あれから数日。乙女の楽園でティアは忙しく過ごしていた。
 悪女になろうと寝坊を繰り返したせいで、罰としていつもより多くのポーション作りをさせられていたのだ。

 一日の仕事を終え、夜となった。今日はドラゴンが捕らえられる日だ。
 ティアはこっそりと乙女の楽園を抜け出した。
 制服姿にお決まりのエプロンバッグをさげている。

 空には満月がポッカリと浮かんでいる。

 乙女の楽園は白樺の木に囲まれている。白樺の外側には出てはいけないことになっているのだ。
 ティアは今までそのルールを破ったことはない。白樺の向こうは汚れた地で、その汚れを受けた子供は聖女になれないと言われていたからだ。
 事実、白樺を越えようとした子供は怪我をした。それを、司祭は「バチが当たった」と言った。

 でも、もういいの。

 ティアは白樺でできた境界線まで向かった。
 
 ……大丈夫かな? この境界を越えたら汚れるってどういうこと? 本当に聖女になれなくなる?

 ティアはブルリと震えた。森の中はいっそう肌寒い。

 ティアは頭を軽く振った。

 ううん! もう聖女にならないって決めた! 私は悪女になるんだから、こんなことに怖じ気づいてたらいけない。
 それにもう後悔なんかしたくないから!
 
 ティアはゴクリと唾を飲み込んだ。白樺をマジマジと見る。子供のころはわからなかったが、大聖女の目で見ると結界が張られているのがわかった。

 これが怪我の原因ね……。神様のバチなんかじゃないじゃない。

 ティアは笑う。

 でも、この程度のもの、簡単に通れちゃう。

 白樺の境界線を一歩踏み越える。

 サクリと落ち葉が鳴った。その震動で、木の葉がはらりと落ちてきた。

 何事も起こらない。
 汚れた地と呼ばれていたそこは、熱くもなく寒くもなかった。違うのは、乙女の楽園より少し木々に元気がないことくらいだ。

 ティアはホッとため息をついた。

 なんだ、こんな簡単なことだったんだ……。

 ティアはまるでなにもないかのように結界を通り抜けた。
 結界は壊れもせずそのままだ。
 きっと、ティアがすり抜けたことすら感知できないだろう。

 こんな些細なものにずっと囚われていたと気づき、おかしくてクスクスと笑いが漏れた。

 結界の一メートルほど先は、崖になっている。ティアは魔法で重力をコントロールし、崖下にフンワリと着地する。

 たしかこのあたりだって聞いてるわ。

 ルタロス王国が、隣国エリシオン王国と戦うことになった原因となったドラゴンは、この崖下の洞窟で傷ついた姿で発見され、時間がかかったが退治された。
 
 その後、エリシオンの竜騎士は子ドラゴンの復讐のため、村を破壊した。森や町はドラゴンの毒によって汚染され、不毛の地となった。
 結界によって守られていた乙女の楽園のみが、その難から免れたのだ。
 ティアが大聖女として、浄化のため派遣されたことがあったが、それは無惨なものだった。

 だから、退治される前に逃がさなくっちゃ! 今の私なら紅蓮の希望と同化してるから、ドラゴンを治せるはず!

 ティアはそう思い、ドラゴンを探す。

 キュウ、キュウと獣が鳴く声が微かに聞こえた。
 声の先には、雷で打たれたのか焼け焦げたような木があった。
 ティアはそこへ駆け寄る。
 獣はその根元に横たわっていた。
 
 大きなトカゲのような体つきだ。全体が瑠璃色に輝いている。頭にはツノが一本、背中にはコウモリのような羽が一対生えている。頭から尻尾の先まで生えたたてがみはモフモフとしていた。
 本でも見たことのあるドラゴンだが、体長は六十センチほどと小さい。

「ドラゴン?」

 ティアは思わず呼びかけた。
 ドラゴンは、威嚇するようにギュアと鳴いた。
 ドラゴンは悪の化身として、人から退治されてきた生き物なのだ。
 きっと気づかず白樺の結界に触れ、墜落したのだろう。羽が破れ、体は傷ついている。

 可哀想に……。きっと、この子があのドラゴンね。

 ティアはちらりとドラゴンを見る。小さい体で一生懸命威嚇している。その姿がいじらしかった。

 ほかの人に見つかる前に、怪我を治して逃がさなくっちゃ!!

