祈りの織姫は恋をする~気弱な身代わり悪女ですが、初恋の皇太子様と婚約破棄しろと言われました~【書籍化】


 翌日、マリーはエマ達と食堂でゆったり昼食を取ってから、寮長室へ向かった。
 まだ長期休み期間中のため生徒の数はまばらだ。ヴァーレンもどこかのんびりした空気が漂っている。

(お姉様に言われた通り、三十分くらい遅刻してから向かっているけど……)

 マリーは誰かを待たせていると胃が痛くなってくる小心者だった。できれば約束の十分前にはその場についていたい。

(でも、マリア様になりきるためには仕方ないわ……)

 チクチク痛む胸を押さえながら、寮長室の前で腕時計を確認すると、まだ十三時二十分だった。三十分の遅刻には、あと十分足りない。
 マリーは顔をしかめて深呼吸し、扉の前で黙々と十分待った。
 そして、きっちり針が三十分を指した時に、扉をノックする。

「どうぞ」

 そう中から耳に心地よい声が聞こえて、マリーはそっと深呼吸した。
 これからカルロと同じ部屋でしばらく作業をすると思うと、胸の高鳴りをおぼえる。けれど同時に、異性と同室で過ごすという状況が怖かった。

(大丈夫、大丈夫……怖くない。私ならできる。私はマリア……マリア……カルロ様は怖くない……よし……!)

 自分にそう言い聞かせて、扉を開けた。
 そこは壁際に本棚が設けられた、教室の半分くらいの広さの空間だった。
 ヴァーレン島の頂きにある学校のため、窓からの見晴らしは良い。
 少し開けられた窓からわずかに波打つ潮騒が聞こえ、緑の野原の半分ほどには海が広がっている。
 その海原を背景に、カルロはすでに執務机に座って作業していた。金糸がキラキラと陽光を浴びて輝くさまは、まるで天上の神々のような美しさである。マリーはしばし、ぼうっと見惚れてしまった。

「……きみがノックして入るなんて珍しいですね」

 そうカルロが声をかけてきて、ようやくマリーはハッとした。

(マリア様は扉をノックもしないの!?)

 驚愕である。
 マリーはなんとか取りつくろうべきか悩み、視線を泳がせながら早口で言った。

「つ……つまづいて! そ、そう! つまづいてしまって、扉に二度ぶつかっただけよ! 勘違いしないでよね!」

 カルロは何とも言えない表情でマリーをじっと見つめている。
 冷汗が噴き出る。心臓がドクドクと音を立てていた。

「……そうですか」

 カルロがふいっと顔を机に向けたので、マリーは肩の力が抜けた。

(あっぶなかったぁぁ──ッ!)

 うっかりすると素が出てしまいそうになる。マリーは唇を噛んで気合いを入れなおした。

「じゃあ、そちらに掛けて。いつものように作業をお願いします」

 そうカルロが言って、隣の執務机に座るようマリーにうながした。

(こういう時、マリア様ならこう言うよね?)

 マリーは胸を反らして、つんとした態度で言う。

「フ、フン……! やってやろうじゃない! こんなの私には朝飯前なんだからッ」

 マリアになりきるために趣味嗜好、行動パターンを暗記し、学校で行っている授業の予習復習、寮長の仕事にいたるまで頭に詰め込んできたのだ。
 その猛特訓の成果を見せる時がきた。

「……それは頼もしいですね。いつもそのくらいやる気があったら、ありがたいのですが」

 そう淡々と皮肉めいた口調でカルロに言われて、マリーは顔を強張らせる。

(……やる気を出しすぎたかしら? もうちょっと、だらけている感じの方が良いかも)

 誰かになりきるのは難しい。
 そもそも会ったことがない相手だから、完全にマリアの動きを読み切って行動するのはかなり難易度が高いのだ。だから、マリアだったら多分こうなんじゃないかな? という予想でしかないのである。

(ルーズにすれば良いのかしら……? でも最低限、任された仕事はこなしていたでしょうし……とりあえず、やってみましょう)

 気を取り直して、カルロの顔色を窺いながらビクビクと椅子に座る。
 机の上には大量の書類が置かれており、これが全て寮生からの嘆願書なのか、と内心驚いた。
 マリーは娼館で雑務を押し付けられることも多かったので、書類仕事には慣れている。
 思っていたほど大変そうではない作業量にホッとしながら、緊急性があるものと、そうでないものに嘆願書をてきぱきと仕分けていく。

(お姉様からどんな仕事をするのかは聞いているもの。こうすれば良いのよね……?)

 エマも何年か寮長の仕事をしていたことがあるらしい。彼女から作業の進め方を聞いていたので、動きに迷いはなかった。
 そして、マリーは壁の棚にあると聞いていた過去の嘆願書の結果をまとめたファイルを探す。過去に受けた訴えと重複する嘆願書を受けた時は、これまでの対応を確認した方が早いだろうと配慮してのことだ。

(あれ……?)

 しかし、いくら探しても、この四年間の過去ファイルがない。それ以前の書類はきっちり整理されて仕舞ってあるというのに。

(おかしいな……もしかして別の場所なのかな?)

 戸惑いつつ自分の机の引き出しを探そうかと思い、後ろを振り返った時──。
 目の前にカルロが立っていた。

「ひぃッ……」

 思わず後ずさりして背中を棚に派手にぶつけてしまう。

「な、ななな……何でしょうか!?」

「だ……大丈夫ですか? すみません、驚かせてしまいましたね」

 カルロは驚いたように言う。マリーは「いえ……」と首を振りつつ、恐怖で血の気が引いていくのを止められなかった。
 旧知の仲ならば遠すぎず、近すぎでもない絶妙な距離感なのだが、マリーにとってはそうではない。

(二メートル、いや、できることなら五メートルくらい離れて接してほしい……私の心の安定のために……)

「何を探しているんです?」

 カルロに問われて、マリーは慎重に横に歩いて距離を取りながら答える。

「えっと……ここ数年の要望書の対応をまとめたファイルって、ここになかったかな……と思って」

 そのマリーの言葉に、カルロは黙り込んだ。
 じっと探るように見つめられて居心地が悪くなる。

(えっと……おかしいことは言ってないわよね? だってお姉様があるって言ってたんだし……)

 カルロは静かな口調で言った。

「……何を言っているんですか? 今まで、マリアはそんなもの作ったことなんて、なかったじゃないですか。面倒くさいと言って、処理の終わった嘆願書は全て捨てていたでしょう」

(えぇ!? なんと……)

 青くなってしまう。
 マリアはエマとは違い、適当に処理していたのだ。

(こ、効率が悪い……。い、いや、それより、今はこのカルロ様の疑惑の視線をなんとかしないと……)

「あ、ああ。そうでした。うっかりしてましたわ。休みボケですかねぇ」

 そうとぼけながら笑ってみせるが、カルロは半眼でじっと見つめてくる。視線の痛みに耐えかねてマリーが目を逸らすと、彼はふうとため息を落とした。
 カルロは自身の机の引き出しから大きなファイルを数冊出して手渡してきた。その重さにびっくりして、マリーは取り落としそうになってしまう。

「僕がまとめたものですが使ってください。男子寮の物ですが、共通する部分もあるでしょう」

「わっ……あり、がと……」

 お礼の声は小さくなってしまう。

(あれ? お礼って言って良かったのかしら……? いや、でもこの状況でお礼を言わないなんておかしいし……)

 何が良くて何がダメなのか、線引きが難しくて、もう分からなくなってきた。
 ファイルを開くと、きれいな字で記入がされている。おそらくカルロの字だろう。
 浴室やお手洗いで水が出なくなった時の対応や、ロッカーが壊れた時の対応など。そういう際に誰に連絡をするかなどが細かく記載されている。

(わっ、すごい……! これなら私にも対応できそう)

 目を輝かせながら、マリーはページをめくっていく。その時に、要望書の名前欄に見たくない名前を見つけてしまった。

 ──ギルアン・テーレン。

「え……?」

 思わずファイルを取り落としてしまう。
 バサバサと音を立てて、その名前は床に落ちた。

「大丈夫ですか!?」

 カルロがマリーにそう声をかけてきた。
 しかし、返事ができない。血の気が引いて震えるばかりだ。

(私をお金で買おうとした男が……この学校にいる?)

 それは予想もしてないことだった。
 いや、考えてみれば何もおかしいことではない。学費と寮費が高額なヴァーレンは特待生でなければ平民が入ることは難しいが、ギルアンはこの国の四大貿易商の息子なのだ。テーレン商会ならば率先して息子をこの学校に入学させるだろう。

(まさか、また会うことになるなんて……)

 もしギルアンがこの学校にいると知っていたら、この依頼を受けることをもっと躊躇していただろう。それほどに彼が苦手なのだ。
 ギルアンの私生活なんて興味なかったから、マリーは彼がヴァーレンの生徒だということも知らなかった──それが仇となってしまった。エマとロジャーも学年が違うから彼がいることに気付かなかったのだろう。

「……この男がどうかしましたか?」

 カルロがファイルを拾いあげながら言う。

「なっ、何でも、ありません……! あの……そ、そう! 虫がいたような気がして……でも、気のせいだったみたいです。驚かせて、すみません」

 余裕がなくなってしまったせいで、素が出ていることに気付いていなかった。
 カルロはしばし押し黙ったあと、重いため息を落とす。

「……考えてみれば、休み明けにすぐに寮長の仕事をするのは大変でしたね。配慮が足りず申し訳ありません。疲れているでしょうし、今日はもう切り上げましょう」

「え……あ、はい。……でも、カルロ様は?」

(さすがに自分だけ休んで彼に仕事をさせるのは、申し訳ないわ……真面目な彼ならやりそうだし……)

 マリーの気持ちが目から伝わったのか、カルロは微笑した。

「僕も、もう止めます。……そんな気分ではなくなったので。女子寮の前まで送っていきますよ」

「え!? いえ、そんな……良いですよ。それに私が今いるのは女子寮じゃなくて、遠い旧校舎ですし」

「旧校舎? どうして、そんなところに……」

 マリーは一か月間の謹慎処分を受けたことを伝えた。自分のことではないのに、少し恥ずかしい思いをしながら。
 カルロは「ふむ……」と難しい顔をしてから、

「だったら、なおさら送ります。あの辺りは人の目も少ないですし……校内は警備がしっかりしているとはいえ、一人で人けのないところに行くのは危険です」

「えっ……た、確かにそうですが……でも、カルロ様のお手をわずらわせる訳には……」

「遠慮するなんて、らしくないですよ」

 そう言われると、何も反論できなくなってしまう。
 それに彼は心配して申し出てくれたのだ。その気持ちを無下にするのは躊躇われる。
 カルロの身長はマリーより頭ひとつ分ほど高い。彼の背中を見つめながら、マリーはぼんやりと考える。

(お姉様とロジャーさんにも伝えておかなきゃ……)

 幸い明日会う約束があったから、その時に知らせれば良いだろう。

(カルロ様は優しい……)

 きっとマリアならば、カルロの好意も突っぱねただろう。
 自分もそれに倣うべきだと思いながら、マリーは冷たい言葉を唇にのせることができない。
 やはり性格上、どうしても親切にしてくれる相手を無下にすることに抵抗感あるのだ。幼い頃から優しくしてくれる人が少なかったので愛情に飢えているのもある。

(……お姉様だって私とマリア様の違いが見抜けなかったくらいだもの。今までと態度が違っていたって、きっと疑われることなんてないはずだわ)

 他人になりきろうとしても不自然になってしまうかもしれない。
 だったら、普段通りの自分で良い──というのは言い過ぎにしても、過度にマリア様に寄せる必要もないのではないだろうか。
 自分に都合の良い解釈だったが、少しだけ、そう思ってしまった。

(だから、せめてお礼くらいは……)

「……送ってくださり、ありがとうございます」

 マリーがそう言うと、カルロは足を止める。男子寮と女子寮の間にある中庭を抜けたばかりのところだ。

「いえ、別に……ついででしたし」

 その声には戸惑いの気配を感じる。
 パーティで再会した時は冷たく感じたけれど、やはりカルロは昔と変わっていないのかもしれない、とマリーは思って胸があたたかくなった。

(それとも、マリア様が相手だから? どんなに憎まれ口を叩かれても婚約破棄しないのは、カルロ様が彼女を心の底では愛しているからなのかもしれない……)

 そう思うと、マリーの胸がチクリと痛んだ。

(……私のことなんて、きっと、もうカルロ様も忘れてしまっているわよね)

 それほど年月は経ってしまっている。きっとマリーのことはマリアの記憶に上塗りされているだろう。
 そうは思っても、もしカルロに実際に『何のことだ?』とか『忘れた』なんて口にされたらマリーの胸はつぶれてしまうに違いない。
 八年前にカルロはマリアに恋をしてしまったのだという。奇しくも、マリーと出会ったのと同じ年に。
 顔がマリーとそっくりなのに、彼はマリアの方を愛してしまった……。
 なんという皮肉だろう。

(それは別に良い……胸が苦しいけれど、カルロ様の幸せが一番だもの)

 選ばれなかったことは仕方ない。それはマリーにはどうしようもないことだ。世の中には自分ではどうにもできないこともある。
 けれど、嘘を吐いていることへの罪悪感が込み上げてくる。彼が愛するマリアの振りをした女に騙されているこの状況が、哀れで仕方がなかった。
 どんなにマリアに避けられても一途に思い続ける彼がけなげで、気の毒で……。

(あれ……? 私がカルロ様と出会ったのは八年前で……マリア様も同じ年に出会った? そんな偶然って、あるのかしら……?)

 マリーは戸惑いながら、カルロの紫水晶の瞳を見つめてしまう。
 カルロはなぜか一瞬身じろぎした。

「……どうしました?」

「あっ……いえ……」

(もしかして、カルロ様がマリア様のことを私だと勘違いしていたなんてこと……あるかしら……?)

 そこまで考えて、マリーは焦って首を振った。

(もしそうだとしたら、カルロ様の初恋の相手が自分ということになってしまうもの。それはないわ!)

 そんなことを一瞬でも想像してしまうなんて。
 自分の自意識過剰ぶりが恥ずかしくなった。
 昔から幼馴染のギルアンとその取り巻きに『ブス』だの『馬鹿』だの『無能』だのと、いじめ続けられたせいで、マリーの自己評価は極端に低くなっている。

「……マリア?」

「は、はいっ!」

 存外近くからカルロに呼びかけられて、マリーはビクリとした。
 恥ずかしすぎる想像をしてしまったことを見透かされたような気がして、顔面が熱をおびる。
 カルロは何か思い悩んでいるように視線を伏せながら、小声で言う。

「……この前パーティで会った時から、変な気分なんです。まるで、昔のきみに戻ったみたいで……」

「え……? 今なんて……?」

 よく聞こえなかった。だから聞き返したのだが──。
 カルロがなおも言葉を紡ごうとした時。

「寮長!」

 そう大声で呼びかけながら近付いてきたのは──世界で一番苦手な相手、ギルアン・テーレンだった。

(どっ、どうして……彼がここに……?)

