祈りの織姫は恋をする~気弱な身代わり悪女ですが、初恋の皇太子様と婚約破棄しろと言われました~【書籍化】

 彼女の目の前にいるのは、端正な美貌の青年だった。
 グラウローゲン帝国のヴァーレン寄宿学校の寮長室。
 午後の日差しが窓から差し込み、カルロ皇子のさらさらした金髪をひときわ輝かせる。
 紫水晶の瞳がどこか妖しい魅力を放ちながら、彼女を見つめていた。
 彼はカルロ・マクレーン・イルス・グラウローゲン。今年で十六歳になる、このグラウローゲン帝国の皇太子であり、マリアの婚約者だ。

(……ただし、偽りの関係だけど)

 彼女は内心そう愚痴る。
 カルロが熱を帯びた瞳で見つめて、彼女の頬にそっと手で触れた。その途端、少女はビクリと身を震わせる。

「マリア。また、その話ですか? どうして僕に婚約破棄してほしいと言うんです?」

「それは……私には身に余ることなので……」

(だって本物のマリアは、海賊王に嫁ぎたいと言って家出しちゃったんだもの……! 私は偽物のマリーなんだってば! しかも庶民の娘なのに、皇子と結婚なんてできる訳がないわ!)

 今、カルロ皇子の前にいるマリア・シュトレイン伯爵令嬢は、本物とそっくりな偽物のマリーだった。
 一部を編み上げた黒髪は背中までまっすぐに流れている。その青い瞳は、本物のマリアが海賊王を追って向かったバレル海のように清らかで澄んでいた。見た目にはカルロと同い年の、完璧な貴族の令嬢にしか見えない。
 だが、どうしてもオドオドしているように見えてしまうのは、彼女の性格からだろう。
 制服のスカートで隠れているが、少女の膝は小刻みに震えている。異性に近付こうとすると本能的な恐怖を抑えられないのだ。今は義務感と貧弱な精神力だけで、涙ぐましく堪えている状況だった。

(どうして男嫌いの私が、こんなことを……)

 彼女がこのような事態に陥っている原因は、二か月前の出来事にまでさかのぼる。


 ◇◆◇


「そろそろ休憩したらどうだい?」

 そう部屋の戸口で声をかけてきたのは、ベティだった。
 スカーレット・モファットが経営する娼館の一室。華やかな装飾のほどこされた建物の、お客も立ち入らない奥まった場所にマリーの部屋はあった。

「そうね。ありがとう。ベティ」

 マリーは笑顔で機織りの手を止める。集中すると寝食を忘れてしまうのが悪い癖だ。
 目の前には大の男が二人がかりでないと運べないような│機織《はたお》り機があった。いつもお世話になっているその木製の織機をそっと労わるように撫でる。
 ベティはぐるりと室内を見回して、感心したように口笛を吹きながら言う。

「それにしても、あんたの部屋はいつも壮観だねえ。ちょっと見ない間に衣装がものすごく増えてるじゃないか」

 マリーの部屋には木製のトルソー(人を模した胴体だけのもの)が何体も置かれており、仕立て途中のさまざまなドレスや紳士服がかかっている。
 壁に備え付けられた棚は天井まであり、多種多様な糸や編み針、完成したレースが綺麗に整頓されて箱に収納されていた。机の上にはレースやドレスのデザインが描かれた紙が山積みになっている。たくさんの物があるのに乱雑さを感じさせないのは持ち主の几帳面さの表れかもしれない。

「えへへ……そうかしら? どうしても作りかけの布やレースが溜まっちゃって……」

「一人で全部やらなくても、店のお針子達と分業したら良いのに」

「そうね……でも、スカーレットさんにさせてもらえないから……」

 マリーは苦笑を浮かべた。
 スカーレットの経営する仕立屋のお針子達と作業分担した方が早くできるが、マリーは全て一人で行っていた。本来なら意匠を考えるデザイナー、繊維の塊から糸を作る糸紡ぎ師、その糸から生地を作る機織り職人、生地を繋ぎ合わせる裁縫師、衣装につける刺繍やレースを作るお針子など、ドレスを作るにはそれぞれの工程を行う職人がいる。

「でもスカーレットから、ほとんど賃金はもらってないんでしょ? こんな娼館の狭い部屋に押し込まれてさぁ。あんたを他所に引き抜かれたくないからって、【織姫】の正体も隠しているし……」

 ベティが眉をよせて言った言葉に、マリーは困ったように目を逸らす。
 それがマリーが娼館の自室で一人きりで働いている理由だった。
 マリーは特殊な能力を持っており、【織姫】と呼ばれる巷で騒がれる職人だった。しかし、スカーレットは【織姫】の正体を隠して利益を独占しているのだ。
 けれど、マリーは嫌と言えない理由があった。

「私はスカーレットさんに借金がありますから……」

 マリーの母親は高級娼婦だったが、幼い頃に亡くなってしまった。身寄りがなかったマリーは、母がいた頃から住まいを世話してもらっていたこの娼館で下働きをしながら今も生活をさせてもらっている。しかし、これまでかかった生活費は返却しなければならないという契約をスカーレットと結んでいた。
 昔からの知り合いだからと信用して、道理の分からない幼少期にサインさせられた契約書は法外な利息のついたもので、今では借金は三億ジニーにまで膨れ上がってしまっている。庶民では一生働いても返せるかどうか分からない額だ。
 マリーの作った衣装は高額で売買されていたが、その窓口になっているのはスカーレットだ。手元にはわずかな賃金としてしか入ってこない。『ほとんどは借金の利子で消えているから、それだけしか出せないわよ』と言われてしまえば、マリーも引き下がるしかなかった。

「そのブローチも、売ればそれなりのお金になるだろうに」

 マリーの胸につけていたブローチを指さして、ベティは嘆くように言った。
 それは黄色の希少な宝石タキシナイトという宝石で、売ればかなりの値がつくことは分かっていた。
 マリーはそっと、そのブローチに触れる。繊細な意匠をほどこされたそれは、誰もが目を奪われるような質の良いものだ。

「でも、これは……大事な思い出の品なので」

 今よりもマリーが明るい性格だった幼い頃に出会った、初恋の少年カルロからもらった物だ。一度しか会えなかったけれど、あの時の記憶は今でも鮮明に残っている。
 唇を引き結んでいるベティに、マリーは肩をすくめて笑みを向けた。

「私は大丈夫です。温かい食事もいただけて、寝る場所もあって……裕福ではないけれど、好きな仕事もできています。これ以上望んだら、きっとバチが当たりますよ」

 そう言うマリーを、ベティは痛々しげに見つめる。

「マリーはさっさと、娼館を出て自分の店でも持った方が良いよ。雇われの職人と自分の店じゃ違うしね」

 ベティの言葉に、マリーはうつむいた。

「そうしたいのは山々ですが……」

 以前、個人的に商工会で衣装を売ろうとしたことがあったが、商工会の偉い人が娼館の上客だったため、スカーレットに知られて激しい叱責と体罰を受けた。
 商品を売りたければ商工会に加入しなければならないが、マリーの商品はすでにスカーレットを通してしか販売できないように勝手に契約がされていたのだ。そのせいで、マリーは身動きができなくなってしまっている。スカーレットの手を離れて商売をするのは極めて難しい状況だ。

(いっそ、違う国に逃げてしまえば良いのかも……)

 そこまで考えて、マリーは自嘲の笑みをこぼして首を振る。

(無理よね……分かってる……私にはそんな勇気ないもの)

 スカーレットの報復が怖くて、あと一歩が踏み出せない。それに法外な借金をさせられたとはいえ、ここまで育ててもらった恩も確かにわずかにはあるのだ。それなのにすべて踏み倒して逃げても良いのか、臆病なマリーには決められずにいた。

(……ベティが言うような『自分の店を持つ』なんて過ぎた夢は望まないから……せめて、お客様に直接会って、どういう風に仕上げたいか完成イメージを聞きながら作りたいのだけれど……)

 自分が作ったドレスにお客が満足しているのか、マリーには確認できない。
 もっと一人一人に寄り添ったデザインを作りたい気持ちはあるのに、スカーレットに渡された注文書通りに作り、それが喜ばれているか分からないという無味な生活を送っているのだ。

 ──ふと、その時に廊下の方からバタバタと男性の足音が聞こえてきた。それと同時に娼館の使用人らしき女性の声が「そちらは立ち入り禁止です!」と焦ったように誰かに訴えている。
 その無遠慮な空気から、マリーはすぐにそれが誰なのか察して身を硬くする。恐怖で勝手に身が震え始めたマリーの肩を、ベティが気遣わしげに抱いた。
 男の声が扉越しに聞こえる。

「俺は良いんだよ。俺を誰だと思っている? この娼館のお得意様の、テーレン商会長の息子のギルアン様だぞ」

 声かけもなく扉が開けられ、「よお」と、ニヤニヤ笑いを浮かべながら現れたのは、ギルアン・テーレンだ。

「はぁ~、こんな辛気臭い部屋に、よくずっとこもっていられるよなァ」

 彼は室内を眺めまわして、そう呆れたように言った。
 まるで部屋自体が裁縫箱のように針や糸、マリーの好きなものがいっぱい詰まっている。

「……何しにきたの?」

 マリーが強張った顔でそう問いかけると、ギルアンは肩をすくめた。

「幼馴染に対して冷たいなァ、マリーは」

 マリーはギルアンを己の幼馴染とは認めていなかった。幼馴染というのは好意的に言い過ぎだからだ。幼少の頃から付きまとわれて、嫌がらせをされ続けている。ギルアンと彼の取り巻き達はマリーの男嫌いのトラウマを作ったのだ。

「こんな美男子を前に、そんなつれない態度をするのはお前くらいだな」

 しかし、ギルアンは楽しげにそう笑う。
 確かに彼は整った相貌をしている。肩で切りそろえた銀色の髪、金色の目。マリーと同じ十六歳で、まだ少年といってもいい年のはずだが、その酷薄そうな笑みには支配者の傲慢さが見て取れた。

「……用がないなら、帰って」

 いきなり部屋に入ってくる無礼者を追い払いたかった。
 彼がマリーの反抗的な態度に立腹し、髪の毛を引っ張られたり、時に殴られ、罵倒されてしまうと分かっていても、ギルアン相手に従順な態度は取りたくない。大人しくした方が態度が軟化すると分かっていても、彼にそばにいられると血の気が失せ、吐き気と気が遠くなるのを止められないのだ。
 早くギルアンから離れたい一心で冷たく言った。
 いつもなら罵倒のひとつは飛んでくるはずなのに、今日はそれがない。ただニヤついているだけのギルアンを気持ち悪かった。

「そんな憎まれ口を叩いていられるのも、今の内だ。俺の女になった時は、たっぷり身の程を分からせてやるからな」

 突然の『俺の女』宣言に、マリーは瞠目する。

「何を……言っているの?」

 マリーの仕事は服飾作り──機織りや、縫い物だ。娼館に住んでいても身売りなどしたことはない。

「ああ、まだ聞いてないのも当然だな。さっき、話がまとまったばかりだからな」

 ギルアンは愉快そうに笑う。
 なんとなく嫌な予感をおぼえて、マリーの肌が怖気立つ。

(いったい何……?)

