「昨日、どうしてあんなことしたの……?」

 まるで自分が被害者であるような言い方を心の中で反省したが、キスをしてきたのは彼からだ。それはちゃんと覚えている。私も拒んだのだから。
 こちらは真剣だというのに、彼はしれっと「なんとなく、ムラッとしたから」と、まるで男子高校生のような軽い言葉を吐いた。

「そんな理由!?」
「美佳さん、結構酔ってたし、いけるかなと思って」

 完全にからかわれただけだとわかり、呆然とする。
 というか、いつの間にか名前呼びになっていて、こんな時だというのに不覚にもときめいてしまった。いけない、切り替えなきゃ。

「な、名前……。会社なんだから、下の名前禁止」
「ああ、すみません。でも外ならいいってことですよね。昨日散々ベッドの上で呼びましたし」
「なっ……!?」

 記憶を辿ってみれば、彼が耳元で私の名前を囁いたことを一切覚えていないと言ったら嘘になる。羞恥でどうにかなりそうだから、思い出したくはないけれど。

「まあでもいいんじゃないですか、べつにバレても。僕は気にしませんけど」
「そ、それはダメでしょ」

 もしこのことが、会社の誰かに知られたら……? 十も下の男性社員を誑(たぶら)かした上司とでも噂が広がれば、私は左遷かクビにされてしまうかもしれない。
 いくら酔っていたとはいえ、昨日の自分を思い出して猛省する。これ以上慌てふためいたって何もないのだからと、上司として毅然とした態度で彼に向かい合った。

「流された私も悪いことは重々承知してる。ちゃんと止めるべきだった。……でも、昨日のことはなかったことにしてくれないかな?」
「はい?」
「私もすごく酔ってたし、正直あまり覚えてなくて……。私たちは上司と部下なわけだし、今後の仕事にも影響が出るとマズいでしょ? だから昨日のことは間違いってことにして、なかったことにした方がお互いにも……」

 御託を並べて睦合くんを説得する。けれど逆効果だったのか、心底呆れたようにため息をつかれ、彼が距離を詰めた。

「それは無理です」
「どうして?」
「そんなこと言うなら、バラしますよ。あることないこと言って」
「脅す気!?」

 じろりと冷たい視線を向けられて、慄きながらも反抗してみせる。けれど、昨日の出来事が社内に広まれば、立場がなくなるのは確実に私の方だ。改めて懇願するように、彼に向き直った。
 もしかしたら彼は、何か狙いがあってこんなことをしているのかもしれない、と。

「……お願い、誰にも言わないでほしい。私も、今の会社に居づらくなるのは困るの。だからもし、私にしてほしいことがあるなら言って」
「してほしいこと?」
「私の弱みを握りたかった、とか……?」

 そう思えば、彼が昨日私と寝た理由も想像がつきやすい。
 睦合くんは呆気にとられたように口を開けている。一瞬見当違いなことを言ってしまったかと思われたが、彼はすぐに唇を結んで口角をあげた。

「……なるほど。じゃあ僕の言うこと聞いてもらえますか?」
「うっ……変なことじゃ、なければ……」

 次に、どんなとんでもないことを言われるのだろうと、緊張で鼓動が速くなる。
 息を呑んで彼の言葉を待つと、意外な一言を伝えられた。