もう少しで夏休みが始まる。
八月に入ると更に気温は高くなり、人々のやる気や体力を根こそぎ奪っていく。
登下校ですら体力を消耗するほど暑さが本格的になっていた。
あのバーベキューの日、朝陽君から告白を受けた私はそれはとてもとても驚いたし、まさか両想いだとは知らなかった。
だって、朝陽君はみんなに優しいし私に親切なのも彼の元々持っている“優しさ”があるからだと思っていた。
でもあの日、確かに彼は言った。
『好きなんだ、誰よりも』
何度も頭の中で彼のセリフがリピートされる。そのたびに胸がキュンとして、今までにない感情が全身を支配する。それはどこにいてもすぐに再生されてしまうし、再生されたら最後、頬が上気して他人から見ると完全に頭のおかしいやつと思われているだろう。
バーベキューのあった日、帰宅後も彼と日付が変わるまで電話をしていた。
眠くなって電話を切ろうとしても、彼はあと少し、そう言って切ってくれなかった。結局日付が変わって睡魔に勝てなくなった私の声で電話を終えた。
私自身も彼に好きだと伝えた。
当然もうバレてしまっているのかと思ったが、そうではなかった。
普段から大きいのにさらに目を大きく見開き、信じられないという表情を見せた彼の顔は忘れられない。
あれから数日が経過していた。
八月の第一週、告白されてからまだ彼と会っていなかった。
高校生のうちは好きな人とは基本学校でしか会えない。
もちろんつき合ったらデートだったり休日に会う口実が増えることは確かだけど、親の管理下にある学生が頻繁に会うことはできないだろう。ましてや、進学校で勉強の忙しい毎日でアルバイトすら基本認められていないのだから。
既にいじめが無くなって数か月経過しているのに教室のドアを開けるのは非常に緊張する。
教室のドアに手を掛けると一瞬体が震えるし、教室が視界に入るとお腹の奥がきゅうっと痛む。
それでも、こうやって毎日休まず学校へ通えているのは朝陽君という存在があるからだ。彼がいれば大丈夫だと思えるから。
「おは、よう」
ドアを開けるとすぐにクラスメイトの男子が駆け足で教室を出るところで危うくぶつかりそうになった。
挨拶は一応するようにしていた。どうせ返ってこないと卑屈になって前を向けなかったけど、もしかしたら誰か返してくれるかもしれないから。
でも、
「おはよー」
「っ」
私の脇を颯爽と走り去っていく喋ったこともない男の子は普通に、まるで今までもそうだったように、軽く挨拶をして教室を出ていく。
呆然と立ち尽くす私は今の言葉を何度も頭の中で反芻させ、瞬きをする。
今のは、挨拶を返してもらえたということだろうか。聞き間違い?私じゃない誰かに言った?
そう思って辺りに視線を巡らせるがやはり私しかいない。
バクバクと心臓が音を立てているのを抑えるように首からかかるリボンを強く掴んだ。
嫌な痛みではなかった。
これから挨拶をしたら返してくれる生徒が増えるかもしれない、淡い期待だろうか。でも、今確かに挨拶を返してもらえたんだ。
自然に頬が緩んでいくのを隠すように視線を窓の外へ向ける。
と。
「おはよう、みずき」
朝陽君の声が頭上から聞こえ、顔を上げた。
好きだと言われて、好きだと伝えた、両想いになった彼に私は視線を合わせる。
自分には勿体ないほどのこの現実を彼と共有したくて口角を上げたのに…―。
「どうかした?」
「…っ、朝陽、くん―…」
言葉を失っていた。
一瞬で目の前が真っ暗になった。彼の声が遠くなる。焦点の合わない目を必死に彼を捉えようとするのに本能的にそれを拒んでしまう。
そう、笹塚さんの時と同じように、あの電車内で見たサラリーマンと同じように。
私の体がガタガタと震え、涙があふれた。
すぐに朝陽君が私の手を引いて教室から出る。声が出なかった。
理由は一つだ。
「どうして…っ…」
まだ薄いが彼の体には黒いモヤが巻き付くように覆っていた。
「みずき?とりあえず保健室に行こう」
動揺する朝陽君は強い力で私の手を引く。
それでも、涙は止まるどころかどんどん溢れ、輪郭をなぞるように伝って落ちていく。
拭う力も出なかった。
彼の頭上に見える16という数字は消えていないし、やはり彼はこの世を16歳の若さで去るのだ。
この数字が見えてしまう能力は人の死期を表しているのではなくて、別の何かだったらいいと願っていたしそうだと思いたくてしょうがなかった。
でも、彼の体が黒いモヤで包まれているのを見てやはり逃れられない未来が来るのだと悟った。