「お前は売られたんだよ。三億ジニーの借金と引き換えに、俺に買われた。お前は俺の専属娼婦だ」

 ──悪夢のようだった。

「う、そ……」

 呆然としてつぶやくマリー。
 ギルアンは耳を小指でほじりながら言う。

「疑うならスカーレットに確認してみたらどうだ?」

 その余裕の態度に、マリーの目の前が暗くなる。おそらく真実だ、と察してしまった。

「三日後には、お前はこの娼館から出ることになる」

「どうして……」

「俺の家に住むんだ。せいぜい織物でも何でも今のうちに好きにやればいい。家にきたら、もう二度と針仕事なんてできなくなるからな。お前のような愚図には俺の性欲解消以外の役目ない」

 それは大好きな針仕事からも引き離されるということだ。
 ただでさえ異性がそばにいるのが怖くて仕方ないのに、春を売るなんてできるはずがない。しかも相手が世界で一番苦手なギルアンだ。彼に毎日身も心も蹂躙されるのだと思うと、死んだ方がよっぽどマシに思えた。

「俺はお前のそういう顔を見るのが大好きなんだ」

 ギルアンはご満悦といった様子で笑う。彼はマリーが嫌がる姿を見るのが趣味なのだ。

「せいぜい男の喜ばせ方でも勉強しろよ。そしたら可愛がってやらないでもないぞ。愚鈍でブスなお前でも、愛想を振りまくことくらいできるだろ」

 そう言って、ギルアンは去って行った。
 実際のところ、マリーは決して不細工ではない。むしろ花街の女性の頂点に立っていた母親の美貌を濃く受け継いでおり、並外れた器量を持っている。しかし昔からギルアン達にいわれのない侮辱を受け続けてきたために、背を丸めてしまう癖をするようになり、その重たい前髪と自信なさげな態度によって、生来の美しさは隠されていた。それこそが周囲からあなどられる要因となっていることにマリーは気付いていない。
 自分の体を抱きしめて震えを堪えているマリーを見て、ベティはぐっと苦いものを飲み込んだような表情をする。

「スカーレットのところに行きましょう。ギルアンの糞野郎の言っていることが本当かどうか問いただしましょう!」

 そう急かされ、マリーはベティに手を引かれて、弱々と歩き出した。





 スカーレットは書斎で煙管(きせる)を吸っていた。彼女は東国から取り寄せた刻みタバコを吸うための細長いパイプを好んでいたが、マリーは漂ってくるこのにおいが苦手だった。
 ベティが前のめりになって抗議する。

「いったいどういうことですか!? マリーをギルアンなんかに売るなんて! 彼女がどれだけこの娼館に貢献してきたかご存じのはずです。率先して下働きの子達がするような仕事もしてくれていましたし、スカーレット様の仕立屋だってマリーの作った衣装で大繁盛していたじゃないですかっ」

 ものすごい剣幕でまくしたてるベティが不愉快だったのか、スカーレットは片眉をあげて、ふぅと白い煙を口から吐く。

「相手は四大貿易商のひとつ、テーレン商会長の息子のギルアン・テーレン様だよ。テーレン商会に睨まれちゃあ、うちも商売がやりにくい。それに商会長もギルアン様も、うちのお得意様だからねぇ。あれだけお金を積まれて頭を下げられちゃあ、私だって嫌とは言えないよ。マリーの借金を支払っても余裕でおつりがくるからねぇ」

 スカーレットがけだるげに話した言葉に、マリーの胸が(ふた)がる。
 ギルアンは男尊女卑の思想家で、言うこと聞かない女は殴ってでも分からせろ、という思考の持ち主だ。
 マリーも幼い頃から何度も殴られているが、揉め事になるたびにギルアンの父親がスカーレットにお金を握らせ、黙らさせられるのだ。そんな相手に身をゆだねるなんてできるはずがない。

「私には、できません……」

 か細い声で、マリーはつぶやくように言う。
 娼婦という仕事を下に見ている訳ではない。母親はやりたくもない水商売までしてマリーを育ててくれた。
 たとえ人から蔑まれるような職業であっても、マリーは母親を尊敬していた。しかし身体を売る商売は病気にもなりやすく、若くして亡くなる者が多い。母親はマリーにはそういう仕事をさせたくないと生前ずっと漏らしていた。男性恐怖症で異性と肌を重ねることへの抵抗感以上に、母親の気持ちを裏切りたくなかった。

「できる、できないじゃない。やるんだ。これは命令だよ! それが不満なら今すぐ借金を耳を揃えて返すんだね! できないならガタガタ言うんじゃないよ!」

 そう取り付く島もなくスカーレットは言い、マリー達は書斎から追い出されてしまった。
 廊下でベティに「何もできなくて、ごめんね」と申し訳なさそうに謝られてしまう。マリーは力なく首を振った。

「ううん。ありがとう、ベティ。……あと三日でお別れになってしまうのは寂しいけど、それまでよろしくね」

 誰も頼れる者がいないこの娼館で、母親の親友だったベティだけがマリーに優しくしてくれた。きっと彼女がいなければ、ここまで耐えられなかっただろう。
 マリーが無理やり作った笑顔を、ベティは悲壮感あふれる表情で見つめていた。





 マリーは下町を当てもなく歩きながら、物思いにふける。
 今は石鹸などの生活必需品の買い出しのためと言い訳して娼館を出てきていた。実際は娼館の中が息苦しくて、外の空気を吸いたかっただけだ。

「……そろそろ帰らなきゃ」

 マリーはぽつりとつぶやいた。
 遅くなれば、ベティ達を心配させてしまう。

(……もし、このまま帰らなかったらどうなるかな)

 逃げたい。明後日にはギルアンの元に身をよせなければいけなくなるのだ。
 逃げ出したことがバレたら折檻されるだろう。
 それでもギルアンなんかに好きにされたくない。大好きな仕事を奪われるのも嫌だ。
 脳裏で『逃げよう』とささやく声に背を押されて、娼館とは反対方向に震える足を踏み出しかけたが──今受けている依頼のことを思い出して足を止める。
 マリーが受けている仕事は【織姫】に制作してほしいという指名を受けたものだ。他の人が同じ図柄を織ってもお客が望む物は作れない。ここで逃げたらお客を落胆させてしまうだろう。

「でも……受注している仕事が終わるまで待っていてほしいと頼んだって、ギルアンが受け入れてくれるはずがないわ」

 彼の性格をマリーはよく分かっていた。

(私はいったいどうしたら……)

 そうつぶやいて途方にくれていた時──。

「きゃああぁっ!」

 突如、後ろから女性の悲鳴と何かが落ちるような音が聞こえた。

「あっぶねえだろ! 気をつけろ!」

 振り返ると、マリーのすぐ横をおんぼろ馬車が砂ぼこりを立てながら走り去って行った。
 おそらく先ほど怒鳴ったのは、その馬車の馭者だろう。馬車がようやく一両通れるくらいの道の端に若い母親と一歳くらいの娘がうずくまっている。
 マリーが慌てて駆け寄った時には、幼児は顔を真っ赤にして大泣きしていた。膝は少し擦りむいてしまったのか、血がにじんでいる。

(もしかしたら、遊んでいた時に馬車の前に出てしまって、驚いて転んでしまったのかもしれないわ……)

 若い母親は「ほら、大丈夫よ。泣き止んで」と言って娘を抱っこしてなだめようとしていたが、幼児は泣くばかりだった。

「……大丈夫ですか!?」

 マリーはそう問いかけながら、肩掛け鞄に入れておいたハンカチを取り出して、さりげなく幼児の膝に這わせた。それはマリーが織ったハンカチに、刺繍で【癒しの力】を宿す魔法陣を縫い付けてある。

(──精霊さん、この子の怪我を治してあげて)

 マリーがそう願いを込めて魔法陣に触れると、空中に金粉のようなきらめきが踊った。これは【織姫】である彼女にしか見えない精霊達が放つ光だ。人の姿をしている彼らが踊ると、擦りむいていた箇所は綺麗に治っていた。

「あら……? 怪我をしていたかと思ったけれど、気のせいだったかしら……?」

 そう不思議そうに首を傾げている母親に、マリーは微笑む。

「土で汚れていたから、血のように見えたのかもしれませんね」

「ああ……確かに、そうかもしれませんわね。まあ! ハンカチが汚れてしまいましたわ。申し訳ありません……っ!」

 恐縮して頭を下げる母親に、マリーは首を振って微苦笑した。

「いいえ、お気になさらず。洗えば落ちると思いますし。ハンカチはたくさん持っていますので」

 そう言ってハンカチを鞄にしまおうとしたのだが、その際に魔法陣を見られてしまったらしい。女性が驚いたような声を上げる。

「あ! それって、【魔法のハンカチ】じゃありません?」

「え? ええ……まぁ?」

 マリーが言葉をにごすと、女性は「わぁ!」と嬉しそうな声を上げた。

「それって【織姫】の作品ですよね!? 私も欲しいとは思っているのですが高価だし、人気すぎて手が出なくて……」

「そ、そんな大層なものではないですよ……」

 それらを作っているのはマリーだ。
 褒められることに慣れていないので、顔が一気に熱くなり、しどろもどろになってしまう。
 マリーの特殊能力とは魔法が使えることだ。
 祈りながら布や刺繍を編む際に模様として魔法陣を形成すると、それに不思議な力が宿る。魔法陣は幾何学模様や花植物を模して織られており、普通の人には魔法陣とは分からない。
 マリーはなぜ自分にそんなことができるのか分からなかいが、今は亡き母親は、『マリーは精霊の愛し子だから、彼らが力を貸してくれるのよ』と話していた。
『私は魔力がなくて精霊に好かれなかったけど、マリーならこの力を有効活用できるわ』
 そう笑った母の姿を、マリーは懐かしく思い出す。
 もともとは娼婦のお姉さん達へのプレゼントで作ったハンカチに魔方陣を織り込んだのが始まりだったが、スカーレットに見つかってから仕事として任されるようになったのだ。
 魔法とは言っても、せいぜい風邪を引きにくくするとか、好きな相手に偶然出会えるといった軽い効果だったが、話題が話題を呼び、マリーはいつの間にか【織姫】と呼ばれて仕事が舞い込んでくるようになっていた。
 その過剰な賛辞にマリーはまるで自分への言葉でないように感じて、落ち着かない気分になってしまう。

(効力は人によるし……ほとんど、おまじないみたいなものだけど)

 魔法陣によって精霊の通り道ができるのだが、どのくらい精霊達が協力してくれるかは分からない。その持ち主が精霊に好まれるかどうかにもよるため、とても効果がある時もあれば、何も影響がないことだってある。
 それでもマリーが作ったものは【魔法のドレス】や【魔法のハンカチ】と呼ばれ、その本来の魔法の効力以上に騒がれてしまっていた。そのことにマリーは時折、居心地が悪くなる。

「そんなことないですわ。皇都の貴族の女性達の間で、ものすごく流行っているらしいのですよ。庶民でしたら、それを持っているだけで時の人になれるくらいですもの。私の友人も皆に自慢していましたのよ」

「そ、そうなんですか……」

「でもスカーレット・モファットは誰に聞かれても、【織姫】の名前を教えてくれないらしいんですよ。誰なのか分かれば、こっそり依頼できますのにねぇ」

 女性は世間話をしているだけだ。
 しかしマリーがモゾモゾと身を動かしていると、女性は何かを察したのか「長話をしてすみません。ありがとうございました」と気遣うように頭を下げて去って行った。

(あぁ……話しかけてくれたのに、申し訳ないわ……)

 マリーは初対面の相手と気兼ねなく接することができるほど器用なタイプではなかった。女性なら男性よりは話せるという程度なのだ。例外は昔からの知り合いだけ。
 内向的な自分の性格に少し落ち込んでいた時、一両の馬車が近付いてくるのが見えた。

(貴族の馬車……?)

