芽衣里は凌と手を繋ぎ、海岸を歩いていた。
柔らかな砂に足を取られる感覚はない。磯の香りもしない。波の音さえも。
──ああ、これは夢だ。
この間の夢と違い、すぐにわかった。
だってこれは。

『このまま海に入るんですか?』

『そこまではしないよ』

『もし入るなら一人でお願いしますね』

『だから入らないって』

心中する恋人同士の描写のために、芽衣里が連れ出された時の記憶だ。
凌は芽衣里から過去の事件を聞くだけに飽きたらず、こうして協力させるようになった。ちゃんと報酬は出るので不満はないが、この“恋人ごっこ”は苦手だった。妙にむず痒い気持ちが腹の奥に灯る。
それは何故なのか。芽衣里が理解するようになるには、第三者が介入する必要があった。

『夢川先生が好きなの』

凌のペンネームが、サーモンピンクの唇からこぼれた。
ふっくらとして形が良く、喋るたびにぷるんと音がしそうだ。瑞々しい果実を連想して、芽衣里は生唾を飲み込んだ。
昔からのファンだと豪語する彼女は、凌のマンションから帰ろうとした芽衣里を呼び止めた。
『私、どうしても先生の恋人になりたいの』口元が艶やかにうごめく。『だからお願い、協力して』
そう頭を下げた彼女に、芽衣里は頬を掻いた。

『止めておいたほうがいいですよ』

『どうして? あなたも先生が好きなの?』

『そうじゃなくて……すっごい変人なんです。あの人』

整った顔立ちにミステリー作家という職業柄か、凌は理知的でクールな人物に見える。第一印象だけならそうだ。
だが一皮むけば、中々に狂った部分が顔を出す。横手山などはその一番の被害者で、会えば必ずと言っていいほど凌に振り回されている。
これ以上被害者を増やしたくはない、と芽衣里は凌の変人エピソードをかいつまんで語った。語りながら反応をうかがってみるが、その口からは失望のため息は出てこなかった。
むしろ、
『小説に命をかけてるのね。素敵…!』と熱い吐息を漏らす始末。
芽衣里は彼女の発言に『マジか』と思わずつぶやいた。
それと同時にこの人ならば、とも思う。これだけ惚れているなら、凌とは上手くやっていけるんじゃないか。

『じゃあ、こうしましょう。
 私に急用ができて、代わりに手伝ってくれる人を見つけたということにして──』

『先生のマンションに行けば良いのね。わかった』

『本当にありがとう』と唇が弧を描く。『思い切って相談して、本当に良かった』
それから芽衣里は彼女と別れ、近くのファミレスに入った。早々にフルーツパフェを注文する。
大きめのグラスが数十分も待たないうちに運ばれてきた。アイスと苺を耳かきのようなスプーンですくう。
口に含めばアイスはドロリと溶けて、苺だけをかみ砕く。種が弾ける。飲み下す。
芽衣里は機械のようにその動作を繰り返した。

結局、彼女が凌と付き合うことはなかった。
芽衣里の代わりに助手として働いたその日、凌の作家仲間が偶然遊びにやってきたのだ。
ルポライターとして世界中を駆け回るその人に、彼女はあっさりと鞍替えした。彼女曰く『自由で夢やロマンを追い求める男って素敵』だそうだ。
彼は次の日に、目的地であるアフリカへと旅立ってしまった。しかし目をハートにした彼女には大した障害ではない。自分も明後日には彼を追い飛行機に乗ったという。
それを凌から聞かされた芽衣里は、そっと自身の口元に触れた。

『口がどうかしたの?』

『うん……あの人にね、ティントとリップペンシルどこのか聞いとけば良かったなって』

『そっか。女の人だと着眼点が違うもんだな』

それからは何故か〝芽衣里から見た化粧の上手い女性〟について質問されまくった。熱心にメモをとる凌に真剣に答えていくと、湧いた気持ちに自然と蓋ができた。
認めたくたなかったのだ。彼女が惚れっぽくて良かった、なんて。

