(あれから結局条件付きで交換したんだよね…、まさか付き合うことになるとは思いもしなかったけど)
それから横手山夫妻は離婚し、翔吾の家は父子家庭となった。離婚するまでにかなり拗れてまた警察沙汰になったらしい、と凌経由で聞いた。
「もう結構です」
事件を思い返していた芽衣里は、敏代の声に意識を引き戻された。こちらを射抜くような視線とかち合う。
「貴女をお呼びしたのには、もう一つ理由があるの」
もう来てくれたわ、と敏代がフロントに目を向けたので、芽衣里も追ってフロントを注意深く観察した。
スタッフがそれぞれの客に対応している。一人は白髪の男性で、もう一人は小柄な女性だった。敏代は“来た”と言っていたのだから、どちらかが呼ばれているのだろう。
白髪の男性はエレベーターへと向かっていった。ということは──
「あれ、この間の…!」
「!?」
こちらを振り向いた女性は、その格好のまま固まってしまった。薄化粧を施した目が芽衣里を凝視したままちっとも動かない。口も半開きになったままだ。
間抜け面に見えかねない表情でも、どことなく気品を感じる。振り向く動きさえ洗練されているからだろうか。彼女が身につけているブランドもののワンピース、バンプスやバッグと相まって、“深層の御令嬢”そのものに映った。
「絢瀬川(あやせがわ)さん、どうぞこちらへ」
敏代が優しい声で促すと、彼女は意を決した顔つきで一歩を踏み出した。近づいてくればくるほど、芽衣里の記憶と、彼女の顔が一致していく。
──この前、居酒屋で出会った女性だ。
「お久しぶりです、先生」
「ええ、急に呼び出してしまって…ごめんなさいね」
敏代は目尻に皺を寄せる。そしてさらに言葉を続けた。
「こちら、真岡 芽衣里さん。真岡さん、こちら、凌の婚約者の絢瀬川 沙織(あやせがわ さおり)さん」
凌の婚約者。
居酒屋で会った彼女。
情報の洪水に押し流されそうになる脳内を、どうにか回転させようと試みる。しかしその前に、沙織が深々と芽衣里に頭を下げた。それでいて長い髪がテーブルにつかないよう、絶妙な角度を保っている。
「先日は、本当にありがとうございました」
「いえ、その──」
自分だけ座っているのはどうなのか、と脳内がようやく回り始めた。椅子をがたがたさせながら立ち上がり、会釈を返す。
「あの後、大丈夫でしたか?」
「はい。あの時はお礼も言えなくて、申し訳ありませんでした」
「とんでもないです。何もないなら良かった」
そのやり取りを、敏代は目を白黒させながら見ていた。完全に置いてけぼりだ。
「先生、私、この前真岡さんに困っているところを助けていただいたんです」
「まぁ……そうなの」
敏代はぎこちない笑みを浮かべ、相槌を打つのがやっとという様子だった。まさか知り合いだとは思ってもみなかっただろうし、それに加えて恩があるだなんて予測は誰にも出来ないだろう。
芽衣里だってそうだ。〝凌の婚約者〟がついこの間自分と友人たちが助けた人だなんて思ってもいなかった。世間とは、広いようでいて狭いものだ…。
「それで、その……これは何の集まりなんでしょうか?」
芽衣里が妙な感慨に耽っていると、困惑した顔の沙織が問いかけてきた。思わず敏代の顔を見れば、敏代は「絢瀬川さん、どうぞお掛けになって」と言いながらもうすまし顔を繕っていた。さも〝察しろ〟と言わんばかりの雰囲気だ。
(なるほど、凌にはこんな素晴らしい婚約者がいるんだから諦めろってことね)
芽衣里は断固拒否すべく口を開いて──そのまま固まった。
「母さん!? どういうことだよ!」
凌が肩を怒らせて勢いよく歩いてくる。声に驚いたのか、他の客が何人か芽衣里たちの席にちらちらと視線を寄越してきた。
敏代は美しい柳眉を顰めると、「何です、みっともない」と息子を嗜めた。
「連絡してきたかと思えば“婚約者を連れてきたから会いにこい”? 俺は芽衣里と付き合ってんだよ」
凌はそう言いながら、芽衣里の手を引いて自身の背後に庇った。芽衣里の眼前がネイビーのジャケットでいっぱいになる。
それだけで芽衣里は何者にも立ち向かえる気がした。出会いは血生臭いし、暴走して監禁するような男だけれど、別れるなんて考えられない。
「いつか大怪我するわよ」
その思いは、絶対零度の言葉で萎んでしまう。芽衣里が、凌が、可能性は理解しつつも決して指摘しなかった〝もしも〟を、敏代は言おうとしている。
「その娘に付き合っていたら、いつかトラブルに巻き込まれて大怪我するわ。むしろ最悪の場合──」
「死ぬって? 上等だよ」
大袈裟に抑揚をつけるでもなく、淡々とした口調で凌は言い切った。芽衣里の手が、力強く握られる。
「居直るんじゃありません。大好きな小説も書けなりますよ」
