その日、私は旦那の浮気を知った。

あらゆるところに女の影が見えていたから、前々から怪しいとは思っていたのだ。
大量のハートマークがつけられたメッセージが決定打だった。

結婚して三年。子供はいない。
だから、私の復讐方法も随分と幼稚なものになったのかもしれない。


旦那の浮気が発覚した週末、私は水族館に来ていた。

「貴女がレミさん?」

にっこりと爽やかな笑顔を見せて話しかけてきた好青年。
彼の名前は、ユウト。

本名ではないだろう、たぶん。

「今日はよろしくお願いしますね」
「はい。よろしくお願いいたします」

さらりと挨拶を交わしたあと、彼はそのまま私の手を取った。

「え、あ……」
「ん? どうかした?」

「あ、その……手が」
「ん~~?」

彼は瞳を細めると、私の手を彼自身の頬まで持ち上げる。
すりすりと頬擦りをされて、かぁぁぁと羞恥心に熱が出た。

私の手、かなりカサカサなのだけれど、大丈夫かしら。
……嫌じゃないかしら。

そんなことを心配するのも、もう随分と久しぶりのことだった。

まるで砂漠に突然湧いたオアシスのように、ユウトは私の心にときめきを残してくれた。

だからそう、私が彼を好きになるのにそう時間はかからなかった。


「ねぇ、レミさん。レミさんを傷つける旦那なんか捨てて、俺にしない?」

ユウトはたまに、そんな嘘を吐く。
大抵は週末の夕方から夜にかけてのことが多い。

「しないよ」

私は笑ってそう答える。
ユウトが安心したように笑い返してくれるのを知っているから。

彼は私を抱きしめてくれる。
それだけで十分なのだ。

否。
それ以上を望んではいけない相手なのだ。

「ねぇ、レミさんはさ。どうして俺のことを求めないの?」

真っ直ぐにユウトが見つめてくる。
その瞳の奥の方では、少しだけ彼の不安が見え隠れしていた。

「求めて欲しくないのにそんなことを言ってはダメよ」

「ちぇ」

可愛く舌打ちをして、ユウトは私に腕を伸ばす。
身体全部を彼にぎゅううっと包み込まれて、人肌の優しさと罪を知る。

彼の吐息が耳にかかる。

「でも、そんなレイさんになら、いいのに」

ユウトはずっと寂しがりな男だった。
置いてけぼりにされたような顔をしているのを見つけると、放っておくことはできなかった。

「私も、ユウトになら……」

ユウトの顔が下りてくる。
唇に彼の吐息がかかって、でもそれでおしまい。

最後の一線は決して超えてこない。

だから、私も安堵する。
あぁ、これは一時の幻なのだわ。

私たちに未来はない。
その事実こそが何よりの慰めでもあった。


そうして、私たちは最後の日を迎える。

「私ね、離婚を決めたの」

ユウトががばりと顔をあげて私を見る。

「それ、じゃあ……!」

私は笑って、答えた。

「でも、それは貴方と私の恋愛に繋がるわけじゃないわ」

だからね、さようなら――――。




******





「だからね、さようなら――――」

レミさんはそう言って、俺の前から姿を消した。

女の人に飼われることでしか、自分の存在意義を生み出せなかった俺に、癒しを与えてくれた人。
初めて、女の人を怖くないと思えた。

大切な人だった。

“だから”、なのだろう。
俺たちに恋愛関係になれない枷がつけられていたのは。

レミさん、貴女のお別れの言葉が俺の心に沁み込んで仕方がないや。