『好きな人がいるの』

芽衣里の口はあっさりと動いた。自分の中ではもっと抵抗があるように感じていたけれど、声の調子も思うより穏やかで密かに驚いた。言われた相手はもっと驚いていた。
“驚いた”よりも“理解できない”が正しいかもしれない。相手は鳩が豆鉄砲を食ったような──と言っても、芽衣里はそんな鳩を見たこともないが──顔でしばらく黙っていた。
イケメンとはこんな時でも絵になるな、と芽衣里は告白してきたその人を観察した。小顔で長身、手足のバランスも良く、くっきりした二重に高めの鼻、髪型はアップバング。雑誌のモデルが紙面からそのまま出てきたような出立ちだった。
次のミスターコン優勝候補と囁かれている彼の、柔和そいな瞳が瞬いた。ようやくショックから回復したらしい。

『誰なの? 好きな人って』

『バイト先の人』

『付き合ってるんじゃないんだよね?』

『それは……そうだけど』

『じゃあ、俺にもまだチャンスはあるよね』

『……すっごい食い下がるね。なんであたしなの?』

『前からかわいいなって思ってたんだ……どうしても諦められない』

『俺じゃダメかな……?』と彼は眉根を寄せて目を伏せた。芽衣里は悪いことをしてしまったような気分になる。告白を断っただけでどうしてこんな思いをしているのだろう。
芽衣里の鬱々とした感情を知ってか知らずか、『好きになってもらえるよう努力する』と一方的に宣言した。そのまま踵を返し、去っていく。
芽衣里はその背を見送ることなく、自分は課題のために図書館へと向かった。

『それで告白されたんだけど』と何気なく話題にする。『どう思う?』
『どうって?』そう凌は返した。『真岡さんがどうしたいかじゃないの』
顔も上げずにメモに走り書きをしながら、もう片方の手で後ろ頭をかいている。芽衣里はネイルを施したばかりの爪に触れた。

『もし付き合ったら……もう、今までみたいに会ったりはできないし』

『どういうこと? 何か問題でもあるの?』

『大ありだよ。恋人が別の男とそいつの部屋で二人っきりになるんだよ? 光滝さんだって許せないでしょ?』

『そしたらどっかのお店で会うのは? それなら二人っきりじゃなくなるし』

『そうじゃなくて……“ふたりで”会う約束をしてるって時点でダメなの』

凌が顔を上げた。心なしか目が輝いている。
嫌な予感がして、芽衣里は膝の上で両手を握りしめた。
『“ふたりで”いるのがダメなんだよね?』とペンを置き、はしゃいだ声で『廻さんを呼んで“三人”になれば良いんだ! 廻さんの話も聞けるし!』
そう、笑顔で言い切った。


『良かったの? 俺と“二人っきり”で』

『“友だちとして”だし。別に平気だよ』

芽衣里は自分でも驚くほど冷たい声で吐き捨てた。彼にも伝わっただろうに、それを指摘しない。
芽衣里は途端に身体を縮こませたくなった。誘いに乗ったのは自分なのに、凌のことを思い返して不機嫌になっている。

『アトラクションだけどさ、何に乗りたい?』

今度は不自然なくらい明るい声で問いかけた。ベンチの上にカラフルなパンフレットを広げてみる。休日のテーマパークは、どのアトラクションでも長蛇の列だ。
家族連れやカップル、学生服のグループがひっきりなしに芽衣里たちの前を通り過ぎていく。自分たちも側から見ればカップルなんだろうな、と芽衣里は人ごとのように思った。

『うーん、これにしない? 待ってる間にパレードも見れそうだし』

彼が指をさしたアトラクションは待ち時間もそう長いものではない。芽衣里は笑顔で了承すると、パンフレットをバッグにしまいながら立ちあがった。

その横を、一台の車椅子が猛スピードで走り抜けていった。

『……ちょっとごめん、先行ってて』

芽衣里はそれだけ言い残すと、豆粒のようになった車椅子を追いかける。人混みをかき分けながら見失わないようにするのは厳しかったが、車椅子もそこまで早くないのが幸いだった。
──あの女の人は、確かに自分を見て『助けて』と言った。
車椅子を押しているのは男性で、キャップを目深に被り顔は見えなかった。女性は俯いて身動ぎもしない。
それでも確かに、芽衣里とばっちり目が合った。
……もう、居ても立ってもいられなかった。
車椅子は多目的トイレに滑り込むようにして入った。スライド式のドアに鍵がかけられるのと、芽衣里がドアの取っ手をつかむのはほぼ同時。芽衣里は焦ってドアを強めにノックした。

