数週間が経過した。
もう少しでゴールデンウィークに入る。その間、私は一度も学校を休んではいなかった。
“あの事件”以降、風向きが変わった。まりちゃんの周りにいた子たちは彼女と一緒にはいるけどどこかぎこちなさが残る関係へと変化していた。
波多野君は、相変わらず男女問わず人気で昼休みには彼の周りに人が集まる。誰とでも仲良くなれる彼と私は対照的だ。
そして、私はあれ以来ものを隠されたり、陰口を言われたり…そういったこともなくなった。もしかしたら一時的なものなのかもしれないとは思うけれど、それでも心はとても楽だった。
毎朝家を出るとき、玄関のドアが非常に重く感じて、足に鎖でもついているのではと思うほどに前に進まなかったのにそれがなくなっていった。
先週、テストがあった。
学校内の確認テストという名前でこれまでの授業内容すべてがテスト範囲だ。
(これとは別に5月下旬には中間テストがある)
学年が変わるごとに毎年行われる。その結果が今日返ってきた。
私は5教科100点満点で全体の点数は354点という散々な結果だった。
全体の平均が380点らしくてそれすら上回っていない。
それもそうか、と思う。特別頭がいいわけではないのに、努力という皆がしていることすらしていない。土台にすら立っていない。
そしてクラスで1位、学年でも1位だったのは波多野君だった。50位までは廊下に張り出されるから、誰が1位なのかわかる。
それを知った時は驚いたし同時に尊敬した。スポーツもできて、頭もいい、そして誰よりも優しい。そんな子が世の中に存在するのだろうかとあまりに非現実的過ぎてそう思ってしまった。
10分間の休憩時間を隣の席で教科書を広げて宿題をしながら過ごしている彼に話しかけた。
「本当にすごいね、一位なんて」
「いや、んーそんなにすごいことじゃないっていうか」
「どうして?」
「だれでも取れるっていうか…」
「それって他の人が聞いたら皮肉に聞こえるけど」
そういうと波多野君は、ははっと明るく笑ってその通りだなといった。
波多野君は前の学校ではサッカー部だったのに、転校してからはどこの部活にも属していない。理由を聞いても釈然としない。彼の頭上に浮かぶ数字と、それは関係しているのかと思ってもっと深く聞こうとすると、彼はあまり聞かれたくないようでそういう雰囲気を出すからそれ以上は聞けなかった。
…――
…
ホームルームの時間になった。
担任の先生が教室のドアを開けてゆっくり歩きながら教卓の前に立つ。騒がしい声がそれを合図にするように静かになった。
「今日は、お知らせがあります。まずそれを話そうかな。えーっと、三者面談があるのでそのお知らせのプリントを配りますねー」
先生がそう言いながらプリントをとんとんと、教卓の上で整えて机の席を数えながら前の席の子へ配っていく。
私は思わず「三者面談…」と呟いていた。
「ゴールデンウィーク明けに三者面談をします。親と話し合って日程を第三希望まで記入してきてください」
私は前の席の加藤さんがそれを手渡すのを軽く頭を下げてもらう。
少し目が合った。今までは一切目を合わせてくれなかったのに、合わせてくれた。もちろん、今まで無視していたのに、とかそういう気持ちが全くないと言ったら噓になるけれど、それでも嬉しかった。
プリントには、三者面談のお知らせというタイトルで詳細が記載されている。
高校二年生ということはもう来年は三年生だ。受験勉強で忙しくなる。あと一年もある、のではなくもう一年しかない。中高一貫校だから授業の進むスピードは他校よりも早い。三年生になる頃には既に高校で習う範囲は終え、受験対策一色になる。そのためにもう進路は決めておく必要がある。
将来は何をしたいのか、どこの大学へ行きたいのか、そういうことを今から明確に決めていく必要がある、そういう内容が書かれていた。
この学校を選んでいる時点で、私たちは他の学生よりも大学進学への関心は高いはずだ。