 こんな細い裏通りの道に金の馬車がやってくるのは珍しい。
 マリーは馬車を通らせるために道端に寄る。馬車が目の前を通っていく際に、車窓の中にいた女性と偶然にも目が合った。
 直後、馬車が急ブレーキをかけられる。
 馬が背中を反らして、いななきながら足を止めた。
 そして馬車の扉が勢いよく開き、タラップを落とす隙もなく中から十八歳くらいの女性が飛び出てきた。背中まであるストレートの黒髪は後ろでひとつに結えられており、その青い瞳は快活そうな色をおびていた。マリーが驚いたのは、彼女がまるで男性貴族のようなトラウザーズを穿いていたことだ。

(え? 女性……よね?)

 マリーは彼女を何度も確認してしまう。
 どう見てもその美しい顔は女性のものだったが──。
 彼女はとても貴族の子女とは思えないような駆け足で、マリーに近付いてきた。強く腕をつかまれてしまう。

「え……?」

 その無遠慮憂さにマリーはひどく混乱しながら、自分を睨みつけている背の高い女性を見上げた。

「マリア! お前、こんなところで何をやっているんだ!!」

 突然、怒鳴られる。

「え……? あ、あの……?」

 マリーは目を白黒させる。

(え? 知り合い? でも私にはお貴族様の知り合いなんているはずが……)

 大混乱しながら記憶の中を探ってみても、このような男装の麗人の知人はいない。
 女性は大仰にため息を吐きながら言う。

「あんな置き手紙だけ残して家出するなんて、どうかしているだろう! お前は一応、伯爵家の娘なんだぞ! 危険な目にあったらどうするつもりだったんだ!?」

「あ、あの……おそらく人違いで……」

 あまりにマリーの声がか細かったせいか、女性には聞こえない。

「まあ、お前は昔から海賊王の花嫁になりたいとか馬鹿なことばかり言っていたが。……漁港をいくら探してもお前の手がかりが見つからないと思っていたら、こんなところで油を売っていたんだな。どうせ、またあのオッサンにつれなく振られて、気まずくて家に帰れなくなったんだろう。まったく! さっさと邸に帰るぞ!」

 一気にまくしたてられ、マリーは会話に口を挟めるチャンスがなかった。
 女性にそのまま馬車の中に連れ込まれそうになって、さすがに慌てて、その場に踏みとどまる。

「ちょっと、待ってください……ッ」

 そして、やっと彼女の手から解放された。

「どうした、マリア? 言っておくが、しばらく自宅謹慎してもらうぞ。お父様もお母様もお怒りなんだからな。後で、しっかり謝っておけ」

「いえ、あの、そうじゃなくて……私、その……マリアさんって方ではないんです!」

「へ?」

 マリーと女性はじっと見つめあった。
 奇妙な沈黙を引き裂いたのは、馬車から降りてきた執事服の青年だった。理知的な風貌をしており、とび色の髪を後ろに撫でつけてある。黒ぶち眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら言う。

「エマお嬢様、この方はマリア様ではないのではないですか?」

「はぁ? ロジャー、お前こんなそっくりな人間が他にいるっていうのか? っていうか、私のことをお嬢様って言うのやめろって何度も言っているだろう! 私は次期シュトレイン伯爵になるんだから、エマ様と呼べ!」

「エマお嬢様が伯爵位にふさわしい立ち振る舞いを身に着けてくださったら、態度を改めますよ」

 ロジャーと呼ばれた青年はそう言いながらも、彼の主人と大して年は変わらないように見えた。エマとは、よほど気心知れた仲なのだろう。

「お嬢さん、わが主君エマ・シュトレインが大変失礼なことを致しました。どうかお許しください」

 ロジャーにそう丁寧に腰を折られて、マリーは恐縮して首を振った。

「あっ……いっ、いえ! お気になさらないでください」

「お嬢さんは、とてもお優しい方ですね。……もし良かったら、お名前をお伺いしても?」

「私は……マリーと言います。苗字はありません」

 彼女のその言葉に、エマが噛みつくように話に割り込んできた。

「ほらみろ、マリアだ! マリーだなんて、名前まで似てるぞ! きっと名前が思いつかなかったから、苦しまぎれに名前をひねり出したんだろう」

 ロジャーが半眼になってエマを見据える。

「マリーもマリアも、よくある名前ですよ。一部かぶったからといって、同一人物と考える方が横暴でしょう」

「はぁ? お前、何を言って……どう見てもマリアだっていうのに……」

「もっと、心の目で相手をご覧ください」

 そうロジャーに言われたためか、エマはじっとマリーを見つめてくる。
 近しい位置から二人に凝視され、マリーは顔面に熱が集まるのを感じた。しかもロジャーは男性だ。それを意識すると恐怖で足が震え始めてしまう。
 しかも、この騒動を遠巻きに見ている者達もいるのだ。さすがに距離があるから声までは届いていないだろうが、人々の視線が集中しているのを感じる。

「ふむ……確かに妙だな。おてんばな我が妹なら、私を殴ってでもすでに逃走をはかっているところだ。それにアイツはこんなにしおらしい態度を取れるほど、おしとやかじゃない」

 エマは本物のマリアだったら激憤するようなことを言って何度もうなずき、納得してしまった。

「じゃあ、マリアは未だに行方知れずってことか……弱ったな。もしこの事態が皇家にバレたら、大変なことになるっていうのに」

「エマお嬢様、彼女の前でしゃべりすぎですよ」

 ロジャーは鋭く叱咤する。しかし彼はその怜悧な瞳でマリーをじっと見つめた後、何やらエマに耳打ちする。続いて、エマの「それは名案だ」と言う声が聞こえた。

「あの……?」

 戸惑っているマリーに、エマは笑顔で言った。

「なぁ、マリーとやら。私の妹、マリア・シュトレインの身代わりになってくれないか?」

「はい?」
 そして、ここで長話するのも何だから……ということで、大通りにある【ショコラール】という喫茶店に入ることになった。予約がないと入れない人気店だったが、ロジャーが支配人を呼ぶと、すぐに三人は上の階に案内された。
 吹き抜けになった広い店内には、ゆったりとした間隔でソファー席がもうけられている。一階は満席だったが、二階には他の客はいなかった。
 エマは階下を見下ろせるソファーに座って足を組んだ。

「ここの店は、シュトレイン伯爵家が出資しているんだ。だから顔パスで入れる」

「そ、そうなんですね……」

 マリーはエマの目の前に腰掛け、困惑ぎみに相槌を打つ。

(偶然だけど……また、このお店に来られて良かった……)

 このお店は、マリーもまた来たいと思っていた場所だ。カルロとの思い出の場所だったから。しかし予約が取れないのと仕事の忙しさから八年間も来店できていなかった。
 やってきたメイドが三人分のホットチョコレートを置いていく。このお店はチョコレート専門店なのだ。
 マリーが厚めのカップに入れられた茶色の液体を口に含むと、シナモンの香りが鼻腔を抜けていく。砂糖の甘さとチョコレートの苦みが口内に広がった。
 エマのカップを口に運ぶ所作が優雅で、粗野なふるまいをしていても、どこか高貴さが身の内からにじみ出ているようにマリーには感じられた。

「それで妹の振りをしてもらいたいという話なんだが……少し話が長くなるが、聞いてほしい」

 そう前置きして、エマは話し始めた。
 八年前──エマが十歳、マリアが八歳の時に家族でバレル海に行き、ならず者に襲われてしまった。その時に海賊王レンディス・バークナイトに助けられたのだという。
 それからマリアは二十歳も年上の海賊王に熱を上げてしまい、彼が現れるという噂の酒場を調べては通いつめ、しつこく求婚をしては振られるのを繰り返していた。

「マリアは一言で言うと、猪突猛進な馬鹿なんだ。海賊王に『俺のような平民のオッサンに構ってないで、もっと年の近い貴族の坊やを見つけな。その方がお前も幸せになれる』って諫められても、逆に『素敵! 私の旦那様、格好良い~!』と燃え上がる始末で……」

 しかし、それから間もなく事態が急展開する。
 マリアがこの帝国の皇太子カルロ・マクレーン・イルス・グラウローゲンの婚約者に選ばれたのだ。カルロの強い希望で結ばれた縁だった。

(カルロ皇子……? そういえば、この国の皇太子って彼と同じ名前だったわね)

 マリーは懐に入れていたブローチにそっと触れる。初恋のカルロとマリアの婚約者が同じ名前であることにマリーは好感をおぼえた。

「私もまったく知らないことだったんだが、カルロ皇子は八年ほど前にマリアとどこかで会って好意を抱いたようなんだ。マリアに聞いても『知らな~い。殿下の言ってること、よく分からないわ』と不思議そうだったが……まぁ、とにかく、両親がマリアの強い反対を押し切って、カルロ皇子との婚約を結んでしまったんだ」

 シュトレイン伯爵家からしたらこれ以上ない良縁だから、断る理由もなかったのだろう。
 子供の内なら、『海賊王の嫁になりたい』と言う娘の言動も、まだ笑い話で済む。しかし、その熱意を抱いたまま成長してしまえば嫁ぎ先がなくなってしまうと両親も心配したのだろう。
 エマは憂いを帯びた表情で言う。

「伯爵家から破婚の申し入れはできないから、マリアはどうにかカルロ皇子から婚約破棄してもらおうと躍起になった。陰でカルロ皇子に幼稚な嫌がらせしたり、自分の取り巻きの令嬢を使って皇子に言い寄らせたり……そのせいでマリアの周囲から人がいなくなってしまい、今では悪女と呼ばれるようになってしまった。カルロ皇子は誰にでも人当たりがよく紳士的なのだが、段々妹に愛想が尽きたのか、冷たく接するようになってしまった。まあ、当たり前の話だがな」


(マリア様はカルロ皇子に嫌われようと、やることが過激になっていったのだろうけれど……)

 マリーは困惑ぎみに尋ねた。

「そんなに彼女から嫌がられていたのに、なぜカルロ様はマリア様と婚約破棄しようとしなかったのでしょうか?」

 普通に考えれば、そこまで嫌がる相手と結婚なんてしたくないはずだ。
 エマはホットチョコレートを口に運びつつ、首をひねる。

「……さあな。まだ【初恋のきみ】に幻想を抱いていたのかもしれないが……十八歳になって学校を卒業したら、マリアは皇宮に入ることになっていたんだ。それで、このままでは本当に結婚させられると危ぶんだのか知らないが、一週間前に『私は海賊王レンディス様のお嫁さんになります。探さないでください』と置き手紙をして家出してしまったんだ」

 エマとロジャーが重々しいため息を落とした。おてんばなお嬢様に振り回されている二人の気苦労が伝わってくる。

「伯爵家の醜聞だ。これが皇家に知られたら、とんでもない騒ぎになる。だから、私達はマリアが行方不明になったことは伏せて捜索していたのだが、港町のどこにもマリアの痕跡がなくてな……おそらく、この逃亡計画を長年の間、マリアは水面下で周到に準備していたんだろう」

