な話だと思いますが、それに憧れて僕もアプリの開発を始めたのです」
「光栄だねえ。でも、今の君ならあれくらいはできるはずさ。君は高校生なのに一人であのアプリを開発したみたいじゃないか。噂には聞いてるよ」
「恐縮です。でも、僕はまだ茂さんには遠く及ばないと思います。あの、どうしても聞きたいことがありまして、でもとても失礼なことなのですが……」
「いいよ。せっかくだから、なんでも聞いてくれ」
「どうして、プログラマーを引退したのですか?」
「引退したわけじゃない。一戦を退いて後進に任せただけさ」
「でも、茂さんならもっとすごいことができるような気がして」
「まぁ、できなくはないけど、それと引き換えに大切なものを失うくらいだったら、すごいことなんてできなくてもいいと思ったんだ。わかりやすく言うとね、あの時は命を削って仕事をしていた。少しでも早くゲームをリリースしたくて、寝る間を惜しんで栄養ドリンクをたくさん飲んで、休憩時間もご飯を食べたら終わり。そんな毎日だった。それでも楽しかったんだけど、茜と出会ってから価値観が変わったんだ」
茂はあごを撫でる。
「茜とは中学校の同級生でね。卒後十周年の同窓会で再会したんだ。中学生の時にも仲は良くて、再開した日に私の家に来て一緒にゲームをした。それがすごく楽しくてね。今まで自分のための一人用ゲームを作っていたのだけど、いつしか茜と一緒にプレイしたくてみんなで出来るゲームを作っていた。でもね、ある日頑張り過ぎて体調を崩したんだ。ゲームを作りたかったのだけど、出社できなくて寝込む日が続いた。その時に茜はずっと側にいてくれた。茜はゲームが大好きだと思っていたから、寝ている私の隣でゲームをするかと思っていたけど、私の介抱が終わると、隣で漫画を読み始めたんだ。不思議に思って茜に『ゲームをしないのか?』と、聞いたんだ。そしたら茜は『私は茂君と一緒にいたい。それだけでいい』って言った。その時、私は気づいたんだ。茜は『ゲーム』が好きだったんじゃない。『私とゲームをする時間』が好きだったんだ。それ以来、茜と一緒にいる時間を最優先に考えることにした。だから一線は退いた」
健がリビングの本棚に目をやると、たくさんのプログラミングの本とたくさんの家族写真が飾られている。
「東京で命を削って働くよりも、栃木の田舎で農家をやりながら、家族と過ごして、趣味程度にプログラミングに携わるなんて、最高の贅沢だと思わないかい? まぁ、それができるのも死ぬ気で働いたおかげなんだけどね」
茂はあははと笑った。
「パパー、たけるくん、おまたせ」
苺がシフォンケーキと紅茶をお皿に乗せて持ってきた。
「パパと何の話をしてたの?」
「それは、男同士の秘密だよ」
健と茂が顔を見合わせて笑った。
「ずるーい」
苺が口を尖らせた。
それから三人でシフォンケーキを食べた。苺と茜は姉妹のように仲が良くてそれを微笑みながら茂が見つめていた。
「もう、時間かな?」
茂の声で時計をみると十七時を指していた。
「茂さん、ありがとうございました。いろいろ教えていただいて」
「いや、いいんだ。うちは息子がいないけど、息子と話をしている気がして、私も楽しかったよ。良かったらまた遊びに来てくれ。今度は好きなプログラム言語について話をしようじゃないか。それと、ここで話をした内容は内緒だぞ」
「はい、それは承知しております」
「じゃあ、苺。健君を駅まで送ってあげなさい」
「はーい」
苺と健は帰り支度をして玄関に立った。
「本日は、本当にありがとうございました」
健は深々と頭を下げた。
「また来てね」
茜が言い、茂は黙って頷いた。
「じゃあ、たけるくんを駅まで送ってくるね。いってきまーす」
苺と健は家を後にした。
「たけるくん、楽しかったね」
「うん、楽しかった」
家まで来た道を逆行するように戻っていく。手を繋いでバスに乗り、小山駅で降りる。
「たけるくん、これでバイバイなんだけど……」
苺は何かを言いたそうにもじもじしている。
「どうしたの?」
「今日プレゼントしたアルバムの最後の写真の裏側を後で見て欲しいの。それだけ」
「わかった」
「ばいばい」
苺は急いで踵を返し、バスに乗って家に帰っていった。
健は苺を見送った後、カバンからアルバムを取り出し、最後の写真をめくり裏側をみる。
そこには苺の字で『大好き』と書いてあった。
元町中華街駅を降りると、白いワンピース姿でみらいが立っていた。
