ようやく彼女が自分の住まう国に来た。

 本当は国境まで迎えに行きたかった。
 だが、王太子殿下の側近である俺は、その日の休みはどうしても無理だと言われ、断腸の思いで諦めた。
 あまりに悔しすぎたので、殿下の捌く予定の書類を翌日分まで上乗せしておいた。
 いつでも休みが取れるように。

 だから彼女から到着を知らせる手紙が来た時は何度も読み返した。
 ずっと待っていたんだ。すぐにでも会いたかった。

 翌日、彼女から3日後はどうですか?と返事が来たのですぐに了承の返事を出した。
 その際5本のバラを一緒に送った。
 伝わると良いけれど。

 ちなみに殿下からは色々言われたけど「婚約者に会うから」と説き伏せた。
 邪魔するなら更に執務を増やすと言ったら睨まれた。
 暴れ馬の前に差し出されないだけマシだと思ってほしい。


 彼女が公爵邸に来るのを、今か今かと待ち、ようやく訪れた時には天にも昇る気持ちだった。

 だけど久しぶりに見た彼女に、初めて見掛けた時のような輝く笑顔は無く。
 俯いて、どこか遠くを見ているような瞳に気持ちは落ち着いていた。



 初めて見たのは隣国の視察に行った際の歓迎の夜会。
 自国の王太子殿下の側近として参加した。
 自分に婚約者がいなかったから身軽だったのと、身軽を心配されての事だった。
 そこで見た彼女は婚約者にエスコートされ、少し照れたような表情や仕草が可愛くて釘付けになった。

 隣国の王太子殿下に聞くと

「ああ、あの令嬢の実家の侯爵家側からの打診で、表向きは政略目的だけど、実際はあの子が熱望したらしいよ。
 あの子が跡継ぎだから、婿入りだな。
 淑女としてはどうかとは思うが、あそこまであからさまに言い寄られて悪い気はしないよな」

 王太子殿下の言葉を聞いて胸に痛みが走る。
 そうか、あの女性の隣の男は婚約者なのか……。
 跡継ぎならどのみち公爵家跡継ぎの俺の所には来れないか、と、何とも言い難い気持ちになった。

 それでも思い出を作ろうと、婚約者と踊り終えホールから戻って来た彼女にダンスを申し込むと、淑女の笑みで了承され、一時を楽しめた。

 それがかえっていけなかったのかもしれない。

 帰国しても、夜会で見た彼女の影がチラついて離れなかった。
 ダンスで触れた柔らかな温もりが忘れられない。
 仕事をしても溜息ばかりで手につかない。

 見かねた王太子殿下が再び隣国に連れて行ってくれた。

「いい加減現実を見ろ」

 相変わらず彼女は婚約者の事が大好きでたまらないという表情をしていた。
 彼をじっと見つめ、触れるだけのエスコートに恥じらい、戸惑いながらも嬉しそうにしていた。
 俺はそんなふうに彼女から見られたいと思ったんだ。

 彼女から、全身で好きだと言われたらどんなに幸せになるだろう、と。
 一瞬でもそう思ってしまった俺は、あっという間にその想いに絡めとられてしまっていた。

 よくよく見てみると、二人の視線が合わない事に気付く。
 彼女は時折悲しそうな瞳で俯く。
 もしかして、と思った淡い期待はすぐに消えた。

 そんな時に限って彼は熱のこもった瞳で彼女を見つめていたから。

 ──何だ、お互いに伝わってないけど両思いか。

 がっかりしたのと同時に安堵もした。
 きっと今は恥ずかしがって気付かなくても、いつか彼女の気持ちに気付くだろう。
 彼女が幸せであればそれでいい。
 自分の気持ちは芽生えたばかりだからすぐに無くなるだろうと。

 俺は想いに蓋をした。

 だけど、簡単に無くなりはしなかった。
 押さえれば押さえただけ膨れ上がる気持ちは溢れだす。

 権力を使って婚約を壊し、奪う事は簡単だろう。
 だがそんな真似はできる筈もない。
 そんな事をして奪っても、彼女を壊すだけだ。

 だから、せめて。
 彼女が幸せであるように。
 二人が向き合い、婚約者が彼女の想いを受け止め、返すように。
 遠い場所から祈る事にした。


 だが、予想もしない思わぬ事態になっていた。


「お前が気になっていた隣国の侯爵令嬢の婚約が解消されるらしいぞ」

 隣国の王太子殿下が気遣って下さり、内密に殿下に情報をくれたらしい。
 すぐさまそれに飛び付いた。

 隣国の王太子殿下いわく。

「侯爵家と子爵家という身分差が仇になったのか、彼にとって、令嬢の想いは重荷でしかなかったんだろう。
 …真面目な男だからな。周りを見る余裕も無く苦しんで……あろう事か他の女性に助けを求めたそうだ。馬鹿なやつだよ」

 結局二人は想いを交わせる事無く終わってしまったのか……。
 だが、俺にとってはチャンスだ。

 この機会は逃せない。
 弱っている所につけ込むようでも格好つけて遠慮してたら他に行ってしまうかもしれない。


 俺は王太子殿下に頼み込んで、彼女の婚約が解消された直後に釣書が行くように侯爵家に打診した。
 彼女が跡継ぎで、という問題はあったが、以前、隣国の王太子殿下から侯爵家へ
「あくまでも、とある諦めの悪い男の話なのだが」
 と世間話として、それとなく話をしていてくれたらしい。
 その頃から一つの可能性として片隅に置いてくれていたという彼女の父親である侯爵からは、了承の返事が来た。
「跡継ぎには心当たりがあるから問題は無い」との文を読んだ瞬間、歓喜のあまり身震いをした。

 そうしてあっという間に俺と彼女の婚約話は纏められ、しかも彼女は留学という形でこちらの国に来る事になった。

 彼女からしたら見知らぬ男からの打診に良い感情を抱かないかもしれない。
 だが、なりふり構ってられなかった。

 一度は諦めた想いが、瞬く間に溢れ出す。

 今か今かと会えるのを楽しみにしていたけれど、当たり前のように無意識に元婚約者の面影を探している彼女を見ていて浮き立った気持ちを正した。


 それでも。
 彼女はここに来てくれた。
 動機はどうあれ、俺を選んでくれた事はとても嬉しく幸せで。

 悲しい気持ちを、憂いを少しでも無くしたい。
 今はまだ元婚約者を忘れられなくても、いつかは俺を見て欲しい。


 その為に俺にできる事をしよう。

 いつか、君の傷が癒えるように。


 願いを込めて、彼女の涙をそっと拭った。