 マリーは絶句してしまった。
 愛する人を一途に思うマリアの行動力はすごいが、周りの迷惑などおかまいなしだ。色んな意味であっけに取られてしまう。

「この事態が公になれば、皇家の面子がつぶれてしまう。伯爵家は多額の慰謝料を払うことになるし、下手したら一族皆処刑だ。マリアも見つかり次第、拘束されて投獄、もしかしたら処刑されるかもしれない……カルロ皇子は罪人には容赦がないことで有名なんだ。元婚約者だからって、手心を加えることはないだろう。──だから、頼む……! 妹が帰ってくるまでマリアの振りをしてほしい。そして、できれば婚約が解消されるようカルロ皇子を説得してくれないかッ!」

「え、えぇ!? そっ、そんな……! 私がマリア様の振りをするだなんて、むっむむむ、無理ですよッ!」

 しかもマリアが頑張っても無理だったのに、マリーがカルロ皇子に婚約破棄させることなんてできるとは思えない。無茶ぶりも良いところだ。

「大丈夫だ! 本当に、きみはマリアにそっくりだから! 姉の私ですら、たぶん横に並んでも判別できない」

「でも……」

「もうこれ以外の方法がないんだ。どうか、お願いだ。私達を助けてほしい……! 婚約解消してくれたらありがたいが、無理ならマリアが見つかるまでの時間稼ぎだけでも良いから……ッ」

 そう苦しそうにエマは言うと、深く頭を下げた。それにロジャーも続く。
 マリーは慌てて立ち上がる。

「や、やめてくださいッ! 貴族の方に頭を下げられるなんて……っ」

「きみが了承してくれるまで、私は頭を上げられない。私達はきみを頼ることしかできないんだ。妹が見つかったら本人が嫌がろうが縄にかけてでも連れ戻し、入れ替わりも終わりにするから……! どうか、それまでの期間お願いできないだろうか。──もちろんタダでとは言わない。謝礼ならできる限りのことはしよう」

「そんな……」

 マリーは膝の上で震える指を握りしめた。
 誰かの振りをするなんてとんでもないことだ。発覚すれば自身の身にも危険がおよぶ。しかも相手は皇太子だ。不敬罪で斬首刑になってもおかしくない。

(でも、こんなに困っている人達を見捨てることなんて、私にはできない……私が見捨てたら、彼らは殺されてしまうかもしれないもの……)

 そう思うと、マリーには断るという選択は選べなかった。

「……わ、分かりました。どうか頭を上げてください」

「ありがとう! 感謝する!」

 エマは弾かれたように顔を上げた。
 マリーはおずおずと言う。

「できる限り婚約解消してもらえるよう務めますが……じつは私は男の人が苦手で……。そんな私でも、マリア様の身代わりができるのでしょうか」

 つい放っておけず了承してしまったが、安請け合いだったのではないかと心配になる。はたして自分にできるのか。

「男性恐怖症なのか? ううむ……だが、そこまで心配はいらないだろう。私達がぴったり張り付いて、余計な男が近付かせないようにするから安心してくれ」

「そ、それに……私は元貴族令嬢の母親と、娼館で見習いとして、ある程度の教養は学んできましたが、とても貴族の子女の振りをするのは知識が足りないと思います」

「貴族女性の知識は……、そんなに気負わなくて良い。マリアはどうしようもないくらい馬鹿なんだ」

 そうエマが自信を持って言うので、マリーは戸惑ってしまう。

(ど、どうしようもないくらい……?)

「そ、そうですか……? なら良かった? です……」

 困惑しながら、そう言う他なかった。

「それで謝礼金の話だが、いくら必要だろうか。先払いでも構わないが」

 そう切り出したエマに、マリーはおそるおそる言う。

「で、では、もしかして……三億ジニーでも大丈夫ですか……?」

(さすがに高すぎて拒否されちゃうかも……)

 マリーはそう不安に思った。
 全額でなくても良いから、一部だけでも負担してもらえたら助かる。そう思って切り出してみたのだが……。
 エマは「ふむ……」と思案するように顎を撫でる。

「分かった。そのくらいたやすい。ロジャー、すぐに銀行へ行って三億ジニーを用意してくれ」

「えぇ!? 払ってくださるのですか!?」

 マリーの方が仰天してしまう。
 エマは不思議そうに眉を上げた。

「なんだ? きみが言ったんじゃないか」

「そっ、そうですけど……」

「なぁに。心配するな。我が伯爵家の財産は潤沢にあるから、この程度では揺らがないよ。私の一年間のお小遣い程度だし、もっと吹っ掛けてもらっても構わないのだが……」

 マリーは唖然としてしまった。貴族と庶民では金銭感覚が違いすぎる。
 ロジャーが眼鏡のブリッジを押し上げながら、申し訳なさそうな顔で言った。

「マリー様。我が主が世間知らずで申し訳ありません。こちらでお金についてはご用意させていただきますので、ご安心ください。──ところで、お嬢さんにはかなりの大金だと思いますが……もし差しつかえなければ、何かご事情があってのことなのか……ご使用の用途を伺ってもよろしいでしょうか?」

 そう思慮深い眼差しで問われ、マリーは己の借金や今の生活について、ぽつぽつと話し始めた。
 幼少期に娼館で働いていた母親が亡くなったことから、もうすぐ幼馴染のギルアン・テーレンの専属娼婦にさせられそうになっており、逃げても捜索されてつかまってしまうかもしれないことを。
 マリーは緊張感から言葉が詰まりがちになりながら話した。かなり聞き取りにくかっただろうに、エマもロジャーも話をさえぎることなく話を最後まで聞いてくれた。

「なるほど……そのギルアンとか言う男は糞だな」

「エマお嬢様、言葉が汚いです。ですが、おっしゃりたいことには同意します」

 主の吐き捨てた言葉に、ロジャーは眼鏡を押し上げながら同調する。

「ふむ……違法な金利の借金ならば、裁判所をすれば勝てるのではないか?」

 エマは不思議そうに首を傾げている。
 ロジャーは大きなため息を落とした。

「エマお嬢様……それは貴族なら、です。一般庶民の間では当事者間での解決が基本です。裁判は時間もお金もかかりますし、伝手がなければ開くのも難しいことですよ」

 苦労して裁判が行えたとしても、スカーレットは娼館の女主人という立場で広い人脈を持っている。裁判官にも顔が利くスカーレット相手では、どうあがいてもマリーは勝てない。権力者への裏金も横行している現状では、資金がなければそもそも裁判をしたって勝てっこないのだ。

「なるほど……それについては、こちらで手を打とう。……と言いたいところだが、私達に裁判を開いている時間はないんだよな。だから、とりあえずはスカーレットに借金は払おう。なぁに、スカーレット・モファットと言えば、金の亡者として業界では有名だからな。テーレン商会が払った数倍の金をポンと渡してやれば黙るだろうさ」

「そうですね……しかし、黙ってお金を払うだけなのは癪ですから、後々に全額──いえ、利子をつけて返していただきましょう。おそらく、その娼館の女主人には余罪もあるでしょうから、調べたら色々出てくるでしょうからね」

 エマとロジャーが悪い顔で笑っている。
 その不穏さに、マリーは背筋がぞくりとした。

「あ、あの……?」

「安心しろ。伯爵家の名にかけて、恩人のきみに不便をさせる気はない。──そうだな。皇太子との婚約破棄が成立したら……もしくは我々がマリアを捕獲できたら、マリーを自由にしてやる。その時は新たに謝礼金を払い、きみが新しい土地で不自由なく暮らしていけるように便宜を図ろう。それで良いだろうか?」

 そうエマに問われて、ビックリした。あまりにもマリーに都合が良すぎる契約だ。

(新しい土地で……誰も私のことを知らない場所で生きていく?)

 それは夢のような生活だった。自分のお店も開けるかもしれない。胸が躍る想像にときめきながら、マリーはコクリと小さくうなずく。
 エマは満足げに笑った。

「よし、交渉成立だな。じゃあ、さっそく行こうか」

 そうエマが言って立ち上がった時、マリーは今引き受けている仕事のことをふいに思い出し、慌てた。

「あっ、あの……!」

「どうした?」

「あ、いえ……大変申し訳ないのですが……、いま私の元へ来ている依頼を全てこなしてから、身代わりを引き受けても良いでしょうか……?」

 三か月先の分まで依頼を受けてしまっている。マリーが突然仕事を辞めたら、お客も困ってしまうだろう。

「そんなに時間をかけていたら、きみはギルアン・テーレンに良いようにされてしまうぞ。ほうっておけば良いだろう。どうせ辞めるなら、きみに何の責任もないんだし、その女主人も他の機織り職人やお針子達にやらせるだろう」

 呆れ混じりのエマの言葉に、マリーはうつむく。
 エマの主張はもっともだった。

「で、でも……」

 確かにそんな義理などないと言われたら、その通りなのかもしれない。
 でもお客にはマリーの事情は何の関係もないのだ。【織姫】の衣装を楽しみに待っている相手をがっかりさせたくなかった。

「……お願いします。一か月ほどいただければ、作業も終わると思いますので……」

 そうマリーは頭を下げる。
 エマはため息を漏らした。

「……分かった。マリーはなかなか頑固だな。マリアになりきるために一か月ほど邸にこもって淑女教育を受けてもらおうと思っていたから、その合間に作業をしてもらうというのでも良いか? 完成した衣装はうちの使用人が密かにお客に届けるようにしよう」

「……! はいっ! ありがとうございます!」

 マリーは満面の笑みを浮かべた。
 エマは店を出るとすぐに銀行で大金を引き出し、娼館でマリーの借金を返済してしまった。スカーレットはマリーを手放すことをかなり渋ったが、借金の総額の三倍を見せると、あっさりと手のひらを返した。ギルアンから受け取ったお金を返しても、圧倒的な利益を得られたからだろう。
 あれよあれよという間に事が進み、荷物をまとめ、その時に会うことができたお姉さん達にはお別れの挨拶をして、その日の夕刻にはマリーは娼館を去ることになった。





 伯爵家の人達にはすでに話が済んでいたらしく、エマの両親も邸のメイド達もマリーを歓迎してくれた。

「こんな事態に巻き込んでしまって、すまない。自分の家だと思って、くつろいでくれ」

 そう申し訳なさそうにエマの父親──ローレンスは言った。その隣にいた優しそうな風貌のエマの母親のエステルが、マリーを凝視してから、ぽつりとつぶやく。

「……まさか」

「え?」

 マリーは驚いて聞き返す。しかしエステルは取りつくろうように、急に首を振った。

「いっ、いえ! 何でもないの」

 エマは両親に向かって快活な笑顔で言う。

「自分に似た人間が世界に三人はいるとは言うが、世の中にこんなにマリーにそっくりな相手が本当にいるなんて驚きだよな」

「そ、そうね……」

 エステルは、そうぎこちない笑顔でうなずく。
 マリーは首を傾げつつも、「これから、よろしくお願いします」と、三人に頭を下げた。
 突然エステルが勢い良くマリーの手を握ってきて、マリーは目を丸くする。

「マリー、これからはそんな他人行儀な態度はしなくて良いわ。私のことはマリアと同じように『お母様』と呼んでちょうだい」

 そう言われて、マリーは戸惑いつつも首肯する。

「お母様……ですね?」

「私のことは『お姉様』だ。父のことは『お父様』と呼んでくれ」

 エマはそう言った。
 マリーの『父親』のローレンスが、鷹揚にうなずく。

「我々のお転婆娘のせいで苦労をかけて、本当にすまない。何か困ったことがあったら、何でも相談してくれ。必要なものがあったら執事のロジャーに伝えてくれたら用意するからな」