私の親も口を開けば“勉強”“大学”だ。学校も偏差値の高い大学へ合格させることを目標と設定している。でも、やりたいこともしたいこともない私にとってこの話題はかなり苦痛だ。薄いグレーのプリントをじっと見つめながら帰宅するのが憂鬱になっていた。
―放課後
私は一人で教室を出た。今日は塾があるから寄り道をしないで早めに学校を出なければならない。昇降口を抜けて、駐輪場の横を通り過ぎようとしたとき、うわ、という声がした。
駐輪場へ目を向けると、ドミノ倒しで自転車が倒れていて、おそらく倒したであろう知らない男子学生が顔を顰めて、でも面倒なのか自分の自転車だけ起こしてそのまま私の横に風を作り去っていく。
もしかしたら、あの男の子も用事があるのかもしれない。
私は、少し急げば大丈夫だと思って、倒れた自転車をそのままにできずに元のように起こす。ただ、想像以上にそれが大変だった。
ハンドル部分をもって、ぐっと自転車を起こすけれど、何台も倒れている自転車を戻すのは体力が必要だった。ふぅと息を吐いて、ブレザーを脱いだ。汗が出てきた。もう少しで5月だから気温も高くなっている。
体力がない私にとってこういうことは苦手だ。
と、急に波多野君の声が聞こえた。
「みずき!何してんの?」
「あ、…えっと、自転車が倒れてしまって、」
肩に鞄をかけて私に駆け寄る彼が倒れている自転車たちをみて悟ったようで「手伝うよ」と言ってくれた。
本当にどこまでもいい人で優しい人だと思った。
「これ、みずきが?」
「いや、…でも見ちゃったから…」
そういうと、波多野君は、「同じだ」といった。自転車を起こしながら彼の顔を見ると、懐かしそうに目を細めている。
「前の学校にいたときに、同じようなこと俺もやったんだよ」
「そうなの?波多野君が?自転車通学だったんだ」
「うん、そう。ドミノ倒しみたいにどんどん倒れていくと心臓がひゅってなる」
わかる、と言って笑った。
波多野君との距離も日に日に縮まっていて、自分から話しかけることが出来る仲になった。
友達と言ってくれた彼に応えるように、私も自分から距離を縮めていきたい。仲良くなりたい。
波多野君のおかげで、ようやく全部の自転車を元に戻し終えた。
「ありがとう!あ!私塾あるんだ…急ぐから先に行くね。本当にありがとう」
「そうなんだ。じゃあ、また明日」
彼に手を振って私はスカートに風を含みながら走った。
“また、明日”
その言葉を言った瞬間、どうしてか胸が少し痛むような感覚があった。理由はわからない、でも、何となく痛むのだ。
塾でも友達はいない。でも、学校と違って勉強だけをする場所という空間だから一人ぼっちでも誰も何も言わないし私のような子もいるようだった。そもそも様々な学校の生徒がいるから知らない人がいてもおかしくはない。
自習室が広くて、パソコンも何十台も置いてある。浪人生もいるから夏頃になると結構ピリピリとした雰囲気が伝染するから自習室でも重苦しい。
例えば仲の良い子が喋りながら自習していると、赤本を何周もしている子が舌打ちする…なんていう場面を去年は二回見た。
私も来年はイライラしてピリピリしてしまうかもしれない。でも、それは真面目に受験と向き合っている証拠だ。未来のために、努力してる証拠だ。
塾が終わり、家に向かって閑散とした住宅街を歩いていると来年のことを考えている自分がいることに気づいた。
自分と向き合ってみよう、そう思うようになった。
自宅に帰り、重厚感のあるドアを開けると母親がパジャマ姿で顔を出す。
ただいま、そう言って靴を脱いだ。
「塾は?どうだったの?」
「普通だよ」
「この間の学年テストも悪かったんだからちゃんと塾でも集中して勉強するのよ」
母親は塾のある日は、先に夕飯を食べている。
もう先に入浴も済ませたのだろう、化粧水や乳液をつけたばかりなのか顔面がものすごく水分を含んでいるように照明に照らされて余計光っているように見える。
お母さんが夕飯を温めてくれている間、私は二階の自分の部屋に行って、制服を脱ぎ部屋着に着替える。
リビングまで続く廊下を降りながら、三者面談のことを伝えなければいけないことで憂鬱だった。