「今度は何の用ですか。ギルアン?」

 カルロはなぜかマリーを背に隠すようにしてギルアンに問いかける。
 ギルアンはカルロの後ろにいるマリーに気付いて、瞠目した。しかし、すぐに嫌そうに細められる。

(マリア様はギルアンに嫌われているのかしら……?)

 そのことに少し安堵した。それなら、必要以上に近づかれる心配もなさそうだ。

「……二人が一緒にいるのは珍しいですね」

 ギルアンの問いかけに、カルロは肩をすくめた。

「そうですか? 同じ寮長ですし、そんなにおかしくはないでしょう」

「……まあ、そうですけど。でも二人って、婚約者なのに犬猿の仲だったじゃないですか」

 そのギルアンの言葉に、カルロは人好きのする笑みを浮かべる。

「どうしました、ギルアン? 僕達が仲良くすると、何か不都合でもあるんですか?」

 ギルアンはびっくりした様子で、慌てて首を振る。

「まっ、まさか! 俺はマリアなんかに興味はないですよ! まだ命は惜しいですし、カルロ殿下の恋敵にはなりたくありません。……それに俺が興味あるのは、マリアみたいな顔だったとしても……もっとおとなしい女です」

 最後の辺りは消えそうな声で言った。最初は興奮で赤らんでいた顔がむっつりと不機嫌そうにしかめられる。
 
「……そうですか。ギルアン、僕に何か用事があったんですか?」

「ああ……そうでした。それが隣の部屋の奴の寝言がうるさいんですよ。寮長のカルロ殿下に注意してほしくて……」

「それなら要望書を書いてください。緊急性のある話でもありませんし」

「緊急性はあるでしょう。今夜の俺の眠りに影響するんですから」

 そう不満を垂れるギルアンを無視して、カルロは「行きましょう」とマリーに言った。
 マリーは当惑しつつも、ギルアンから離れたい一心で足を速める。
 林を抜けて旧校舎が見えてきた辺りで、ようやくホッと息を吐く。背後を見ればギルアンの姿はなく、すでに中庭も遠くなっていた。

「それでは、マリア。明日からは授業があるので、寮長の仕事は放課後にお願いします」

 建物の前に到着した後、カルロは去ろうとした。その背に声をかける。

「あ、あの……! ありがとう、ございました……」

 カルロは一瞬だけ足を止めて、歩いて行ってしまった。
 その背を見送ってから、その場にヘナヘナと屈み込む。

「……こんなところでギルアンと会うなんて、サイアク」

 けれど、ギルアンはマリアだと信じて疑っていない様子だった。よほどのことがなければマリーの正体に気付かれることはないだろう。
 そうは思っても落ち着かない。

(神様……もしかして、私のことが嫌いなんですか?)

 初恋の相手は自分にそっくりな顔をした女性が好きで。
 しかも、その女性の振りをして彼と婚約解消しなければならないなんて……。さらに、おまけで大嫌いなギルアンまで付いてくる。
 その晩、マリーはろうそくの薄明りの中、手芸室で機織りをしながら、こっそり泣いた。作業に没頭していると気持ちが落ち着くのだ。
 糸を張り巡らせながら細やかな魔法陣の模様を編み上げていく。
 きらきらした精霊達の優しい光と月明かりが、傷心のマリーを慰めてくれているように感じられた。
 翌日のお昼時に中庭のガゼボで待ち合わせて、エマと食事をすることになった。場所を食堂にしなかったのは会話の内容を周りに聞かれないようにするためだろう。
 食事はロジャーがサンドイッチを用意してくれている。いつもエマが飲んでいる銘柄の温かい紅茶まで準備されていて、マリーはロジャーの執事としての手腕に舌を巻いた。
 すでに腰をかけていたエマの前にマリーは座る。

「お待たせしてしまって、すみません」

「いや、時間通りだ」

 そう楽しげに腕時計にチラリと目を向けるエマは、この報告タイムを楽しんでいるように見える。
 薔薇の香りがただよう中庭の通路をたまに通り過ぎる生徒もいたが、ガゼボからは距離があるので会話を聞かれる心配もない。

「それで、最初の定期報告だな。……とはいっても、まだヴァーレンにきて一日しか経っていないから報告するようなことも少ないかもしれないが」

 エマがそう切り出すが、マリーは気まずくなる。

「じつは……ギルアンと再会してしまって……。どうやら、この学校の生徒だったみたいなんです」

 そう伝えると、エマとロジャーは目を見張った。

「なんだって!? ギルアンが……? そうか……しまったな。確かに、この学校の生徒でもおかしくはないか……」

「……完全に我々の調査不足です。マリー様、不安な思いをさせてしまい申し訳ありません」

 ロジャーに深々と頭を下げられ、マリーは慌てて頭をブンブンと振る。

「い、いえ! お気になさらないでください。私も知らなかったことなので……それに、ギルアンは私の正体に気付いていないようでしたし」

 エマは険しい表情で腕を組んで唸る。

「そうか……まあ、前々からマリアと面識があるなら、マリアが突然別人に入れ替わっていても気付くことは難しいだろうが……」

「とはいえ、マリー様の身が危険なことには変わりありません。どうなさいますか?」

 ロジャーはエマに尋ねた。
 エマは黒髪を掻き回して「ううむ……」と悩んでいる。
 マリーを知る人物がそばにいるのといないのでは危険度が段違いだ。
 かといって、エマは伯爵家のためにも入れ替わりを辞めるという選択をすることはできないだろう。

「仕方ない……ギルアンとは極力接触しないようにしてくれ。そして、もし奴がきみのことをマリーだと疑うような言動をしたら、すぐに私達に教えてくれ。その時は計画を中止し、きみを保護する」

 エマがそう決断したので、マリーは承知した。
 その後、三人で歓談しながら昼食を終えた頃、エマが傍らに置いていた新聞をマリーによこしてくる。

「じつは……私もきみに報告しなきゃいけないことがあるんだ」

 その新聞は昨日の日付だった。
『織姫が行方不明!? いったいどこへ』と大きく見出しの文字が躍っているのを見て、マリーは目を丸くする。
 よく読んでみれば、それはスカーレットの仕立屋の経営が傾いているという記事のタイトルだ。

「これは……?」

 エマはクッキーを口に運びながら笑っている。先ほどマリーもいただいたそれは、エマの家政婦が焼いてくれたものらしく、サックリとしていてほのかに甘い。

「どうやら、スカーレットの店は経営が傾きはじめているようだ。【織姫】が失踪したという噂が広まって、お客がいなくなっているらしい。きみの能力を低く見ていた罰だな。一時の大金に目がくらんで、きみを売り渡すなんてことをしたから」

「そう……なんですか?」

 マリーは驚いた。
 自分がいなくなったことで、こんなに新聞で騒がれるとは思ってもいなかったのだ。
 エマは紅茶に砂糖を三つ入れてスプーンで掻き回しながら、うなずく。

「ま、きみは仕事を一人でしていたから、なかなか全ての依頼を引き受けることはできなかったんだろう? 調べたところ、【織姫】目当てに仕立屋にやってきた客は、スカーレットの話術に負けて他の職人に任せることが多くなっていたらしいんだ。次回は優先的に【織姫】に作らせるとか、何パーセント割引にするから、とか説得されてね」

 つまり【織姫】効果で仕立屋が儲かっていたというのだ。

「しかし肝心の【織姫】がいないのなら、もっと安価な店へお客が移動してしまう。こう言ってはなんだが、スカーレットの店は他店より高価なわりに、【織姫】以外が作る衣装は仕立ても良くなかったからな。繁盛しているんだから【織姫】がいなくなってもお客は残るとスカーレットは踏んでいたんだろうが、とんだ誤算だったという訳だ。娼館の方もマリーがいなくなったことで娼婦達との間で衝突が起きているらしく、辞めていく者が日に日に増えているとか」

 ふと、マリーはかつて母親に言われた言葉を思い出した。
『マリーは【精霊の愛し子】だから、周囲には精霊達の加護があるのよ。あなたはいるだけで周囲の人々を幸せにするの』と。
 中庭の薔薇とたわむれる精霊達の顔をじっと見つめる。よく目をこらして見れば、娼館にいた頃から知っている精霊達がたくさんいることに気付いた。新しい友達の精霊達と空中でじゃれあっている。
 その数をこっそりと数えて、マリーは青ざめた。

(え!? 皆いる!? まさか……私が娼館にいた精霊達を一緒に連れてきてしまったのかしら……?)

 いや、まさかね……。と、マリーは汗を搔きながら、現実逃避した。自分にそんな影響力があるはずがないと首を振った。

(たまたまよね、きっと……そう、たまたま)

 話が雑談のようになっていたので、マリーはふと気になっていたことをエマに尋ねる。

「あ、あの……ところで、お姉様。明日から新学期が始まりますが……テストや授業などは、どのくらい真面目にやれば良いでしょうか? このままだと進級が危ういとプリシラ先生がおっしゃっていましたが……さすがに、これ以上赤点を取るとまずいのでは……?」

 ヴァーレンにくる前、勉強やテストは名前だけ書いて後は適当で良いとエマから言われていた。マリアの成績はいつもビリから数えた方が早いくらいだったからだ。
 それに学校や家庭教師から学んだことがないマリーは授業についていくのは大変だろうという配慮もあった。
 しかし、このままでは留年してしまうのでは、とマリーは危機感をおぼえてしまう。
 エマは紅茶を口にしながら遠い目をする。

「ああ、確かにそうだな……すまない。思っていた以上にマリアが馬鹿でな。すまない……本当にすまないと思う」

 エマは灰になりながら続ける。

「どうやら、マリアは赤点を取りすぎて、すでに進級できるかギリギリの状態のようだ。さすがに留年してしまうのはよろしくない……。きみには大変だろうし、苦労をかけて申し訳ないが……テストや授業は少しだけ頑張ってもらえるだろうか?」

「だ、大丈夫です。頑張ります……!」

 マリーは拳をぎゅっと握りしめた。
 確かにマリーは学校に通ったことはないが、高級娼婦見習い兼下働きの立場だったので、幼い頃から楽器や歴史、ダンスなどの教養は学ばされている。
 高級娼婦はただの春を売る女ではない。高貴な者を楽しませるための話術や知性、美貌を兼ねそろえた存在だ。トップクラスの高級娼婦の中には接待としてお客である外交官と共に諸外国に随行することすらある。
 そういう庶民には手が出さないような高嶺の花こそが真の高級娼婦であり、人気のある女達は肖像画が市井に出回るほどだった。
 マリーの母親は花街で長年の頂点に君臨し、【華神】の称号を得ていた。
 元貴族令嬢でもある母親と一流娼館で幼い頃から学んできたマリーは、本人には自覚がなくても、話術以外は難なくできるほどの素養はある。
 加えて、マリーは小心者ゆえに準備を怠らなかった。

(良かった……心配だったからシュトレイン伯爵家で、お姉様の教科書を借りて予習させてもらっておいて、本当に良かったわ……)

 勉強しなくても良いと言われていても心配で、マリアの学年の教科書のみならず、エマの学年の勉強まで夜なべしてこっそりと行っていたのだ。
 気弱ゆえに抜かりがないのである。

(それにしても……少しだけ頑張るって、どのくらいやれば良いのかしら?)

 まさか、全ての授業でマリーがやりすぎてしまうだなんて、この場にいる誰も想像できないことだった。


 スカーレットは苛立ちをこらえ切れず、娼館の受付の机を殴りつけた。その拍子に灰皿に置いていた煙管(きせる)が倒れて灰が落ちる。

(どうしてこんなにうまくいかないの!?)

 理解できなかった。
 これまで順調だった仕立屋のお客が、急に波が引いたようにいなくなったのだ。
 本当は【織姫】がいなくなったことは伏せて、腕の良い職人に作らせた衣装を彼女の作品として偽り、これからも売っていくつもりだった。
 それなのに【織姫】がもうお店にはいないという噂が立ってしまったのだ。似たデザインを作っていけば見破られることはないだろうと踏んでいたのに。

(これも全てマリーのせいだ……!!)

 スカーレットはギリリと親指の爪を噛む。
 マリーがいなくなった際に依頼を受けていたドレスは、未完成だった。
 しかし、引っ越しのどさくさで製作途中の衣装はマリーに持って行かれてしまったのだ。
 それで仕方なくお店にあった複製図案を使って急遽別の職人達に作らせた。
 出来たものはマリーが作った物と比べると見劣りしたが、それでも悪い出来ではなかった。
 それなのに、お客はいつまで経っても商品を取りになかった。
 仕方なく家に持って行けば、「すでに【織姫】の作品は受け取っていますよ。今回も素晴らしい出来でした」と言われる始末。
 何かの間違いではないかと思ったが、彼女は嬉しそうな顔でこう言った。

「【織姫】から、商品と一緒に直筆のお手紙をいただいたんです……! それにはこう書かれていましたよ」

『ご依頼ありがとうございました。○○様の未来に喜びがありますよう、一糸、一糸、大切に、お祈りしながら織らせていただきました。
 追伸:一身上の都合により、お店を退職することになりました。とても残念ですが、またいつか作品を通してお会いできることを願っております。敬具』

「あたたかな文面に、もう私、とっても感動しちゃって……。やっぱり作品と同じように内面も素敵な御方ですね。──ところで、【織姫】の転職先はどちらでしょうか? また是非、依頼をお願いしたいのですが……」

 スカーレットは黙って退散する他なかった。
 しかもそんなお客は一人ではなく、その後も何人も続いた。そのせいで、人々の間に【織姫】がいなくなったことが広まってしまったのだ。

(店を出すのだって、タダじゃないっていうのに……)

 賃料もかかるし、材料費、人件費など、毎日出ていく出費は存外に大きい。
 それに最近ではトラブル続きで、懇意にしている貿易商から綿花や蚕の繭を仕入れることができなくなっている。
 店の在庫の糸や布が底を尽きかけているから、どこかで材料を調達しなければならないのだが、スカーレットの悪名が高いせいで引き受けてくれる者がいない。

(これまでだったら、【織姫】の名前を出せば、皆快諾してくれていたのに……)

 テーレン商会も頼りにならない。
 今まで商会長は色々と便宜を図ってもらっていたのだが、最近はスカーレットとの浮気が妻にバレて離婚の危機らしく、「もう、きみのお店には行けない」と言われてしまった。

(息子のギルアンも……この前の様子じゃあ、父親を説得してくれないだろうし……)

 もちろん、大金でマリーを売ったと正直には言わなかった。
 夜逃げしてしまった、と伝えると、ギルアンは「嘘だ……」と呆然とした様子でつぶやき、娼館の中を荒らして去って行ったのだ。

(ま、悪い奴とつるんでいるという噂の坊ちゃんだが、あのくらいの被害で済むなら御の字だねぇ)

 店内の道具はぐちゃぐちゃにされ、壁にも穴を開けられたが、壊れた物はまた買いなおせば良いのだ。
 しかし、スカーレットは顔をしかめる。
 今は娼館の経営もうまくいっていなかった。
 マリーがいなくなった時を境に、お客がこなくなったのだ。『結婚することになった』とか『田舎に帰ることになって……』とか『金欠で……』と、お客の足が遠のいた理由はさまざまだったが、常連客が示し合わせたようにタイミングが悪く全員がこられなくなってしまった。

(クソッ……なんだってこんな時に悪いことばかり重なる……?)

