「足音がするわ、誰か来るわね」
「院長じゃないっすか」

「あの足音は隼人院長です。いつもよりのっしのっし重い音です、相当怒っていますよ」
 私なにかしたかな、怖い。緊張感が体をこわばらせてしまう。

「阿加ちゃんったら飼い主の足音を認識してる飼い犬みたいね、気分まで分かるのね」
 バタン! 強風でも吹き荒れているのかと思うほど勢い良く医局のドアが開いた。

「波島居るよな」
 剣のある目がますます鋭く厳しく朝輝先生をとらえている。

 朝輝先生なの、私じゃなかった。内心ほっとしたけれど、只事ではない雰囲気に現場が膠着状態に陥る。

「おはようございます」
 みんなの挨拶にも返さず、朝輝先生に向かって怒りをあらわにしている隼人院長は鬼の形相。

 なにがあったのか緊迫状況の中、固唾を飲んで見守るしかない。
 
「波島が深夜の救急手術をしたよな、柴犬のリュウ」
「はい」
「お前、重要なことを怠っているのが分かんねぇのか!」
 隼人院長から叱責を受ける朝輝先生の顔がみるみるうちに青ざめていくのが分かった。

「患者に影響はなかった。ただな、上の者への連絡が遅ぇんだよ」

「麻酔をかけてる最中に血圧が下がりすぎたので、なんとか回復させようと頑張りすぎて報告が遅れてしまいました。大変申し訳ございません」

「研修医だから出来なくて当たり前は通用しねぇんだよ、研修医といえども現場では、れっきとした獣医師だ!」

 今日もドカンと怒鳴り散らして凄い剣幕。

「院長、波島くんも十分に反省してます。許してあげてください」
 いつもみたいに葉夏先生が朝輝先生を庇うようにして、隼人院長をなだめる。

「矢神はいつも波島を庇う、こいつを甘やかすな、波島のためになんねぇのが分かんねぇのか」

 これ以上、第三者が増えて事を荒立ててはいけないことを察したのか、葉夏先生が心配そうに引き下がった。

「連絡や報告はしねぇわ、基本中の基本の凡ミスはするわ、いったいどうなってんだ集中しろよ集中。気を引き締めろ」

「すみませんでした、以後気を付けます」
  
 朝輝先生の謝罪を聞いてか、隼人院長が踵を返すと医局を後にした。

「波島くん、座りなさい」
「はい」
「なにか波島くんの様子が変だった原因はこれだったのね」

 だから、葉夏先生に理由も言わずに帰りたくないって言ったり、僕のことも心配してって甘えていたんだ。

「麻酔をかけている最中に血圧が下がりすぎたときは本当に怖くて、生きている心地しなかったっす。自分の無能さに愕然としました」

 見た目は軽くてチャラくて性格も明るくてポジティブで切り替えが早い朝輝先生でも、実は人知れず不安になったり自信がないときもあるんだ。

 私みたいに必死に恐怖心と戦っているんだ。