「そんな覚悟とうに決めてる」
「あの」
涼やかな声が割って入った。
「私、その……婚約は白紙にするよう父に話します」
少しだけ震えながらも、はっきりとそう宣言した。敏代が上擦った声で待ったをかける。
「絢瀬川さん、ごめんなさいね。理由も言わずに呼び出した挙げ句にこんな──」
「いえ、凌さんの覚悟が伝わってきましたから。だからもう、お暇させて頂きますね」
言うが早いか、沙織は早足でこの場を去った。
甘い花のような香りだけが残されて、御令嬢ってのは香水まで優雅なんだなぁ、と芽衣里は数秒ほど現実逃避する。
「だそうだ。この話は終わり。二度とこんな馬鹿げた真似はしないでくれ」
凌は吐き捨てるように拒否するが、敏代からの返答はない。肩から顔を覗かせればすむことだが、そんな勇気はなかった。
「勝手になさい」
その返事を聞き終わる前に、凌は芽衣里を強引に引きずってホテルから出た。日も湿度もいまだに高くて、陽炎が見えそうなほどだ。
そんな暑さでも凌のスピードは落ちない。芽衣里はたまらず声を上げた。
「凌、痛いって」
「あ、あぁ……悪い……」
凌は気付くとすぐに手を離した。少しだけ赤くなっている。
「悪かった。母さんがあんな──」
「いいの! 凌はちゃんと守ってくれたし」
芽衣里は慌てて首を横に振った。凌が謝罪する謂れはない。
ただあまりに重くて相手がドン引きしたんじゃないか、とはさすがに言わなかった。
凌は芽衣里の赤くなった手を見ると、唇を噛んで形の良い眉根を寄せた。また何か言おうとするのを遮って、芽衣里は口を開く。
「横手山さんとの打ち合わせ、大丈夫なの? 途中じゃないの?」
芽衣里の心配に呼応したかのように呼び出し音が鳴る。無機質なメロディに、凌は舌打ちでもかましそうな顔で電話をとった。
「もしもし……終わったよ。すぐ戻るから……は、何?」
横手山さんが心配することじゃない、と言い切るか切らないうちに凌は通話を終わらせてしまった。
その尋常ではない対応に、芽衣里は狼狽しながらも抗議する。
「凌、そんな言い方って……!」
凌が芽衣里を見た。
爬虫類を思わせる冷たい目。
こんな冷ややかな眼差しをした凌を、芽衣里は知らない。
「芽衣里には関係ない」
凌は何も言えなくなってしまった芽衣里にそう言うと、横手山が待っているのだろう打ち合わせ場所へと向かって行ってしまった。
それから横手山夫妻は離婚し、翔吾の家は父子家庭となった。離婚するまでにかなり拗れてまた警察沙汰になったらしい、と凌経由で聞いた。
「もう結構です」
事件を思い返していた芽衣里は、敏代の声に意識を引き戻された。こちらを射抜くような視線とかち合う。
「貴女をお呼びしたのには、もう一つ理由があるの」
もう来てくれたわ、と敏代がフロントに目を向けたので、芽衣里も追ってフロントを注意深く観察した。
スタッフがそれぞれの客に対応している。一人は白髪の男性で、もう一人は小柄な女性だった。敏代は“来た”と言っていたのだから、どちらかが呼ばれているのだろう。
白髪の男性はエレベーターへと向かっていった。ということは──
「あれ、この間の…!」
「!?」
こちらを振り向いた女性は、その格好のまま固まってしまった。薄化粧を施した目が芽衣里を凝視したままちっとも動かない。口も半開きになったままだ。
間抜け面に見えかねない表情でも、どことなく気品を感じる。振り向く動きさえ洗練されているからだろうか。彼女が身につけているブランドもののワンピース、バンプスやバッグと相まって、“深層の御令嬢”そのものに映った。
「絢瀬川(あやせがわ)さん、どうぞこちらへ」
敏代が優しい声で促すと、彼女は意を決した顔つきで一歩を踏み出した。近づいてくればくるほど、芽衣里の記憶と、彼女の顔が一致していく。
──この前、居酒屋で出会った女性だ。
「お久しぶりです、先生」
「ええ、急に呼び出してしまって…ごめんなさいね」
敏代は目尻に皺を寄せる。そしてさらに言葉を続けた。
「こちら、真岡 芽衣里さん。真岡さん、こちら、凌の婚約者の絢瀬川 沙織(あやせがわ さおり)さん」
凌の婚約者。
居酒屋で会った彼女。
情報の洪水に押し流されそうになる脳内を、どうにか回転させようと試みる。しかしその前に、沙織が深々と芽衣里に頭を下げた。それでいて長い髪がテーブルにつかないよう、絶妙な角度を保っている。
「先日は、本当にありがとうございました」
「いえ、その──」
自分だけ座っているのはどうなのか、と脳内がようやく回り始めた。椅子をがたがたさせながら立ち上がり、会釈を返す。
「あの後、大丈夫でしたか?」
「はい。あの時はお礼も言えなくて、申し訳ありませんでした」