 その上、帳簿をつけていたマリーがいなくなったことで、自分達に下っ端仕事が降ってくるようになった娼婦達が不満を漏らすようになり、出て行ってしまう者も出てきた。近頃はお給金も支払えていなかったので無理のないことではあるのだが……。
 マリーと親しかったベティは最後の日に挨拶できなかったらしく、「マリーはどこへ行ったんですか?」と詰め寄られたが、スカーレットは答えられなかった。
 だが、スカーレット自身も知らないのだ。
 春を売ったこともないマリーを引き取ろうとするなんて、どうせ変態趣味の好事家に違いないと思ったのだ。マリーがそこでどんな目に会おうが、知ったこっちゃない。スカーレットはお金さえもらえたら、どうでも良かった。
 あの時に対応していた男は貴族の邸で働く執事のように見えたが、ロジャーという名前以外は分からない。借金の数倍もの大金を迷いなく支払ったのは名前を明かさないことと、口止め料も含まれていたのだ。

(失敗した……マリーがいれば、ギルアンからお金を引き出せたかもしれないのに……)

 今の災難の何もかもがマリーとつながっているように感じて、腹立たしかった。
 ふと、その時にカランコロンと入口の鐘が鳴る。
 娼館に入ってくる人物がいた。

「いらっしゃい……! って、ギルアン様……?」

 ギルアンは笑みを浮かべていた。

「よう」

「あっ……よ、ようこそおいでくださいました! おい、誰かギルアン様がいらしたわよ。対応なさい!」

 そう廊下の奥に呼びかけたが、誰も出てこない。
 いつもならお客がくれば控室にいた見習いが急いでやってくるのだが、周囲は不気味なほど静まり返っている。

(まさか、皆出て行った訳じゃあるまいし……)

 嫌な予感をおぼえながら、スカーレットは気まずさを押し隠しながら笑った。

「すみませんねぇ。今は手が空いていないみたいで……とりあえず、お部屋に案内しますので……今日はどの子に」

 言いかけたところで、動きが止まった。
 ギルアンの後ろから入ってきた男達に見おぼえがあったからだ。

「あんた達は……」

 スカーレットの呆然としたつぶやきを、ギルアンは拾う。

「おや、おぼえていないのか? お前があくどいやり方で借金を負わせたせいで破滅し、浮浪者や、ごろつきになってしまった奴らだよ。酒場で意気投合してな。俺とも利害が一致するってことで連れてきたんだ」

「り……利害……?」

 いったい何を言っているのか分からない。
 ただ、嫌な予感が背筋を駆け上がってくる。

「おおい!! クライド、いないのかい!?」

 たまらず、お店の入り口に待機させている護衛の男の名を呼んだが返答がない。

「だ、だれか……きてくれ!! はやく……ッ」

 スカーレットの声は誰もいない娼館内で空虚に響く。
 ギルアンは冷たい眼差しで言った。

「マリーはどこにいる? 素直に吐くなら、そこまで痛くしないでやろう」

「知らない……ッ! 本当に知らないんだよぉ!!」

 そう必死に訴えたが、ギルアンは酷薄な笑みを浮かべるだけだ。

「お前達、あの女がマリーの居どころを吐くまで、好きにしろ。殺しても構わないぞ」

 その命令を受けて、男達が動く。スカーレットは甲高い悲鳴を上げた。


◇◆◇


「チッ……とんだ無駄骨だったな」

 ギルアンは店を出ると、そう苦々しげに吐き捨てた。
 スカーレットはどれだけ無体な目に合おうと、口を割らなかった。おそらく本当にマリーの居場所を知らないのだろう。
 星一つない暗い夜空を見上げる。

「絶対に見つけ出してやる……。マリー、お前は俺のものだ……!」

 そう声を荒げて、転がっていた店の看板を踏みつけた。


 今日から初授業──ということで、マリーは強い意気込みで、授業で使う参考書などを手提げ袋に入れて教室に向かった。
 しかし、そこには二度と見かけたくない顔、ギルアン・テーレンがいた。
 唇を噛みしめ、できるだけ彼を見ないようにしながら教室に入る。
 席は自由だったため、窓際の人がいないところを選んで座った。マリーが近付くと生徒達は露骨に遠ざかっていく。

(……マリア様……よほど嫌われているんですね)

 事前に渡された資料によると、マリアには気の毒なことに友人が一人もいなかった。

(……おかげでバレる心配をしなくて済むから楽ではあるけど。でも誰か一人くらい、仲良く話せる友達がいてくれたら良かったな……)

 もしかしたらマリアは、海賊王の嫁になるためにいずれは学校を出て行くから友達は作らない方が良いと考えたのかもしれない。けれど、それはあまりにも寂しすぎる考え方だと思ってしまう。

「あらぁ? ごきげんよう、マリア様。お元気そうで何よりですわ。でも、もっとゆっくりお休みなさっていても、よろしかったのに」

 そう言いながらマリーに声をかけてきたのは、先日のパーティで会ったエセルというリスみたいな髪型の少女だった。背後に二人の見知らぬ少女を連れている。

「あ……ごきげんよう。エセルさん」

 マリーは戸惑いながら、そう返事をした。
 エセルはマリーの机をバンッと叩いて、こちらを睨みつけてきた。

「ねえ? 昨日、カルロ様と一緒に歩いているところを私の友人が見かけましたわ。……あなた、どうして、まだ寮長の職についているんですの?」

「どうして……って……?」

 困惑しながら聞き返すと、エセルは目をカッと開いた。

「だって、そうではありませんこと? 寮長は優秀な十人の選ばれし生徒──【王の学徒】と呼ばれる方が就くのが伝統なのです。それなのに、マリア様はこないだのテストだって、学年最下位だったではありませんか」

 エセルの言葉に、背後にいた少女達がクスクスと笑う。

「最下位……?」

 マリーは愕然として、つぶやく。

(思っていたより成績が悪かったわ……)

 成績が下から数えたほうが早いのではなく、一番下だった。マリーの中でマリアの状況が下方修正される。
 エセルは夢見るように両手をあわせた。

「その点、カルロ様は素晴らしいですのよ! とても寮長にふさわしい御方ですわ。ヴァーレンの寮長は代々六年生が務めるものですけれど、カルロ殿下はとても優秀でいらっしゃって、一年生の時に寮長に選出されましたの。それから四年間、寮長と生徒会長という大役を務めていらっしゃる。なんて尊い……」

「そ、そうなんですか……カルロ様って、すごいんですね……」

 マリーはエセルの勢いに圧倒されていた。
 ヴァーレン寄宿学校は六年制だ。十二歳から十八歳までの貴族や、特待生となった庶民が在籍している。
 上級生が任命されることが多かった寮長にカルロが一年次からずっと選ばれ続けているのは、相当期待されてのことなのだろう。
 エセルは自分のことのように自慢げに胸を張った。

「そうでしょう!? それだけカルロ様は特別ですの。──それなのに、本来優秀でなければ選ばれない寮長にマリア様が選出された……それがどういう意味かなんて子供でも分かりますのよ。ねぇ、皆さん」

 エセルが友人達に向かって問いかけると、二人の女生徒は馬鹿にするように笑う。

「不正でしょうね」
「とても恥ずかしいことだわ。きっと、カルロ様と一緒にいたいからって賄賂《わいろ》でも渡したのでしょう」
「でなければ、落ちこぼれのマリア様が寮長になんてなれるはずがありませんもの!」

 あざ笑う女生徒達。
 マリーはタジタジしながらも、聞こえないくらいの小声で反論した。

「わ……賄賂なんて、渡していないと思うのですけれど……」

 マリアがカルロにお近付きになりたくて裏金を用意するなんて、天と地がひっくり返ってもありえない。カルロは海賊王ではないのだから。

「あなたみたいな人はカルロ様の婚約者にふさわしくありませんの! 寮長も自主的にお辞めになられたらいかが? 私の方がカルロ様に釣り合っていますのよ!」

 エセルの糾弾に、マリーは委縮して身を縮めた。
 寮長を選ぶのは寮監を含めた教師達の仕事だ。
 もしかしたら、婚約者同士だからとカルロに忖度《そんたく》してマリアを選んだのかもしれない。あるいは、二人の不仲を知って仲良くさせてやろうと余計なおせっかいを焼いたのか、権力者へのすり寄りなのかは定かではないが……。

(つまりマリア様はカルロ様の婚約者だから、成績に関係なく選ばれたってこと……? それは確かにエセルさんからしたら面白くないのだろうけれど……)

「で、でしたら、エセルさんのそのお気持ちを寮監にお伝えしたら、いかがでしょうか? 要望書に書くとか……」

 マリーがおずおずとそう言うと、エセルは顔をゆがめた。

「何ですの、それ! 知っていて言っているんですの? 嫌味な女ですわね! そんなの、あなたに言われなくても何回もしていますわ! でもプリシラ先生は知らん振りをしているし……! 要望書だって休みの間に十枚は書きましたわ! あなたは寮長なんだから、よくご存じでしょうにッ!」

「え……?」

 マリーは驚いて、目を瞬かせた。

(エセルさんからの要望書? 昨日確認した要望書の山の中にはなかったはず……)

 その時、ふとカルロの顔が脳裏に浮かんだ。マリーが要望書に手をつけたのは、カルロにうながされたからだ。
 ──もし、本当にエセルの要望書があったのだとしたら、それを排除できるのはカルロしかいない。

(まさか……カルロ様は、マリア様を傷つけさせないためにエセルさんの要望書だけ取り除いておいたの……?)

 そんな配慮をするのだとしたら……やはり、彼はマリア様のことを愛しているのだろう。その確信がますますマリーの中で強くなる。
 マリーは制服の下のシャツに留めたブローチに布越しに触れた。
 幼い頃のきらきらした思い出は自分だけの宝物として仕舞っておこう、と再度心に誓った。
 胸がナイフで突かれたかのように痛んだが、無理やり微笑む。

「エセルさんのお怒りも、ごもっともです。……これから誠心誠意、寮長として尽くして参りますので、何卒ご容赦ください……私の方からも寮長を降りることができるか、カルロ様に確認いたしますので……」

 そう丁寧に腰を折った後で、内心しまった、と思った。

(あまりマリア様にふさわしくない態度だったかも……)

 でも、ここで余計なことを言えば、エセルの怒りに油をそそいでしまうのは明らかだった。

「なっ、なによ……急にしおらしくしちゃって何なんですの……!? ま、まあ、身の程をわきまえているのは良いことですわ。いつもそうやっていなさい!」

 そう言って、エセルは離れていこうとした。
 しかし、その時に彼女のハンカチらしきものが落ちる。
 マリーはそれを拾い上げてエセルに渡そうとしたが──そこにかつて自分が刺繍した花の図柄があることに気付いて、動きを止めた。

「え……?」

「さっ、さわらないでよッ! 泥棒!」

 エセルは真っ赤な顔でマリーからハンカチを奪い取った。

(別に盗もうとした訳じゃなくて……ひろって渡そうとしただけ、なんだけど……。いえ、それよりも……)

 マリーは困惑しつつ、聞いて良いのか分からなかったが、エセルに尋ねた。

「あ、あの……エセルさん、そのハンカチって……」

 エセルは得意げな顔で、胸を張って言う。

「あらぁ? あなたみたいな人にも、このハンカチの価値が分かるのかしら? そうよ、社交界で大評判の【織姫】様のハンカチですのよ! 良いでしょう!?」

「あ、あ、あぁぁ……」

(やっぱり──!?)

 顔が熱をおびるのを感じた。こんなところで自分の作品に再会するだなんて思わなかったのだ。

「この細かな意匠! 見てごらんなさい。こんなに均一で繊細な縫い方は、【織姫】様にしかできませんのよ? ああ……何度見ても、本当に素敵! うっとりしてしまいますわぁ。私、【魔法の刺繍】の大ファンで、彼女の作品が出回り始めた八年前からずっと【織姫】様の作品を追ってますの!」

「え、えぇぇ!?」

 突然のファン宣言に、マリーは狼狽する。
 エセルの話の勢いは止まらない。

「私、お父様におねだりして、先々月のお誕生日にはスカーレット・モファットの仕立屋で【織姫】様に【魔法のドレス】を作ってもらったんですの! そのおかげか、この間のパーティでカルロ様と踊ることができましたのよ! 私のドレスやハンカチには【恋の魔法】がかかっているんですの! 好きな方と出会える確率が増えるという」

「あ、あぁ……うん、そうでした、ね……」

 マリーはパーティの時の記憶を思い起こした。
 よく思い返してみれば、エセルの着ていたドレスは自分が作ったものだ。……あまりの緊張で、あの時はそこまで気を配れていなかったが。

「でも、【織姫】様が最近お店を辞められたみたいで……もう、私ショックでショックで……傷心のあまり今日も休もうかと思ったくらいですの」

「そ……そうだったんですね……」

 マリーは申し訳なさをおぼえた。
 まさか自分がお店を辞めたことで、こんなに嘆き悲しんでいる人がいるなんて思ってもいなかったのだ。
 内心嬉しさを感じつつ、目を泳がせながら言う。

「え~と……すぐには無理かもしれませんけど……いつかまた、その【織姫】さん? も、お店を出すかもしれませんし……待っていたら良いかもしれませんよ?」

 曖昧な表現になってしまったのはマリー自身も未来のことはハッキリとした想像を抱けていないからだ。

(この入れ替わりの任務が終わって自由になった時には、いつかまた服飾の仕事に就きたいとは思っているけれど……)

 しかし悲観的な自分が『正体がバレて死刑』という悪い想像も捨て切れていないのも事実なので……。

「そんなこと、あなたに言われるまでもありませんわ! 私はずっと待っていますもの! どこのお店に行かれても、ずっと追いかけますし、永久に待ち続けますわ! 【織姫】様の新作を……ッ!」

 エセルの目にじわりと涙が浮いている。
 マリーは胸が熱くなるのを感じた。自分の作品がこんなに誰かの心を動かしているなんて、今まで想像もしていなかったのだ。

「エセルさん、ありがとうございます……」

「なんで、あなたがお礼を言うんですの!?」

 そう突っ込まれて、マリーは慌てて口をつぐんだ。
 エセルは目のしずくをハンカチでぬぐいながら言う。

「でも、あなたの言うとおり……もし【織姫】様がまた復職なさったら、今度はぜったいに好きだと伝えに行きますわ。今まで正体が分からなかったから、影ながら買い支えることしかできませんでしたけれど……次はどんなにお金を積んでも、彼女を見つけて会いに行きたいですわ」