『すみません、大丈夫ですか? スタッフの方、呼びましょうか?』

芽衣里の呼びかけに応えるように、ドアの鍵が開いた。

結局、全て罠だった。
そもそも告白からして嘘だった。彼ら三名による共謀だったのだ。
警察によれば、彼らは“ある人物”から指示を受け、芽衣里を誘拐する手筈だったらしい。この“ある人物”は廻と確執があり、苦しめようとしての凶行だろう──というのが廻の見解だ。
で、何故彼らはこんな計画に加担したのか。これも直接ではなくまた聞きだが、あの車椅子の男女は報酬を、告白してきた彼はひき逃げの隠ぺいをエサにされたという。
事件は一応それで終わった。“ある人物”は捕まらなかったし、芽衣里は騙しに騙されて人間不信になりかけた。

『無事だよな? 良かった……、怪我は?』

凌は助け出した芽衣里にそう言った。
聞けば、芽衣里がデートすると知って追いかけてきたそうだ。ストーカーかよ、と悪態を吐くのは胸の内だけに抑える。
抑えることだけ考えていないと、“期待”をしてしまいそうだった。

『〝善意に対して悪意を返される〟なんてよくある話だ』

事件の顛末を芽衣里から聞き、凌は落ち着いた声で断じた。世間話でもするかのような軽さに、芽衣里は眉をひそめる。

『特に……真岡さんみたいな義憤にかられやすい人はそうだ。一つ間違えれば大怪我になるし、最悪の場合命だって──』

『大丈夫です』芽衣里は乾いた笑顔を作った。『自分で対策くらい立てられますのでお構いなく』

『そうじゃない、そうじゃないんだよ』

凌は後ろ頭をかき回す。苦み走った表情に、芽衣里はその顔を必死に見つめた。

『ほら、あれだよ。これからは彼氏がいなくても、俺が一緒にいれば守れるし』

『いえいえ、先生の手を煩わせることでは……』

『いやいや、遠慮せずに』

『いえいえ』

『いやいや』

『はいこの話はこれで終わり』

『いやいや勝手に終わらせないでくれ』

『先生にもっとネタを出せるように長生きしますから』

芽衣里は早口で宣言した。凌の顔も見ずにいれば、もう自分をただのネタ帳だと思い込める。それが恋心には一番良い。
だが凌は間髪入れず、両手で芽衣里の顔を両手で挟み自分に向けさせた。

『ふざけるな! ネタ抜きで君が大切なんだよ!』

数秒の間、二人は固まっていた。
じわじわと凌の頬が赤くなる。自分も同じように赤くなっているのだろうと、芽衣里はそっと凌の手に自分の手を添えた。

『それってどういう意味ですか』

凌が慌てて離そうとするのを、ギュッと握りながら問う。

『いやその……言わなくても……あれだ、察してくれ』

凌は目玉を忙しなく動かす。その姿がひどく可笑しくて、芽衣里はちょっとだけ意地悪がしたくなった。

『先生、ちゃんと言葉にして。先生は小説家でしょ? それなら自分の気持ちを……頭に浮かんだものを教えて』

『……』

凌は何度か口を開けたり閉じたりしていたが、観念したのか芽衣里の瞳を見据えた。

『誰かと笑い合う君を想像したら、原稿に手がつけられなくなった』

『うん』

『それが俺だったらって考えたら……その想像が止まらなくなって……』

『それで?』

『俺だけ見てほしい』

『先生……!』

『俺以外の誰とも話さないでほしい』

『う、うん?』

『四六時中、俺のことだけ考えてほしい』

『えーと……』

『俺の全部を君の全部に刻みつけて、一生忘れられなくしてやりたい。傷つける奴がいたら生まれたことを後悔させてやりたい。死ぬ時は一秒も違わず一緒がいい。本当は誰の目にも触れない場所に閉まっておきたい。嫌だって言われても離したく──』

『あっ、もう結構です。ありがとうございます』

……煽るような真似をするんじゃなかった。
芽衣里は凌の手をさすりながら後悔した。