芽衣里は敏代と腹を探り合う傍ら、凌と初めて会った日のことを思い返していた。
大学に入ってすぐに、学校の紹介を受けて学童保育のボランティアに申し込んだ。机に向かって学ぶだけが勉強だけではない。現場を知るのだって大切だ。
そう意気揚々と応募して採用されたは良い。だが子どもたちを相手にした日は、泥のように眠ってしまうのが常になった。
(みんな、げんき、すぎる……)
彼ら彼女らときたら、エネルギーの塊だった! しかもこの塊、進んで危ない場所に行くし、危ない真似をするのだ。その上、簡単に怪我をしてしまうときている。一息吐こうと腰を下ろす暇なんて一秒もない。
大人しく本を読んでいるなと思っても、気がついたら針金をコンセントに差し込もうとしていた──なんてしょっちゅうだ。芽衣里はとにかく、子どもたちが傷つかないように注意して行動した。
ある日は鬼ごっこをしている子たちを横目に、どこから取り出したのかわからないハサミを没収した。また別の日は本の紙で指を切ったと泣く子の手当てをしてやり、その後の会議で、対策を他のボランティア参加者たちと考えた。
そんな目まぐるしい毎日でも、“なんとなく気にかかる子”が出てくる。表立って問題を起こすわけではない。ではないが、ふとした拍子に翳りを見せる子がいたりするのだ。横手山 翔吾という一年生の男の子がそうだった。
この翔吾くん、パッと見は快活な男の子だ。好きなサッカー選手や野球選手の話をよく芽衣里にしてくれるし、他の子とも問題なく遊んでいる。いつも笑顔を絶やさない──けど悪戯も嬉々としてやらかすような──そんなどこにでもいる小学生だ。
だがある日、芽衣里が倉庫で掃除をしている時にそっと声をかけてきた。
「あれ、翔吾くん珍しいねぇ」
芽衣里は平らに潰した段ボールを置き翔吾と向き合う。この時点で、芽衣里はそれとなく仕草と表情を観察した。口を薄く開いたり閉じたりしながら、両手を後ろに回して俯いている。光が丸い頭に差して、天使の輪を作っていた。
いつもなら大声を出して飛びついたり、膝カックンをかましてきたりする子だ。それにこの時間であれば外でサッカーか野球をしている。子どもたちの歓声やはしゃぎ声が遠くから響くのを聞きながら、翔吾が話すのを中腰で待った。
「せんせー……」
翔吾はいつになく真剣な、思い詰めたような顔で芽衣里を見た。これは何かあったな、と芽衣里が思う前に、一枚のカードを差し出してきた。
「あれ、この選手……」
いつぞや翔吾が好きだと宣っていた野球選手のカードだった。しかし、小さな丸顔が浮かべる表情とはチグハグな状況に、芽衣里は訝しんで翔吾に尋ねた。
「翔吾くんが好きな選手だよね。……どこか汚しちゃった? 破れちゃった?」
「ちがう」
翔吾は視線を落として首を振った。あまり日が差さないこの場所は、吸う空気さえどこか冷たく、重い。
「これね、持ってて」
「先生が?」
「うん」
「…翔吾くん、翔吾くんがやっぱり返してってなってもいいように、エプロンのポケットに入れておくよ。良い?」
「ううん、ずっと持ってて」
翔吾はとうとう泣きそうな顔でカードを芽衣里に押しつけてきた。
「あとね、ママには絶対言っちゃだめ」
「誰にも言わないよ」
芽衣里はできるだけ優しい笑顔を作ると、翔吾にそう約束した。翔吾が緊張の糸が切れたのか、少し涙声になりながらも理由を教えてくれた。
「よかった……ママが捨てなさいって言うから…」
「ママが?」
「パパが好きな選手じゃないならだめって……」
「…うーん…パパと同じ選手を好きじゃないとだめなの?」
翔吾は恐る恐る頷いた。
「パパと同じにしないとだめなの」
「それって…野球選手だけじゃなくて、サッカー選手とか好きな食べものとかも?」
やはり翔吾は頷く。芽衣里の頭の中で、警報が鳴る。
次いで翔吾の母親の姿が、声が再生された。常におっとりと微笑みながら、よく先生やボランティアを労ってくれる人──それが、芽衣里たち学童保育側の人物評だった。つまり、周囲と軋轢を生むタイプでもなければ極端に交流を避けるタイプでもない。むしろ愛想良く、面倒事だろうと引き受けてくれる人だ。
この間だって、学童保育が児童館を貸し切って行うパーティーに参加していた。実行委員として積極的に協力してくれたのだ。
鎖骨くらいまでの艶やかな黒髪、柔らかな柳眉に終始穏やかな表情──芽衣里の記憶にある翔吾の母は、世間における“理想の母親”だ。翔吾は迎えに来てくれた母親に、いつでも嬉しそうに駆け寄っていた。
だがその翔吾が、顔を硬らせて芽衣里に助けを求めている。
「…わかった。先生と翔吾くんだけの秘密にしよう!」
芽衣里の言葉に、翔吾の肩から完全に力が抜けた。芽衣里はエプロンのポケットにカードをしまうと、翔吾に小指を差し出す。翔吾も同じように小指を出して、芽衣里の小指に絡めた。
「ゆーびきーりげんまん、うーそつーいたらはーりせんぼん、のーます!」
ゆーびきった!