「エセルさん……どうして、そんなに……」

 マリーの問いに、エセルはちょっとだけ恥ずかしがるように唇を尖らせた。

「……彼女は私の恩人ですの。今まで色んな時に【織姫】様の刺繍から勇気を貰っていましたから……私のこの気持ちは、もう恋みたいなものなのです。いえ、同性ですから憧れと言った方が良いのかしら? ああ、だとしたら、このハンカチを持っていたら、いつかはあの方に偶然お会いできるかもしれませんわね」

(もうすでに叶っているとは、さすがに言えない……)

 マリーはあまりの気まずさから目を逸らしてしまう。ここまで熱烈に褒められたことがなかったから、喜びと羞恥心が込み上げてきた。
 さすがに直視できなくなってきて、両手で赤くなった顔を覆う。

「き、きっと……その、いつかは……エセルさんの願いも叶うんじゃないかと、思いますよ……」

 エセルはムッとした顔をする。

「あなた、今日は本当に調子狂いますのね。そんなつもりはありませんでしたのに、たくさん余計なことを話してしまいましたわ。もう私に話しかけないでくださいませ!」

(話しかけてきたのはエセルさんなのだけど……)

 そう思いつつ、マリーはエセルと取り巻きの女生徒達を見送った。エセルの大きくクルンと外巻きにカールした茶色の髪がしっぽのように揺れている。

「……やっぱり、悪い子じゃないのよね」

 そう、ぽつりとマリーはつぶやく。
 もしかしたら、いつか仲良くなれるかもしれない。そう前向きに考えていた。
 そして時計塔の鐘が鳴り響く直前、カルロが室内に入ってきたので、マリーは思わず机に顔を伏せてしまう。

(そういえば、このクラスってカルロ様までいたんだったわ……)

 波乱の予感をおぼえて、マリーは頭を抱えた。




「マリアさん、ここの問題を解いてみて」

 ビクビクしながら古典の授業を受けていたが、教師に指名されて「はい」と言って立ち上がり黒板に向かう。
 しかしマリーは首をひねってばかりだった。なぜなら──。

(あら? この問題って、予習してきたところだわ。いや、でもヴァーレンの授業がこんなに簡単なはずないわよね……もしや引っかけ問題かしら?)

 そう悩みつつも答えを書いたら、クラスメイト達がどよめく。

「あら……正解よ、マリアさん。よくできたわね」

 教師もまさかマリアに解けるとは思っていなかったらしく、目を丸くしていた。

「あいつが正解するだなんて……」
「俺だってわからなかったのに」
「まぐれだよ、まぐれ」

 生徒達のヒソヒソ話はマリーの耳にも届いて、マリーは席につくと赤くなった頬をうつむいて隠していた。

(目立つのは嫌……!)

 学年最低点のマリアが正解したというだけで、生徒達には驚愕だったのだろう。

(ま、間違えた方が良かったかしら……?)

 しかし、落第だけは絶対に避けたいところなのだ。
 マリアの評判がこれ以上落ちるのはシュトレイン伯爵家にとっても恥だし、姉のエマや婚約者のカルロの名誉も傷つけてしまうだろう。それを思うと、マリーにわざと間違えることはできなかった。
 そして、その日はなぜか示し合わせたように毎回授業のたびに指名されてしまう。
 算術の授業で複雑な計算をマリーが暗算で答えた時には、もはや唖然と言っても良いくらいにあんぐりと口を開けているクラスメイトすらいた。

(あ、あれ……? これも正解してしまったわ……)

 マリーは幼い頃からお店で帳簿付けや支払いの計算も行ってきた。娼館のお会計でお客を待たせてはいけないという焦りと気の弱さから、いつの間にか算術は下働きの中で一番素早くできるようになっていたのだ。

「正解よ、マリアさん。休暇の間もちゃんと勉強しておいたのね。えらいわ」

 そう教壇でマリーを褒めたたえたのは、寮監で担任のプリシラ先生だった。

「マリアさん、今日はとても素晴らしいわね。他の先生達からもお褒めの言葉をいただいているわよ」

 そう怪訝そうに問われてしまい、マリーは焦った。

(も、もしかして、やりすぎた……!?)

 そう気付くが、後の祭りだ。今さらどうにもできない。とりあえず、言い訳を必死に考える。

「その……休み中にこれまでの行いを反省し、猛勉強したんです。これからは寮長にふさわしくありたいと心を入れ替えまして……」

 そのマリーの言葉にどよめいた生徒は、一人や二人ではなかった。エセルや、ギルアン、カルロすらも瞠目している。誰かの口から「嘘だろ……あのゴリラ女が?」「ゴリラも勉強できたんだな……」と呆然とした言葉が漏れた。
 プリシラ先生は感動で目を潤ませている。

「ようやく、私の気持ちがマリアさんにも伝わったのですね……! 嬉しいわ……っ! 私は……マリアさんは、ちゃんとやればできる子だって信じていましたよ。そう、他の先生達が何とおっしゃろうと、私だけはね!」

 よほどマリアに苦労させられてきたのか、嗚咽をこぼしているプリシラ先生にマリーは困惑した。

(マリア様……いったいどれだけ先生に迷惑をかけていたのですか……?)

 ふと視線を感じて見れば、カルロと目が合う。すぐに彼は普段と変わらない感情の読めない笑みを浮かべていた。





 そういう訳で、その日の授業が終わりを迎える頃にはマリーの疲労は限界にまできていた。

(早く授業が終わってほしいわ……)

 教壇に立っているプリシラ先生が生徒達に向かって言う。

「それでは、皆さん。本日の最後に、再来月に学内で行われる催し物のお話をしましょうか。──では、カルロさん、続きはお願いね」

 指名されて、カルロが「はい」と立ち上がって教壇に向かった。彼は生徒会長と寮長とクラス委員長を兼任しているのだ。

(カルロ様……多忙すぎるのではないかしら)

 つい、マリーは心配してしまう。

「再来月に行われる聖霊降臨祭で、クラスでやりたいイベントはありますか?」

 カルロはそう皆に向かって言った。
 聖霊降臨祭──それは帝国内で行われる大きなお祭りだ。その期間に三日かけて校内で行われるイベントをヴァーレン祭というらしい。学内外から多くの人々が来訪するのだと聞いている。
 カルロが「何かアイデアはありますか?」と微笑みを向けると、女生徒達が「きゃあ!」と色めき立った。

(……まあ、当然よね……)

 カルロは端正な容姿の持ち主だし、婚約者がいても仲が良くないことは知れ渡っている。彼に気に入られれば自分が婚約者に選ばれるのではないか、と思ってしまう女生徒も多いらしい。
 マリーがモヤモヤした感情を抱えていると、女生徒の一人が手を上げて、「『精霊のお姫様』のオペラをやるのはどうでしょう」と言った。

(精霊のお姫様……?)

 それはこの国の者ならば誰もが知る有名な物語だ。
 マリーにとっては、八年前にカルロと行った聖霊降臨祭の夜に見た思い出のオペラでもある。それを懐かしく思い出していると、カルロは「良いですね」とうなずいて、黒板に『オペラ・精霊のお姫様』と書く。
 他にもパンや串焼きを売るというアイデアも出たが、火を扱うのは危険だということで先生から却下されてしまった。そして異論も出なかったので、オペラで演目は『精霊のお姫様』に決まった。

「それでは『精霊のお姫様』をやるとして、皆さんの役回りを決めましょうか。主演の双子の王女ライラとリオン。それにヒーロー役の隣国の王子と……小道具係、音楽隊など……」

 黒板にどんどん役名が書かれていく。
 クラスメイト達から「ヒーロー役はカルロ様が良いんじゃないでしょうか!」という意見が挙がったが、カルロはにっこりと微笑んで首を振る。

「僕は総監督をやりますので、他の方が良いと思います」

 そんな訳で、ヒーロー役はカルロの次にクラスで人気の男子で枠が埋まった。
 そして主演の男装の王女リオン役には、エセルが「私がやりますのよ!」と名乗りを上げる。

「では、もう一人の主演の王女ライラ役をやりたい方は──」

 カルロがそう一同を見回した時、マリーはサッと顔を伏せた。

(極力目立ちたくない……できれば裏方……小道具係や雑用係みたいなのが良いのだけれど……)

 マリーは自分が日陰の住人であることを自覚していた。できれば存在に気付かれないくらい地味にしている方が心の安寧には良いのだ。マリアというだけで目立ってしまうのだから。
 どの役が良いか悩んでいると、前の席に座っていた快活そうな少女が勢いよく手を上げる。

「私がライラ役をやります!」

 彼女は特待生のミッシェル・ダンだ。淡い金色の髪を後ろにひっつめ、そばかすの浮いた垢ぬけない容姿をしている。

「ライラ役はミッシェル・ダンですね。他に希望者はいませんか?」

 カルロがそう教室内を見回すと、教室の端にいた女生徒達がクスクスと嫌な笑い声を立てた。

「カルロ様、ミッシェルは演劇部で演技はお上手ですけれど、主演には不適合だと思いますわ」

「なぜですか?」

 カルロの問いかけに、女生徒は口紅を塗った口元をゆがめた。

「だって、演者の衣装って自前でしょう? 彼女は庶民ですもの。ライラのようなお姫様役をやりたくても、ドレスの用意をするのは経済的に難しいのではありませんか? だから演劇部でも庶民役しかやってこなかったのですから」

 それを聞いて、ミッシェルは背を丸くしてうなだれてしまった。
 貴族ならともかく、庶民がドレスを用意するのは難しい。
 ヴァーレン祭の最終日にはダンスパーティがあるが、貴族の大半がドレスや礼服をまとっている中、平民出の生徒達は制服で参加するのが常だった。

「わ……わたし、やっぱり辞め……」

 涙声でそう言いかけたミッシェルを見ていられなかった。
 彼女の姿が、まるでかつてギルアンやスカーレットにいたぶられている過去の自分の姿に重なって見えたのだ。

(このまま彼女を放っておいて良いの……?)

 自分には関係ないと言われれば、その通りだ。でも──。
 しばしの逡巡の後、マリーはポケットに入れていたブローチをぎゅっと握りしめ、勇気を出して片手を上げた。
 ──ここでミッシェルを見て見ぬ振りをしたら、自分のことが嫌いになってしまいそうだったから。
 マリーの挙手に、クラス中の視線が集まってくる。
 顔面が火を噴きそうなほど熱くなった。上げていた手が小刻みにプルプル震え、後悔が押し寄せてくる。

「マリア、どうしました?」

 カルロが存外に優しく声をかけてきた。
 緊張で声が上擦るのを感じながら、マリーはどうにか言う。

「あ、あの……その、差し出がましいようですが……それなら、『衣装係』を作ってはどうかな……と思いまして……」

「衣装係? その係がミッシェルの衣装代を出すということですか? さすがに制作費用を一人の生徒に押し付けるのは学校からも許可がでないと思いますが……それとも、彼女にきみのドレスを貸してあげると?」

(他の演者は自前で用意しているのに、自分だけ私に衣装を貸されたらミッシェルの誇りを傷つけてしまうよね。それはダメ)

 マリーは慌てて首を横に振った。

「い、いえ! そ……そこは従来通りで結構です。衣装は演者に用意していただきます。それを衣装係がチェックして、不備があれば少し繕うなどの演者の手伝いをするということです。それなら、それなりの見栄えにもできると思います……」

 生徒達がざわつく。
 カルロは目を見開いたあと少し考えこみ、

「……なるほど。これまでも演者の衣装作りを友人達が手伝うことはありましたし、それを係にしてしまうのは良いかもしれませんね。──プリシラ先生、それでもよろしいですか?」

 カルロの問いかけに、女教師は「許可します」と、うなずく。
 その時、エセルが素早く片手を上げた。

「ならば、衣装係はマリア様がよろしいかと思います!」

「あ……わ、分かりました。言い出したのは私ですし、やります……!」

 マリーは困惑しつつも、うなずいた。
 言い出しっぺの責任もあるし、不得手な分野をするよりは技量の調整もしやすいから、ぼろが出にくいかもしれない。
 しかし、マリーの言葉にクラスメイト達が嘲笑する。

「マリアが衣装係だって!? 裁縫の時間でいつも赤点を取っている、あのマリアが?」
「ぼろぞうきんみたいな衣装を出してくるんじゃねぇの!? 俺だったらとても頼めないなぁ。逆にミッシェルが気の毒だよ」

 エセルは意地悪そうにクスクス笑いながら言う。

「皆さん、そんなことをおっしゃってはマリア様に失礼ですのよ。きっと私達には想像もできないような素晴らしいドレスを用意してくださるに決まっていますわ。まさか、衣装係とか言いながらミッシェルさんのドレスを用意できなくて、自分の手持ちのドレスを貸すなんて無様なことを──シュトレイン伯爵家のご令嬢である誇り高いマリア様がなさる訳ありませんですものねぇ?」

 そう意味ありげな視線を向けてくる。
 じつのところ校内でオペラをする時に生徒間で衣装の貸し借りをするのは良くあることなのだが、エセルは嫌がらせでドレスを貸せないように釘を刺したのだろう。

(……最初からそんなことするつもりもなかったのだけど)

「静かに。皆さん、言い過ぎですよ。そうでしょう、エセル?」

 カルロが教室内を威圧するように睨みまわす。
 いつも笑みを絶やさない彼が珍しく苛立った様子を見せたので、エセルは「あっ、カルロ様。すみません……!」と青ざめていた。

「謝罪の言葉は、僕の婚約者のマリアに……そしてミッシェルに伝えてください」

 カルロにそううながされ、エセルはかなり渋々といった雰囲気で、「ごめんなさいね、マリア様。それにミッシェルさん」と心のこもっていない台詞を小さく吐いた。
 マリーは『気にしないで』という気持ちを込めてエセルに微笑みかけたが、それが逆効果だったようで、すごい目で睨まれてしまった。

(……仲良くなるのって難しいのね)

 しかしエセルは意地悪のつもりでマリーを推薦したのだろうが、まったく意地悪になっていない。
 むしろ臆病で優柔不断なマリーは自分で役を決められなかったので、エセルが指名してくれたことをありがたいとさえ思っていた。

(一番の問題は、正体がバレないようにどれくらい手加減して作るかよね……)

 そんなことをマリーが考えていることなど、その場にいるクラスメイト達は誰も想像もできなかっただろう。



 その日の授業が全て終わると、ライラ役のミッシェルが硬い顔でマリーの元までやってきた。

「……お話があるのですが、ついてきてもらえますか?」

 そのまま人けのない校舎裏に連れて行かれたので、マリーは怯えていた。

(ま、まさか……余計なことするんじゃないわよ、とか言われて怒られるんじゃ……?)

