怒りがちょうどピークに達したよう。とにかく誠心誠意で謝罪して落ち着かせよう。

「一時間待ってんだ、どんだけ待たせりゃ気が済むんだ、馬鹿にすんな!」
 日に焼けた腕を振り上げ、大きな手のひらで診察台を叩き上げた。
 飼い主の怒りは、すぐには収まりそうにない。

「人見先生が診療中ですので少々お待ちください」
「あんた逃げんのか」
「そうじゃないです」

 腹の虫が収まらない飼い主に、結局、二十分くらい罵倒され続けて診察室を出たら、ひとつ先の診察室から俊介先生がほぼ同時に出て来た。

「俊介先生、診療大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、空いてる。術後の処置に時間がかかっちゃって」
 俊介先生のホッとした顔が曇った。

「顔色が悪いよ、大丈夫?」
 事の顛末を話すと俊介先生は悪くないのに『ごめんね』って言いながら、飼い主の待つ診察室の扉を開けた。

「こんにちは、お待たせしまして大変申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げた俊介先生が姿勢を正した瞬間に私を隣に立たせ、飼い主に向かって「女性には優しくしないとダメですよ」と、朗らかな微笑みで声がけしてくれた。

 飼い主は俊介先生の穏やかな言動で我に返ったみたいで「そうだなあ、優しくしないとなぁ。ごめんな」と仰り、さっきとは別人の笑顔を私に向けた。

「あとは僕に任せて」
 そっと囁く俊介先生の言葉に飼い主に軽く会釈をして診察室をあとにした。

 それから、三十分ほどして診察室から出て来た俊介先生の表情は変わらず穏やかで、飼い主も終始機嫌が良かったそう。

「お疲れ様です」 
「お疲れ様、嫌な思いさせてごめんね」

「とんでもないです。助け舟を出していただけて助かりました。ありがとうございます。飼い主もけっこう待ってましたし、犬も待ちくたびれてましたし大変でしたよね」 
 
 飼い主から待ち時間が長いと暴言を吐かれたり、理不尽なことも多いのが獣医療の世界。

 その中で俊介先生くらい温厚な人は見たことがない。
 そもそも理不尽なことが多すぎて結果的に温厚になってしまうのか、元々温厚なのかどうか分からない 。

「人は期待と怒りが結びつくと攻撃的になるんだよ」
 温厚で冷静な俊介先生に反して、興奮しながらわめき散らした横柄な飼い主の状況を説明してくれる。

「飼い主は自分が望んでいる行動を相手がしてくれるはず、察してくれるはずって期待していたのに、それが叶わないから不機嫌になって責めた」

「予約時間通りで良いって言ったのに」
 
「クリーレンは、ひとりの飼い主の甘えにいちいち応えて振り回されるような、町の小さな病院とは違うよ」

「少しびっくりしちゃいました」
「阿加ちゃんは面食らったよね、びっくりしたよね、いちいち気にしなくていいよ」

「おう、お嬢ちゃん、お疲れ。あんな奴と同じレベルに落ちるこたぁねぇよ」
 敬太先生のハツラツした声は、たちまちのうちに周りを元気にする。

「クソみてぇなイチャモン真っ向から相手にしてねぇで、見せかけでも腰低くしときゃいい」

 真っ黒な肌とツーブロックの黒髪に筋肉質の長身体型の敬太先生なんかに、並の男性なら文句言わないよ。
 今の飼い主は、おとなしくて文句を言わなそうな弱い立場の人間を選んで攻撃してきたでしょ。

「こんなにハードで理不尽だなんてって思ってんだろ。悪いことは言わない、感情をなくすことを覚えることだな」
 
 良くも悪くも人の感情を受け止め過ぎる私の心。感情をなくすことは容易いのかな?
 
「ナイスな対応だった。見た目に反して芯が強いんだな。よく泣かなかった、偉い」

 うわあ、髪の毛が。
 遊び好きの大型犬にもみくちゃにされたみたいにぐしゃんぐしゃんになった。

 敬太先生の大きな手が撫でたから。

「髪の毛まで色気ねえのな、赤ん坊の髪の毛みたいにサラサラで柔らかい。俺の男の反応がまったく起きない。おっ、見っけ」

 なんとかちゃ─んって言いながら、お目当ての看護師を見つけたらしくて走って行った。
 フットワーク軽いな、今日夜勤明けって言ってなかったっけ? タフ過ぎてびっくりする。

「塔馬先生はお祭りみたいに賑やかだね」
「ですね」
 通りすがりの朝輝先生の隣で、いつまでも見送って事の成り行きを見ていた。

「優しいよね、塔馬先生」
「はい、励ましてくださり元気になりました」
「ところで、どうしたの。髪の毛、爆発してんじゃん。それさえも可愛いけど、もっと可愛くしてあげるからじっとしてて」