 ローレンスの言葉にエステルも首肯する。夫妻は娘の家出のためか、少しやつれた顔をしていたが気丈に微笑んでいた。

「あ、ありがとうございます……! お世話になります……!」

 緊張しつつも再び大きく頭を下げた。
 まさかここまで歓迎してもらえるとは思っておらず、胸があたたかいもので満たされる。

「これから一か月、マリアになりきるために厳しい訓練を受けてもらうことになるが……大丈夫か?」

 エマの言葉に、マリーはうなずく。
 これから、『マリア』になりきるのだ。これまでしたことのない勉強ばかりで大変だろうけれど、この優しい人達のためにも、くじけずに頑張ろう。そう、心に誓った。



 それから一か月後、マリーは宮殿の大広間の前にいた。
 今日は皇室のパーティということで招かれていたのだ。
 隣には男性の盛装をしたエマが彼女をエスコートしている。
 いつまでも病気療養という名目で邸に閉じこもっていたら怪しまれてしまう──ということで、カルロ皇子との初めての顔あわせの場として参加することになったのだ。

「……私、ちゃんとできるでしょうか?」

 マリーは落ち着きなくドレスをあちこち触りながら言う。
 この一か月もの間、マリアがどういう人間か勉強し、彼女のふるまいを練習してきたが、やはり不安だった。

「……大丈夫だ、マリア。きみなら、できるさ。異性は私がガードするから安心して」

 エマの力強い声に、マリーは表情を緩ませる。

「ありがとうございます……お姉様」

 男性不振をこじらせすぎていて異性と話すのも怖いマリーには、エマの心遣いが非常にありがたかった。
 エマの差し伸べた手を取り、マリーは大広間への扉をくぐった。
 シャンデリアの灯りが全身を照らした。贅を凝らした調度品の数々に目を奪われる。集った人々の衣装も華やかだ。

(わぁ……)

 まだパーティが開始前ということで、集まった人々はほとんどが談笑している。

「あら、ご覧になって。シュトレイン伯爵家のご令嬢だわ」

 そう小さく声が聞こえてきて、マリーは身を固くした。

「エマ様~! こんにちは、お会いしたかったです。ぜひ、今日こそは私とダンスを踊ってくださいませ!」

 そう近づいてきた令嬢達にエマは朗らかな笑みを向ける。

「やあ、こんにちは。すまないが、今日は妹のエスコートをしているんだ。あまり構ってやれないかもしれないが勘弁してくれ」

 そうウィンクするエマに、集まったご令嬢達が黄色い悲鳴をあげた。「キャア」とか「素敵……」と漏れ聞こえてきて、マリーは驚いてしまう。

(お姉様のファンって多いのね……!)

 マリーも皇太子の婚約者ということで目立っていたが、エマは会場で唯一の男装の麗人だからか、一番人目を引いている。慣習を気にしないエマの堂々とした態度に、ご令嬢達からは熱のこもった視線が向けられており、男性陣は苦々しげな眼差しを浮かべている。どの視線にも、エマが意に介した様子はない。

「こんにちは、マリア・シュトレイン伯爵令嬢」

 そう挨拶してマリーの手を取ろうとした男性がいたが、手が触れる前にエマに遮られる。

「すまないが、妹はまだ体調が万全ではないのだ。代わりに私が挨拶を受け取ろう」

「おお、それはそれは……体調を崩されているという噂は本当だったのですね。マリア様は皇太子妃となられる身なのですから、大事になされねば」

 男性はニタニタと嫌な笑いを浮かべて、マリーに言う。

「さぞ、カルロ殿下はご心配なされたでしょう? お見舞いの花束や贈り物もいただいたのではありませんか? 社交シーズンだというのに婚約者がお顔を見せていないのですからね」

「それは……」

 エマは顔をしかめている。
 マリーは当惑した。この一か月、邸に滞在していたがマリア宛のお見舞いのプレゼントなんてなかったからだ。

(カルロ様はお忙しくてご存じないのかもしれないし……)

 そう一瞬考えたが……もしカルロがマリアの噂を知っていてわざとお見舞いしなかったのなら、予想以上に二人の仲は冷え切っているのだろう。そして男性はそのことを分かっていて言っているに違いない。マリーはひそかに唇を噛む。

「あら、マリア様ではなくて?」

 そう突然会話に割り込んできたのは、気の強そうな顔立ちの黄色いドレスをまとった少女だった。
 後ろで結んだ焦げ茶色の髪が大きく外向きにカールしているせいか、リスのような印象を受ける。

「エセル・グッドフェロー子爵令嬢だ」

 そうエマがこっそりと耳打ちして教えてくれた。

(あらかじめ教えてもらった交友関係のリストの中では、エセルさんとは犬猿の仲と書かれていたはず……)

 エセルが扇を広げながら言う。

「マリア様、パーティはお久しぶりですね。お風邪を召されたと伺いましたが……もう、よろしいですの?」

「ええ。おかげさまで全快いたしましたわ。ご心配をおかけして、すみません」

 マリーは慌ててそう言った。
 エセルは意地悪そうに口の端を上げる。

「一か月も、どのパーティでもお姿をお見かけしなかったから、てっきり領地に戻られたのかと思いましたのよ。そちらの方が自然も豊かですし、体にも良さそうですわよねぇ。しばらくそちらで療養した方がよろしかったのではなくて?」

 言い方にチクチクと棘を感じた。これはつまり『田舎者は引っ込んでろ』と言いたいのだろう。
 マリーは背筋にヒヤリとしたものを感じた。隣にいるエマの目が怖くて見られない。おそらく相当怒っている。
 エマの変化に気付いていないのか、エセルの話はヒートアップしていく。

「こうしたパーティですのに、マリア様のエスコートは、またお姉様ですのね? 婚約者のカルロ殿下は一緒にいてくださらないのですね。まぁ、お忙しい方ですから仕方がないことですわ。お気を落とさないでくださいませ」

 マリーは、そこでピンときた。
 エセルがいちいち癇に障る言い方をしているのは、おそらく彼女がカルロ皇子に気があるからなのだろう。
 マリーは深呼吸してから、にっこりと笑みを深めた。

「気にしておりませんわ。ご心配いただき、ありがとうございます。私にはお姉様がいてくだされば充分です」

「あらぁ? そうかしら? 姉離れはすべきですわよ。いつまでも姉妹一緒にいられる訳ではありませんし、カルロ殿下もお気になされるかもしれません。これ以上、カルロ殿下に嫌われて、婚約が破断にされてしまっては困るでしょうに」

「……婚約を続けるか解消するかは、私の意志ではございませんわ。皇家の──カルロ様のお考えによるものです」

 言外にカルロ皇子が婚約破棄しないから、まだ婚約者なんです、と伝える。
 エセルは顔をカッと怒りで赤くして、「そうですか。それでは、私は失礼いたしますわ!」と、その場を去って行った。いつの間にか男性も姿を消している。
 マリーは深くため息を吐いて、肩の力を抜いた。隣にいたエマが「大丈夫か?」と気遣ってくる。

「……大丈夫です。これが貴族の社交界なんですね」

 まだパーティは始まったばかりだというのに、ものすごい疲労感だった。丁寧な言葉に毒をコーティングして、水面下での殴り合い。恐ろしい世界だ。

「……すまない。マリアは嫌われ者なんだ。皇太子をないがしろにしているからな」

 そう申し訳なさそうにエマに言われて、マリーは納得する。
 おそらく海賊王に嫁入りしたいというマリアの願望も、そのためにカルロ皇子に無礼な言動をしていることも、社交界に知れ渡っているのだろう。

(それなら、先ほどのご令嬢の態度も理解できるわ……)

 誰だって自国の皇子を尊重しない相手をよく思わないだろう。
 しかも、エセルがカルロ皇子に恋心を抱いているとしたら、なおさらだ。そんなマリアが皇子の婚約者だなんて許せないはず。
 マリーは先ほどまでエセルと男性に抱いていた怒りが、すっと波のように引いていくのを感じた。

「おそらく、カルロ皇子と一度はダンスを踊ることになるだろう。今日のところは婚約破棄のことは忘れてくれて良い。無理に殿下と会話はしなくて良いから、ダンスだけは我慢して踊ってくれ。もし体調が悪くなれば早めに帰ろう」

 エマに気遣うように言われて、マリーはうなずく。
 ダンスは前から言われていたことなので覚悟していた。さすがに、いくらマリーが男嫌いであっても婚約者のダンスの申し込みを拒否する訳にはいかない。
 不安感が押し寄せてきて、マリーは手を胸元に這わせた。大事にしている黄色のブローチに指が触れる。

(大丈夫よ。……見た目はそっくりなんだから、誰にも見破られるはずがないわ)

 集った人々がまとう衣装は美しかったが、この大広間もコルセットもマリーには息苦しい。早く帰りたくて仕方ない。けれどカルロ皇子に会わなければ、ここまで来た意味がないのだ。

(大丈夫、私ならできるわ……)

 そう自信が持てない時にいつもしていたみたいに言い聞かせながら、いつものように初恋の少年──カルロからプレゼントされたブローチに触れていると、気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
 ふいに大広間に盛大なファンファーレが鳴り響く。壇上近くの扉から、華やかな音楽と共に皇帝夫妻、次いでカルロ皇子が入場した。
 マリーはカルロ皇子の姿を目にした途端、硬直してしまう。

(ど、どうして……? なぜ、彼がここにいるの……?)

 幼い頃に会ったきりだというのに、マリーには彼が誰なのか分かってしまった。それほど、記憶に深く刻みついていたのだ。
 カルロ・マクレーン・イルス・グラウローゲン。
 マリアの婚約者であるこの国の皇太子は、マリーの初恋の少年カルロと同一人物だったのだ。




「マリア!」

 隣で小さな声でエマに叱責され、マリーはびくりと身を揺らした。
 周囲の人々が深いお辞儀をしていることに気付き、慌ててそれに倣う。
 ドレスのスカートをつまみ上げて顔を伏せていると、カルロの顔を確認することができない。
 皇帝が「顔を上げてくれ」と一同に向かって言うと、ようやくその場にいた人々が一斉に元の態勢に戻る。
 
(もしかして、別人……? いえ、まさか……。彼を見間違えるはずがないわ)

 さらさらした金色の髪に通った鼻筋、優しげな風貌──完璧な造作。あの頃と変わらない神秘的な紫色の切れ長の瞳。薄い唇には感情の読めない柔らかな笑みを浮かべている。やはり何度見ても間違いない。カルロだ。
 マリーが血の気の失せた顔でブローチを押さえていると、エマが心配そうな表情で「大丈夫か?」と声をかけてきた。マリーは気丈に口元に笑みを浮かべると、そっとブローチを外してポケットにしまう。

(これを見られてしまったら、私がマリーだと知られてしまうかもしれない……)

 カルロはおぼえていないかもしれないが、このブローチはマリーが幼い頃に彼からプレゼントされたものだ。今はマリアの振りをしているのだからマリーだと知られてしまう訳にはいかない。伯爵家の人々の命がかかっているのだ。
 皇帝と皇后が来訪者に感謝の意を述べ、皇帝夫妻が大広間の中央に向かうと、楽団が華やかなダンス曲を奏で始める。
 それに合わせて、エマがマリーに向かって手を差し伸べてきた。