 小心者ゆえにそんな想像を働かせてビクビクしていたのだが、いきなりミッシェルに勢いよく頭を下げられた。

「私のせいで、ごめんなさい……!」

 マリーは慌ててしまう。

「え……、い、いや……その、大丈夫です! 私もどの係にしようか悩んで決められなかったので……っ」

「そう……ですか。でも、かばってくれてうれしかった……ありがとう」

 ミッシェルの目には涙がにじんでいた。
 それを見て、勇気をだして良かったと心から思った。
 そのまま二人でベンチに腰掛けて、少し話をすることにした。
 ミッシェルは不安げに視線を揺らしている。

「でも、私は高価なドレスなんて持っていないんです。ヴァーレン祭でも演劇部と同じように衣装を自分で用意しなきゃいけないなんて……そこまで頭がまわっていなかったんです。ライラ役がどうしてもやりたくて、つい立候補してしまいました。知っていたら立候補なんてしなかったのに……」

「そう……だったんですね」

(外部生なら分からないことがあっても当然だわ……)

 親近感が湧いた。マリーも突然学校に放り込まれて戸惑ってばかりだから。
 ミッシェルは膝の上で両手をぎゅっと握りしめて、縮こまる。

「うちはお金もないから新しい服なんて買えないし……かといって今持っている衣装をアレンジするような裁縫技術も私にはありませんし……」

 裁縫の授業はある。しかし当然、得意な者もいれば苦手な者もいるのだ。そしてミッシェルは繕い物が不得手なのだろう。

「でも自分だけ誰かにドレスを借りるなんて、情けなさすぎてできないし……そもそも、私は周りが貴族の方ばかりなので、うまく馴染めてなくて」

 恥じ入るようにミッシェルは肩を縮めた。
 皆が当然のようにしていることを自分だけが家庭の事情でできない。それが、どれだけみじめな気分になるか。
 そしてミッシェルが馴染めないのは一般庶民ゆえに距離を置かれているからだ。
 ミッシェルの心の痛みを思って、マリーは顔をゆがめる。

「マリア様のお気持ちはとても嬉しいです。けれど、ご迷惑をおかけしたくありませんし……今回はライラ役は辞退しようと思います。本当に、お気遣いありがとうございました」

 そう再び頭を下げて立ち去ろうとしたミッシェルを、マリーは「ミッシェルさん……っ!」と呼び止める。
 エセルの手前、マリアは発言を取り下げることもできなくて、やむを得ず引き受けてしまったとミッシェルは思っているのかもしれない。でも、それは違うのだ。

「あ、あの……私は裁縫があまり上手ではありませんが……! でっ、できるだけのことはしたいと思っています! これからミッシェルさんのお部屋に伺っても良いですか!?」

 そうマリーが尋ねると、ミッシェルは戸惑いながらもうなずいた。






 女子寮にあるミッシェルの部屋は、備え付けのベッドと机と椅子、そして本棚があるだけの素朴な部屋だった。
 ミッシェルはマリーを部屋に招き入れると、部屋の片隅にあるクローゼットを開ける。

「えっと……私が持っている衣装が見たいんですよね? でも、私はそもそも持っている衣装があまりなくて……舞台衣装として使えそうなのは普段着のものしかないんですが……」

 そう言いつつベッドの上に広げられたのは、簡素に袖がしぼってある綿モスリンのシュミーズと、コルセット。ペチコートと、ガウン数枚と流行りの胸下までの短いジャケットなどの私服だ。

「なるほど……」

 マリーは顎に手を当てて悩んだ。

(オペラの衣装と言っても、その舞台の規模によって色々なのよね……)

 伯爵家にいる間にエマに連れられて何度かオペラを見に行ったことがある。八年前の聖霊降臨祭のお祭りでも観劇したことがあった。
 だから演者が身につける衣装もだいたいわかるが──ミッシェルの持っている衣装は圧倒的に量が足りなかった。手持ちの衣装をアレンジしようにも、元になる生地がなければどうしようもできない。

「でも、幸い……旧校舎の手芸室に糸がいっぱい余っていたし……どうせ廃校舎に捨て置かれていたものみたいだから使っても問題ないわよね」

 マリーは思案しながら、ぼそりとつぶやいた。
 糸が足りなければマリーの手持ちの物を使うのでも良い。それなら衣装を貸す訳ではないのだから、さすがにエセルも文句は言わないだろう。
 マリーの独り言を聞き留めたのか、ミッシェルはビックリした顔をしている。

「え、糸って……どういうことですか?」

「え? あ、ああ……じつは……」

 それで、マリーは今旧校舎で謹慎中の身の上なことや、そこに機織り機や糸があったことを伝えた。

「そうなんだ……え、でも、マリア様、機織り機を動かせるんですか?」

 ミッシェルは心底驚いているようだ。
 そこでマリーは少し困ってしまう。

「や、休み中に邸で使用人達にやり方を聞いて織れるようになったんですっ!」

 裁縫の授業で行うのは、主に刺繍や縫い針を使った編み物だ。それらは貴族女性のたしなみとも言える。
 だが、さすがに授業で機織り機を導入するのは大変ということもあってか、校内で使える者は今はいないらしい。かつて手芸部があった頃は扱える生徒もいたようだが……。
 マリーの説明にミッシェルは首を傾げつつも、「そ、そうですか……」と、うなずいた。
 何かがおかしいと思っても、まさか別人に入れ替わっているなんて常識外れの発想はできるものではない。だから、たいていの者は無理やり納得するしかないのだ。
 マリーは焦って、さっさと話題を変える。

「ひ、必要な衣装は二着ですね! 庶民用の服と宮廷用ドレス……ライラはお姫様だけど平民として育った設定だから、ミッシェルさんの普段着をそのまま流用で良いと思います。問題は宮廷ドレスですね」

「昔話なのに、今の服のデザインで良いんですか?」

「今風にアレンジしたということにすれば良いと思いますよ」

 わざわざ昔風の衣装をクラスメイト達が用意するとは思えない。有名なオペラ座なら時代考証もしっかりしている劇団もあるが、小さなところだと今風の格好で演じることが多いらしい。
 マリーは鞄から紙と羽ペンを取り出して、ミッシェルの机を借りて腰掛ける。

(宮廷用ドレスとなると、今は引きずるような長い裾のロングトレーンが流行りだけれど……そんなに高級で長い生地は用意できないし)

 二か月で制作しないといけないことや、使える糸に限りがあること。
 マリアの振りをしている事情なども考慮すると、普段作っているような繊細で複雑な刺繍は制作できないだろう。
 しかし、できるだけミッシェルの希望を取り入れたかった。

「ミッシェルさんはどんなドレスが良いですか?」

「えっ? えっと……そ、そうですね。やっぱり、ドレスだから舞台の上でも目を引くような華やかなデザインで……? 演劇中に着替えたりすることも考えると、できれば着脱の簡単なものが望ましい……かな?」

 ミッシェルは戸惑いながらも、そう言う。

「豪華で着脱が容易なドレス……豪華で着脱が容易なドレス……」

 マリーはつぶやきながら思考をめぐらせる。

(手軽に華やかなドレスを作りたいなら通常なら銀糸や金糸を使うところだけど……今回はそれもできないし……デザインを盛ると制作時間がかかりすぎるわ。それにマリア様の振りをしている以上、あまり難易度の高いドレスを作っては怪しまれてしまうし……でも、ミッシェルさんの要望通りにしたい)

 マリーは唸った。かなり難しい。はっきり言って無理難題だ。
 そもそも一人で簡単に脱ぐというのが宮廷ドレスは難しい。
 貴族がまとうコルセットは、メイドにきつく背中側の紐を縛りあげて腰を細く見せているのだ。それにより体のラインをメリハリのある綺麗な形に見せているのである。
 それができないなら何枚も巻きスカートを穿くことでスカートにふくらみを持たせる必要がある。
 どちらにしても、宮廷ドレスを着るにはとにかく時間がかかるものなのだ。
 そんな依頼は皇家御用達の仕立屋だって、さじを投げるに違いない。
 ──しかしマリーは違った。

(……いや、できるわ!)

 その時、ふっと天啓がおりたような感覚がして、マリーはペンを走らせた。
 ドレスのデザインを考える時、マリーは自分でも不思議なほど頭が冴えることがある。取りつかれたように一心不乱にペンを動かすマリーを見て、ミッシェルが驚いたように息を飲んだ。

「す、すごい……! え、このデザインって、パニエよね? でも私が知っているものと形が違うわ」

 ミッシェルがうっとりとデザインを見つめながら言う。
 パニエは下に身に着けてスカートをふくらませる補正具だ。
 正面から見るとスカートが大きく見えて豪奢になるが、横から見ると薄くて貧相なのが難点だった。そのせいか少し前までは宮廷ドレスでよく使用されていたが、最近はあまり使われなくなっている。
 しかしマリーが考案した補正具は、従来のパニエとは違い、前後左右どこから見ても綺麗に丸く広がっているものだった。後にクリノリンと呼ばれて宮廷で大流行する補正具だったが、生まれたばかりのこの時はまだ名前はなかった。
 マリーは褒められたことが嬉しくて照れたように笑う。

「えっと……かご状に骨組みを作れば、パニエももっと豪華にできるかなと思いまして……これならシルエットも綺麗ですし、がっちりコルセットでウエストを引き絞らなくても、体のラインも綺麗に見えると思います。スカートが前後左右に広がるので、生地が派手じゃなくても舞台上で映えます」

(引きずるようなロングトレーンのドレスだと演劇中に転んでしまう危険もあるし、こっちの方が良いわよね)

 これなら庶民の服として着ていたジャケットを脱ぎ、上から補正具と一枚のドレスをまとえば、華麗なドレスに一転するはずだ。レースや花は染料で染めれば、もっと美しくできるだろう。
 ミッシェルは感動で目を潤ませて、マリーの手を握った。

「嘘みたい……本当に素敵だわ……! ありがとうございます……っ! あっ……でも、私にこんな難しいドレス作れるかしら? マリア様はあくまで補佐役だし」

 そう不安そうにミッシェルは言う。
 刺繍やレースは教養で習うから、ミッシェルにも作れるだろう。だが、マリーは笑みを浮かべて言った。

「衣装係は少し手伝いをする、と皆の前では言ってしまいましたが……私ができるだけ作りますから、ミッシェルさんは演劇の練習に専念してください。もし隙間時間があれば、その時は刺繍などを手伝っていただけると嬉しいです」

「そこまで気を遣ってくれるなんて……本当に、ありがとう。絶対に素晴らしい舞台にしてみせます!」

「楽しみにしていますね。ミッシェルさん」

「ミッシェルさんだなんて……どうか、ミッシェルと呼んでください」

「あ……それなら、私も是非『マリア』と呼んでください。敬語も要りませんから」

 そうマリーが言うと、ミッシェルは嬉しそうに笑う。
 マリーはお友達がほしいと思っていたので、仲良くしてくれる相手が見つかったことは嬉しかった。

 ミッシェルのドレスのデザインをした翌日。
 お昼休憩中にマリーは誰もいない校舎裏にぽつんとひとつだけ置かれたベンチに座って、波音を聞きながらレースを編んでいた。
 レースと言っても、三十センチほどの通常の編み針二本を使う訳ではなく、五センチほどの短い針一本と糸だけを使うニードルポイントレースだ。
 刺繍の中ではこの難易度が高く繊細な技法で編むレース作りがマリーは得意だった。
 膝の上には紙に書いたデザインがある。それを見ながら指を動かしていくと、どんどんレースが手の中に完成されていく。
 時折思い出したように、ところどころ不格好な縫い目をわざと作る。そうすると、そばを飛んでいた精霊達がその個所を指差して、頬をふくらませて何やら文句を言ったり、『ここ間違えてるよ?』というような不思議そうな顔をした。言葉は分からなくても言いたいことはある程度分かるものだ。

「ごめんね……本当は魔法陣を作ってあげたいのだけれど」

 聖霊の通り道である魔法陣を作れば、彼らは飛び跳ねて喜ぶのだ。
 魔方陣は機織り機で布の模様として織り込んでも、刺繍レースとして形作るのでも良い。
 しかし、今回はそれができない。そんなことをしたら【織姫】だと、エセルあたりにはバレてしまうだろうから。
 マリーがミッシェルのためにデザインしたドレスは、限られた材料と時間の中では最良のものだ。
 できる限りのことはした。そう断言できる。──しかし、マリーは実力を存分に発揮できない現状に、モヤモヤした感情を抱いていた。

「ミッシェルのドレスに刺繍レースをつけられたら、もっと綺麗だろうなぁ……」

 生地だって、もっと複雑な織り方をしたいのに簡単なものしか作れない。それが、マリーには歯がゆくて仕方がなかった。
 膝の上に乗せた紙は二枚ある。重ねてあった後ろの紙をめくれば、新たに描いたドレスのデザインがあった。
 一枚目にシルエットは似ているが、細部はより細かく複雑になっており、マリーが本気を出さなければ完成しないような代物だ。きっとミッシェルにより似合うだろうし、気に入ってもらえるだろうという確信もある。

「ミッシェルにはきっと、こっちの方が似合うのに……」

 飾らない野の花のような美しさと力強さを持つミッシェル。けれど、じつは歌が上手くて、オペラの主演にぴったりの人物だ。可憐なオキザリスの花をイメージして、その周囲に舞台に立つ彼女のために【勇気】と【願いが叶う】魔法陣を編み込んだ新デザイン。
 ──このドレスが作れたら、どんなに素晴らしい舞台となるだろうか。

(でも仕方ないわ……私は身代わりで、何より優先すべきことはマリア様の振りなんだから……)

 マリアが作れないようなドレスを作る訳にはいかない。だから、時折編み方を失敗してみせたりしているのだ。

(でも、手抜きをするなんて職人としてどうなのかしら……)

 常にお客のために全力を尽くしてきたマリーにとって、わざと手を抜く作業はストレスで仕方がなかった。
 今はお昼の休憩中だ。旧校舎に戻って機織り機を動かすこともできたが、移動なども考えると、あまり時間は取れない。
 それなら……と、マリーは人けのない校舎裏で、こっそりとミッシェルのドレスに付けるレース作りをすることにしたのだ。鞄に裁縫道具を入れて持ち歩けば証拠も残らない。
 ミッシェルは休憩時間も演技の練習で忙しくしている。衣装作りを協力できていないことを平謝りされたが、マリーは別に構わなかった。

(ミッシェルには演技に集中してほしいもの。人には向き不向きがあるわ。私は舞台の上で演じるなんてできないし……)

 しばらく作業に没頭していた時に、ふと視線を感じて顔を上げる。
 校舎の壁にもたれるようにして、いつの間にかギルアンがマリーをじっと見つめていたのだ。
 マリーは息が止まってしまう。
 ギルアンは硬直しているマリーのそばまでやってくる。舐め回すように彼女を見て、ぽつりとこぼした。

「……暴れ馬かと思っていたが、お前にこんなにおしとやかな一面があったとは思わなかった」

 そう顔を赤らめて言うギルアンに、マリーは目が点になった。

(は……?)

