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震える指で、「彼」の名前をタップする。

自分から連絡するのなんて、いつぶりだろう。

数回のコールの後、彼は少し焦りを含んだ声で、「もしもし」と言った。

「上月くん……」
『先輩……どうしたの』
「ごめん、……会いたい」

画面の向こうで、息を呑む音が聞こえた。

「すぐ行く。まってて」


マンションの外はもう暗かった。数時間前、裕一は彼女を送って家を出た。多分、今夜は帰らないだろう。
あんな、儚げなげで、不安でいっぱいの女性を置いて帰れるわけないだろう。

わたしは、料理の途中だったフライパンを流しに置き水を、バシャバシャとかけた。もう冷めて固くなっていた焼きかけのお肉は白い脂身を浮かせている。

グラスに水道水を注ぎ、ぐいっと飲み干した。喉が渇いていたことさえも忘れて廊下に座り込んでいたのだ。
のろのろと立ち上がり、キッチンに来て、今日はもう夫のご飯を作らなくてもいいことに気づく。

(今日どころか、あしたも明後日もかもしれない)

このことはまた改めて話そう、と夫は出がけにわたしに告げた。何かを心に決めている表情だった。きっと、あの女性の訪問が彼を動かしたのだろう。

なんだか何もかも、どうでも良くなった。

わたしは、クローゼットに向かった。大切にしまってあった、あのクリームシフォンのセットアップを身につける。胸の谷間をしっかりと作る下着もいっしょに。

そして、マンションの外で彼を待った。

石畳の道の前で、車がきゅ、止まる。この前のレクサスとは違う車だ。わたしには車名もわからない。彼のプライベート用なのだろう。

そして彼は助手席のドアを開けた。わたしがあの服を身につけているのを見てすこし、ためらったようにしたけど「乗って」とひと言、優しく声をかけてくれた。

「……どこがいい。どこでも行くよ、先輩」
「どこでもいい」
「……」
「……この街じゃ、ないところ。連れてってほしい」

わたしはフロントガラスの向こうの闇を見つめたまま、そう答えた。ここじゃないところ。蔭山莉子として暮らした土地ではないところ。

上月くんは意味を察したのか、わかった、と頷くとハンドルを握る。

音もなく車は滑りだした。

車は高速に乗った。窓から見えるのは防音壁の灰色の壁だけだ。時おり、壁の向こうにきらきらとどこかの街の光が滲む。わたしはそれを見るともなしに見ていた。
ミラー越しに、上月くんの切長の瞳と視線がぶつかる。彼は気遣わしげにわたしを見ていたが、なにも言わなかった。