「私ではパートナーには不足かもしれないが」

 マリーは首を振って「喜んで」と微笑み、エマの手を取る。
 おかげで、何とか練習の時と同じように緊張せず踊ることができた。ファーストダンスが男性だったら、ガチガチに緊張してしまっていたに違いない。

(お姉様に気を遣わせてしまって申し訳ないわ……)

 マリーも昔みたいに男性への偏見をなくしたいと思っているが、どうすれば良いのか分からなかった。
 荒療治で男性と触れ合うことで慣れさせようとして、この一か月練習もしてみた。ロジャーや伯爵、使用人達にも協力してもらいダンスを行ってきたおかげで、それなりには踊れるようになったものの、やはり男性と接していると気が遠くなってしまうのは変わらない。
 ふと、エマと踊っている最中に視線を感じてホールの中央の方を見る。
 そこには、先ほどマリーに突っかかってきたエセルが挑発的な眼差しをこちらへ向けてきていた。彼女はなんと、カルロとファーストダンスを踊っていたのだ。美男美女が華麗に舞う姿に目が釘付けになる。

(まるで、彼女の目が言っているみたいだわ……『あなたって、婚約者なのにカルロ皇子にファーストダンスにも誘われないのね』って……)

 舞踏会で最初に踊るダンスの相手は、身内かパートナーというのが暗黙の了解だ。だからエマがマリーと踊ったのは、おかしなことではない。性別はともかくとして。
 けれどカルロがまったく関係のない令嬢と踊ったことはマリーの胸をざわめかせるものだった。しかも二人は和やかに会話をして楽しんでいる。

(マリア様はそうとう嫌われているんだわ……)

 そう思い知った時──曲が終わりを迎えた。エマと対面でお辞儀をして、辺りを見回すとカルロがマリーに近付いてきていた。
 マリーは心臓が飛び出るのではないかと思うほど緊張した。再会するのは八年ぶりなのだ。

「……ダンスを」

 そっけなく、それだけ言われて、カルロが手を差し伸べてくる。
 先ほどエセルと友好的に踊っていた時とは別人のように、つまらなさそうな顔をしていた。
 マリーは内心おどおどしながらも、彼と指の先だけ重ねる。
 カルロは一瞬不快そうな表情をしたあと、マリーの手をぎゅっとつかんで引き寄せてきた。もう一方の手がマリーの腰に這わされる。

「……っ!」

 強引なやり方だ。しかもダンスだというのに、マリーの方をろくに見ていない。あまりにも冷たい対応に胸が痛くなってくる。

「マリア……ッ」

 エマが心配そうに手を伸ばそうとしてきたが、マリーは首を振った。何とか、ダンスをこなしてみせたくて、異性への恐怖心を必死に抑え込む。
 カルロ皇子の噂は聞いている。誰に対しても物腰が柔らかく紳士なのに、婚約者のマリアにだけは冷たい人なのだと。

(……でも、幼い頃の彼は優しかったのに、どうして……? そんなことをするような人には見えないのに。彼は変わってしまったの……?)

 あの頃のカルロは、誰に対しても分け隔てなく接する気さくな少年だったのに。
 マリーは困惑しながら、カルロを見つめる。
 その時、紫水晶の瞳と目があって、マリーはドキリとした。ついステップを間違えてしまい、右足から態勢が崩れそうになる。

(転ぶ……っ!?)

 思わず目を閉じた刹那──腰にまわったカルロの手に力が入った。ふわりとジャンプするように床に着地する。さりげなく助けてくれたのだ。

「あ……っ、ありが……」

(あ……マリア様は、カルロ様にお礼なんて言わないんだった……)

 教えられたことを思い出して、慌ててマリーは口をつぐむ。助けてもらったのに感謝の言葉も伝えられないことに、やきもきしてしまう。無礼な態度をした方が婚約破棄される可能性が高まるとしても、落ち着かない。

「きみらしくないですね。ダンスで転びそうになるなんて」

 カルロはそう感情のこもらない声で言った。
 血の気が引いていくのを感じる。恐怖心から口が動かなくなってしまう。

(怪しまれてしまったのかしら……?)

「……今日は、やけに静かなんですね。いつもそうであってくれたら良いんですけど」

 そう踊りながら、カルロが声をかけてくる。耳をくすぐる心地いい声音だ。

「い、いつもと同じですよ……?」

「そうですか? いつもならレンディス、レンディスと、やかましいくらいでしょう。……病み上がりで、体調がまだ万全ではないのですか?」

 淡々とした物言いに、マリーは心臓がつかまれたような恐怖をおぼえた。カルロの表情は怪訝そうだ。

(そうか……マリアの振りをするなら、海賊王の話をしつこくしなきゃいけなかったんだわ……!)

 しかし、マリーはレンディスのことをほとんど知らない。それに異性が苦手なのに、好きな振りをするのは心理的抵抗もあった。

(──大丈夫。今日はお姉様に会話しなくても良いって言われているもの。体調が悪いと思わせておけば良いんだわ)

「……そ、そうかもしれませんわね。きっと体調がまだ悪いんです」

 彼を騙している気まずさもあって、マリーはカルロから視線をそらしながら答えた。
 カルロは少しだけ不審そうに眉根をよせる。

「ふぅん。きみが静かだと気持ち悪いです。さっさと元気になってください」

 罵倒なのか気遣いなのか判断できないことをカルロが言った時に、ダンス曲が終わった。
 マリーはお辞儀をして、ようやく安堵の息を吐く。

(終わった……)

 壁際で見学していたエマの元へ足早に向かった。
 カルロが首を傾げながらマリーの背中を見つめていたことにも気付かずに。





 馬車の中は、まるで葬式のように重々しい空気に包まれていた。
 エマは難しい表情をして腕を組んでいるし、マリーは委縮して身を縮めていた。
 ただ一人ロジャーだけが、いつもと変わらない涼しげな顔をしている。彼は従者控え室で待機していたため、パーティがどんな様子だったのか知らないというのもあったが……。

「すっ、すみません。私、あまりうまくできなくて……」

 マリーが泣きたくなりつつ言うと、エマは首を振って笑みを浮かべた。

「いや、マリーは思っていた以上に、よくやってくれたよ。ダンスだって、ちゃんと踊れていた。特に問題はない」

「えっと……じゃあ、私、何か他に問題でも……?」

 エマは少し考えるようなそぶりをしていたものの、ゆったりと首を振る。

「いや、おそらく私の勘違いだろう。少しカルロ皇子の視線が気になったのだが……」

 マリーはしばらく押し黙っていたが、勇気を出して言ってみる。

「あの……無理にマリア様の振りをしなくても、ずっと病気で臥せっているということにはできないんですか? それなら、病弱なマリア様では皇太子と結婚できないとごねることもできるんじゃないかと思うのですが……」

 エマは困ったような笑みで首を振った。

「マリアは昔から剣を振り回して海賊の子供と駆け回るくらいの野生児だから、それは説得力がない。それにマリアはすでに一度、不治の病の振りをしてカルロ殿下に婚約破棄させようとしたことがあるんだ……すぐに嘘だと見破られてしまっていたがな……」

「……そうなんですか」

 それだと仮病も疑われるだけで終わりそうだ。

「それに、もうすぐ休暇も終わる。そうすれば、マリーも寄宿学校に通わなければならなくなるから、嫌でもカルロ皇子とは顔をあわせることになってしまうからな。このパーティは練習みたいなものだ」

「……そう、ですね」

 マリーはエマも学んでいる全寮制の王立学校に行くことになっている。そうなれば、もっとカルロと接する機会は増えるだろう。
 ポケットに入れたままにしているブローチをそっと握りしめ、不安な気持ちでカルロの姿を思い返す。
 大人になった彼は、とても格好良かった。
 マリアに対してだけ冷たくなっていたけれど、それでもまたカルロと学校で再会できることに抑えきれない喜びが湧き上がる。

(学校か……)

 幼い頃から目まぐるしく働き続けてきたマリーにとって、貴族の子供達が学ぶ寄宿学校にほのかな憧れがあった。
 しかも幼い頃から想いを寄せている相手と毎日会えるのだ。その日々を想像すると、いけないことだと知りつつ、どうしても気持ちが浮かれてしまう。

(私は『マリア様』になりきって、彼と婚約解消しなければいけないのに……)

 つい喜んでしまったことに罪悪感をおぼえながら、『マリア』の振りをしっかりしなければと気持ちを改めるのだった。


「カルロ様……私を婚約者にしてくださいませんか?」

 そうダンス中に頬を染めたエセルに問われて、カルロはあいまいな笑みを返す。
 本来ならファーストダンスは婚約者と踊るものなのだが、カルロはマリアと踊ることはしなかった。代わりに誘ってほしそうに近づいてきたエセルと踊っている。
 もはや何度目になるか分からない彼女とのファーストダンス。
 エセルが周囲に「自分が皇太子の婚約者の筆頭候補だわ」と漏らしているのをカルロは知っている。知っていて、いさめることもしない。

(……エセル嬢の期待に応えてやっても良いのかもしれない。もう、あの頃のマリアはいないのだから。もはや誰が婚約者になったって同じだ)

 そう思いながらも、カルロが煮え切らない態度をしてしまうのは、やはりマリアへの未練なのかもしれない。
 八年前──カルロは父親に無理を言って、初恋の相手であるマリアとの婚約を結ばせた。
 しかし彼女は以前会った時のことをすっかり忘れ、しかも渡したプレゼントのブローチもなくしたあげく、他の男に熱を上げていた。
 カルロはひどく落胆した。それでも諦めることなく振り向いてもらおうと努力したが、マリアは共に過ごした夏祭りの夜が嘘だったかのように粗野なふるまいを繰り返した。カルロに嫌われるために何でもする暴れ馬な彼女を見ていたら、波が引くように恋の熱が冷めていくのを感じた。

(……もう期待はしていないはずだけれど)

 それなのにマリアを解放してあげられないのは、あの日に自分を救ってくれた彼女が忘れられないからだ。
 彼女以上に愛せる相手を見つけられる気がしない。
 もう、あの可憐な少女はいないと分かっているのに。
 エセルとのダンスが終わり、カルロは仕方なくマリアの方へ向かう。足が重かったが、さすがに婚約者と一度も踊らない訳にはいかない。

「……ダンスを」

 そうマリアに手を差し伸べれば、おずおずと指先だけ重ねられた。
 それが不愉快だった。

(そんなに僕に触れたくないのか……)

 唐突に怒りが湧いて、彼女の手を乱暴につかんで引き寄せた。もう一方の手をマリアの腰に当てる。
 マリアはガチガチに緊張していた。慣れたステップのはずなのに足をもつれさせた彼女をフォローして、カルロは不思議に思う。

「病み上がりで、体調がまだ万全ではないのですか?」

 そうかもしれない、と思った。今にも倒れそうなほど顔色が悪いし、手が小刻みに震えている。
 以前より雰囲気もどこか柔らかいし、いつもだったら嫌味と海賊王のノロケを吐き続けていたのに、それもない。

「……そうかもしれませんわね」

 彼女はカルロの目を見ずに、そう答えた。そのしおらしい態度にも違和感をおぼえる。

(……なぜか、気になるな)