「あいつに似ているのは顔だけだと思い込んでいたが、誤解だったようだ。そういうふうに刺繍をしている姿は女らしくて、すごく良い……と思う」

 ギルアンが少しずつ距離を詰めてきて、内心悲鳴を上げた。幼い頃からいたぶられた経験がフラッシュバックして、血の気が失せていく。

(ま、また殴られるの?)

 恐怖で手足が震え始めたマリーに、ギルアンが手を伸ばしてくる。身をすくませた瞬間、背後から誰かの声がかかった。

「何をしているんですか?」

 そこに立っていたのは、カルロだった。
 ギルアンは慌てた様子でマリーから遠ざかり、「い、いや……マリアの顔色が悪かったから声をかけただけですよ」と弁解している。
 カルロがマリーを見やり、「そうなんですか?」と尋ねた。
 マリーは迷ったものの、ここで揉め事を起こすのは得策ではないと考えて、不承不承うなずいた。

「カルロ殿下はいったい何のご用でしょうか?」

 そう聞くギルアンに、カルロは肩をすくめた。

「マリアに話があったので探していたんです。マリア、ちょっと寮長室まで良いですか?」

「あっ……はっ、はい!」

 マリーは荷物をまとめて急いで立ち上がり、カルロの後を追った。
 しばらく二人で廊下を歩く。痛いほどの沈黙に押しつぶされそうになっていた時、カルロがためらいがちに尋ねてきた。

「……ギルアンと何かあったんですか?」

「え……?」

「彼の名前を見た時や……先ほども彼と一緒にいた時も様子がおかしかったので。もしかしてギルアンに何かされたんですか?」

「それは……」

 マリーはうつむいてしまう。
 答えられない。だって、それは『マリア』の経験ではないのだから。

(……マリア様とギルアンはどんな関係だったのかしら……事前情報で知らされていなかったから、きっとただのクラスメイトだったんだと思うけれど……)

 それにしては先ほどのギルアンの態度はいったい何なのか……。
 まさかとは思うが、性奴隷にしようとしていたマリーのことを探しているのではないか、と嫌な想像をしてしまった。だが、すぐに首を振る。

(いや……そんなはずないわよね。ギルアンが私にそんなに執着するとは思えないもの。ただ娼館にいた頃は、怯える私の姿が面白くていたぶっていただけだわ。目の前からいなくなれば、『マリー』のことなんて、すぐ忘れるはず……)

 けれど心細さを感じて、自身を抱きしめるように片腕をまわした。

「別に……何もないですよ」

 マリーがそうこぼすと、カルロが突如足を止めた。
 いつの間にか、寮長室の前にたどりついていた。カルロがじっとマリーを探るように見つめている。
 温度のない声で彼は言った。

「……ここを使ってはどうですか?」

「え……?」

「ミッシェルの衣装作りを手伝っているのでしょう? それで、女子寮に戻る時間を惜しんで裏庭で作業していた……そんなところじゃないですか?」

 まったくその通りだ。

「そ、そう……ですが」

「ここなら教室からも近いですし。鍵を持っているのは僕ときみ、そして寮監のプリシラ先生だけです。先生は基本的に立ち寄ることはありませんし、僕も放課後に使うだけなので、自由に使ってください」

「え……? い、良いんですか?」

「寮長にはそのくらいの特権があっても良いでしょう」

「あっありがとうございます! ……昨日も、私とミッシェルが困っている時に助けてくださって……その、嬉しかったです」

 マリーが顔をほころばせると、無表情だったカルロの目が見開かれる。
 助けてもらったらお礼をしたい。マリアがカルロにする態度としてふさわしくなかったとしても、やはりしないではいられなかった。

「……いえ、別にきみじゃなくても助けていましたので、お気になさらず。それにしても……ようやく、きみも社会常識を身に着けてくださったのかと安堵しましたよ。最近、僕に礼儀正しくなったのは、いったいどういう心境の変化ですか?」

 カルロは他の人々にもするような人当たりの良い笑みを顔に貼り付けている。放った言葉はかなり皮肉混じりだが、これがいつものマリアへの態度なのだろう。
 胸が一瞬ちくりと痛んだが、それには気付かない振りをして笑みを浮かべた。

「……私も伯爵家の娘ですから。いくら婚約破棄をして欲しさからしていたことでも、今までのカルロ殿下への態度は決して褒められるものではないと休み中に反省しましたの。これまでの無礼を、どうかお許しください」

 急に品行方正になった言い訳をした。そして己の役目も忘れていない。マリーは深々と頭を下げながら続ける。

「ですが、私の気持ちは変わりません。私の心は海賊王レンディスのものです。私はカルロ様を愛することはできません……。ですから、どうか婚約解消を真剣にお考えくださいませ」

 嘘を吐いて愛する相手と婚約破棄しようとしていることにバツの悪さをおぼえて、カルロの目を見ることができなかった。
 長い沈黙の後に、カルロは深くため息を落とす。

「……最近おとなしかったのは、そういうことですか?」

「え……?」

 困惑した次の瞬間、マリーは軽く押されて壁に背中がぶつかる。
 カルロの手が顎と首に這わされた。強くはないが、逃さないと言いたげにマリーの肌の上に覆われていた。

「え、」

「それで僕の気が変わるとでも?」

 優しい笑みを浮かべているのに、声は氷のように冷たい。美しい顔を彩るのは怒りの色だ。
 廊下の窓から差し込む陽光がカルロの金髪を照らし、間近に迫ったその紫色の瞳に怯えた少女の顔が映る。
 マリーは生来の男性恐怖症と、親切だったカルロが別人のように豹変したことに恐れを抱いた。無意識のうちに膝が小刻みに震え始めてしまう。

「あ……ごめんなさい……っ、その、放してください……」

 耐えきれなくなり涙声でそう訴えると、カルロが瞠目して身を引いた。

「……どうしたんです? マリア、やっぱりどこかおかしいんじゃないですか?」

「おかしくはないです! おかしいのは、カルロ様の方じゃないですかっ!?」

 マリーは混乱して、そう叫んだ。
 カルロはマリアのことに一切の興味がないと聞いていたのに、この二重人格のような態度はどういうことなのか。執着を隠せていない。

「確かに……先ほどの僕はなんだか……おかしかった、ですね。すみません……冷静さを欠いていました」

 しばし妙な沈黙が落ちた。
 カルロは自分でも戸惑っているのか、口元を手で覆って視線を泳がせている。今は完全にいつもの彼に戻っているように見えた。

「ど……どうして、カルロ様は破婚をしようとなさらないのですか? マリアさ……私は、カルロ様に嫌われるようなことばかりしてきたのに」

 マリーはそう言って、スカートをきつく握りしめる。
 カルロがさっさと婚約解消をしてくれていれば、こんな苦労をすることもなかったのだ。

(でも、もしそうだったら……私はきっとこうしてマリア様の身代わりになることもなく、ギルアンの専属娼婦になっていたでしょうね。愛するカルロ様に再会できることもなく)

 そう思うと皮肉だった。彼を騙しているこの状況がやはり申し訳なくて、つい目を逸らしてしまう。

(お役目をまっとうしなくちゃ……)

 身代わりとなり、彼との婚約を解消するのがマリーの責務だ。それをエマも望んでいる。マリアの願いでもあるだろう。
 この関係を続けたって誰も幸せになれない。マリアはいずれ戻ってくるはずなのだから。

(でも……もしマリア様との婚約関係がなくなってしまったら、どうなるのかしら……?)

 カルロは皇太子だ。当然、世継ぎとしてどこかの貴族の令嬢を娶らねばならないだろう。
 そして、それはここにいる平民のマリーでは絶対にない。
 皇太子として盤石の地位を築きたいカルロにとって、“(マリー)”という選択はありえないと彼女は冷静に理解していた。

(だったら……エセルさんが選ばれるのかしら?)

 マリーは唇を噛む。
 好かれないマリアと結婚するよりは、ひたむきに好意を伝えてくるエセルと婚姻した方が、よほど彼も幸せになれそうだ。
 ──そう分かっていながら。
 婚約破棄を望んでいながら、本心ではカルロに誰とも交際して欲しくないと思ってしまっている。その矛盾に胸が潰れそうになる。

「……知りたいですか? 僕が、どうして頑なにきみと婚約したままにしているのか。どんなに嫌味や嫌がらせをされても婚約破棄しない理由」

 カルロの感情の読めない表情にひるんで、マリーは後ずさりした。しかし、カルロが一歩近づいてくる。
 すぐに背中が壁にぶつかった。
 どこかで女生徒らしき黄色い悲鳴が聞こえる。視線を転じると、廊下の奥で生徒達数名が赤い顔でこちらを見つめていた。

「あ……っ」

 思わず声が漏れた。
 皆の視線を集めていることに気付いて、マリーの顔面が一気に熱をおびる。しかし、すぐに視界をさえぎるように彼の腕が邪魔をした。

「……よく余所見をする余裕がありますね」

「カ、カルロ様……あの、ここは良くないですっ。皆に見られていますし……せめて場所を変えて……いや、やっぱり後日にっ!」

 目立つことが苦手な上に、異性への恐怖心とカルロの訳が分からない態度で思考は大混乱している。

(できれば出直したい……っ!)

 カルロは唇の前で人差し指を立てると、こちらを見ていた生徒達に向かって言った。

「皆さん、これは内密に。ただの婚約者との戯れですので」

 そして手首をつかまれ、寮長室に連れ込まれてしまった。
 マリーは呆然としてしまう。

(み、皆の好奇の視線がなくなったのは良かったけど……)

 しかしこの状況はまったく安心できるものではない。
 密室にカルロと二人っきりの上に、手首をつかまれているのだ。恐怖心が足元から湧き上がってくる。

「ごめんなさい。あの……手を……」

 もう限界だった。背筋に冷たい汗をびっしりかいている。
 カルロは手を放して重いため息を漏らし、自嘲気味に笑う。

「先ほどの答えです。別れてあげた方が良いことは分かっていても、どうしても手放せなかったんです。……本当に愚かしいですね。幼い頃の思い出に引きずられて、ひどい仕打ちをされ続けても、初恋の未練を捨てきれないなんて……」

「初恋の未練……?」

 マリーは放心して、つぶやいた。カルロは顔をゆがめて笑う。

「八年前……再会したきみは僕のことを一切おぼえていなくて、別の男に夢中でした。……僕は手ひどい失恋をしたという訳です。……でも、きみを素直に海賊王にくれてやれるほど僕はできた人間ではなかったので。だから婚約解消はしてあげなかったんです」

(そんなにマリア様のことを愛しているのね……)

 カルロの想いの強さにマリーは打ちのめされる。

「で……でも、それは歪んでいると思います。愛する相手の幸せを願ってこそ、愛だと……」

 そう言いながらも、先ほど自分はカルロの幸せを純粋に祈ることができなかった。それを思い出して恥じる。

(こんなの、私が言える台詞じゃないわ……)

 けれど一度口から吐いた言葉は戻ってこない。
 カルロは眉根をよせて、皮肉げに笑う。

「歪んでいる……? 確かに、そうですね。でも仕方ないと思いませんか? 自分にとって特別な思い出でも、相手にとっては記憶の隅にも残らないような価値のない──ゴミくずのようなものだと知ったら病んでしまうでしょう。その上、大切にしていたものを初恋の相手にプレゼントしたのに『そんなものは知らない』と言われて、簡単に捨てられてしまったのだと知ったら?」

(プレゼント……? マリア様はカルロ様に何か渡されたのに、なくしてしまったのかしら……?)

 マリーのおどおどした態度を見て、カルロは不快そうに眉根をよせる。

「今さら、そんな申し訳なさそうな顔をしないでくださいよ。もう、きみには何の期待もしていません。長年レンディス、レンディスと言われ続けて、百年の愛も冷めましたので」

(それなのに婚約破棄しようとしないのは……マリア様への未練ということ……なのね)

 彼は自分が矛盾したことを話していることに気付いていないのだろう。
 マリーは胸が苦しくなる。

「ごめんなさい……」

 本来なら、部外者の自分が別れ話をするだなんて、失礼にもほどがある。居たたまれなさをおぼえて、マリーは身を縮めた。

「何について謝っているんですか? プレゼントをなくしたこと? 約束を違えたこと?それとも他の男を好きになってしまったことですか? どちらにせよ、今になって謝られても困りますよ。それにマリア、きみは僕に謝罪するような人間ではないじゃないですか。本ッ当……、……この前から調子が狂う」

 カルロは髪を掻き回してから、

「……先に戻ります。寮長室は好きに使ってください。僕も放課後以外は来ませんから」

 そう言い残して、カルロは去って行った。
「気を張りすぎではございませんか、カルロ殿下? 少しお休みになられた方がよろしいかと……」

 そう声をかけてきたのは、従者だった。グラウローゲン帝国の宮殿──皇太子の執務室で、八歳になったばかりのカルロは書類に向けていた顔を上げた。
 顔なじみの従者の顔には心配そうな色がある。
 この頃、カルロは日々の帝王教育や剣術馬術にくわえて、政務の一端を担うようになったため多忙を極めていた。

「……僕には休んでいる時間はないんです」

 カルロはそうこぼして羽ペンを動かす。
 兄のグレンが亡くなったのは三週間ほど前のことだ。
 カルロより九歳年上のグレンは、十七歳にして帝国の若獅子と呼ばれるような将来有望な皇太子だった。けれど亡くなってしまった。風邪であっけなく。
 それでカルロはグレンの代役として立太子され、重責を負わされることになったのだ。

(本当に兄さんは余計なことばかり僕に押し付けてくる……)

「カルロ様がグレン様に追いつこうと頑張っていらっしゃるのは承知しておりますが、このままでは体を壊してしまいます……」

 従者の一言にカルロは苛立ちをおぼえた。
 頑張っているというのが事実だったからだ。それは現状では兄ほどの能力がないと言われていることに等しい。

「……もう良いです。さがってください」

「しかし……」

「これは命令です」

 いつもより強めに言えば、従者は息を飲んで頭を下げて静かに出て行った。
 本当は怒鳴りつけてやりたいくらいだった。でも、兄ならそんなことはしない。
 カルロはぐしゃりと金髪を掻きむしる。
 誰もが自分に期待をしていた。──それがうっとうしくて、重荷で仕方ない。自分に優秀な兄と同じことができるはずがないのに。

「本当に腹立たしい……です、ね……」

 うっかり素が出そうになって、慌てて口調を改める。こんな砕けたしゃべり方を兄はしない。
 誰に対しても丁寧で物腰が柔らかかった兄。それでいて知性に恵まれ、武芸にも秀でていた完璧な皇子。
 その代役になるのだから、兄のようにならなくてはいけない。