ちょうど今日の夕食は生姜焼きだった。そのほか副菜が並ぶ。
温めてくれたお味噌汁がちょうどダイニングテーブルの上にコトン、と置かれる。
私は椅子を引いて、音もなく座るといただきますといってお味噌汁から食べはじめる。
「お母さん、ちょっといい」
一息ついて、私はテレビを見るお母さんを呼んだ。お母さんが何?と言ってこちらに向かってくる。
眠たいのか目じりが心持ち、下がっているようだ。
「三者面談の案内が来たの」
お母さんは、あぁ、と言って仕事を休んで行くわ、とつづけた。
「後でプリント渡す」
「そう。三者面談ねぇ…みずきはT大が第一希望、それ以外ないんだけどね」
無言でいる私に、苛ついているのかそれが空気で伝わってくる。
「それ以外ないでしょう?そのために塾に通わせているのに」
「…それ以外、あるかもしれない」
普段はないようなところに皺をくっきりと刻んで、顔が強張っていくのを見た。
私は、生姜焼きを口に含んで視線を下げた。
「あるの?どこなの?」
普段よりも早口になる。いつもそうだ。イライラすると、そうなる。
そんな態度を向けられると、蛇に睨まれた蛙のように委縮して何も出来ない。言えない。でも、今日はいつもの私ではない。
私は小刻みに首を横へ振る。
「ないけど…できるかもしれない。その時、お母さんは許さないの?」
お母さんは、じっと私を見据えて言った。
「そうだね。だってお母さんの選択がいつも正しい、そうでしょう?あなたはまだ子供なの。親がある程度道を作ってあげることは親として最低限のことよ。そして、いつかそれにきっと感謝する。絶対に」
私は何も言わなかった。言えなかった。
お母さんの言ったことは正しいのかもしれない。でも、今の言葉はまるで自分に言い聞かせているように思えた。私は黙って箸を動かした。このまま話しても平行線だと理解しているからだ。
人生は選択の連続だ。
私は、これからどんな選択をするのだろう。
それは本当に自分のためになる選択なのだろうか。波多野君の言葉が脳裏に焼き付いて離れない。
もう少しでゴールデンウィークに入る。その間、私は一度も学校を休んではいなかった。
“あの事件”以降、風向きが変わった。まりちゃんの周りにいた子たちは彼女と一緒にはいるけどどこかぎこちなさが残る関係へと変化していた。
波多野君は、相変わらず男女問わず人気で昼休みには彼の周りに人が集まる。誰とでも仲良くなれる彼と私は対照的だ。
そして、私はあれ以来ものを隠されたり、陰口を言われたり…そういったこともなくなった。もしかしたら一時的なものなのかもしれないとは思うけれど、それでも心はとても楽だった。
毎朝家を出るとき、玄関のドアが非常に重く感じて、足に鎖でもついているのではと思うほどに前に進まなかったのにそれがなくなっていった。
先週、テストがあった。
学校内の確認テストという名前でこれまでの授業内容すべてがテスト範囲だ。
(これとは別に5月下旬には中間テストがある)
学年が変わるごとに毎年行われる。その結果が今日返ってきた。
私は5教科100点満点で全体の点数は354点という散々な結果だった。
全体の平均が380点らしくてそれすら上回っていない。
それもそうか、と思う。特別頭がいいわけではないのに、努力という皆がしていることすらしていない。土台にすら立っていない。
そしてクラスで1位、学年でも1位だったのは波多野君だった。50位までは廊下に張り出されるから、誰が1位なのかわかる。
それを知った時は驚いたし同時に尊敬した。スポーツもできて、頭もいい、そして誰よりも優しい。そんな子が世の中に存在するのだろうかとあまりに非現実的過ぎてそう思ってしまった。
10分間の休憩時間を隣の席で教科書を広げて宿題をしながら過ごしている彼に話しかけた。
「本当にすごいね、一位なんて」
「いや、んーそんなにすごいことじゃないっていうか」
「どうして?」
「だれでも取れるっていうか…」
「それって他の人が聞いたら皮肉に聞こえるけど」
そういうと波多野君は、ははっと明るく笑ってその通りだなといった。