気づいたみらいは健に手をふる。
「久しぶりに元町にきた気がする」
健はあたりを見回す。
「大丈夫、何も変わってないから」
みらいは笑顔でこたえ、元町ストリートを二人で並んで歩く。みなとカバンの前を通り過ぎようとすると、中から中年の女性店員が出てきて「みらいちゃんこんにちは」と、声をかけられた。
「佐藤さん、こんにちは」
みらいが答えると、佐藤さんは隣の健に目を向けた。
「あれ? もしかして、健君?」
「ごぶさたしています」
健は頭を下げた。
「元町に来るのは久しぶりなのですけど、覚えていてくれたのですね」
「佐藤さんは購入してくれたお客様の名前と顔は絶対忘れないくらい記憶力がいいの」
「みらいちゃんが小さい頃、二人はずっと一緒にいたじゃない。でも、健君も大きくなったわねぇ。もう高校生よね」
「はい」
健は頷いた。
「なんだか二人が並んでいるのをみて、嬉しくて涙が出てきちゃった」
佐藤さんはハンカチを取り出し涙を拭う。
「もう、佐藤さん泣かないで」
「だって、健君も大きくなって、みらいちゃんとまた一緒になったんですもの」
「いや、その……」
健は説明に困り、言葉に詰まった。
「佐藤さん、いつもわたしたちを見守ってくれてありがとうございます。これからわたしたち、家に行かなきゃいけないので、もう行きますね。お店にはまた来ます」
みらいが小さく頭を下げると、佐藤さんは涙ながらに「また二人で来てくださいね」と言って、頭を下げた。
「たけちゃん、行こうか」
みらいは店を後にし、健も置いていかれないようについていった。
「あの言い方だと勘違いされちゃうような気がするんだけど」
「勘違い?」
「ほら、なんというか、その……」
「わたしはもう覚悟はできてるよ」
みらいは立ち止まり、健を見つめた。健は耐えられずに目を逸らす。
「手ぶらもなんだから、手土産でも買って行こうか」
みらいは真剣な顔から笑顔に戻し、再び歩き出した。
「たけちゃん、パパとママの好きなスイーツ覚えてる?」
「お父さんが『きくやのラムボール』、お母さんは『パブロフのパウンドケーキ』かな」
「さすが、たけちゃん。じゃあ、まずはきくやに行こう」
健とみらいはきくやでラムボールを、パブロフでパウンドケーキを購入するとみらいの家に向かって歩いていく。元町ストリートから、代官坂を登り少し歩くとみらいの家に着いた。
「いらっしゃい」
三階建の一軒家の大きなドアが開くと、白髪で白髭を蓄えた父が出迎える。
「いらっしゃい。久しぶりだね。どうぞ、中へ」
中に入り長い廊下を進み、リビングでみらいの父と母、向かい合って健とみらいが座った。
「今日は……。婚姻届の証人の欄にサインすれば良いのかな?」
「いやいや、お父さん。まだ未成年なので」
「そうだった。まだ未成年だ。気が早かったね。あっはっはっ」
「ところで、うちの会社のホームページを新しく作ってくれてありがとう」
「いえ、管理は父の会社ですし……」
「健君が尽力してくれたのは聞いているよ。あのホームページは見やすくてとても好評だよ」
「それは、良かったです」
「うちの会社も順調だし山戸さんの会社も右肩上がり。良いことだね、ママ」
「そうですね」
みらいの母は笑顔を浮かべた。
「あの、これ。よかったら食べてください」
健は手土産を渡した。
「おぉ、気を使わせて悪いね。ラムボールとパウンドケーキじゃないか。私たちの好きなものを覚えていてくれたのか」
「せっかくだからいただきましょうか」
みらいの母はケーキを切り分け、皿にのせて持ってきた。
「こうして二人が再会できたのはよかったよ」
「そうですね」
みらいの父と母は顔を見合わせる。
「せっかくの再会で申し訳ないのだけど、実はこのあと大事な会食があってね。もう行かなければいけないんだ。会食が終わったらママと箱根に行ってくるから、今日は帰らないよ。あとは二人でゆっくりしたまえ」
「えっ……」
健は思わず声が出てしまった。
「じゃあ、あとは若い二人に任せましょうか」
みらいの父と母は席を立った。
「じゃあ、健君、十八歳の誕生日にうちにきなさい。印鑑は用意しておくから」
「は、はい……」
健はどうしたら良いかわからず、とりあえず頷いた。
「じゃあ、みらい。よろしく頼むぞ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
健とみらいは、みらいのお父さんとお母さんを玄関で見送った。