(そう両親も周囲も期待している……)

 深くため息を落とした時、政務室がノックされた。
 叔父のアーネストが「よっ!」と片手を上げて現れる。アーネストは今年二十八になる、若々しく洒落た美丈夫だ。

「カルロ、お前ずいぶんと根を詰めているみたいじゃないか」

 そう言って近付いてきたアーネストはカルロの肩を抱いて、なぜか頬をもう一方の拳でぐりぐりと押し付けてくる。昔から距離感がない叔父が苦手だった。
 アーネストの手を振り払って、身だしなみを整えながら言う。

「何の用ですか、アーネスト叔父さん」

「知っているか、カルロ。今日が何の日か?」

「何の日かって……そりゃあ……」

 ふいに、カルロの脳内で兄グレンの声が響いた。『来年の精霊降臨祭は、お忍びで一緒に市内に出かけましょう』
 昨年の兄の言葉を思い出して口をつぐむ。首元につけたタキシナイトのブローチに触れた。
 一拍置いてからカルロは言う。

「……聖霊降臨祭でしょう?」

「そう。だから、こっそり城下に出かけようぜ」

 グラウローゲン帝国の聖霊降臨祭は前夜祭、後夜祭あわせて三日間行われる。この間は国民の祝日となり、各地でパーティが行われていた。
 例年、宮殿でもパーティは開いていたのだが、三週間前に皇太子のグレンが亡くなってしまったことから祭祀は中止となった。しかし庶民の楽しみを奪うことは心苦しいと、皇帝は街での三日間の祭りは禁止しなかったのだ。

「……今は喪に服したいので」

 そうカルロは固辞したが、アーネストは譲らない。

「良い息抜きになるぞ。お忍びだが、ちゃんと皇帝からも許可は取ってある」

 大方、最近のカルロの様子を心配した皇帝夫妻がアーネストに頼んだのだろう。断ってしまえば、それはそれで面倒になる。

(……仕方ないな)

「分かりました」

 カルロは渋々、そううなずいた。





 たくさんの人々が行きかう、夕暮れ時の帝都。
 カルロは叔父のアーネストに連れられて、供も連れず庶民の格好をして城下町にやってきていた。
 聖霊降臨祭の時だけは、帝国内では仮装が許されている。カルロも今は目元だけ仮面舞踏会用の銀色のマスクを身につけていた。
 大通りを歩く人の中にはおかしな鳥の仮面をつけている人や、バケツをかぶってブリキの人形になりきっている子供、亜麻で全身を覆って山男のような格好をした人など様々だ。
 式典以外では宮殿から出たことがなかったカルロにとって、下町の光景は非常に興味深いものだった。

「ほら、ちんたら歩いていたら迷子になるぞ」

 そう振り返りながらアーネストは言う。アーネストの目元にもクジャクの羽のついた派手なマスクが飾られていた。

「お前を迷子にしてしまったら、俺が陛下からどやされるからな。絶対に今日だけは良い子にしておいてくれよ」

「アーネスト叔父さん、どこへ行くんですか?」

「良いところだ。お前もそろそろ大人の遊びを知るべきだろう。陛下には、ふさぎこんでいるお前に気分転換させてやってくれって頼まれただけだがな」

 アーネストはニヤついている。
 叔父は若い時から浮名を流し続けていたので、カルロは内心『まさか、夜のお店に連れて行かれるのでは……』と警戒した。
 しかしカルロの予想に反して、アーネストが向かったのは大通りにある喫茶店だった。

「【ショコラール】……? 大人の遊びって、ここのことですか?」

 肩透かしを食らってそう言ったが、叔父は「良いから良いから」とカルロの背を押してソファーに座らせる。

(ここって、確かシュトレイン伯爵家が開いたチョコレート専門店だったよな……)

 チョコレートはスパイスを加えた苦い飲み物というのが一般常識だったが、このお店はそれまでの常識をくつがえし、ミルクや砂糖を加えることで誰にも好まれる味にした。瞬く間に人気が出て、予約がなければ入れない人気店に変貌したのだ。
 カルロはアーネストと同じく、一番人気のオレンジピールとシナモンが入った飲み物を選ぶ。
 メイドが置いていったカップを口に含むと、濃厚なカカオの香りが鼻を通り抜ける。オレンジのさわやかな酸味とシナモンの味わいが口内に広がり、ホッと息を吐いた。張りつめていた緊張が解れるようだった。

「……美味しいです」

「だろう?」

 アーネストは悪戯っぽい笑みを浮かべて、ホットチョコレートをすすっている。
 カルロはわずかにフッと笑みをこぼした。
 自分と同じように普段は護衛に周囲を固められているアーネストだが、こうしてお忍びで庶民に混じる生活を何度もしていたのだろう。それを大人の遊びと言うなら納得できるな、と思ったのだ。
 しかし、それから間もなく一人の女性がやってきて、背後からアーネストにしなだれかかった。

「こんにちは、愛しいアーネスト……ごめんなさいね。待たせてしまったかしら?」

 そうアーネストに向かって言ったのは、黒い羽の仮面と胸元が開いたカラスのようなドレスをまとっている女性だった。仮面ごしにも妖艶な美女と分かる。

「いいや、いま来たばかりだよ。ハニー」

 そう言って、アーネストは彼女と口付けした。
 まさか目の前で叔父と見知らぬ女性の濃厚なキスが行われると思っていなかったので、目のやり場に困ってカルロは視線を窓の外に向ける。

「あら、この子がアーネストの言っていた男の子ね?」

「そうだよ、ローザ。──カルロ、彼女が俺の恋人のローザだ」

 そうアーネストに紹介されて、ローザはカルロに笑みを浮かべた。

「どうぞ、よろしくお願いするわね。……今日は可愛いぼうやのために、遊び相手を連れてきたの。マリー、ご挨拶なさい」

 そう言って、ローザは自分の背後に隠れていた少女を手招いた。
 年の頃はカルロと同じくらいだろう。結い上げた黒髪に、青い瞳が印象的な少女だ。お化けの扮装なのか、真っ黒なローブをまとった彼女が緊張した様子で、「……マリーです」と小さく言って頭を下げる。

「……カルロです」

 そう自己紹介しながらも、これはいったい何なんだろうとカルロは困惑していた。叔父に視線を向けると、なんと彼は立ち上がりローザの肩を抱いて店から出て行こうとしていたところだった。

「ちょ……っ、ちょっと! 叔父さん、どこへ行くんです!?」

「あ~、悪りぃ悪りぃ。お前はここでマリーちゃんと、ゆっくり話でもしててくれ。俺達は大人の話し合いがあるから。しばらく戻らないから遠くには行くなよ」

「大人の話し合いって……そんな……」

 カルロは唖然とした。

(前々から、ちゃらんぽらんな叔父だと思ってはいたけど、まさかここまでとは……)

 カルロは八歳ながらに、己の置かれた状況は理解していた。
 皇帝から直々にカルロの面倒を見るように任されたはずの叔父は、その役目を放り捨てて恋人と遊びに出かけてしまったのである。カルロは大人のこずるさを知った。

(後で父上に言いつけてやろうかな……)

 立ち尽くしているカルロに向かって、少女が戸惑いがちに声をかけてきた。

「……ごめんなさい。私じゃあ、お話し相手にはならないかもしれないけど……」

「あ……いや、そんなことはありませんが……」

 カルロは変に気を遣って、そう答えた。この状況でそれ以外に言える言葉はない。
 そのまま立っていても仕方ないので、カルロはソファーに座り込む。ずっと仮面をつけたままなのも疲れるので外して机に置いた。
 向かいの席におそるおそるといった風に少女が腰掛ける。

(ハァ……どうせ待たなきゃいけないなら店の外の露店とかに行ってみたいけど……土地勘もないから迷子になってしまうだろうな。叔父さんが早く帰ってきてくれることを祈るしかないか……)

 窓の外ではガス灯が馬車道を照らしている。仮装した子供達がランタンを掲げて、くるくると家族の周りを駆け回っていた。
 気まずい空気が漂っていたので、カルロは少女に水を向けた。

「さっきの女性はきみの知り合いですか?」

「えっ、えっと……そう。親戚なの」

 なぜか不自然な間があった。
 少女の目は不自然に斜め上を見ており、カルロとは視線を合わせようとしない。

(もしかして嘘か……?)

 しかし何のためなのかは分からなかったが……。

(まあ、良いか。どうせ、今だけの関係だ。深入りする必要はない)

 カルロはそう思い、カップに口をつけようとした──その瞬間、手がすべってしまい、ほとんど残っていたカップの中身がトラウザーズにこぼしてしまった。
 信じられないような失態に頭の中が真っ白になる。

「あっ、大丈夫!? 火傷してない?」

 そう心配そうに覗き込んでくる少女にも返事ができなかった。

(ああ……最悪だ……)

 まだ水だったら良かったのかもしれない。いや水でも嫌だが、時間が経てば乾いて元通りになるだろう。しかしホットチョコレートは見た目が最悪だ。場所が股間なこともあって、完全に漏らしたようになってしまっている。

(どうしよう……)

 叔父が帰ってきた時に起きたことを伝えてトラウザーズを買ってきてもらうか。
 しかし、そんなことをすれば叔父に『漏らしたのか』と、からかわれてしまうだろう。それは繊細な年頃の少年にとって耐えがたい屈辱だった。
 洗ったとしても綺麗に落ちるかわからないし、仮に濡れたまま宮殿に帰れば、どんな噂が立てられるか分からない。
 カルロの足をすくおうとする者はたくさんいるのだ。
 今だってカルロの弟や、いとこを皇太子に推している貴族はいる。誰だって自分の言いなりになる相手を皇帝に据えたいのだ。

(もし『カルロ様は八歳にもなってお漏らしを……』なんて噂が立ってしまったら、どうしよう……』)

「もう完璧な兄にはなれない……」

 呆然として、そうつぶやいた。
 あまりの情けなさに目が潤んできてしまう。

「だ、大丈夫だよっ! 洗えば綺麗になるから! こっちにきて」

 マリーは慌てた様子でそう言うと、自分がまとっていたガウンを脱いでカルロに頭からかぶせた。そうするとトラウザーズの汚れも隠れた。
 彼女はカルロの手を引っ張って、手洗い場へ向かう。そして何を思ったか、そのまま女性用トイレにカルロを連れ込もうとした。

「ちょっ……! ここは女性用じゃないか!」

(変態になりたくない……!)

 まだ八歳とはいえ、カルロにも性差は分かるし、羞恥心はあった。マリーは力強い笑顔で言う。

「今は仕方ないの! 大丈夫、あなたは女の子みたいな顔をしているから、しゃべらなければ男の子だって分からないわ」

「フォローになってない!」

 そう言いつつ、マリーにトイレの個室に押し込まれた。カルロは誰かに見られるのではないかと気が気ではなくて周囲を警戒してしまう。
 だが幸い、その時は人目はなかった。

「なっ、何をする気なんだ?」

「カルロ、ズボンを脱いで」

「え?」

「私が洗うわ。ちょうど手洗い場に石鹸もあるから」

 そう言って、マリーは手洗い場のほうを指差す。
 確かに高級店らしく石鹸まで用意されていた。庶民の店ではないのが普通なのだが、さすが貴族も足を運ぶ店なだけある。

「しかし洗っても汚れは取れないだろう……」

「良いの? 洗わなくて」

 マリーにきょとんとして問われて、ぐっと言葉に詰まった。そう──茶色に汚れているよりは水に濡れた状態のほうがマシなのだ。

(でも、知り合って間もない少女にズボンを脱いで渡すのか……)

 それもかなり恥ずかしい。
 内心葛藤して、やけくそになってトラウザーズを脱いで少女に渡す。ローブに隠れて下履きは見えないはずだ。
 マリーはそれを受け取ると、手慣れた動作で洗い始めた。何度かこすったり揉み洗いをして流すと、茶色く染まっていたトラウザーズはみるみるうちに綺麗になる。

「良かったぁ。これなら落ちると思ったんだよね」

「え……すごいな」

 洗い物は普段は使用人任せなカルロも、チョコレートのような汚れは落ちにくいことは知っている。だから少女の手際の良さに感心してしまった。
 マリーは鼻の下をこすりながら、エヘンと胸を張る。

「えへへ。いつも洗い物してるからね。コツがあるんだよ。はい、どうぞ」

「あ、あぁ……ありがとう」

 カルロはトラウザーズを受け取った。
 よく絞ってくれたので、しずくは垂れていない。

(しかし、この後はどうすれば……)

 カルロは途方にくれた。汚れは落ちたとはいえ、すぐには乾かないだろう。

「じつはね、そのローブにはおまじないがしてあるの。もともとは防寒のために暖かくなるようにしたんだけど……きっと身につけていたら洗濯物も乾きやすいと思うわ。ズボンを履いて、その上にまとってみて」

 マリーはそう訳が分からないことを言った。

(魔法……? ああ、精霊の祭りだからそんなことを言っているのか?)