 だから、ダンスが終わった後もついマリアの姿を追って見てしまった。
 エマがさっさと妹を連れて帰ろうとしているのを見て、やはり婚約者の体調不良を実感する。そうでなければマリアが大人しくしているはずがないのだ。

(……花束でも贈るか)

 病気の婚約者をいたわることは普通だが、カルロはそんなことをする気にはなれなかった。マリアならばカルロからプレゼントを受け取っても嫌そうな顔をして捨ててしまうだろう、という確信があったからだ。
 しかし、なぜか先ほどの彼女は放っておけないような雰囲気がある。弱っているからかもしれないが……不思議と優しくしたくなるような印象があった。八年前に出会った当時の雰囲気の面影を感じて、ふいに懐かしさが込み上げてくる。
 ただの勘だったが、もしかしたら今の彼女ならば花束も捨てたりしないのではないかと錯覚してしまった。

(いや……そんなこと、ありえないな)

 それなのに、カルロは先ほど触れた熱を思い出して手のひらをじっと見つめた。


「わぁ……! ここが噂のヴァーレン島ですか……」

 マリーは蒸気自動車の開いた窓から、行き先にある島を見上げた。
 島とは言っても、そこにあるのは砂の海に浮かぶ城塞都市──ヴァーレン島だ。最も高い位置にある石造りの城が、マリー達の向かっているヴァーレン寄宿学校。かつては修道院や監獄として利用されていた歴史のある建物だ。

「マリー様、お疲れではありませんか? 車で三時間も揺られていましたので……」

 そう気遣うように前から声をかけてきたのは、ロジャーだ。その隣にはエマもいて窓の外を眺めている。

「大丈夫です」

 マリーはそう返す。
 蒸気自動車が走っているのは、ヴァーレン島と大陸をつなぐ大橋の上だ。
 この道は大潮の日には海に沈み、ヴァーレン島は海に浮かぶ島となる。
 今は大橋の下には半ばほど海に侵食されつつある牧草地があり、羊飼いらしき少年と放牧された羊達が草をはむ様子がうかがえた。ぬかるんだ湿地を子供達が靴を脱いで楽しそうに走り回っている。その様子をマリーは微笑ましく思いながら眺めた。
 蒸気自動車は帝都でも普及し始めたばかりの高級車だ。新しいもの好きなエマが手に入れたのだが、まだ所有している者も少ないため、大橋の上を進むのはシュトレイン伯爵家の蒸気自動車を除けば馬車しかない。

「ヴァーレンに入ったら、しばらく出てこられなくなるからな。今のうちに外の空気を堪能しておくと良い。と言っても今、窓を開けたら私達の顔も真っ黒になってしまうから困るのだが」

 エマがそう軽口を叩いた。
 蒸気自動車の煙突から吐かれる黒い煙とすすが後方に伸びている。
 マリーは神妙な顔で「はい」と、うなずく。身にまとっているのは、足首まであるロングスカートの制服だ。胸の下までの短い紺色のジャケットは都会的で、有名デザイナーが数年ごとにデザインを変えているらしい。

(私にちゃんと『マリア様』の役目ができるかしら……)

 これから『マリア』として生活していくのだと思うと、昨日から食事も喉を通らなかった。
 先日の一回きりのパーティとは訳が違う。ずっと別人の振りをしなければならないのだ。
 ヴァーレンの対岸には街があるとはいえ、一度島に入ってしまえば厳重な警備体制が敷かれているので外出は容易ではなくなる。覚悟を決めてきたとはいえ、逃げ場がないという事実に不安がよぎった。

「マリー様は女子寮に入ることになりますが……本当にお一人で大丈夫ですか? 我々と一緒に島の別邸に住まわれた方がよろしいのでは……」

 眼鏡を押し上げながら、心配そうな表情でロジャーは言う。
 ヴァーレン寄宿学校では従者を連れて寮生活はすることはできるが、男子寮・女子寮は異性禁制だ。もちろん女子寮でもロジャーのような男性の執事を入れることはできない。そのため、エマは島で売り出されていた貴族の邸宅を購入して、そこでロジャーや家政婦と暮らしながら学校に通っているのだという。マリーだけが寮暮らししていたのだ。
 マリーはためらいつつも、やんわりと首を振る。

「お心遣いはありがたいのですが……これまで四年間もマリア様は寮生活をされていたと伺っています。それなのに突然お姉様と別邸で生活するのは不自然に思われてしまうと思います……」

 もともと仲良い姉妹という訳でもないのだという。
 できるだけ別人だと疑われる要素は減らしておきたかった。
 しかし、ロジャーはなおも言う。

「ならば、せめて使用人をつけられるとか……」

「……いえ、私は誰かにお世話をしていただくことは慣れていませんし……、それにマリア様も使用人は遠慮されたと聞いていますので」

 意外なことに、マリアは身のまわりのことは自分で全てしていたらしい。
 ヴァーレン寄宿学校は貴族の子息子女が多くいる学び舎なため、申請をすれば使用人を同行させることは許されている。
 しかし自分のことは自分で行うべき、という学校の理念があるため、貴族であっても使用人を置かない者は多い。
 だからマリアの行動は決しておかしい訳ではないのだが……。
 エマは大きなため息を落としながら言う。

「ま、今にして思えば、マリアが使用人をつけなかったのは、逃亡計画のためだったんだろうな。当時は殊勝な心掛けだと思っていたんだが……完全に騙されたよ」

 ロジャーが「そうですね」と肩をすくめた。

「使用人が面倒を見てくれるということは、逆に言えば常に見張りをされているようなものですからね。逐電計画を練っていたマリア様には不都合だったのでしょう」

(とはいえ、さすがにマリア様も島にいる時は逃げられなかったみたいだけど……)

 だからわざわざ、学校が長期休みで帝都に戻っている間に行方をくらましたに違いない。

「……やはり、まだマリア様の行方は分かりませんか?」

 マリーがそう尋ねると、エマは暗い表情で「……ああ」と、うなずく。
 見つかればエマはすぐに知らせてくれるだろうと分かっていたが、マリーは気になって、つい捜査の進捗を聞いてしまう。しかし、かんばしい返事が返ってきたことはない。

「妹には昔から手を焼いていたが……これまでの人生で一番困った状況だよ」

 そう言うエマの顔色は心労のせいか青白く見えた。
 マリアの出奔が知られても、代役を立てたことを知られても、シュトレイン伯爵家は処罰されるかもしれない。彼女の重圧を思うと気がふさぐ。
 マリーは鞄の中からそっと二枚のハンカチを取り出し、エマとロジャーに手渡した。

「あ、あの……っ! じつはこれ……ささやかなのですが……お二人にプレゼントをしたくて。疲れが取れるように願いが込めて編みました」

 魔方陣のことは母親に秘密にするよう言われているので、そんな表現をした。

「おお! これが【織姫】のハンカチか! ありがとう。うむ……私は素人だが、この細やかな刺繍はすごいと思うぞ」

 そう言って喜色を見せるエマ。
 ロジャーは当惑したような顔をしていた。

「え? エマお嬢様だけでなく、私もいただいてよろしいのですか?」

「ええ。ロジャーさんにはいつもお世話になっていますから」

 マリーの言葉に、ロジャーは少し感動したように目を細める。ハンカチを大事そうに両手で包んだ。

「……このような貴重なものをいただけるなんて光栄です」

「【織姫】のハンカチなんて、貴族の令嬢が見たら皆欲しがる物だからな。なかなか手に入らない。良いのか? 私達がもらってしまっても……」

 二人から思っていた以上に感謝されてしまい、マリーは慌てた。

「あ……その、……マリア様のお役目には関係ないのに、私の趣味の刺繍のために糸や布もたくさんいただいてしまいましたし……依頼されていたドレスの仕事も全て終わって手が空いていたので。趣味の延長で作ったものですし、まったく負担ではないので、お気になさらないでください! お二人はいつもお疲れの様子なので、私に何かできないかなと思って……」

 気を遣わせないようにしたかったのだが、うまく言えなくて、まごついてしまう。
 エマとロジャーは胸を押さえて「ウッ……」と、うめいた。

「あ、あの……? どうなさったのですか……?」

 心配になって尋ねると、顔を上げたエマがロジャーに向かって言う。

「ロジャー、私は妹というものがこんなに可愛いと知らなかったよ。一人っ子の奴らに『妹がいて羨ましいなぁ』なんて言われるたびに、ぶん殴ってやろうかと思っていたが……。世間は兄弟姉妹というものに幻想を抱きすぎだろうと思っていたが……ようやく私にも分かったよ。彼らが想像しているのは、こういう可愛い妹像だったんだな……ッ」

「恐れながら、私も同じ気持ちでございます。マリア様がマリー様のように優しいお心をお持ちだったら、どれほど良かったか……!」

 感動している様子の二人に、マリーは引きつった笑みが漏れる。

(え? 私、そんなにおかしいことはしていない……わよね……?)

 マリーがしたことは家族ならやっていてもおかしくないことだと思うのだが……。
 二人はよほどマリアに大変な思いをさせられて生きてきたのだろう。その苦労がしのばれる。
 三人がそんな和やかな会話をしている間に、蒸気自動車はヴァーレン島の検問所にたどり着いた。
 そこで学生証を提示し荷物のチェックをされてから、高い城壁がはりめぐらされた都市の内部に入って行く。

「わぁ……っ」

 マリーは思わず声が漏れてしまった。
 石畳の大きな広場があり、市場が開かれている。ゆったりとした登坂に沿って商店や民家が立ち並んでいた。色とりどりの扉や石を積み上げられた建物はとても可愛らしく、さながら童話の中の世界のようだ。
 潮が満ちている時は歩いて渡れない日もあるのに、たくさんの人々が行きかい、商売しているのは経済的な自由を許されている区域だからだろう。
 石畳の上を軽やかに走って行く子供達を眺めながら目を輝かせているマリーに、エマは苦笑する。

「外出届を出せば、学校を出てこの辺りに買い物にくることもできる。落ち着いた頃に案内してやろう。さすがに島外に出るのは長期休暇か、特別な事情がある時しか許可されないがな」

 蒸気自動車はガタンゴトンと時折石に乗り上げながら島の一番上の建物を目指す。
 学校の敷地内に入って車から降りた時、エマが何かを発見したように「あっ」と声を漏らした。
 そちらを見ると、制服を着た少年がこちらに向かってくるところだった。彼の目に射抜かれ、身がすくんでしまう。
 カルロがなぜかマリーの方に近付いてきていたのだ。
 成績優秀者にしか与えられない黒色のガウンと生徒会の徽章《きしょう》を身に着けて、カルロは優雅な足取りで歩いてきた。

「やあ、マリア。そしてエマ・シュトレイン伯爵令嬢。先日のパーティ以来ですね」

(こんなにすぐに再会するなんて……)

 やはり彼を前にすると緊張してしまう。
 マリーはおずおずと制服のスカートの端を持ち上げる。

「こんにちは、カルロ殿下。先日はお見舞いの花束を贈ってくださり、ありがとうございます」

 パーティの後にカルロから花束が届いたのは、とても驚いた。
 自分に向けられたものでなくても嬉しくて、つい押し花にしてしまったほどだ。そのことを思い出して、顔がほころぶ。
 エマは男装しているためか、胸に片手をあてて頭をさげる男性の礼をした。ロジャーは後ろで控えめに頭を垂れている。