「とんでもないです。何もないなら良かった」
そのやり取りを、敏代は目を白黒させながら見ていた。完全に置いてけぼりだ。
「先生、私、この前真岡さんに困っているところを助けていただいたんです」
「まぁ……そうなの」
敏代はぎこちない笑みを浮かべ、相槌を打つのがやっとという様子だった。まさか知り合いだとは思ってもみなかっただろうし、それに加えて恩があるだなんて予測は誰にも出来ないだろう。
芽衣里だってそうだ。〝凌の婚約者〟がついこの間自分と友人たちが助けた人だなんて思ってもいなかった。世間とは、広いようでいて狭いものだ…。
「それで、その……これは何の集まりなんでしょうか?」
芽衣里が妙な感慨に耽っていると、困惑した顔の沙織が問いかけてきた。思わず敏代の顔を見れば、敏代は「絢瀬川さん、どうぞお掛けになって」と言いながらもうすまし顔を繕っていた。さも〝察しろ〟と言わんばかりの雰囲気だ。
(なるほど、凌にはこんな素晴らしい婚約者がいるんだから諦めろってことね)
芽衣里は断固拒否すべく口を開いて──そのまま固まった。
「母さん!? どういうことだよ!」
凌が肩を怒らせて勢いよく歩いてくる。声に驚いたのか、他の客が何人か芽衣里たちの席にちらちらと視線を寄越してきた。
敏代は美しい柳眉を顰めると、「何です、みっともない」と息子を嗜めた。
「連絡してきたかと思えば“婚約者を連れてきたから会いにこい”? 俺は芽衣里と付き合ってんだよ」
凌はそう言いながら、芽衣里の手を引いて自身の背後に庇った。芽衣里の眼前がネイビーのジャケットでいっぱいになる。
それだけで芽衣里は何者にも立ち向かえる気がした。出会いは血生臭いし、暴走して監禁するような男だけれど、別れるなんて考えられない。
「いつか大怪我するわよ」
その思いは、絶対零度の言葉で萎んでしまう。芽衣里が、凌が、可能性は理解しつつも決して指摘しなかった〝もしも〟を、敏代は言おうとしている。
「その娘に付き合っていたら、いつかトラブルに巻き込まれて大怪我するわ。むしろ最悪の場合──」
「死ぬって? 上等だよ」
大袈裟に抑揚をつけるでもなく、淡々とした口調で凌は言い切った。芽衣里の手が、力強く握られる。
「居直るんじゃありません。大好きな小説も書けなりますよ」
「そんな覚悟とうに決めてる」
「あの」
涼やかな声が割って入った。
「私、その……婚約は白紙にするよう父に話します」
少しだけ震えながらも、はっきりとそう宣言した。敏代が上擦った声で待ったをかける。
「絢瀬川さん、ごめんなさいね。理由も言わずに呼び出した挙げ句にこんな──」
「いえ、凌さんの覚悟が伝わってきましたから。だからもう、お暇させて頂きますね」
言うが早いか、沙織は早足でこの場を去った。
甘い花のような香りだけが残されて、御令嬢ってのは香水まで優雅なんだなぁ、と芽衣里は数秒ほど現実逃避する。
「だそうだ。この話は終わり。二度とこんな馬鹿げた真似はしないでくれ」
凌は吐き捨てるように拒否するが、敏代からの返答はない。肩から顔を覗かせればすむことだが、そんな勇気はなかった。
「勝手になさい」
その返事を聞き終わる前に、凌は芽衣里を強引に引きずってホテルから出た。日も湿度もいまだに高くて、陽炎が見えそうなほどだ。
そんな暑さでも凌のスピードは落ちない。芽衣里はたまらず声を上げた。
「凌、痛いって」
「あ、あぁ……悪い……」
凌は気付くとすぐに手を離した。少しだけ赤くなっている。
「悪かった。母さんがあんな──」
「いいの! 凌はちゃんと守ってくれたし」
芽衣里は慌てて首を横に振った。凌が謝罪する謂れはない。
ただあまりに重くて相手がドン引きしたんじゃないか、とはさすがに言わなかった。
凌は芽衣里の赤くなった手を見ると、唇を噛んで形の良い眉根を寄せた。また何か言おうとするのを遮って、芽衣里は口を開く。
「横手山さんとの打ち合わせ、大丈夫なの? 途中じゃないの?」
芽衣里の心配に呼応したかのように呼び出し音が鳴る。無機質なメロディに、凌は舌打ちでもかましそうな顔で電話をとった。
「もしもし……終わったよ。すぐ戻るから……は、何?」
横手山さんが心配することじゃない、と言い切るか切らないうちに凌は通話を終わらせてしまった。
その尋常ではない対応に、芽衣里は狼狽しながらも抗議する。
「凌、そんな言い方って……!」
凌が芽衣里を見た。
爬虫類を思わせる冷たい目。
こんな冷ややかな眼差しをした凌を、芽衣里は知らない。
「芽衣里には関係ない」
凌は何も言えなくなってしまった芽衣里にそう言うと、横手山が待っているのだろう打ち合わせ場所へと向かって行ってしまった。