私を置いていかないでほしいのに、できるならばずっと彼の隣にいたいのに、どうしてこんなにも現実は残酷なのだろう。
どうして。
「とりあえず休もう」
保健室のドアをノックして、中に入る。相変わらず消毒液の匂いがしてでもそれが妙に落ち着く。
保健室には誰もいなかったが、朝陽君は勝手に中に入っていく。
奥の誰もいないベッドの縁に座るように指示し、それに従うようにゆっくりと座った。
嗚咽を漏らすほど泣きじゃくる私を見て朝陽君は何も言わずに手を握ってくれた。
「何かあった?」
首を折れるんじゃないかというほどに横に振った。
「どうして泣いているの?」
優しく、子供をあやすように訊く彼に私は何も言えなかった。こんな能力があることを信じてもらえるとは思えないし、信じてもらえたところで朝陽君自身にもう少しで死んじゃうんだよと伝えるのはあまりにも酷だった。
「誕生日…っ今月だよね、」
「そうだよ」
やけに抑えた声が耳朶を打ち、彼が保健室内に置いてあるティッシュの箱を私の前に差し出した。
ありがとう、そう言ってそれを受け取るが声が震えていた。
「8月の…30?」
「そう。できれば一緒に過ごしたいね」
「過ごす、絶対に過ごすっ…だってっ…」
彼のシャツにしがみついた。こんなことを急にされたら驚くだろうに彼は驚くどころか悲し気に眉尻を下げた。
「何があったの?聞かせて」
「…言えない」
「どうして?それはどうしても言えないことなの?」
「うん、言えない。でも…おいていかないで…」
「…」
「朝陽君がいないと私は何もできないし、臆病者なの」
「そんなことない。みずきはもう自分の足で立ってる。前を見てるじゃん」
全力で、違う、そう叫ぶ。私は彼がいなかったら何もできなかったし今頃死んでいたと思う。
どうやって死のうか毎日考えていた。どうやってこの世から去ろうか、それしか考えていなかった。
それを変えたのは彼だった。
「そんなことないよ。俺はアドバイスしただけで、実行したのはみずきだ。自信をもって」
「…ちがうよ…ちがう」
「違わない。そうだ、海に行こうよ」
「…海?」
「うん。夏休みに入っても講習あるけどそのあとでもいい。一緒に海に行こう。別に泳ぐっていうわけじゃないよ?海の音とか景色っていうのかな好きなんだ。一緒に見に行こう」
「…うん。朝陽君、朝陽君は…私の心読めるの?」
彼から表情が消えた気がした。
すぐにいつもの彼に戻ったけど一瞬、消えた気がした。
「まさか。そんな力はないよ」
「…そうだよね。海、約束だよ」
「うん、いつにする?」
「じゃあ、誕生日あたりはどう…?でも誕生日の前がいいな。29日とか!」
「俺はいつでもいいいよ」
「もちろん30日も一緒にいたい」
「そうだね」
30日が誕生日ならば既に17歳になっていて彼の死を止めることが出来ない。
その前がいい。私の能力は、日付までぴったりわかるわけではない。
ただ、モヤの濃さで死期が近いのかどうかは判断できる。
彼の体を覆っているそれはまだ薄かった。今はまだ、大丈夫なのだと思う。
おそらく彼の誕生日の週あたりに靄のピークが来るのではないか、それから彼のおばあちゃんの言っていた朝陽君の家系の男たちは皆、早く亡くなってしまうと聞いたがもう一つ妙なことを言っていた。
”誕生日の前日に死んでいる”
もし、理由はわからないが朝陽君も同様の何かで死ぬのだとするならモヤの濃さとあばあちゃんの話していた内容を照らし合わせると誕生日の前日、29日に亡くなる。もしかしたらズレる可能性もある。
ただ、どの道タイムリミットはすぐそこにある。
彼を力強く見つめた。
朝陽君は普段通りの優しい顔に戻っていた。
彼にも何か不思議な力があるような気がしていたのは、別に何か根拠があるわけではなかった。
ただ、アドバイスが適切だったり、私の考えていることを察してくれているように喋るから心を読む力でもあるのではないか、そう思った。
この日は、午後の授業まで保健室を出ることが出来なかった。彼の死が近づいていることを彼に伝えるかどうか迷っていた。
どうするのがいいのか、何を選択するのが最適解に近づくのか、必死に頭を使って考えるのにわからなかった。
悩んで悩んで、そのうち夏休みに入ってしまった。
想いを伝えあうことが出来たのに、私は彼と会うのが億劫になっていた。いや、正確に言うならば会いたいのに会うと辛くて泣きそうになってしまうから避けてしまう。
会うたびに、彼のモヤが黒くなっていく。それは彼を少しずつ蝕んでいるようで直視できない。