「行ってしまった……。挨拶に来たつもりだったけど、これで良かったのかな?」
「いいの。お父さんもお母さんも自由人だから。たけちゃんも知っているでしょう?」
「まぁ、たしかに。昔からあんな感じだった」
「みーちゃんの家の放任主義がちょっとうらやましかったんだ。うちの母さんは細かいタイプだし、父さんだって面倒なことも多いから」
「わたしは逆にたけちゃんの家が羨ましたかった。すぐに二人でどっかいっちゃうから一人きりになることも多くて、ちょっと寂しかったんだ」
「ないものねだりだね」
「そうだね。久しぶりに、わたしの部屋に来ない?」
みらいの提案でリビングから二階のみらいの部屋へ移った。
「あんまり昔と変わらないね。あれ? これ、僕の『HUNTER×HUNTER』じゃない?」
「そうだよ。たけちゃんが置いてったやつ。新刊は出た?」
「まだ」
「そっか。じゃあ新刊出たら一緒に読もう。あっ、そういえば、たけちゃんの家に『ガラスの仮面』あったね」
「あるよ。みーちゃんが置いてったやつ。新刊出た?」
「まだ」
「なんだ。まだなのか。ガラスの仮面は今度持ってこようか?」
「読みたくなったら、読みに行くからいい。HUNTER×HUNTER持って帰る?」
「いや、荷物になるしいいや」
健は改めて部屋をぐるっと見渡す。
「ねぇ、たけちゃん。この部屋に入ると思い出すことない?」
「思い出すこと?」
「うそ、わかってるくせに。最後に来た時に何をしたか覚えてない?」
「覚えてる。思い出すだけで動機がするから考えないようにしてた」
「やっぱり、そのことにも触れなければいけないと思うの」
みらいは目の前にあるカメラと佐久間先生をじっと見つめる。
「あの、カメラは少しだけ外してもらいたいんです。マイクはつけていても大丈夫です」
佐久間先生はみらいに「大丈夫か?」と聞き「大丈夫です」と答える。
「じゃあ、カメラは外す。俺たちも部屋の外に出てるから、話が終わったら教えてくれ。五分だけだぞ」
撮影スタッフはみらいの部屋を出た。
「二人きりになったら急にドキドキしてきた」
みらいの顔が紅潮している。
「いや、みーちゃんがそうしろって言ったんだろう?」
「そうだけどさ。あっ、声は聞こえてるからね」
「わかってるよ」
みらいはそっと健の手に自分の手を重ねる。健はビクッとするも声を出さず耐えた。
「バチェラーで一緒に旅をしてわかったの。やっぱりわたし、たけちゃんの事が好き。他の誰にも取られたくない」
みらいは健に顔を近づける。
健はハッとしてみらいの方を向くと二人の唇が触れた。
「あっ、あの時と同じようにほっぺにするつもりだったのに。まっ、いっか」
健は一呼吸おくと、みらいの頬に口付けた。
「これが僕の気持ち。もう逃げない」
健はみらいを抱きしめた。
「あの時もこうすれば良かった。あの時は逃げてごめん」
「しかたないよ。わたしたち小学生だったし」
二人はお互いの温もりを感じ合う。
「時間だぞー」
部屋の外から佐久間先生が言った。
「はーい」
二人は手を繋いで部屋を出て、玄関まで向かった。
「じゃあ、ローズセレモニーで待ってるね」
「うん」
みらいと健は玄関で別れた。
ローズセレモニーの会場に一度、全員が集まり、バンザイ先生が口を開く。
「本日、パーティはありません。そのままローズセレモニーになります」
健は女子四人が顔を合わせたあと、すぐに別室に移った。
「バチェラー、ローズセレモニーまで一時間あります。ローズを渡す相手を考えておいてください。今回は四人から二人を選んでいただく形になります。よろしくお願いいたします」
バンザイ先生はそう言うと、部屋を出た。
健は女子の顔写真入りのパネルを睨む。
湊みらい、浦和美園、赤城伊香保、小山苺。
それぞれの顔写真を見るとそれぞれの思い出が蘇ってくる。
「よし」
ローズを渡す二人はすぐに決まった。どんな言葉で想いを伝えるかも考えてある。健は鏡の前に立ち、もう一度自分の姿を眺める。悩み苦しむ顔ではなく、今は自信に満ち溢れている。
「それでは、バチェラー。お時間になりました」
バンザイ先生の後を歩き、ローズセレモニーの会場へ向かう。
ドアを開けて中に入ると、全員がしっかりと前を向いていた。
緊張はしているが、凛々しく自信に満ち溢れている。
「それでは、ローズセレモニーを開始いたします。今回、ローズをお渡しするのは二人になります。つまり、二人がこの場を去ることになります。バチェラー、ローズをお渡しする方のお名前を呼んでください」