「ご無沙汰しております、カルロ殿下。……ですが私のことは伯爵令嬢ではなく、『エマ』、もしくは次期シュトレイン伯爵とでもお呼びください」

「はは。相変わらず勇ましいですね」

 エマの言葉に、カルロは苦笑いする。
 爵位は男子が継ぐものだ。しかし、エマを含めた一部の貴族女性は女性も爵位を継承できるようにするべきだ、と声をあげて活動している。その改革派の声は大きく、帝国内でも無視はできない派閥となっている。彼らをまとめあげているのが、このエマ・シュトレイン伯爵令嬢なのだ。

「ところで……マリア」

 カルロはそう言うと、ちらりとマリーの方に視線を向けてくる。

「はっ、はい」

 マリーは思わずビクリと肩が跳ねてしまう。

(ダ、ダメだわ。しっかりとしないと……! びくびくしていたら、マリア様らしくないもの)

 マリーは無理やり顔に笑みを作った。

「な、なんでしょうか? カルロ殿下」

 しかし、カルロはじぃっとマリーを見つめていた。
 エマとロジャーの不安そうな視線を感じる。マリーは汗が噴き出るのを抑えられなかった。

(え……? どこか、おかしかった? いえ、挨拶の仕方は完璧だとお姉様も認めてくださったもの。どこもおかしくはなかったはずだわ……)

 ならば、なぜこうも凝視されているのだろうか。
 だんだん泣きたくなってきた。まさか何か失敗してしまったのだろうか、と不安が湧き上がってくる。
 ただでさえ男性恐怖症のマリーは、異性に近い距離で見つめられることが耐えがたいのだ。

(ロジャーさんには少しは耐性がついてきたけど……まだ他の男の人は無理だわ……)

 愛する相手でも拒絶反応が出てしまう。
 マリーが苦悶の表情を隠しきれなくなってきた頃、カルロはすっと目を逸らした。

「……ああ。すみません。ちょっと疲れていて、ぼうっとしてしまいました」

 と、そっけなく答える。
 そのいつもと変わらないマリアへのつれなさに、エマとロジャーは露骨にホッとした様子を見せた。
 エマは焦ったように問う。

「と……ところで、カルロ殿下。マリアに何か御用でしたか?」

「ああ……そうでしたね。じつは休暇の間に寮長の仕事が溜まっていまして。戻ってきて早々に申し訳ないのですが、マリアに明日から仕事をお願いできないかと思ったんです。ちょうど姿を見かけたので、それを伝えにきました」

「あ、寮長の仕事ですね! 承知しました」

 マリーは慌ててうなずく。
 マリアは女子寮の、カルロは男子寮の寮長をしているのだ。
 エマが咳払いする声が耳に届いて、マリーはハッとする。こういう時に丁寧に返すのは、マリアらしくない。

(よ……よし! やるわよ! 今こそ特訓の成果を見せる時……ッ!)

 ふんぞり返って、マリーはカルロを指さした。

「ハッ……ハン! 面倒くさいわね~。仕事が溜まっているなんて。カルロ、あんた先にヴァーレンに戻って来てるんだから、そのくらい、やっておきなさいよ!」

 痛いほどの沈黙が肌に刺さる。エマは満足げにうなずき、ロジャーは『ばっちりです!』と言いたげに拳を握りしめていた。
 マリーの目にじんわりと涙が浮いてくる。

(ほ、本当に!? 本当にこれで良いんですよね!?)

 皇太子にする態度としては最悪どころか、不敬罪で処されてもおかしくはない。
 これがマリアの日常的な彼への態度だとしたら、よく婚約破棄せずにいられるものだ、と寛容すぎるカルロに感心してしまう。
 おそらく破婚をしてくれないからマリアもカルロへの行動がエスカレートしてしまっているのだろうが、それにしても悪女にもほどがある。

(ごめんなさいッ! ごめんなさい──!! 本心じゃないんです。こんなこと本当は言いたくないんです、許してください! 絞首刑に処さないでください……っ)

 足がガクガク震えはじめてきた。目にたまった涙が限界まできた時──カルロが長い息を吐いた。目を逸らして口元を隠すように手を当てている。

「……まあ、良いでしょう。それでは、明日は寮長室に来てください。午後の十三時からですので、前みたいに寝坊しないようにお願いします」

 そう言い残して、カルロは去って行った。
 彼の姿が遠ざかったところで、マリー達三人は深く息を吐いた。
 エマが額の汗をぬぐいながら言う。

「あ~……ハラハラしたな。だが、なかなか上手い演技だったぞ。その調子で頑張れ」

「あ、ありがとうございます……お姉様のご指導のおかげです」

 訓練の成果が出ていたなら嬉しいことだ。これからも頑張るぞ、と内心拳を握る。
 しかし気弱ゆえに、すぐに不安が込み上げてきた。

「明日から、さっそく寮長の仕事なんですね。うまくいくでしょうか……? しかもカルロ様とずっと一緒だなんて……」

 短い時間ならともかく長時間となると、うまく隠し通せるか不安だった。
 エマは不敵に笑う。

「心配ない。さっきみたいな態度でやっていけば、大丈夫だろう」

「そうですね。マリア様はだいたいあんな感じです。……ああ、でも、基本は二人きりか我々がいる時だけにしてくださいね。さすがに大勢の前ですると、カルロ様も体面がありますし、マリア様でも罰せられますので」

 ロジャーは眼鏡を押し上げながら、そう言った。
 昔はマリアも誰の前だろうが構わずカルロに意地悪をしていたらしいのだが、九歳の頃にそれをやって父親にお尻を百回叩かれたらしい。それ以来、人前での悪女ぶりは控えめになったとか……。

「寮長の仕事も適当で大丈夫だ。毎回三十分ほど遅刻して行くと良い」

 エマの言葉に、マリーは不安が押し寄せてくる。

「ち、遅刻……? そ、そんなことして、良いんでしょうか……」

 相手がカルロでなくても、マリーの性格的に遅刻をすると申し訳なく思えてしまうのだが……。

「気にするな。マリアはルーズだからな。それより、そろそろ女子寮に荷物を運ぶとしよう。まずは寮監のプリシラ先生に帰宅の挨拶に行ってからだな。生徒達は休暇が終わった時に、寮監に挨拶に行くのが習わしなんだ」

 エマにそううながされて、マリーはうなずく。
 ロジャーには寮の前で待機してもらい、マリーはエマの二人で女子寮の一階にある寮監室に向かった。

「女子寮を監督しているプリシラ先生は、かなり規則に厳しい方だから気をつけるんだぞ」

 エマに小声でそう言われて、マリーは表情を引き締めた。
 寮監室をノックすると、すぐに三十歳くらいの女性が現れる。長い金髪を後ろにひっつめた、堅そうな雰囲気の女性だ。

「あら、エマさんとマリアさん。お久しぶり。ヴァーレンに戻ってきたのね。お元気だったかしら?」

 プリシラ先生は、にっこりと微笑んだ。

「ご無沙汰しております、プリシラ先生。……じつは、妹は休み中ずっと病で臥せっておりましたので、ちょっとばかり休みボケしています。うっかり何かを忘れることがあるかもしれませんが、ご容赦ください」

 エマはそう先手を打った。
 入れ替わりというとんでもないことをやるのだから、細かいミスが起こらないはずがない。それを予想していたエマ達は、マリーが何か間違えたとしても疑われないよう、『休みボケで、ついうっかり』と誤魔化せる土壌をあらかじめ作っておくことにしたのだ。
 しかし、プリシラ先生は「あら……」と困ったような顔をする。

「まさかとは思うけれど……マリアさんに休み前にお伝えした罰の話、お忘れだったりしないわよね?」

「ば、罰ですか……?」

 エマが引きつった顔で、そうつぶやく。

「罰……?」

 エマとマリーのつぶやきに、プリシラ先生がうなずいた。

「ええ。どうやらマリアさんはお忘れみたいですわね。……端的にお話しますと、マリアさんがクラスメイトのエセルさんを追いかけ回し、食堂に置いてあった卵を彼女にぶつけたあげく、食堂内の皿などの備品を壊しまくった件についての処遇ですわ。教師達で話し合い、マリアさんには罰として休み明けから一か月間、旧校舎の寮で自粛生活を行っていただくことに決まりましたの。あらかじめ保護者の方に渡すよう書類もそろえて渡してあったのだけれど……エマさんはご存じなかったのかしら?」

 そうプリシラ先生に言われて、エマはあまりのことに眩暈をおぼえたようだった。くらりと、よろめきかけた彼女を慌てて支える。

(マ、マリア様──ッ!? そんな重要なこと、お姉様にも伝えてなかったのですか!?)

 思考は大混乱だ。
 それに、エセルというと前にパーティで出会った少女だったはずだ。カルロと仲良さそうな少女のことを思い出して、ちくりと胸が痛む。

(あの少女……エセルさんは、マリア様のクラスメイトだったのね……)

 交友関係の名簿の中に『エセル』の名前があり、『犬猿の仲』の隣に『クラスメイト』と確かに書いてあったおぼえがある。
 プリシラ先生はこめかみを揉みほぐしながらため息を落とした。

「マリアさんは、口を開けば『海賊王のお嫁さんになる!』しか言いませんし、テストも赤点続き。クラスでも揉め事ばかり起こしています。旧校舎で自粛生活をしながら勉学に励み、自身の行いを反省していただきたい、というのが教員の総意です」

 エマが焦った様子で、プリシラ先生にすがりつくように言う。

「そ、その……! 妹の不手際は大変申し訳なく思います! ですが、旧校舎で一か月という処罰はあまりにも重いのではないでしょうか? そんな罰は前代未聞です。妹にはきちんとするよう言い聞かせますから、なんとかご容赦いただけませんか?」

「お姉様……?」

 エマが必死に止めようとしていることに困惑する。
 プリシラ先生は首を振った。

「いけません。たとえ伝統のあるシュトレイン伯爵家のご令嬢でも、罰を軽くするなんて許されませんわ。むしろ寮長であるマリアさんは、生徒達の見本とならなければならない方でしょう? 今のままでは進級だって危ぶまれるのですよ」

 もっともな言葉にエマは返す言葉もないのだろう。口をつぐんでしまった。

「あ、あの……お姉様、お気遣いなく。私は罰を受け入れますので」

 旧校舎の寮で一人きりで暮らすくらい、なんということもない。そう思っての発言だったが──。

「きみは旧校舎のことをよく知らないから、そんなことが言えるんだ」

 エマは血の気が失せた顔でマリーに耳をよせると、小声でボソリと言った。

「……旧校舎は、かつて監獄として使われていたという……別名『幽霊棟』だ」

(……ゆ、幽霊棟?)

 そのおぞましい単語に、背筋がぞわりと震えた。

(つまり、お化けが出るということ……よね?)

 マリーの返答にプリシラ先生が満足げにうなずく。

「良い心掛けですね、マリアさん。まさか罰など受ける気はないと跳ねのけられたら、どうしようと思っていましたわ。あなたは休み前もあれだけ嫌がっていましたからね」

 もしかしたらマリアが休み中に逃亡を決意した要因の一つは、これだったのかもしれない。出奔してしまえば罰なんて関係ないし、話せば怒られるだけだから、エマにも伝えなかったのだろう。

「それでは旧校舎へ行きましょうか」

 そう言って、プリシラ先生は部屋の奥にあった金庫から古びた鍵を取り出し、先導して歩いて行った。