「俺がいる」
イディオスが声を上げた。
喉が引きつり、熱を帯びる。
ゲホと咳払いをする。
「ティアには、俺がいる」
繰り返すイディオスを見て、クレスは首をかしげた。
「しかし、殿下は人を愛せないではありませんか」
「そんなことは――」
イディオスが否定しようとすると、喉が詰まった。
「否定しないんですね」
クレスは意地悪に笑う。
「違う。俺はティアをす」
ゲホと吐いたとのは鮮血だった。
ただ一言、「好きだ」と言うだけのことができない。
苦悶の表情でイディオスは唇を噛んだ。
スピロは残酷な呪いだと思う。
愛する心がなくなったわけではない。愛することができなくなったのだ。
スピロは宿で弟から手渡された手紙をティアへ渡した。
不器用な弟が書いた手紙だ。
ティアはそれを開いた。
中には一言、『君を夏の日に例えようか』と書いてある。
古い詩の書き出しを、ティアは十二回のループを経て知っていた。その先の詩が胸の中に広がってゆく。
その言葉の意味がわかり、切なくなる。呪いをかけられたイディオスには、きっとこれが限界だったのだ。
「無理しないでください」
ティアがイディオスの血を拭う。
イディオスは首を振った。
「無理じゃない。俺はあなたを――」
ヒューヒューと喉が鳴る。苦しくて肩が上下する。
喉の奥で冷え冷えとした大きな固まりが詰まっている。それが思いの邪魔をする。
自分の唇が凍えてくるのがわかる。このまま凍って割れてしまいそうだ。
「イディオス。もういい、もういいから」
鳴き声で自分の名を呼ぶ柔らかそうな唇。
イディオスは眩暈した。
衝動的に指先でティアの唇をなぞる。
「すまない。言えない。言葉にならない」
イディオスは悲痛な面持ちで謝った。
「嫌わないでくれ」
そう言って、ティアの頬を両手で挟んだ。
「嫌いになんてなれません。イディオスが愛せないなら、私が愛せば良いだけだから」
ティアは微笑んだ。
もらった詩の一文に愛を示す言葉はない。
しかし、愛という言葉がなくてもわかる。愛せない呪いをかけられた人が、必死に愛を証明しようとしてくれているのだ。
それだけで、ティアは胸が一杯になる。
もう、それ以上いらない。
ティアはイディオスの意図をくみ取って瞼を閉じる。目尻に涙が光った。
イディオスは口づけようとして、体が固まった。喉の奥で呪いが暴れる。
そのとき、イディオスの頭をキュアノスが強く叩いた。
イディオスの唇がティアの唇に重なる。
ティアはその冷たさに心まで凍えるようだった。
情熱とはかけ離れた冷たい唇。愛を感じ取れない無機物的なそれ。
しかし、ティアはイディオスの頭を抱えこんだ。
そして、唇に息を吹き込む。
魔女が呪いを吹き込んだなら、私も神聖力を吹き込んでみよう。聖遺物がなくてもできることはやってみよう。
ティアの息吹が、イディオスの喉を温める。ティアは聖遺物『紅蓮の希望』の持ち主であり、同じ力を持つのだ。
イディオスの体から緊張が解けてゆく。動きを止めたからだが動く。唇が温かくほぐれる。
ティアをきつくかき抱き、口づけを繰り返す。
どちら吐息がどちらのものかわからないほど溶け合うと自然と言葉が零れた。
「好きだ。ティア。愛してる――」
すると、突然イディオスの鎖骨のあいだが青く光った。
ティアの持つ『紅蓮の希望』の力が、イディオスの呪いを解いたのだ。
ティアは見覚えがある光景に息を飲んだ。そして、ドロメナの湖の中で見た魔法陣を宙に書き、指先で弾く。
イディオスの胸元に魔法陣がぶつかり、光が収縮していく。するとその光りは固まって、魔石となって現れた。濃紺の石の中に、ピンク色の煌めきが見える。まるでキュアノスの鱗のようだ。
すると、礼拝室の扉が自然に開かれた。
奥のドロメナ神の像が光り輝いている。
威厳ある声が教会内に響いた。
≪聖遺物『紅蓮の希望』の真実の愛により、青い呪いが分離した。ふたりの愛を祝し、この魔石を聖遺物『群青の光明』とする≫
ドロメナ神の声とともに、青い宝石が光り二つのブレスレットへと形を変える。そして、そのブレスレットはティアとイディオスの左手首に収まった。
ティアとイディオスが聖遺物の持ち主と認められたのだ。
クレスは呆気にとられた。
ギギと礼拝堂の扉が閉じられる。
「神に愛を祝されたふたりだ。心配することはないでしょう」
スピロが笑い、クレスはガクリと膝をついた。
ゆっくりと顔を上げ、縋るようにティアを見つめる。
「……ティア……。お願いです。私にはあなたが必要です。戻ってきてください」
悲壮な声で言いつのるクレスに、ティアはフルフルと首を振った。
「何度言われても、私はもう戻りません」
キッパリと答える。もう心は揺るがなかった。
「ティア……。あなたがいないと死んでしまう。お願いだから」
クレスはなおも縋る。
イディオスはクレスを哀れむように見た。
「ティアの幸せを願うならもうやめろ。自由にしてやれ」
クレスはティアを見つめた。
凜として立つひとりの少女。
もう誰の顔色もうかがわない。
「ティア、あなたは本当に強く、美しくなりましたね」
クレスは微笑んだ。その頬には一筋の涙が伝っていた。
「……ありがとうございます」
ティアは優雅にお辞儀をし、教会をあとにした。
クレスは床に落ちた白いブーゲンビリアを拾う。
口づけようとしたとたん、その花はもろく崩れた。
「本当に愛していたんです……」
涙とともに零れた呟きは、床にシミを作った。
しかし、その思いはもうティアには届かなかった。
クレスはエリシオンの騎士たちに抵抗することなく捕らえられた。