そう言って笑う翔吾に、不安はもう見当たらない。芽衣里が遊んでおいで、と笑いかけると、翔吾は大げさに頷いて広場へ駆け出していった。
芽衣里はその背を見送ってから、中断していた作業に取りかかった。ホワイトボードは壁際に、レクで使うおもちゃはまとめて重いブックトラックの上に、キャスター付きの椅子は布が擦り切れていたりするから……。
芽衣里は考えながら手を動かしていく。同じものは同じ場所へ、誰が見ても分かるよう目印をつける。早めに終わらせて翔吾たちに加わろうと、勢いよくボール入りの段ボールを持ち上げた。
広場のあちこちで「さようなら!」「また明日ね!」と大小さまざまな声が響き合う。芽衣里は翔吾を出来るだけ視界に入れながら、他の子どもたちに挨拶をしていた。母に、父に、あるいは祖父母に手を引かれて帰っていくのを見ると、今日がようやく終わったと思う。だがこういう時ほど気を付けなければいけないと、ボランティアの先輩に口を酸っぱくして言われていた。
例えば、背後で怪我や諍いが起きないよういつも以上に気を配らなくてはいけない。そう、今にも真っ白い手がつかもうと指をのばして──芽衣里の肩を柔らかく叩いた。
「先生、お疲れ様です」
「…横手山さん、こんにちは」
こんにちは、と返すには暗く、こんばんは、と返すには明るいこの時間帯に、どう挨拶をするのが良いのか芽衣里にはわからない。それでも不自然に思われないよう、口角を上げて軽く会釈をした。
「少しお話がしたいんですけど、大丈夫ですか?」
「はい、先生をお呼びしますので──」
「いえ、真岡先生と」
芽衣里は無意識にエプロンのポケットを抑えた。顔を少し上げて翔吾の母親の瞳を見据えるも、彼女は冷静そのものに見えた。子どもたちの足音や、保護者や先生、ボランティアたちの談笑が遠く聞こえる。ここはどう答えるのが正解なのだろう。芽衣里は乾いてしまった口を、どうにか動かそうとした。
「ママ」
いつの間にか翔吾が近寄ってきていた。何か言いたげに上目遣いで、母親の手を握っている。
「翔くん、ママね、先生と二人でお話があるから、もう少し帰るの待ってて、ね?」
芽衣里は反射的に周囲に目をやったが、大人は誰も気づいていない。場所が玄関から離れた遊戯室の前ということもあってか、子どもたちもほぼいなくなっていた。切れかけた蛍光灯だけが、三人の顔を中途半端に照らしていた。
翔吾は幼児のようにむずがって、ひたすら「少しってどのくらい?」「一緒にいる」と繰り返す。母親は優しくなだめていたが、とうとう限界が近づいたのか、声が低くなった。
「翔吾」
「…ママ」
「いつも言ってるでしょ? パパみたくなりなさいって」
「でも、ママ」
「ママがいけないの? ママが良いママじゃないから!? この間もママじゃなくてパパに迎えに来てもらったから──」
「横手山さん、あちらで良いですか?」
芽衣里は自分でも驚くほど冷静な声だと思った。自分の声ではないような気もしたが、二人の表情を見るに、やっぱり自分の声なのだと思いなおした。
同時に、危険へと自ら足を踏み入れているのだとも悟った。それでも怯える翔吾を見続けるよりは余程マシだ。どんぐり眼を潤ませたその子が少しでも安心できるよう、芽衣里は笑いかけた。頬の筋肉が上手く動かせなくて、ぎこちなくなってしまったけれど。
芽衣里が指差す先を見た母親は、目を細めて頷いた。そこは、遊戯室よりさらに奥の音楽室だった。
大学に入ってすぐに、学校の紹介を受けて学童保育のボランティアに申し込んだ。机に向かって学ぶだけが勉強だけではない。現場を知るのだって大切だ。
そう意気揚々と応募して採用されたは良い。だが子どもたちを相手にした日は、泥のように眠ってしまうのが常になった。
(みんな、げんき、すぎる……)
彼ら彼女らときたら、エネルギーの塊だった! しかもこの塊、進んで危ない場所に行くし、危ない真似をするのだ。その上、簡単に怪我をしてしまうときている。一息吐こうと腰を下ろす暇なんて一秒もない。
大人しく本を読んでいるなと思っても、気がついたら針金をコンセントに差し込もうとしていた──なんてしょっちゅうだ。芽衣里はとにかく、子どもたちが傷つかないように注意して行動した。