 聖霊降臨祭の間は、精霊が人の姿をして街に降りてくるのだという。マリーは役になりきっているのだろう。
 カルロはそう納得して、握ったトラウザーズを見つめる。

(まあ、履いていたほうが人肌の温度で早く乾くかもしれないし……ローブは貸してくれるみたいだから彼女の言うとおりにするか)

 そう思い、カルロは個室で濡れたトラウザーズを履き、その上からローブをまとった。
 不思議と温かい風がローブの中に吹いている気がする。
 ぐっしょりと濡れたトラウザーズは気持ち悪いかもしれないと不安だったが、思っていたより穿きにくくも不快でもなかった。

「良かった。精霊さん達も、カルロのこと好きみたい」

 マリーは虚空を眺めながら微笑んでいる。
 不思議に思っていると、彼女はカルロの手を取って、内緒話をするように耳打ちした。

「ねえ、おじさん達もまだしばらく帰ってこないだろうから、こっそり抜け出して遊ばない?」

「え? ここを抜け出すの?」

「うん、大丈夫。私はこの街に詳しいから迷わないよ。せっかくのお祭りなんだから遊ばなきゃ」

 そう笑みを浮かべるマリーに、カルロはドキリとする。

(そうだ。どうせ叔父さんだって悪いことをしているんだから、僕だけが良い子にしている必要なんてない)

 そう思い、カルロは笑みを浮かべた。

「その話、乗った」

 ここしばらく忘れていた、年相応の笑顔で。


 喫茶店のメイドに事情を話し、代金だけ先払いして「また戻ってくる。もし叔父達が先に戻ってきたら待っていてくれ」と伝えてもらうよう頼んだ。
 マリーと向かった広場には焼きリンゴや、ソーセージ、芋団子が焼かれる匂いが漂っている。食欲をそそる香りにつられて、カルロは露店を見回した。

「お腹減ったから何か食べない? お金は持っている?」

 そうマリーに問われて、カルロはうなずく。
 ポケットには普段、宮殿では使わない硬貨が入っていた。
 どうしてそんなものを皇太子の彼が持っているかというと、一年前から城下のお祭りに来る日を楽しみに、従者達の目を隠れてクローゼットの奥深くに少しずつ蓄えていたからだ。
 マリーはシナモンのかかった焼きリンゴ、カルロは木の棒に刺さったソーセージをむしゃぶりつく。
 裂けた皮から肉汁があふれでて、しかも端はこげている。

(こんなものを宮殿で出したら料理長は首になるに違いない……)

 しかし、思い切ってかじってみると、それは今まで食べたことがないごちそうに感じた。

「あはは、カルロ。口の端にソースついてるわよ」

 そう笑って、マリーはハンカチを渡してくれる。

「う、うん……ありがとう」

 カルロは少し恥ずかしさをおぼえながら、マリーから受け取ったハンカチで口元をぬぐう。
 宮廷作法でナイフやフォークの使い方を厳しく教えられているカルロにとって、口の端にソースをたくさんつけても気にしなくて良いのは気楽だった。
 広場の片隅ではオペラが始まろうとしている。マリーが主演の少女の声に気を取られているのに気付き、カルロは彼女の手を握って「見に行こうか」と照れながら誘った。マリーは破顔して「うん!」と、うなずく。
 立ち見客が少なかったため、最前列に二人は立った。
 ちょうど舞台の端で吟遊詩人が歌いはじめるところだ。

「かつて、この大陸にラグラスという古代魔術国家が存在したが、一夜にして滅びてしまった……これはその国で起こった悲しい恋の物語である」

「あっ……『精霊のお姫様』だ」

 隣で、マリーがちいさく言った。
 オペラの『精霊のお姫様』は幼子でも知っている。
 失われた王国をモチーフにした歌劇はたくさん作られているが、その中でも一、二を争う人気の話だ。
 本当なのか嘘なのか分からないが、古代魔術国家ラグラスの王族は精霊に愛されており、彼らの力を借りて(いにしえ)の魔法を使うことができるのだと言い伝えがある。

 『精霊のお姫様』のお話はこうだ。
 かつてこの大陸にはあった魔術国家では、双子は不吉とされていた。
 双子の王女として生まれたリオンとライラ。妹のライラは双子の悪習から召使に預けられ、市井で育てられた。
 姉のリオンは本来なら王女として育つはずだったが、王妃がなかなか男児に恵まれなかったため、国王の命令で性別を偽り王子として育てられた。
 そして年頃になると、リオンは隣国の王子に恋をする。しかし男の振りをしている身では想いを告白することはできない。
 皮肉なことに、隣国の王子は城下を散策していた時に、ただの町娘だったライラを見初めてしまう。
 そしてリオンとライラがそっくりなことから二人が双子だということが発覚し、ライラは突然町娘から王女として祭り上げられることになる。そして国民の祝福を受けて、隣国の王子との結婚まで決まってしまった。
 内心穏やかではなかったのはリオンだ。王子として育ったため女らしい振る舞いもできず、恋心を王子に打ち明けることができない。
 そしてとうとう、リオンは嫉妬のあまりライラを殺し、彼女に成り代わることにしたのだ。しかし王子に正体が知られてしまい、ライラ暗殺まで発覚してしまう。
 リオンは愛する王子や両親、廷臣達から咎められて、追い詰められた彼女は【滅びの魔法】を使ってしまう。
 そして国が崩壊していく中で、リオンは空の玉座で自害するのだった。

 オペラが終わると、観衆達は惜しみない拍手を送った。カルロもそれに倣って軽く手を叩いていたのだが、隣にいたマリーの表情は浮かない。

「どうしたの?」

 そう問いかけると、マリーは複雑そうに笑みを浮かべる。

「わたし、この話はあまり好きじゃないの。面白いから、ついやってる時は見ちゃうけど」

「……どうして嫌いなの?」

「だって、自分勝手すぎると思わない? 自分の恋のせいで、周りを巻き込んで国を滅ぼしてしまうなんて……私がリオンだったらライラが出てきたら身を引くと思うわ」

 そう唇を尖らせて言うマリーを見て、カルロはそれまで深く考えてこなかったこの物語について考えを巡らせた。

(僕がリオンだったら、どうにかして想いを遂げようとするかもな……)

 もちろん、そのために誰かを殺すなんて物騒なことをするかは分からない。けれど、どうにか両想いになるために最善を尽くそうとするだろう。
 そう思い、チラリと横を見るとマリーと目が合う。不思議そうに微笑まれて、カルロはとっさに熱くなった顔を逸らした。

「もうかなり時間が経っちゃったね。二人が戻ってくる前に喫茶店に戻らないと心配されてしまうわ」

 そう残念そうにマリーから言われて、カルロは冷や水をあびせられたような気持ちになる。

(そっか、もう終わりなんだ……)

 カルロの惜しむ気持ちが伝わったのか、マリーは少し考えるそぶりを見せた後、彼の手を握ってくる。

「ねぇ、バンバス川で精霊舟をやるみたい。せっかくだから行ってみましょうよ」

 バンバス川はこの近くにある帝都を流れる一番大きな川だ。
 広場のそばにある橋の上には多くの人が集まっており、手にはランプを持っていた。
 ランプといっても平たい皿に少しの油やロウソクを入れて、火を灯したものが大半だ。
 船頭達が市民からそれを受け取り、自身の小舟に積んでいく。そんな小舟が十艘以上もバンバス川の岸に浮かんでいた。

「精霊舟……」

 いつも精霊降臨祭の夜に、宮殿の窓から眺めていた光景を思い出した。
 大きな川を流れていく何百もの明かりが綺麗で、いつも川の果てで光が消えてしまうまで見つめていた。
 もともとは古代魔術国家が滅びた時に生き残った民が死者を悼んで始めたものだと言われているが、今では生者が願い事をたくす儀式となっている。
 マリーは小銭を払って油売りから精霊舟をふたつ買った。

「はい。これ、カルロのね」

「あっ、お金……!」

「良いの。わたし、お母さんからお小遣いいっぱいもらってるから。今日、いっぱい遊んでくれたから。そのお礼ね」

「お礼だなんて……」

 だったら、むしろカルロが払うべきだろうと思った。楽しかったのはカルロの方だからだ。
 マリーは手の中の明かりを見おろしながら言う。

「カルロは何を願うの?」

「僕は……」

 急に宮廷での自分の立場を思い出し、口をつぐむ。渋い顔をした後、ぼそりと言った。

「兄さんのようになりたい……」

 カルロの発言にマリーは目を丸くしている。

「お兄さんに? どうして、お兄さんのようになる必要があるの?」

「だっ、だって、だって……そうしないと皆が困るんだ……兄さんのように完璧にならなきゃ……」

 カルロのつぶやきに、マリーは目を瞬かせて困惑気味に首を傾げた。

「別に完璧になんてならなくても良いじゃない。カルロは今でも十分魅力的だもの」

 恥ずかしげもなくそう言われて、頬がカッと熱をおびる。

「み、魅力的って……」

「それより、もっと大事な願い事があるんじゃない?」

(大事な……願い事……?)

 そう思った刹那、カルロの脳裏に兄から言われた言葉がよみがえった。

『来年の精霊降臨祭は、お忍びで一緒に市内に出かけましょう』

(ああ、そうか……)

 その時、やっとカルロは理解した。
 重責と日々の忙しさで、目を背け続けていた心の奥底の感情。
 震える指を握りしめる。
 これまでずっと目を背けてきたせいか、耐えてきたものがあふれて止まらなかった。
 兄が亡くなって三週間もの間、一度も涙を流したことなんてなかったというのに。

「カ、カルロ!? どうしたの!?」

 心配そうに声をかけてくるマリーに、カルロは拳で頬をぬぐいながら言う。

「無理なんだ……本当は兄さんと来年もまた来ると……そう願って精霊舟を流すつもりだったけど……もう兄さんは、亡くなってしまったから」

 カルロの言葉にマリーは息を飲んだ。しばし押し黙り、そして一呼吸おいてから優しい笑顔で言った。

「そう。なら、来年も私と一緒にここへ来られるよう願おう」

「え……?」

「あ……私じゃ、お兄さんの代わりにはなれないかもしれないけど……」

 慌ててそう言いつくろうマリーに、カルロは思いきり首を横に振る。彼女の気持ちが嬉しかった。

(……そうだ、兄さんの魂が天国に行けるよう願おう。そして、マリーと来年ここへ来るんだ)

「ありがとう、マリー。僕もまた、きみと会いたい」

 そうカルロが照れたように言うと、マリーの頬がロウソクの明かりのように一気に朱に染まった。

「マリー?」

「あ……な、なんでもないの! さぁ、精霊舟を流しましょう」

 マリーは少しぎくしゃくとしながら、船頭に精霊舟を渡していた。カルロもそれに倣う。
 人々の願いを乗せた小舟が岸から離れていくのを眺めながら、カルロはようやく自身でも気付いていなかった喪失感と劣等感を受け入れることができた。
 自然と手を取り合い、喫茶店【ショコラール】に足早に戻る。幸い、まだ二人は戻ってきてはいなかった。安堵してカルロとマリーは笑いあう。

「服乾いた?」

 マリーがそう言うのでローブの下を確かめると、トラウザーズはすっかり乾いてしまっていた。

(それほど時間は経っていないはずなのに……)

「きみは魔法が使えるのか?」

 そう驚きながらカルロは言う。
 マリーはえへへと照れたように笑った。
 もちろんカルロも頭の冷静な部分では、魔法なんてものは存在していないと分かっている。
 ラグラスの王族が使うような魔法は、ただの言い伝えにすぎないだろうと。
 けれど、今だけは彼女の魔法を信じたいような気持ちになった。
 ローブを脱いで返す時に、首につけていた黄色いタキシナイトがついたブローチを彼女に手渡す。

「え? これは……?」

 困惑しているマリーにブローチを握らせた。

「きみへの贈り物だよ。タキシナイトという石がついている」

「え……そんな。こんな高そうな物、もらっても良いの……?」

 そのブローチは数年前に兄からプレゼントされたものだ。『意中の相手ができたら渡してあげてください』と、からかうように言われた。

(あの時は誰かに渡す時がくるなんて思っていなかったけれど……)

 亡き兄から贈られたものだと言えば、負担を感じて受け取らないかもしれない。だから、それは言わなかったけれど。

「ああ。きみにあげたいんだ」

「……ありがとう。大事にするね。……私も何かお返ししたいな。カルロ、次はいつ会える?」

「えっと……それは、分からないんだ」

 身分を隠しているし、立場上、簡単には城下へ出かけることはできない。
 悩んでいるカルロに、マリーは言った。

「じゃあ、またこの店で会いましょう。私もまた来るから。会えなかったら何か伝言を残すね」

 喫茶店などには伝言板が置かれており、会えなかった相手とのやり取りなどに使われているのだ。

「……そうだな。僕も叔父と一緒に……あるいは、一人でこっそり来るよ」

 そう約束しあった。



 カルロはそれから皇太子として忙しい日々を送った。
 しかし見張りの目が厳しく、宮殿を抜け出すことができない。
 仕方なく叔父にまた【ショコラール】に連れて行ってほしいと頼んでみたが、どうやら国王からカルロを放っておいたことがなぜか知られてしまったらしく、かなり叱責を受けたようだった。そのせいか、カルロの願いに叔父は色よい返事をしなかった。

(ああ、どうやって城下に行けば……)

 宮殿を抜け出したことを知られてから警備が厳しくなっている。賄賂を渡して側近に便宜を図ってもらおうとしても、身近にいるのは頑固頭の者ばかりだった。日々の忙しさもあって、なかなか自由な時間も作れない。
 そしてヤキモキしながらも数か月が経った頃、珍しく叔父が意気消沈している日があった。

「どうしたんです、アーネスト叔父さん」

「いや、じつは……ローザが亡くなったんだ」

「ローザ? ローザって、叔父さんの恋人の?」

 アーネストはうなずく。ソファーで頭を抱えてうつむいている姿は、普段の陽気さは微塵も感じられない。

(叔父さんには珍しく……彼女に本気だった、ということか?)

 火遊びばかりしている叔父がこんなに落ち込む姿を初めて見たカルロは、少なからず驚いてしまった。

(きっとマリーも傷ついているだろうな……親戚が亡くなってしまったんだから)

 いつも叔父に会うたびに【ショコラール】に行きたいとねだっていたカルロだったが、叔父の恋人の死を知った日から、そのことを話題にすることができなくなった。
 さすがに傷ついた叔父の心に塩を塗るような真似はできなかったのだ。

(会いに行きたいのだが……)

 いつまでもあの喫茶店に行く機会に恵まれず苛々していた時、カルロはマリーと運命的な再会する。
 とある貴族のパーティの招待客に彼女はいたのだ。
 彼女はシュトレイン伯爵家の娘だった。本名はマリア・シュトレイン。カルロには愛称のマリーを教えていたのだろう。

(彼女は平民じゃなかったんだな)

 カルロはそれに驚きつつも、喜んだ。
 たとえマリーが平民でも求婚するつもりだったが、貴族なら周囲から『身分不相応だ』などと陰口を叩かれることもないだろう。由緒正しいシュトレイン伯爵家の娘なら、文句をつける者もいるはずがない。
 しかし半年で彼女はすっかり変わってしまっていた。
 カルロと会った日のことを忘れ、プレゼントしたブローチも『記憶にありませんけど……?』と、しらばっくれられる。追及すれば『そんなにプレゼントしたと言い張るなら、どこかで私が無くしてしまったのかもしれませんわね。ごめんなさい』と、そっけなく言われカルロはブローチは捨てられてしまったのだろうと察した。
 なぜそんなひどい行いをするのだろうと不思議だったが、すぐに理由が分かった。
 彼女は恋をしてしまったのだ、海賊王レンディス・バークナイトに。

(……運命だと思ったのに)

 けれど、そう思ったのはカルロだけで、一方的な片思いだった。マリアはカルロのことをおぼえてさえいなかったのだから。
 悔しくなかったと言えば嘘になる。それでも彼女に振り向いてもらおうと努力したが、『私のことをマリーと呼ばないでください。それほど殿下と親しくはないので』と、つれない態度で言われ、カルロの努力が実ることはなかった。無礼な態度を繰り返すマリアに幻滅し、見る目のなかった自分自身に呆れた。

(あの日の彼女は、悪戯好きの精霊が見せた幻だったのかもしれない……)

 そう、なんとか自身を納得させようとしていた。そうでなければ、彼女がこれほど様変わりしている理由が理解できなかったから。

(……けれど、最近は彼女の様子が何かおかしい)

 マリアらしくない言動をするせいか、目が離せなくなっている。
 これまでのような嫌味や皮肉で武装をすることができない。それどころか、親切な行動までしてしまう始末。

(──マリアは、あくまでマリアだ。何も変わっていない)

 そのはずなのに、カルロは心が揺れるのを感じていた。