それから一週間後──
芽衣里はあるスナックへと足を運んだ。
スマートフォンに表示された地図を見れば、羽根村から指定された場所はここで合っている。
むき出しのコンクリートに薄汚れた紫の看板がついていて、場末っぽさがすごいなぁと芽衣里は不安になる。それでも立ち往生するわけにもいかず、板チョコのような扉を開ける。風鈴のようなベルの音が鳴った。

「羽根村さん、真岡です」

芽衣里の少し震えた声が虚に響く。
薄暗い店内は狭く、客は2、3人しかいない。その内の一人である羽根村が立ち上がって手招きをした。

「どうしたの? 遅かったじゃない?」

「すみません。道に迷ってしまって……」

「そう。凌は? 一緒じゃないの?」

「後から来るって電話で言ってました」

芽衣里がそう伝えると、羽根村はあからさまに不機嫌になって舌打ちした。

「はぁー……で、いつ来るの?」

「30分くらいかかるって……」

その豹変ぶりに芽衣里は驚いたが、冷静に返答する。ただ一つの出口であるドアを、さり気なく視界に入れながら。
羽根村は羽根村で、「来るなら良いわ」と仏頂面でスマートフォンを鞄から取り出していじり始めた。二人の間に不穏な沈黙が流れる。
芽衣里は気になっていたことを、思い切って聞いてみることにした。

「あの、最初に会った時に、あたしが彼女だって気づいてましたよね? どうしてわかったんですか?」

「勘」

鬱陶しそうに羽根村が答える。その間も画面から視線を外さない。
芽衣里は負けじと質問を重ねる。

「光滝さん、子どもを亡くしたりしてないそうですよ。どうしてあんな嘘をついたんですか?」

「間違えただけ」

羽根村の親指は忙しなく動き、芽衣里を見ようともしない。

「羽根村さん、どうしてこのお店にしたんですか?」

「うっさいな、さっきから」

羽根村はようやく芽衣里に目を向けた。眉間に一本線が入り、下から睨めつけている。
芽衣里は首筋がピリピリするような感覚がした。

「付き合っても良いって言ってんだから、静かにしてて」

「……帰ります」

芽衣里は立ち上がったが、彼女を客の男たちが瞬時に取り囲んだ。どいつもこいつも、厳めしい面構えをしている。

「まだ来たばかりじゃない、ゆっくりしていきなさいよ」

身じろぎさえできないでいる芽衣里に、羽根村は朗らかな声で嘲った。それを合図に、男の一人が芽衣里の腕をつかみ、店の奥へ連れ込もうと引っ張った。

「いやっ……!」

芽衣里は抵抗しようと腕を振り回して暴れるが、男たちの手にかかれば呆気なく引きずられてしまう。一歩ずつ店の奥へと歩かされ、開かれたドアの向こうへ放られそうになった、その時だ。

涼やかなベルの音に、皆が一瞬動きを止めた。

「その子を離しなさい!」

「光滝さん!」

若草色の着物に、白い帯を締めた敏代がいた。
その凛々しい声に羽根村は一瞬怯んだが、場違いなほどにっこりと笑った。

「あら光滝さん、お久しぶりね」

「あなた……」敏代は力強い瞳を瞬きもせず羽根村に向ける。「今さら凌に何の用なの?」

「何って、この子との仲をお祝いしたいだけよ」

「とてもそうは見えないわね」

「何とでも言ったら? あなた一人じゃ何もできないでしょうし」

羽根村は男たちに何事か呟くと、彼らは芽衣里を拘束している男一人を残し、敏代を捕まえようとにじり寄った。

「すいませ〜ん、開いてますかぁ?」

のん気な声と共に、どやどやと色とりどりの集団が雪崩れ込んできた。さすがに羽根村や男たちはうろたえて、芽衣里を拘束する腕がゆるんだ。
その隙を突いて、芽衣里は金髪のプリン頭へと駆け寄る。

「兄ちゃん!」

「芽衣里ー、もう大丈夫だぞ!」

ニカッと笑う廻の姿に、芽衣里は涙目になって礼を言った。敏代は最初こそ呆気に取られていたが、すぐに表情を引き締める。

「あなた、お兄さんも呼んでいたの?」

「ちょっと! 聞いてないわよ!」

羽根村は顔を真っ赤にして叫んだ。男たちも計画外だったのか、その場から一歩も動けないでいた。

「今から説明してやるよ」

今度は無機質な声が出入り口から聞こえてきて、皆が一斉にそちらを向いた。
細身のパンツに、大きめのTシャツを身に付けた凌がそこにいた。息が詰まるほどゾッとする空気を纏っている。