波多野君は前の学校ではサッカー部だったのに、転校してからはどこの部活にも属していない。理由を聞いても釈然としない。彼の頭上に浮かぶ数字と、それは関係しているのかと思ってもっと深く聞こうとすると、彼はあまり聞かれたくないようでそういう雰囲気を出すからそれ以上は聞けなかった。
…――
…
ホームルームの時間になった。
担任の先生が教室のドアを開けてゆっくり歩きながら教卓の前に立つ。騒がしい声がそれを合図にするように静かになった。
「今日は、お知らせがあります。まずそれを話そうかな。えーっと、三者面談があるのでそのお知らせのプリントを配りますねー」
先生がそう言いながらプリントをとんとんと、教卓の上で整えて机の席を数えながら前の席の子へ配っていく。
私は思わず「三者面談…」と呟いていた。
「ゴールデンウィーク明けに三者面談をします。親と話し合って日程を第三希望まで記入してきてください」
私は前の席の加藤さんがそれを手渡すのを軽く頭を下げてもらう。
少し目が合った。今までは一切目を合わせてくれなかったのに、合わせてくれた。もちろん、今まで無視していたのに、とかそういう気持ちが全くないと言ったら噓になるけれど、それでも嬉しかった。
プリントには、三者面談のお知らせというタイトルで詳細が記載されている。
高校二年生ということはもう来年は三年生だ。受験勉強で忙しくなる。あと一年もある、のではなくもう一年しかない。中高一貫校だから授業の進むスピードは他校よりも早い。三年生になる頃には既に高校で習う範囲は終え、受験対策一色になる。そのためにもう進路は決めておく必要がある。
将来は何をしたいのか、どこの大学へ行きたいのか、そういうことを今から明確に決めていく必要がある、そういう内容が書かれていた。
この学校を選んでいる時点で、私たちは他の学生よりも大学進学への関心は高いはずだ。
私の親も口を開けば“勉強”“大学”だ。学校も偏差値の高い大学へ合格させることを目標と設定している。でも、やりたいこともしたいこともない私にとってこの話題はかなり苦痛だ。薄いグレーのプリントをじっと見つめながら帰宅するのが憂鬱になっていた。
―放課後
私は一人で教室を出た。今日は塾があるから寄り道をしないで早めに学校を出なければならない。昇降口を抜けて、駐輪場の横を通り過ぎようとしたとき、うわ、という声がした。
駐輪場へ目を向けると、ドミノ倒しで自転車が倒れていて、おそらく倒したであろう知らない男子学生が顔を顰めて、でも面倒なのか自分の自転車だけ起こしてそのまま私の横に風を作り去っていく。
もしかしたら、あの男の子も用事があるのかもしれない。
私は、少し急げば大丈夫だと思って、倒れた自転車をそのままにできずに元のように起こす。ただ、想像以上にそれが大変だった。
ハンドル部分をもって、ぐっと自転車を起こすけれど、何台も倒れている自転車を戻すのは体力が必要だった。ふぅと息を吐いて、ブレザーを脱いだ。汗が出てきた。もう少しで5月だから気温も高くなっている。
体力がない私にとってこういうことは苦手だ。
と、急に波多野君の声が聞こえた。
「みずき!何してんの?」
「あ、…えっと、自転車が倒れてしまって、」
肩に鞄をかけて私に駆け寄る彼が倒れている自転車たちをみて悟ったようで「手伝うよ」と言ってくれた。
本当にどこまでもいい人で優しい人だと思った。
「これ、みずきが?」
「いや、…でも見ちゃったから…」
そういうと、波多野君は、「同じだ」といった。自転車を起こしながら彼の顔を見ると、懐かしそうに目を細めている。
「前の学校にいたときに、同じようなこと俺もやったんだよ」
「そうなの?波多野君が?自転車通学だったんだ」
「うん、そう。ドミノ倒しみたいにどんどん倒れていくと心臓がひゅってなる」
わかる、と言って笑った。
波多野君との距離も日に日に縮まっていて、自分から話しかけることが出来る仲になった。
友達と言ってくれた彼に応えるように、私も自分から距離を縮めていきたい。仲良くなりたい。