「今回、みなさまの自宅にお邪魔しました。それぞれの自宅での生活を見ると、その人が毎日どのように過ごしているのか、今までどのように生きてきたのかを知ることができました。そして、一緒になったらどのような家庭を築くのか、それも想像することができました」
健は言い終わると一輪のローズを手に取った。
「みなとみらいさん。ローズを受け取っていただけますか?」
「はい」
みらいはローズを手に、自分の立ち位置へ戻った。
「それでは、バチェラー。最後のローズです」
健は二本目であり、最後のローズを手に取った。
「浦和美園さん。ローズを受け取っていただけますか?」
「はい、よろこんで」
美園はローズを手に、自分の立ち位置に戻った。
「ローズを受け取れなかった、赤城伊香保さん、小山苺さんはここでお別れになります」
「うぅ。うぇーん。あぁぁぁ……。たけるくんの事が大好きなのに」
バンザイ先生が言い終えた瞬間、苺はその場で尻もちをついて泣き出してしまった。伊香保が慌てて駆け寄り背中をさする。それでも苺は涙を流したままその場を立たず、伊香保が健を見つめて首を横に振った。
「苺、こっちへおいで」
健は苺の元に歩み寄り、お姫様抱っこをして外のソファーへ連れて行った。
「たけるくーん。ひっく、ひっく。もう、バイバイなの?」
「もう少し一緒にいよう」
健は苺をソファーにおろすと、苺の左手を両手で包むように握った。
「苺のことは可愛くて、愛おしく思う。苺を選べなかったのは、僕のせいなんだ。僕がもっと成長していれば、苺を本当に幸せにしてあげられたと思う。でも、今の僕には幸せにする自信がなかった。ごめん」
こんなに可愛い。愛おしいのに、最後の一人を選ぶためにはお別れをしなければいけない。苺との出会いがバチェラーでなければ、普通にお付き合いをして、楽しくすごせたのかもしれない。しかし、バチェラーの目的は結婚を目的とした交際だ。結婚を考えると、最後の相手は苺ではなかった。もし、茂さんのようなプログラマーとしての能力と包容力があれば、苺を選んでいただろう。
「苺、落ち着いた?」
心配した伊香保が声をかけにきた。
「うん」
苺は涙を両手で拭い、腫れた目で伊香保を見上げた。
「あたしたちはもう行かなきゃ」
伊香保は苺に手を差し伸べ、苺は伊香保の手を取り立ち上がった。
「伊香保、ありがとう」
「気にしないで。あたしはみんなのお母さんだから」
健の言葉に伊香保は自虐的に笑った。
「伊香保のそういうところが大好きだった。伊香保と一緒にいればいつも笑顔で過ごせると思った。でも、伊香保の優しさ、包容力に甘えてしまいそうで怖かった。だから、伊香保を選べなかった」
伊香保は涙を流したまま、じっと健を見つめる。
「うん、それでいいよ。でも、少しだけ……」
伊香保は健の胸に頭をあてると、健は包むように優しく抱きしめた。
「健、ありがとう」
伊香保は健から離れると、苺の手を握った。
「伊香保ちゃん」
「苺、一緒に行こうか」
二人は手を繋いで、ローズセレモニーの会場まで戻り、みらいと美園の前に立つ。
「みらい、美園、がんばってね」
伊香保の言葉に二人は黙って頷く。目には溢れそうなほど涙が浮かんでいる。
「みらいちゃん、みそのちゃん。応援してるからね」
苺の言葉に美園が先に涙をこぼした。みらいも続いて涙が溢れた。
伊香保と苺は健の方向に向き直し、正面から見つめる。
「たけるくん、いままでありがとう。バイバイ」
「健、もっと一緒にいたかった。また、うちの食堂にご飯食べにきてね。ご馳走するから。今度は温泉も入っていって。背中流してあげる」
健はうなずくと、伊香保と苺は手を繋いだまま、会場を去っていった。そして、バンザイ先生が再び会場の中心に戻ってきた。
「それでは、最後の二人となりました。あとはお一人ずつデートをしていただき、最後のローズセレモニーになります。また、その時にお会いいたしましょう」
バンザイ先生は言い残すと部屋を退出し、健も追うように部屋を出て控え室に向かった。
控え室ではバンザイ先生が立ったまま待ち構えていた。
「バチェラー。ローズセレモニー、大変おつかれ様でした」
健は小さく頭を下げた。
「最後のデートの前に少しだけお話をさせてください」
「はい、バンザイ先生、話というのは……」
「私とバチェラー部についてです」