ある日は鬼ごっこをしている子たちを横目に、どこから取り出したのかわからないハサミを没収した。また別の日は本の紙で指を切ったと泣く子の手当てをしてやり、その後の会議で、対策を他のボランティア参加者たちと考えた。
そんな目まぐるしい毎日でも、“なんとなく気にかかる子”が出てくる。表立って問題を起こすわけではない。ではないが、ふとした拍子に翳りを見せる子がいたりするのだ。横手山 翔吾という一年生の男の子がそうだった。
この翔吾くん、パッと見は快活な男の子だ。好きなサッカー選手や野球選手の話をよく芽衣里にしてくれるし、他の子とも問題なく遊んでいる。いつも笑顔を絶やさない──けど悪戯も嬉々としてやらかすような──そんなどこにでもいる小学生だ。
だがある日、芽衣里が倉庫で掃除をしている時にそっと声をかけてきた。
「あれ、翔吾くん珍しいねぇ」
芽衣里は平らに潰した段ボールを置き翔吾と向き合う。この時点で、芽衣里はそれとなく仕草と表情を観察した。口を薄く開いたり閉じたりしながら、両手を後ろに回して俯いている。光が丸い頭に差して、天使の輪を作っていた。
いつもなら大声を出して飛びついたり、膝カックンをかましてきたりする子だ。それにこの時間であれば外でサッカーか野球をしている。子どもたちの歓声やはしゃぎ声が遠くから響くのを聞きながら、翔吾が話すのを中腰で待った。
「せんせー……」
翔吾はいつになく真剣な、思い詰めたような顔で芽衣里を見た。これは何かあったな、と芽衣里が思う前に、一枚のカードを差し出してきた。
「あれ、この選手……」
いつぞや翔吾が好きだと宣っていた野球選手のカードだった。しかし、小さな丸顔が浮かべる表情とはチグハグな状況に、芽衣里は訝しんで翔吾に尋ねた。
「翔吾くんが好きな選手だよね。……どこか汚しちゃった? 破れちゃった?」
「ちがう」
翔吾は視線を落として首を振った。あまり日が差さないこの場所は、吸う空気さえどこか冷たく、重い。
「これね、持ってて」
「先生が?」
「うん」
「…翔吾くん、翔吾くんがやっぱり返してってなってもいいように、エプロンのポケットに入れておくよ。良い?」
「ううん、ずっと持ってて」
翔吾はとうとう泣きそうな顔でカードを芽衣里に押しつけてきた。
「あとね、ママには絶対言っちゃだめ」
「誰にも言わないよ」
芽衣里はできるだけ優しい笑顔を作ると、翔吾にそう約束した。翔吾が緊張の糸が切れたのか、少し涙声になりながらも理由を教えてくれた。
「よかった……ママが捨てなさいって言うから…」
「ママが?」
「パパが好きな選手じゃないならだめって……」
「…うーん…パパと同じ選手を好きじゃないとだめなの?」
翔吾は恐る恐る頷いた。
「パパと同じにしないとだめなの」
「それって…野球選手だけじゃなくて、サッカー選手とか好きな食べものとかも?」
やはり翔吾は頷く。芽衣里の頭の中で、警報が鳴る。
次いで翔吾の母親の姿が、声が再生された。常におっとりと微笑みながら、よく先生やボランティアを労ってくれる人──それが、芽衣里たち学童保育側の人物評だった。つまり、周囲と軋轢を生むタイプでもなければ極端に交流を避けるタイプでもない。むしろ愛想良く、面倒事だろうと引き受けてくれる人だ。
この間だって、学童保育が児童館を貸し切って行うパーティーに参加していた。実行委員として積極的に協力してくれたのだ。
鎖骨くらいまでの艶やかな黒髪、柔らかな柳眉に終始穏やかな表情──芽衣里の記憶にある翔吾の母は、世間における“理想の母親”だ。翔吾は迎えに来てくれた母親に、いつでも嬉しそうに駆け寄っていた。
だがその翔吾が、顔を硬らせて芽衣里に助けを求めている。
「…わかった。先生と翔吾くんだけの秘密にしよう!」
芽衣里の言葉に、翔吾の肩から完全に力が抜けた。芽衣里はエプロンのポケットにカードをしまうと、翔吾に小指を差し出す。翔吾も同じように小指を出して、芽衣里の小指に絡めた。
「ゆーびきーりげんまん、うーそつーいたらはーりせんぼん、のーます!」
ゆーびきった!