八月に入ると更に気温は高くなり、人々のやる気や体力を根こそぎ奪っていく。
登下校ですら体力を消耗するほど暑さが本格的になっていた。
あのバーベキューの日、朝陽君から告白を受けた私はそれはとてもとても驚いたし、まさか両想いだとは知らなかった。
だって、朝陽君はみんなに優しいし私に親切なのも彼の元々持っている“優しさ”があるからだと思っていた。
でもあの日、確かに彼は言った。
『好きなんだ、誰よりも』
何度も頭の中で彼のセリフがリピートされる。そのたびに胸がキュンとして、今までにない感情が全身を支配する。それはどこにいてもすぐに再生されてしまうし、再生されたら最後、頬が上気して他人から見ると完全に頭のおかしいやつと思われているだろう。
バーベキューのあった日、帰宅後も彼と日付が変わるまで電話をしていた。
眠くなって電話を切ろうとしても、彼はあと少し、そう言って切ってくれなかった。結局日付が変わって睡魔に勝てなくなった私の声で電話を終えた。
私自身も彼に好きだと伝えた。
当然もうバレてしまっているのかと思ったが、そうではなかった。
普段から大きいのにさらに目を大きく見開き、信じられないという表情を見せた彼の顔は忘れられない。
あれから数日が経過していた。
八月の第一週、告白されてからまだ彼と会っていなかった。
高校生のうちは好きな人とは基本学校でしか会えない。
もちろんつき合ったらデートだったり休日に会う口実が増えることは確かだけど、親の管理下にある学生が頻繁に会うことはできないだろう。ましてや、進学校で勉強の忙しい毎日でアルバイトすら基本認められていないのだから。
既にいじめが無くなって数か月経過しているのに教室のドアを開けるのは非常に緊張する。
教室のドアに手を掛けると一瞬体が震えるし、教室が視界に入るとお腹の奥がきゅうっと痛む。
それでも、こうやって毎日休まず学校へ通えているのは朝陽君という存在があるからだ。彼がいれば大丈夫だと思えるから。
「おは、よう」
ドアを開けるとすぐにクラスメイトの男子が駆け足で教室を出るところで危うくぶつかりそうになった。
挨拶は一応するようにしていた。どうせ返ってこないと卑屈になって前を向けなかったけど、もしかしたら誰か返してくれるかもしれないから。
でも、
「おはよー」
「っ」
私の脇を颯爽と走り去っていく喋ったこともない男の子は普通に、まるで今までもそうだったように、軽く挨拶をして教室を出ていく。
呆然と立ち尽くす私は今の言葉を何度も頭の中で反芻させ、瞬きをする。
今のは、挨拶を返してもらえたということだろうか。聞き間違い?私じゃない誰かに言った?
そう思って辺りに視線を巡らせるがやはり私しかいない。
バクバクと心臓が音を立てているのを抑えるように首からかかるリボンを強く掴んだ。
嫌な痛みではなかった。
これから挨拶をしたら返してくれる生徒が増えるかもしれない、淡い期待だろうか。でも、今確かに挨拶を返してもらえたんだ。
自然に頬が緩んでいくのを隠すように視線を窓の外へ向ける。
と。
「おはよう、みずき」
朝陽君の声が頭上から聞こえ、顔を上げた。
好きだと言われて、好きだと伝えた、両想いになった彼に私は視線を合わせる。
自分には勿体ないほどのこの現実を彼と共有したくて口角を上げたのに…―。
「どうかした?」
「…っ、朝陽、くん―…」
言葉を失っていた。
一瞬で目の前が真っ暗になった。彼の声が遠くなる。焦点の合わない目を必死に彼を捉えようとするのに本能的にそれを拒んでしまう。
そう、笹塚さんの時と同じように、あの電車内で見たサラリーマンと同じように。
私の体がガタガタと震え、涙があふれた。
すぐに朝陽君が私の手を引いて教室から出る。声が出なかった。
理由は一つだ。
「どうして…っ…」
まだ薄いが彼の体には黒いモヤが巻き付くように覆っていた。
「みずき?とりあえず保健室に行こう」
動揺する朝陽君は強い力で私の手を引く。
それでも、涙は止まるどころかどんどん溢れ、輪郭をなぞるように伝って落ちていく。
拭う力も出なかった。
彼の頭上に見える16という数字は消えていないし、やはり彼はこの世を16歳の若さで去るのだ。
この数字が見えてしまう能力は人の死期を表しているのではなくて、別の何かだったらいいと願っていたしそうだと思いたくてしょうがなかった。
でも、彼の体が黒いモヤで包まれているのを見てやはり逃れられない未来が来るのだと悟った。