 ティアはドラゴンに向かって手を伸ばした。
 ドラゴンは逃げようとしたが、翼を怪我していて逃げられない。

「大丈夫! 怖がらないで! 治してあげるから」

 ティアはそう言うとドラゴンを抱き上げた。
 桃色の光にドラゴンが包まれる。ティアの神聖力だ。

「キュアァァァ」

 ドラゴンは驚き叫び、ジタバタと暴れた。
 ティアは離すまいと腕に力を込める。
 ドラゴンはさらに暴れ、ティアの肩に噛みついた。

「っ!」

 ドラゴンの牙には毒がある。
 強烈な痛みがティアを襲う。
 それでもティアは歯を食いしばって耐えた。

「大丈夫、私はあなたをいじめたりしないよ」

 脂汗をかきながら、ティアはドラゴンの背中を撫でた。

 怒りで興奮していたドラゴンが段々と落ち着いてくる。
 ドラゴンの口元からは、ティアの血が零れていた。
 ドラゴンの青い毒と、ティアの鮮血が混じり合い黒くなる。
 ボタリと血が落ちる音。落ちた場所の草がジュッと悲鳴を上げて焼けた。
 緑の土地にドラゴンの毒が広がって、そこから荒れていく。

 ドラゴンはハッとしてティアを見る。
 ティアは無抵抗で微笑んでいる。
 ハァハァと荒い息を吐きながら、ただひたすら、大丈夫、大丈夫、それだけを呟いていた。

 ドラゴンは自分の怪我が治っていることに気がついた。傷は塞がれ、羽も新しくなっている。もとの体と新しく治った場所は少しだけ色が違っていたが、痛くはない。

 そして自分は命の恩人を傷付けていたのだと知り、胸が痛くなった。

 ドラゴンはゆっくりと口を開いた。
 鋭利な牙にはティアの血が混じっている。

「キュァァ」

 ドラゴンはそう言って、すまなそうに頭をさげた。
 ティアは笑う。

「大丈夫よ、ビックリしただけだよね」

 そしてまた、大丈夫大丈夫とドラゴンを撫でる。
 しかし、ティアの腕からはまだ血が流れている。
 ティアは自分の怪我や病気は治せないのだ。

「キュゥゥゥン」

 ドラゴンは鳴いた。
 そしてベロリとティアの傷口を舐める。血はすべて舐めとられ、破れた服のあいだから牙の傷口だけがぽっかりと開いて見える。

「血が止まった……?」

 ティアはドラゴンを見た。
 ドラゴンはキュァと鳴いて小首をかしげる。

 か、かわいい……。

 ティアはあまりの可愛さに悶絶(もんぜつ)する。

「あなたが治してくれたの?」
「キュア」

 ドラゴンが頷いた。

「ありがとう!」

 ティアはその頭をヨシヨシと撫でる。

「っ!」

 そのとたん、激痛が走る。
 肩は完全に治ったわけではない。ただ血が止まっただけだ。しかも、毒のせいか熱を帯び始めている。

「……失敗した。神聖力では自分のことは治せないのに。ポーションは持ち出してないし……」

 せっかくやり直したのに、今回はここで死ぬのかな……。

 ティアはボンヤリと思う。毒のせいか意識がもうろうとしてくる。

「キュアア?」

 ドラゴンが不思議そうにティアを見た。
 ティアはドラゴンに心配をかけまいと笑う。

「キュウウン?」

 ドラゴンが心配してティアを舐める。

「……良くなったら急いで家族のところに帰るのよ。白い木の周辺は結界があるからね。ぶつからないように気をつけて。人間に見つからないように……、たかい……と、ころ……」

 ティアはズルリと倒れ込んだ。

「キュア? キュウ! キュウウ!!」

 ドラゴンはティアに呼びかける。

「……おお、きい、こえ、だしちゃ、だめ……みつかったら、ころされ……る……から……」

 ティアの言葉はそこで途切れた。

 せめて、あなたは無事に家族のもとに帰れると良いね。

 ティアは思う。

 私には心配してくれる家族はいない……。
 
 ティアの目尻からホロリと一粒涙が零れた。

 ドラゴンはティアの涙をペロリとなめる。
 悲しくて、淋しくて、しょっぱい味がした。

 その瞬間、ドラゴンが桃色に発光した。
 ティアは驚く。

 桃色の光の中で、ドラゴンは変貌する。
 額の中央から、ツノが抜け落ちる。瞳は桃色に変わり、鱗は光の加減でところどころピンクに光って見える。

「え、えええ……?」

 ティアは動揺した。自分の腕の中でドラゴンが変化したのだ。
 ドラゴンは、ティアの腕から出ると、落ちたツノを拾いティアに押しつける。
 そして、大きく羽ばたいた。
 大きく口を広げ、咆吼する。しかし、音は聞こえない。

 すると突然月が陰った。
 雷鳴が轟き、突然のスコールが降り出す。
 ティアは呆然と雨に濡れている。
 そしてスコールの中から、真っ白なドラゴンに乗って美青年が現れた。