その日、小さな児童館は大騒ぎになった。
パトカーと救急車が同時に到着し、何事かと近隣住民が集まりだして、残っていた親子や職員は事情聴取のために留めおかれた。芽衣里も当事者として説明を求められたが、まずは病院で治療を受けることになった。
手当てを受けてからしばらくは大人しく長椅子に座り待っていた。だが次第に、用もないのに何度もトイレに行ったり、ガーゼが貼られた左腕を触ってみたりと落ち着きがなくなった。

「先生」

あの状況に転機をもたらした男が芽衣里に声をかけた。反射的に立ち上がると、カラスの羽を思わせる瞳とかち合う。
だが、そこからはどんな思いも読み取れなかった。
翔吾への心配も、美那子への憤りも、修吾への憐憫も見つからない。男は無表情のまま芽衣里の隣りに座ったので、芽衣里も腰を降ろした。痛痒い傷に指を這わせる。

「検査結果が出た。翔吾くんは無事だって」

「そう、ですか」

良かった、とはとても思えなかった。身体の傷はいつか癒えるとしても、心の傷はそうもいかない。最悪の場合は一生引きずるはめになる。
美那子の凶刃に倒れる前に、芽衣里は突き飛ばすようにして翔吾を抱えて倒れ込んだ。その際、頭を打って精密検査を受けていたのだ。
慕っていた母親の狂気に触れてしまった彼が回復するには、これからとても長い時間が必要だろう。

「横手山さんは…」

「翔吾くんにつきそってる」

「……その、翔吾くんのママは──」

途端に男の目に剣呑な光が宿る。ひどく事務的な無表情が、新種の気持ち悪い虫でも見つけたようになった。

「心配?」

「心配半分、不安半分です」

「…半分も心配してんだ」

「明らかに、その…普通の精神状態じゃありませんでしたから」

「とんでもないお人好しだな、アンタ」

「お人好しなら心配だけしますよ。もしこのまま普通に家に帰った、とかだったら正直ゾッとしますし」

美那子がこれからどうなるのか、芽衣里はちっとも知らされていない。まだはっきりと決まっていないからかもしれないが、警察に捕まるのか、離婚で実家に戻されるのか、それともお咎めなしなのか──そもそも今、彼女がどうしているのかさえわからない。
歯痒くて、病院内をむやみに歩きたくなる。

「しかもよく庇ったな」

「誰だって庇うでしょう?」

「そっちじゃない。自分から音楽室に行こうって言い出したんだろ?」

「どうしてそれを……」

「翔吾くんが話してた。自分のせいでって」

芽衣里は男の答えに、ふと浮かんだ疑問をぶつけてみた。

「あの…そもそもどうして学童に来たんですか? こちらとしては助かったんですが……」

「今日は横手山さん、早めに上がれそうだったから、サプライズで迎えに行ったんだよ。俺はネタのためについてきただけ」

「ネタ?」

芽衣里が思わず聞き返すと、男は後ろ頭をガシガシと掻きむしった。

「物書きやってんの。横手山さんは担当の編集」

「…横手山さんがネタになるってどういう意味ですか?」

男は胡乱げな目をすがめて芽衣里を見た。芽衣里は負けじと見つめ返す。
唐突に人を嫌悪感丸出しの顔で見てきたのだ。図々しく質問したとしても文句はあるまい。そう考えての行動だった。

「愚痴ってきたんだよ、嫁のことで」

「前々から兆候があったんですか?」

「元から嫉妬深かったけど、最近は度を超してるとか何とか……どんな嫁か気になってついてった」

そしたらこの騒ぎだ、と男はため息を吐いた。

「着いたら翔吾くんが泣きながら出てきて、『先生を助けて』って言うし、横手山さんは慌てて部屋まで走り出すし……俺は念のために作業室みたいなとこからカッター借りて──」

それであの状況になったのか、と芽衣里は納得した。
それと同時に、何故もっと上手くやれなかったのか、という思いが胃の辺りから迫り上がってくる。他の先生に無理にでも声をかけておく、とかもっと色々できたはずなのに、あの時はどうして思いつかなかったのだろう。
悔恨が芽衣里の全身を堂々巡りし始めたのを見てとったのか、男は視線を斜め前にあるポスターへと揺蕩わせるように投げた。

「光滝 凌」

「え」

「俺の名前」

「あ、ああ。私、真岡 芽衣里です」

突然の自己紹介に、芽衣里は慌てて名前を口にした。

「それで、大学の課題は順調なの? 真岡さん」

芽衣里のマスカラに縁どられた目が見開かれた。この光滝と名乗る奇妙な男に、芽衣里は自分の名前以外を明かした覚えは一切ない。だと言うのに、大学生で課題が出ていることまで知っている。

「あの……どうして、私が大学生だと」

恐る恐る芽衣里が訊ねれば、光滝はまた後頭部を掻いた。

「ボランティアの先生が何人かいるって、そう横手山さんから聞いてる。
それに調べたら勤務時間も決められてて、高校生には厳しい。けど平日でも取った講義によっては時間が空く大学生なら出来る。この近くには福祉系の学部を置いてる大学があるし、ボランティアをやるには良い条件が揃ってる。
それに見た感じ……他の職員より若く見える。だからボランティアの大学生だと思った。
大学生なら何で苦労するかって言ったら、教授に出される課題だろ。コンシーラーで隠してるつもりかも知れないけど、隈がひど──」

「酷くて悪かったねぇ……!?」

毎日のようにボランティアと講義でへっとへとになってる上に、特別課題が出されて死にそうなんだよこっちは!
血反吐を吐きながら首でも絞めてきそうな怒りの声に、光滝は素早く距離を取った。真一文字に引き結ばれた唇が開かれる。

「隈で怒ってあの母親には怒らねぇのかよ?」

「いちいち怒ってもキリがないんです」

「……?」

光滝は首を傾げた。確かに普通ならば、理屈の通らない理由で害意を向けられたのだから、憤りを感じないのは不自然に見えるだろう。
──だが、毎日のように騒動がやってきたら?

「慣れてるから、もうそういうのはないです」

「…どれだけ巻き込まれてんの?」

「ほぼ毎日……体感的には」

「……」

黙りこくった光滝に、芽衣里は顔を下げてひたすら自分のズボンとスニーカーを見続けた。大方ドン引きしているんだろう。そう思ったら、足の先が急速に冷えていくような気がした。

「真岡さん」

永遠にも思えるような沈黙の後、不意に光滝の声が耳に入った。平然としていたいのに肩が跳ねる。

「改めて自己紹介させてください。俺は夢川 止水(ゆめかわ しすい)というペンネームでミステリー小説を書いています」

「……は?」

「あなたは俺にとって……稀に見る逸材だ……!」

「あ、あの、それはどういう……」

「どうか協力してもらえませんか? あなたの協力があれば、俺はネタに困らないで済む!」

この人の顔面に正拳突きしても許されるよね?
瞳を輝かせる端正な顔を前に、芽衣里は遠い目をした。