そう言って笑う翔吾に、不安はもう見当たらない。芽衣里が遊んでおいで、と笑いかけると、翔吾は大げさに頷いて広場へ駆け出していった。
芽衣里はその背を見送ってから、中断していた作業に取りかかった。ホワイトボードは壁際に、レクで使うおもちゃはまとめて重いブックトラックの上に、キャスター付きの椅子は布が擦り切れていたりするから……。
芽衣里は考えながら手を動かしていく。同じものは同じ場所へ、誰が見ても分かるよう目印をつける。早めに終わらせて翔吾たちに加わろうと、勢いよくボール入りの段ボールを持ち上げた。
広場のあちこちで「さようなら!」「また明日ね!」と大小さまざまな声が響き合う。芽衣里は翔吾を出来るだけ視界に入れながら、他の子どもたちに挨拶をしていた。母に、父に、あるいは祖父母に手を引かれて帰っていくのを見ると、今日がようやく終わったと思う。だがこういう時ほど気を付けなければいけないと、ボランティアの先輩に口を酸っぱくして言われていた。
例えば、背後で怪我や諍いが起きないよういつも以上に気を配らなくてはいけない。そう、今にも真っ白い手がつかもうと指をのばして──芽衣里の肩を柔らかく叩いた。
「先生、お疲れ様です」
「…横手山さん、こんにちは」
こんにちは、と返すには暗く、こんばんは、と返すには明るいこの時間帯に、どう挨拶をするのが良いのか芽衣里にはわからない。それでも不自然に思われないよう、口角を上げて軽く会釈をした。
「少しお話がしたいんですけど、大丈夫ですか?」
「はい、先生をお呼びしますので──」
「いえ、真岡先生と」
芽衣里は無意識にエプロンのポケットを抑えた。顔を少し上げて翔吾の母親の瞳を見据えるも、彼女は冷静そのものに見えた。子どもたちの足音や、保護者や先生、ボランティアたちの談笑が遠く聞こえる。ここはどう答えるのが正解なのだろう。芽衣里は乾いてしまった口を、どうにか動かそうとした。
「ママ」
いつの間にか翔吾が近寄ってきていた。何か言いたげに上目遣いで、母親の手を握っている。
「翔くん、ママね、先生と二人でお話があるから、もう少し帰るの待ってて、ね?」
芽衣里は反射的に周囲に目をやったが、大人は誰も気づいていない。場所が玄関から離れた遊戯室の前ということもあってか、子どもたちもほぼいなくなっていた。切れかけた蛍光灯だけが、三人の顔を中途半端に照らしていた。
翔吾は幼児のようにむずがって、ひたすら「少しってどのくらい?」「一緒にいる」と繰り返す。母親は優しくなだめていたが、とうとう限界が近づいたのか、声が低くなった。
「翔吾」
「…ママ」
「いつも言ってるでしょ? パパみたくなりなさいって」
「でも、ママ」
「ママがいけないの? ママが良いママじゃないから!? この間もママじゃなくてパパに迎えに来てもらったから──」
「横手山さん、あちらで良いですか?」
芽衣里は自分でも驚くほど冷静な声だと思った。自分の声ではないような気もしたが、二人の表情を見るに、やっぱり自分の声なのだと思いなおした。
同時に、危険へと自ら足を踏み入れているのだとも悟った。それでも怯える翔吾を見続けるよりは余程マシだ。どんぐり眼を潤ませたその子が少しでも安心できるよう、芽衣里は笑いかけた。頬の筋肉が上手く動かせなくて、ぎこちなくなってしまったけれど。
芽衣里が指差す先を見た母親は、目を細めて頷いた。そこは、遊戯室よりさらに奥の音楽室だった。