「凌! お母さんよ! 早く助けてちょうだい!」

天の助けとばかりに羽根村は必死に呼びかけるが、凌は全て無視して廻に問いかけた。

「廻さん、俺が一から説明させてもらっていいですか?」

「どーぞどーぞ」

どこぞの芸人のように、腰を折り曲げて手を羽根村たちに向ける。廻の仲間たちも、敏代も、芽衣里も、固唾を飲んで凌を見つめた。

「あんたは何者からか俺の住所を知らされ、集ろうと俺のマンションまでやってきた」

「集ろうだなんて、私はただ……」

「入れ込んでるホストのために必要なんだよな?」

羽根村の顔が青ざめた。凌は冷ややかな口調で続ける。

「それからここの維持費もか。闇バイトでエキストラまで雇ってよくやるよ」

今度は男たちが真っ青になった。

「最初は直接俺のマンションに行ったんだろうけど、運悪く俺と芽衣里は事件に巻き込まれていて近づけなかった」

芽衣里はあの怒涛の一週間を振り返る。目の前の騒動に対処するのが精一杯で、羽根村が来ていたとは気づかなかった。

「それが終わったと思ったら、俺たちは旅行で留守。帰ってきても捕まらない。だから芽衣里を利用することにした」

凌はここで芽衣里をチラリと見た。その短い間だけ穏やかさが戻ったような気がして、芽衣里は緊張が少しだけほぐれた。

「けどそれも母さんが芽衣里に声をかけて延期になった……。全部防犯カメラに映ってたし、管理人さんからも話を聞いたよ」

芽衣里は凌の言葉でようやく合点がいった。羽根村は短期間で何度も防犯カメラに映り、管理人からもマークされ声をかけられていたに違いない。それが凌に伝わったのだ。

「金のなる木はそこにあるのにどうにもできなくて、もどかしかったろうな……。でもそのおかげで、廻さんたちがあんたを調べる時間ができた」

「え、じゃあこいつらは探偵……?」

「何でも屋の〝テイカーズ〟は身辺調査も承っとります」

「兄ちゃんそんなことしてたの?」

「凌くんに相談されたもんで。……芽衣里に相談された時はびっくりしたよ」

「うん。羽根村さん、泣いてたけど涙声じゃなかったんだ」

「それでか」

芽衣里は羽根村と初めて会ったあの日、拭いきれない違和感に頭を悩ませていた。
語るのも辛いだろう過去を話してくれた凌の実母。彼女を詐欺師のように考えたくはない。涙目で声を詰まらせて──“声”?
そうだ。彼女は涙目だったけど、涙声ではなかった。それにメモ一枚で人に奢らせるのもなんだかおかしいような……。
考えが一度マイナス方面へと傾き始めると、後はもう急転直下だった。
その場で光滝夫妻の子どもについて調べると、凌について書かれた記事はあっても、子どもを亡くしたという情報はなかった。大っぴらに語るものでもないから、情報がふせられているのかとも考えた。それでも一度生まれた不信感は消えず、凌や廻、そして敏代に──正確には敏代が開いている華道教室に連絡をしたのだ。
敏代本人とは話せなかったが、電話に出たマネージャーのような人はちゃんと敏代に伝えてくれたらしく、折り返して連絡をくれた。
もっとも、「無関係の人間が関わる問題ではありません」と突き放されてしまったが。

「あんたはやっと芽衣里に会って、嘘を吹き込み自分の味方につけようとした……俺から金を巻き上げるために。
そのために、自分の店に芽衣里を呼び出し、そいつらを使って芽衣里を人質にしようとした。
でも芽衣里が俺や廻さんに相談してくれていたから、作戦を立てられた」

「作戦? 何をしようっていうの?」

少なくとも警察のお世話になるような真似はしていない、と羽根村は不敵に笑った。だが凌は動じることなくドアの外に声をかけた。

「もう良いですよ、どうぞ」

男性が三人、店の中に入ってきた。
体型も容姿もそれぞれで、共通点は“中年の男”ぐらいのものだ。……いや、もう一つ共通点があった。
全員が全員、怒りを露わにしていた。

「な、え、なん、どうして……?」

羽根村は青ざめた顔で震え出した。どうにか絞り出した声は掠れている。

「前にここで勤めていた女の子たちに命令して、妊娠したから金よこせって強請ったんだって?……その子たちは……ここの経営が厳しくなったからクビにしたんだったか」

「羽根村さん! どういうことだよ!? こんなの聞いてねぇぞ!」

闇バイトで雇われた男たちの一人が、とうとう声を荒げて羽根村に掴みかかった。他の連中も同じように捲し立てる。
それを冷めた目で見ていた凌は、背を向けて手をひらひらと振った。

「それじゃ、後はごゆっくり」