私を置いていかないでほしいのに、できるならばずっと彼の隣にいたいのに、どうしてこんなにも現実は残酷なのだろう。
どうして。
「とりあえず休もう」
保健室のドアをノックして、中に入る。相変わらず消毒液の匂いがしてでもそれが妙に落ち着く。
保健室には誰もいなかったが、朝陽君は勝手に中に入っていく。
奥の誰もいないベッドの縁に座るように指示し、それに従うようにゆっくりと座った。
嗚咽を漏らすほど泣きじゃくる私を見て朝陽君は何も言わずに手を握ってくれた。
「何かあった?」
首を折れるんじゃないかというほどに横に振った。
「どうして泣いているの?」
優しく、子供をあやすように訊く彼に私は何も言えなかった。こんな能力があることを信じてもらえるとは思えないし、信じてもらえたところで朝陽君自身にもう少しで死んじゃうんだよと伝えるのはあまりにも酷だった。
「誕生日…っ今月だよね、」
「そうだよ」
やけに抑えた声が耳朶を打ち、彼が保健室内に置いてあるティッシュの箱を私の前に差し出した。
ありがとう、そう言ってそれを受け取るが声が震えていた。
「8月の…30?」
「そう。できれば一緒に過ごしたいね」
「過ごす、絶対に過ごすっ…だってっ…」
彼のシャツにしがみついた。こんなことを急にされたら驚くだろうに彼は驚くどころか悲し気に眉尻を下げた。
「何があったの?聞かせて」
「…言えない」
「どうして?それはどうしても言えないことなの?」
「うん、言えない。でも…おいていかないで…」
「…」
「朝陽君がいないと私は何もできないし、臆病者なの」
「そんなことない。みずきはもう自分の足で立ってる。前を見てるじゃん」
全力で、違う、そう叫ぶ。私は彼がいなかったら何もできなかったし今頃死んでいたと思う。
どうやって死のうか毎日考えていた。どうやってこの世から去ろうか、それしか考えていなかった。
それを変えたのは彼だった。
「そんなことないよ。俺はアドバイスしただけで、実行したのはみずきだ。自信をもって」
「…ちがうよ…ちがう」
「違わない。そうだ、海に行こうよ」
「…海?」
「うん。夏休みに入っても講習あるけどそのあとでもいい。一緒に海に行こう。別に泳ぐっていうわけじゃないよ?海の音とか景色っていうのかな好きなんだ。一緒に見に行こう」
「…うん。朝陽君、朝陽君は…私の心読めるの?」
彼から表情が消えた気がした。
すぐにいつもの彼に戻ったけど一瞬、消えた気がした。
「まさか。そんな力はないよ」
「…そうだよね。海、約束だよ」
「うん、いつにする?」
「じゃあ、誕生日あたりはどう…?でも誕生日の前がいいな。29日とか!」
「俺はいつでもいいいよ」
「もちろん30日も一緒にいたい」
「そうだね」
30日が誕生日ならば既に17歳になっていて彼の死を止めることが出来ない。
その前がいい。私の能力は、日付までぴったりわかるわけではない。
ただ、モヤの濃さで死期が近いのかどうかは判断できる。
彼の体を覆っているそれはまだ薄かった。今はまだ、大丈夫なのだと思う。
おそらく彼の誕生日の週あたりに靄のピークが来るのではないか、それから彼のおばあちゃんの言っていた朝陽君の家系の男たちは皆、早く亡くなってしまうと聞いたがもう一つ妙なことを言っていた。
”誕生日の前日に死んでいる”
もし、理由はわからないが朝陽君も同様の何かで死ぬのだとするならモヤの濃さとあばあちゃんの話していた内容を照らし合わせると誕生日の前日、29日に亡くなる。もしかしたらズレる可能性もある。
ただ、どの道タイムリミットはすぐそこにある。
彼を力強く見つめた。
朝陽君は普段通りの優しい顔に戻っていた。
彼にも何か不思議な力があるような気がしていたのは、別に何か根拠があるわけではなかった。
ただ、アドバイスが適切だったり、私の考えていることを察してくれているように喋るから心を読む力でもあるのではないか、そう思った。
この日は、午後の授業まで保健室を出ることが出来なかった。彼の死が近づいていることを彼に伝えるかどうか迷っていた。
どうするのがいいのか、何を選択するのが最適解に近づくのか、必死に頭を使って考えるのにわからなかった。
悩んで悩んで、そのうち夏休みに入ってしまった。
想いを伝えあうことが出来たのに、私は彼と会うのが億劫になっていた。いや、正確に言うならば会いたいのに会うと辛くて泣きそうになってしまうから避けてしまう。
会うたびに、彼のモヤが黒くなっていく。それは彼を少しずつ蝕んでいるようで直視できない。