波多野君のおかげで、ようやく全部の自転車を元に戻し終えた。
「ありがとう!あ!私塾あるんだ…急ぐから先に行くね。本当にありがとう」
「そうなんだ。じゃあ、また明日」
彼に手を振って私はスカートに風を含みながら走った。
“また、明日”
その言葉を言った瞬間、どうしてか胸が少し痛むような感覚があった。理由はわからない、でも、何となく痛むのだ。
塾でも友達はいない。でも、学校と違って勉強だけをする場所という空間だから一人ぼっちでも誰も何も言わないし私のような子もいるようだった。そもそも様々な学校の生徒がいるから知らない人がいてもおかしくはない。
自習室が広くて、パソコンも何十台も置いてある。浪人生もいるから夏頃になると結構ピリピリとした雰囲気が伝染するから自習室でも重苦しい。
例えば仲の良い子が喋りながら自習していると、赤本を何周もしている子が舌打ちする…なんていう場面を去年は二回見た。
私も来年はイライラしてピリピリしてしまうかもしれない。でも、それは真面目に受験と向き合っている証拠だ。未来のために、努力してる証拠だ。
塾が終わり、家に向かって閑散とした住宅街を歩いていると来年のことを考えている自分がいることに気づいた。
自分と向き合ってみよう、そう思うようになった。
自宅に帰り、重厚感のあるドアを開けると母親がパジャマ姿で顔を出す。
ただいま、そう言って靴を脱いだ。
「塾は?どうだったの?」
「普通だよ」
「この間の学年テストも悪かったんだからちゃんと塾でも集中して勉強するのよ」
母親は塾のある日は、先に夕飯を食べている。
もう先に入浴も済ませたのだろう、化粧水や乳液をつけたばかりなのか顔面がものすごく水分を含んでいるように照明に照らされて余計光っているように見える。
お母さんが夕飯を温めてくれている間、私は二階の自分の部屋に行って、制服を脱ぎ部屋着に着替える。
リビングまで続く廊下を降りながら、三者面談のことを伝えなければいけないことで憂鬱だった。
ちょうど今日の夕食は生姜焼きだった。そのほか副菜が並ぶ。
温めてくれたお味噌汁がちょうどダイニングテーブルの上にコトン、と置かれる。
私は椅子を引いて、音もなく座るといただきますといってお味噌汁から食べはじめる。
「お母さん、ちょっといい」
一息ついて、私はテレビを見るお母さんを呼んだ。お母さんが何?と言ってこちらに向かってくる。
眠たいのか目じりが心持ち、下がっているようだ。
「三者面談の案内が来たの」
お母さんは、あぁ、と言って仕事を休んで行くわ、とつづけた。
「後でプリント渡す」
「そう。三者面談ねぇ…みずきはT大が第一希望、それ以外ないんだけどね」
無言でいる私に、苛ついているのかそれが空気で伝わってくる。
「それ以外ないでしょう?そのために塾に通わせているのに」
「…それ以外、あるかもしれない」
普段はないようなところに皺をくっきりと刻んで、顔が強張っていくのを見た。
私は、生姜焼きを口に含んで視線を下げた。
「あるの?どこなの?」
普段よりも早口になる。いつもそうだ。イライラすると、そうなる。
そんな態度を向けられると、蛇に睨まれた蛙のように委縮して何も出来ない。言えない。でも、今日はいつもの私ではない。
私は小刻みに首を横へ振る。
「ないけど…できるかもしれない。その時、お母さんは許さないの?」
お母さんは、じっと私を見据えて言った。
「そうだね。だってお母さんの選択がいつも正しい、そうでしょう?あなたはまだ子供なの。親がある程度道を作ってあげることは親として最低限のことよ。そして、いつかそれにきっと感謝する。絶対に」
私は何も言わなかった。言えなかった。
お母さんの言ったことは正しいのかもしれない。でも、今の言葉はまるで自分に言い聞かせているように思えた。私は黙って箸を動かした。このまま話しても平行線だと理解しているからだ。
人生は選択の連続だ。
私は、これからどんな選択をするのだろう。
それは本当に自分のためになる選択なのだろうか。波多野君の言葉が脳裏に焼き付いて離れない。